虎眼転生-異世界行っても無双する-   作:バーニング体位

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第三十五景『転生虎(てんとら)(きたえ)る!』

 

 “痛くなければ、覚えませぬ──”

 

 

「止め」

「は、はい……!」

 

 柔らかく粉っぽい朝日の光を浴びながら、ノルン・グレイラットは汗に塗れた額を拭う。課せられた素振り五十本を終え、少女は玉のような汗を滴らせていた。

 細い肩を揺らし、ぜいぜいと息を吐くノルