人生というのは後悔の連続だ。
大きいことも、小さいことも、人は何かしらの後悔を抱えて生きている。
あの時ああすればよかった、この時こうすればよかった。
なんてことは、ナンセンスかもしれないけど、考えずにはいられない。
前世は、その思いに文字通り死ぬ瞬間まで囚われていた。
今生では、後悔した瞬間は沢山あったけど、それでも失敗を糧に前向きに生きてこれた。
もちろん、出会った人達に支えられたから、というのもあるけど。
でも──
俺は、あの時
ウィルを、魔法大学へ連れて行ったことを
多分、死ぬまで
ずっと、後悔していくんだろう
我が弟ウィリアムの誕生日、そして我が娘ルーシーの誕生から、はや二ヶ月が経過した。
シャリーアはまだまだ寒いが、雪が少しづつ溶け始め地面が露出するようになってきた。
ルーシーは健やかに育っている。おとなしいが、身体は丈夫そうだ。
おとなしい。そう、非常におとなしい。夜泣きもほとんどせず、ぐずったりもほとんどしない。
あまりにもおとなしく泣かない子だったので、思わずルーシーも転生者なのでは? と疑うほどには。
そんな不安からか、俺はルーシーに『本当は気づいているんだろう……ここが異世界だってことを……!』とか『I have a pen! I have a apple!』だとか『チェスト関ヶ原!』などと日本語や英語や薩摩語を織り交ぜながら話しかけるという凶行に及んだ。
その様子を陰から見ていたウィルが「兄上……」と、残念なものを見るような視線を向けるほど、俺の様子は怪しさ満点だったのだろう。
「あうー」
でも、そんな俺にルーシーはきゃいきゃいと嬉しそうに笑うだけだ。少なくとも『ようごわすとも!』なんて返してくることはない。
転生者だと隠しているのかもしれないが、自身を鑑みて赤ん坊ロールをここまで徹底できる大人はそういない。ウィルなんてウンコを漏らしても全く泣かなかったからな。よくゼニスがウィルのかぶれたお尻に治癒魔術をかけていたのも、今となってはいい思い出だ。
とにかく、よしんばルーシーが転生者だとしても、この愛らしい姿を見たらどうでも良くなってくる。
中身が転生者であったとしても、パウロが俺にしてくれたように、俺はルーシーを大事に育てるだけだ。
「ルーシーたん、おじいちゃんでちゅよ~」
そのパウロであるが、毎日毎日ルーシーのベビーベッドの傍でだらしない表情を浮かべていた。
ルーシーはパウロのちょっと気持ち悪い顔を見ても、相変わらずキャッキャと笑い声を上げている。
「本当に可愛いなぁ! 本当に可愛いなあぁ!!」
「そ、そうですねお義父さん……」
シルフィがちょっと引くくらいには、ルーシーを溺愛しているパウロ。
うん、予想していた光景だ。でも、気持ちはすごいわかる。
だって、俺の娘は、世界一可愛いんだもの。
「こんなに可愛いのは、ママが可愛いからだろうね」
「え? え、えへへ。ありがと、ルディ」
シルフィを後ろから抱きしめ、さらさらの髪に顔を埋めながらそう言うと、シルフィは顔を赤らめながら俺の手をさすってくれた。
僅かに香るミルクの匂い。天然の香水が、愛しさを高めてくれる。
母親になったからなのか、最近のシルフィはぐっと女らしさが増していた。
伸びた髪は彼女の魅力を以前より一層引き立てており、毎日眺めていても飽きない。
美人は三日で飽きると言うけど、シルフィに限っては全くそんな気持ちは沸かないな。
「むぅー……」
そんな俺達を、少しだけ頬を膨らませ、ものほしげな目で見つめるロキシー。
おっといけない。
愛しのもう一人の妻にして、我が敬愛すべき唯一神を忘れていた。
「もちろん、ロキシーも可愛いですよ」
「な、何言っているんですか……もう……」
俺はシルフィを抱きつつ、ロキシーの小さな体も抱き寄せる。
可愛らしいおでこにキスをすると、ロキシーも顔を赤らめながらモジモジと恥ずかしそうに身を捩らせていた。
「おやおや、仲がよろしいことで」
「あ、スザンヌさん。おはようございます」
そんな朝のグレイラット家の居間に、この頃雇った乳母のスザンヌがやってきた。
スザンヌは、昔俺が組んでいた冒険者パーティの一人だ。
十二歳だった当時、エリスと別れ、失意に塗れて北方大地にやって来た時。
自暴自棄だった俺の前に現れたのが、スザンヌのパーティ“カウンターアロー”のメンバーだった。
カウンターアローは俺が抜けた後解散したらしく、スザンヌは冒険者を引退。そのままパーティリーダーだったティモシーと結婚し、こうしてティモシーの実家方のシャリーアに移り住んでいる。
そもそもスザンヌを雇った経緯は、シルフィが産休明けでアリエルの護衛に復帰しなければならず、リーリャもゼニスの介護もありルーシーの面倒を見るのは少し厳しいというのがあった。
パウロも今は四六時中家にいるわけでもなく、ゼニスの治療法を探すべくあちこちに出かけている。最近はギースにも協力してもらっているみたいだ。
アイシャは、まあ面倒は見れるかもしれないけれど、当たり前だがまだおっぱいは出ない。なのでルーシーが腹を空かせていると対応が利かない。
一度シルフィが所用で出かけた時なんかは、お腹を空かせたルーシーが泣き、テンパったアイシャが「ルーデウスお兄ちゃん! ルーシーがあたしのおっぱいをちゅうちゅう吸ってるよ! あ、
この世界は、粉ミルクなんて便利なものは開発されていないんだ。悔しいだろうが仕方ないんだ。
いや、似たような物はあるのかもしれないけれど、少なくともシャリーアには無かった。
一時はシルフィのおっぱいを瓶に溜めておく案も考えた。魔術を使えば冷蔵保存も利くし。
でも、母乳を無理矢理絞り出すというのは、思ったより辛い作業らしい。特にシルフィの慎ましいお胸なら尚更とのこと。
俺が治癒魔術をかけながら乳搾りをしてあげてもよかったんだけど、そのまま種搾りを生搾りして一番搾りする恐れがあったので止めた。
まあそういうわけで、乳母兼ベビーシッターを募集したところ、俺の名前を見たスザンヌが応募してきたのだ。
カウンターアローの時は、まあ酸いも甘いも色々あった。
スザンヌから聞いたが、彼女はまだ冒険者をしているらしい。
彼女は……サラは、元気にしているだろうか。
いや、向こう気が強い彼女のことだから元気にはしているだろうけど、妙に不運気質なところがあるので変な奴に絡まれてたりしていないかちょっと心配だ。セクハラとかされてなきゃいいけど。
「スザンヌさん、今日もよろしくお願いします」
「はいよ、ルーデウス。ああ、その妙な敬語はやめてもらってもいいんだよ? アンタは雇い主なんだからね」
「まあ、親しい仲にも礼儀ありってことですよ」
「そういうもんかね……あ、大旦那様。お嬢様をあやすくらいアタシがやりますよ」
「やだ! ルーシーたんは俺があやす!」
「泣いているんですがお嬢様は」
ふと見ると、パウロがルーシーを抱きかかえながら泣いているのか怒っているのかよくわからない表情を浮かべ、ルーシーはいい加減付き合いきれなくなったのか「ふええ……」とガン泣き秒読み段階に入っていた。
「はいはい、ちょっとお借りしますよ」
「ぐぬぬ……」
「まあ、その姿勢はウチの旦那にも見習わせたいんですがねぇ……はい、よしよし。お嬢様はお腹が空いたのかねぇ?」
ルーシーをあやしながら、スザンヌは服の裾をまくり大きなおっぱいを晒そうとする。
「あ、じゃあ俺達はもう出ますね」
「別に見てても構わないんだけどねぇ」
「そういうわけには……行こうか、シルフィ、ロキシー」
知っている人とはいえ、人妻のおっぱいを見るのはちょっと抵抗があるしな。
パウロはスザンヌのおっぱいよりおっぱいを飲むルーシーに夢中なので問題ないだろう。あのおっぱい星人なパウロが随分と変わったものだ。息子の俺が言うのもなんだけど、ちょっと感慨深い。
というわけで愛娘は優秀な乳母さんに任せ、我らは神聖なる学び舎へ向かうとしよう。
「ボクもあれくらいあったらなぁ……」
「微乳
見ると、我が妻達は二人揃ってその慎ましいお胸を触りながらしょんぼりしていた。
いや、俺はシルフィやロキシーを胸で選んだわけじゃないし、そこまでヘコむ必要は無いというか、ロキシーまだ波裸羅様にイカ娘って言われたの気にしていたのか……。
我が神の御神体にゲソ、もといケチをつけるとは、普通なら文句のひとつでも言ってやりたいところだ。だけど、生憎相手はあの現人鬼である。言った瞬間に俺の臓物は螺旋を描いて飛んでいくことになるだろう。
まだ死にたくないので、俺はロキシーを慰めることしか出来ることがない。
なので今夜たっぷり慰めてあげよう。いろんな意味でな!
「兄上、お待たせしており申す」
「ああ、ウィル。ていうか、今日くらいは休んでもいいと思うぞ」
「そういうわけには……」
「でも、ナクル達に稽古をつけないといけないんじゃないのか?」
ウィルもまたノルン達からもらったコートを羽織り、七丁念仏を腰に挿し支度を整えていた。
あの話し合いから、ウィルは週に何日かは一緒にラノア大学へ通うようになった。といっても、授業を受けにいくわけじゃない。
ナナホシの転移に関する研究の協力をしに、ウィルはラノア大学へ通っているのだ。
特にここ数日はナナホシの強い希望で連日大学へ通っている。
双子達に稽古つける時間を削ってまで通っているので、流石に今日くらいは休んでもバチは当たらないだろう。
「弟子共は夕刻ラノア大学へ向かうよう申し付けております故」
「あ、そうなんだ」
ストイックな我が弟は、既に弟子達を放課後に呼びつけていたらしい。
実は当初ラノア大学側は学内で大立ち回りをした双子とウィルを出禁にしようとしたらしいのだが、双子の元師匠がラノア大学創設者の知己であったのと、アリエルが色々と根回ししてくれたらしく、出禁云々は取りやめとなっていた。
ついでにウィルが俺の弟であるのを広まらないように動いてくれたので、ウィルがグレイラットの家族であるのを知っているのは、学内ではアリエル達と特別クラスの数人、ノルン、ロキシー、そしてナナホシしかいない。
アリエルはこの事を貸しにしているみたいだけど、そもそもナナホシの件がなかったらウィルが大学へ通うことはなかったし、双子は双子で大学には用は無いので、その辺りはあまり気にしてなさそうなのがちょっと不憫だった。
「それに、例のことも」
「あ、そうだった……」
そう言ったウィルは、甲冑櫃……“不動”を背負って、支度完了していた。
あれ、本当にやるのか……気が進まないけど、やるしかないか……。
「あ、アレ試すんだ。ボクも見学していいかな?」
「あの、わたしも見学してもいいですか?」
シルフィとロキシーも興味深そうにウィルに背負われた不動を見る。
そう。ウィルが言った例のこととは、あの怨霊軍師が纏っていた鎧、不動の魔術耐久テストである。
最初はウィルに模擬戦を申し込まれたんだけど、それは断固として断った。
だって勝てる気が欠片もしないんだもん。娘が出来たルーデウスは勝てない戦はしないのだ。
まあ、折衷案で鎧を着込んだウィルに、俺が魔術を撃ちまくってどれだけ耐えられるか試そう、という話になった。
大学内にある修練場なら、聖級治癒魔術の魔法陣があるので大事にはならないしな。多分。
甲冑櫃に納められた不動は、ロキシーに取り憑いていた時のような大きなパワードスーツめいた外見から大幅にサイズダウンしている。例えると、和風のATから和風の聖衣といったところか。ウィルは思いっきり武器を使うけど。いや、天秤座と射手座あたりは例外だったか。
ともあれ、ゴテゴテした外部装甲が剥がれ、不動は随分と身軽な見た目になっている。見た目だけは。
ウィルが今日の今日までロクに不動を装着しなかった理由は、この見た目に反した“重さ”がネックだったらしい。試しにパウロが装着したところ、速攻で腰をやったくらいは、不動は相当重い。
パウロは俺が治癒魔術を行使して事なきを得たけど、ウィルはそれを見て自身の戦法と真っ向から反発するこの鎧の装着を躊躇っていた。
しかしながら、パウロから魔術を無効化した特性を聞いたウィルは、本当に魔術を無効にするのか、そしてどこまで魔術に耐えうるのか試してみたくなったらしい。
そこで、俺に模擬戦を申し込んできたというわけだ。断ったけど。
模擬戦を断わられたウィルはちょっと残念そうだったけど、お前七大列強なんだから俺みたいな雑魚魔術師に勝っても何もステイタスにはならないからな? って言ったら、なぜかシルフィ達に「謙遜しすぎ!」って怒られた。
ちなみにロキシーは不動のせいで色々あったので、その存在自体を忌避するもんだと思っていたが、不動が持つ魔術無効の特性に対する興味の方が勝り、とくに忌避感を抱いてない様子だ。
流石ロキシー。その知的探究心は留まるところを知らない。さすロキ。
「俺も見に行きてえなぁ。おいルディ、あの時のリベンジマッチだな!」
「いやだから模擬戦じゃなくて、あくまで鎧の耐久テストですから」
あまり理解してなさそうなパウロが呑気にそう言った。
ほんと、孫が出来てから知性が随分下がっている気がするぞパウロ……。
「では行ってまいります。父上」
「おう! お互い怪我しないように気をつけてな!」
「あうー!」
「……ルーシーも、粗相のなきよう」
「あう!」
粗相をするのが、赤ん坊の仕事なんだけどなぁ。
というか、もしかしてバレるのが恥ずかしかったから泣かなかったのかウィルは……。
お兄ちゃんは、その頑張りの方向はちょっと違うと思うぞ。
そんなわけでラノア大学へ到着した俺達。
職員室に向かうロキシーと、生徒会室に向かうシルフィとは一旦お別れだ。
ウィルの目的地であるナナホシがいる研究棟は、俺が通う特別クラスがある学舎と少ししか離れていないので、途中まで一緒に歩くことになる。
ウィルはずっと不動を担いでここまで来たが、少しも重そうにしておらず、軽々と担いでいた。
うーん、やっぱ重量はそこまで問題じゃないのだろうか。といっても、ウィルが歩く度にみしりと足音が響いているので、やっぱ重いのは変わらないのだろう。
「あ、ルーデウス兄さん、ウィリアム兄さん!」
しばらく歩いていると、大学指定のトレーニングウェア、つまり芋ジャーを着込み、木剣を抱えたノルンがとてとてと走ってきた。
「あっ」
む!
ノルンが転びそう!
と思った次の瞬間。
「ッ!」
ズダン! と地面を踏み抜く音が聞こえ、ノルンを抱き止めるウィルの姿があった。
凄い瞬発力というか、やっぱ重さは問題ないだろそれ。地面にはがっつりとウィルの踏み跡が残っていた。
「あ、ありがとうございます、ウィリアム兄さん……」
僅かに頬を染めながら、おずおずとお礼を言うノルン。
最近はすっかり学生寮で生活しているから、こういうおっちょこちょいな所をフォロー出来ないのがちょっと心配だ。ウチに泊まりに来るのも週一くらいに減ってしまったし。
まあ、それだけ学校が楽しくなってきたのだろう。良いことだ。
それにしても、芋ジャーでもノルンが着ていると可愛らしいな。セーラー服めいた襟が実にキュートである。
「ノルン、外では若先生って呼びな」
「え? あ、そうでした……」
やんわりとそう伝えると、申し訳なさそうに俯くノルン。
ノルンもウィルがアダムス性を名乗っている理由を知っており、少々寂しそうだけど理解はしてくれている。
なので、双子達と同様に外ではノルンも若先生と呼ばせるようにした。
剣術の先生だし、自然といえば自然だしな。
「ウィ……わ、若先生。あの、コート、すごく似合ってます!」
そう思っていると、ノルンがウィルのお出かけ姿をキラッキラした目で見ていた。
コロコロと表情を変えるのは、ちょっとだけアイシャに似ている。やっぱ、姉妹だな。こういうところは。
「
「
思わず塩対応なウィルにツッコむ。でも、ちょっとだけ照れたように目を伏せるウィルを見て、なんだかんだ照れ隠しが下手な弟に苦笑いしてしまう。
「……修練は怠っておらぬようだな」
「はい! 若先生に教わったこと、毎日復習しています!」
ノルンはグラウンドがある方向から走ってきた。つまり、朝の一人稽古を行っていたのだろう。
うんうん。真面目だな、ノルンは。
ウィルはノルンの頭を撫でながら、少しだけ表情を柔らかくしている。ノルンも嬉しそうだ。
……しかしキミ達は、もう少しルーデウスお兄ちゃんの事もかまってくれてもいいのよ?
べ、別に寂しくなんてないんだからね! 寂しくなんてないのである! ないのだ。ないのか? ごめん、やっぱちょっぴり寂しいからかまって。
「……」
俺の寂しげな視線を受けてか、ウィルがものすごく仕方なさそうに俺の頭を撫で始めた。
いや、そうじゃない。
そうなんだけど、そうじゃない。
「兄さんと若先生は仲が良くて、ちょっと嫉妬しちゃいます」
ノルン……お前……お前ってやつは……。
「……」
ふと、俺の頭を撫でていたウィルが、若干険しげな視線を向ける。
すいません、いい年こいてちょっとカマチョすぎました。と謝ろうとしたけど、ウィルの視線は俺の頭の向こう側に向けられていた。
振り返り、視線の先を見ると、数名……いや、十数名ほどの男子生徒がたむろしていた。
なんだろ。なんかの集まりなんだろうか。
「若先生、ちょっといいですか? この前教わった、胸筋の使い方なんですけど……」
そう思っていると、ノルンが真面目な表情でウィルへ質問していた。
「あの、今度でいいので、もう一度教えてくれませんか?」
真面目なノルンは少しでも疑問に思った事はとことん追究しないと気がすまないのだろう。
少しくらいアバウトでもいい気がするけど、まあ剣術だしな。俺も多少は使っているから、違和感があったらそこを修正したくなる気持ちも理解できる。
ノルンも日々成長しているんだなぁ。良いことだ。
「またお胸……触りたいですし……」
ノルンがちょっぴり陶然とした表情でそう呟いたのを、俺は聞かなかった事にした。
お兄ちゃん、お前のそういうところちょっと心配。
なんて思っていたら。
「なら、今教える」
「え?」
「ぴゃああ!?」
ウィルは素早い動きで不動を地面に下ろし、コートを脱ぎ、シャツすらも脱いでそのしなやかな上半身を晒す。その早業にはノルンも素っ頓狂な叫び声を上げるしかない。
正直、瞬脱装甲弾の如き速さで脱ぎやがったので止める間もなかった。七大列強ってすごい。
ていうか、いきなり脱ぐとかただのヘンタイだぞウィル。
「な、なんで今脱ぐんですか!」
「今日はこの後教える暇が無い」
「そうなのかもしれませんけど! 今度でいいって言ったじゃないですか! 人に見られたら変に思われますよ!」
「大事ない」
「大事ないんですか!?」
顔を真っ赤に染めたノルンが狼狽しながらそう言うと、涼しげな表情で応えるウィル。
うん。ウィルが俺達の家族だというのを、秘密にしておいてよかった。ありがとう、アリエル様。
「ノ、ノルンちゃんから離れろ! このヘンタイ!」
「!?」
ふと、いつの間にか先程の男子生徒達が俺達の前にいた。
どいつもこいつも敵意に満ちた眼差しをウィルに向けている。うん、事情を知らないと確かにウィルが痴漢しているようにも見えなくもない。
とはいえ、いきなりヘンタイ呼ばわりはどうかと思……ごめん、俺もヘンタイ呼ばわりしてた。
というか、実にモテなさそうな集団だな。いわゆるナードな集団ってやつだ。
でも、どこか見下す気にはなれない。俺はもう二人も嫁がいるリア充だけど、こいつらは前世の俺だ。俺と同じ、非リア充なのだ。
なので、ここは穏便に対処しよう。
「あの、何か御用ですか?」
慇懃にそう聞くと、ヒートアップした集団の中でひときわヒョロっとした男が前に出る。目つきが悪く、頬骨が出っ張っているのは、自信の無いザノバって感じだ。もしくはカ○フサか。
「お、お前はノルンちゃんの何なんだ!」
「は?」
何と言われれば家族ですが。
あ、でもウィルは公じゃ他人だったな。うーん、こういう時はちょっと申し訳ない気持ちになるな……。
「俺はこの子の兄ですが」
「あ、あんたのことは知ってるよ! この学校で一番強いやつだってのも!」
先頭の男に続き「そうだそうだ!」と声を荒げるナード集団。
「そ、そうだ! 俺達が聞きたいのは、そっちのヘンタイのことだ!」
「ノルンちゃんにひどいことするなら、僕らだって容赦しないぞ!」
「その言葉、準宣戦布告と認識させてもらう!」
「いや、この人は兄って言っただけじゃないかな……」
「ほら、こいつ“俺がノルンちゃんの兄貴になる!”っていつも言ってるし……」
「あ、そっかあ……その言葉、準宣戦布告と判断する!」
「お前もかよ」
ちょっと小さな声も混じっているのを見るに、こいつらはいよいよ俺が知るナード集団そのものだ。
威勢のいい連中も、どこか及び腰なのを隠せていない。
こういう連中って集団になっても弱いんだよな……。
とは言いつつも、黙っているウィルに対し、ナード集団は更に声を荒げていった。
「いきなり裸になるなんてお前正気か!」
「男のくせに妙にエロい乳首見せてんじゃねえよ! ノルンちゃんが怖がってるだろ!」
「何だその乳首は! 早く隠せ!」
「ふざけた乳首しやがって」
荒ぶる男達を前に、当のノルンはウィルの腰にしがみつきながら「うるるるる……!」と、よく分からない怯え方をしている。よく分からない感じになるのは、アイシャと似ている。やっぱ姉妹だな。こういうところも。
まあ、確かにこれ以上ノルンを怖がらせるわけにもいかないな。ウィルの乳首も、ちょっと艶めかしい感じではあるけど……。
ていうか、本当にエロいな。
いや、エロいな。
何だ? この感じは……。
俺はゲイじゃない。
断じてゲイじゃない……が。
……
……はっ、いかん。
ウィルに対する誤解を解かねば。
「えーっと……こちらは、この子の剣術の先生です。というか、そもそもあなた方こそ何なんですか? うちの妹とどういったご関係で?」
「えっ!?」
そう言うと、急に押し黙るナード集団。
なんだかお互いに顔を見合わせ、「お、おい……どうする……?」みたいな声も聞こえてきた。
「い、いや、僕らはノルンちゃんが一年生のときから一生懸命だったから、ずっと見守ってて、応援している感じというか……」
「と、というか、優しいノルンちゃんに無理やり剣術を教えようとするのは、あんまりというか……」
さっきまでの威勢はどこへやら、しどろもどろでそう述べる男ども。
「俺は半年前に見かけて、それから目が離せなくなったというか……」
「俺は実習で一緒だったんだけど、火魔術で何度も失敗しているのを見てというか……」
「俺は教官に叱られて涙ぐんでいるのを見て、思わずというか……」
「俺はなんとなくノリで」
なんとも要領を得ない説明だけど、理解は出来た。
つまるところ、こいつらは──。
「あ、あの……先輩方……若先生は、怖くないです……」
「あ! ノルンちゃんが声をかけてくれたぞ!」
「ノルンちゃん! 今日も可愛いよ!」
「お疲れ様! ノルンちゃん!」
「ノルンちゃーん! ノ、ノーっ、ノルアアーッ!! ノアーッ!!」
ものすごく怯えた感じでノルンがそう言うと、男どもは息を吹き返したかのように気持ち悪くなった。
うん、こいつらは、いわゆるファンクラブってやつだ。
シルフィからそういうのがあるってちらりと聞いていたけど、実際に目にすると色々危ういな。
「「「世界一! かわいいよっ!!」」」
「ど、どうもありがとうございます……」
「「「うおおおおおおおおお!!!」」」
いや、ここまで練度が高ければそこまで危うくはないか?
いやいや。まだ、こいつらにはファンのルール、いわゆる親衛隊の掟というものが無い。このままじゃ、いずれノルンによからぬ事を仕出かす奴が現れんとも限らない。
「……」
あ、やばい。もっと危うい事態が起こりそうだ。
黙ってたウィルが、そろそろキレそう。
なんか、殺気を必死で抑えている感じだ。
学内で問題を起こさないように大人しくしていたんだろうけど、やっぱノルンに危機が迫るとウィルも本気だすんだな……。
よし。
学内に血の雨を降らせるわけにもいかんので、ここは兄の威厳を見せつつ、こいつらには色々と教えねば──
「お、ボスじゃニャいか。何してんニャこんなとこで」
「なんか
なんでおまえらこんなややこしいタイミングで現れるの?
「ゲェ!? 虎のおやびん!?」
「お、お勤めご苦労さまですなの!」
「リニアッス、プルセナッスか」
「リニアッスじゃないス。リニアっス」
「プルセナっス」
ウィルに気づいたリニア達は、即座に腰を九十度に曲げて挨拶する。まさか学内で出会うとは思いもしなかったのだろう。恐縮しっぱなしといった体で頭を深々と下げていた。
というか、考えてみれば最近は結構な頻度でウィルは大学に来てるけど、リニア達と大学で会うのは双子の一件以来初めてだったな。運が良いのやら悪いのやら。
とにかく、リニア達は戦々恐々とウィルの顔色を伺っていた。
……いや、そんなことより、このノルンファンクラブもどきをだな。
「お、おい……あの獣人コンビが頭を下げているぞ……」
「あいつ、もしかしてただのヘンタイじゃないのでは……」
「いや、あの乳首は只者じゃねえな」
しかし。
俺と同じく、いやある意味俺以上に学内では悪名高いリニアとプルセナ。
「へへぇニャ」
「へへぇなの」
その二人が、ウィルに畏怖の念というか、女の子がしちゃいけないようなへつらいの笑みを浮かべる処世術をかましているのを見て、ファンクラブもどき……いや、もうナード集団でいいか。ナード集団は、ざわざわと困惑を顕にしていた。
「やい! おめーら! こちらにおわすお方をどなたと心得るニャ!」
「恐れ多くも先の七大列強、“武神”ウィリアム・アダムス卿であらせられるの!」
「ものども! ずが高いニャ!」
「控えおろうなの!」
「あの、先じゃなくて、現役なんですけど……」
ノルンの怯えがちな訂正を入れられつつ、獣人コンビはどっかで見たようなディレクションでナード集団を威圧する。
ちなみに“武神”という称号は、アリエルが名付け親だ。
曰く、齢十四にして独自の剣術を用い死神を下し、転移迷宮でヒュドラを成敗したウィルは、まさしく武の権化。
故に、武神を名乗るのにふさわしいと。
ただ、これについてはウィルは否定気味にしており、少なくとも自分から名乗ることは一切していない。
まだ己はそこまでの境地に至ってないからとのことらしいが、個人的には十分武神を名乗ってもいいと思う。
なにせ、前世から武を糧にし、武に生きてきた男なのだから。
「「「は、ははーっ!!」」」
リニア達の言葉を聞き、まるで地面に縫い止められたかのようにナード集団は土下座をかましていた。
ていうか、ノリいいなおまえら。
ていうか、そろそろ授業が始まってしまうんだけど……。
「ニャーハッハッハッハッ! いまこそ武神の威を思い知るがいいニャ!」
「恐れ入りやがれなの! 武神万歳! なの!」
すげえ。虎の威を借る狐、もとい犬猫を地で行ってやがる。
ほんとどうしようもないこの光景に、すっかり毒気を抜かれた俺とウィル。
「……行こうか」
「はい」
「は、はい……」
ナード集団を前に高笑いを上げ続けるリニア、プルセナを尻目に、ウィルはいそいそと服を着直し、甲冑櫃を担ぎ直すと、俺とノルンと共にひっそりとその場を後にした。
ファンクラブのルールとかは、また明日でいいか。
なんか、朝っぱらからどっと疲れた。
ウィルとの耐久テスト、また今度にしてもらおうかな……。
「ではこれで。また後ほど」
「ア、ハイ……」
お兄ちゃんを逃がすつもりは、武神様にはないようである。
ナナホシが待つ研究棟へみしみしと歩いていくウィルの後姿を、俺は諦観の念を込めて見送るのであった。
「……ノルンも、また後ほど」
「あ、はい!」
なんだ、時間あるじゃないか。
妹思いな武神様で、お兄ちゃん大安心である。
ちなみに、リニアとプルセナは普通に遅刻した。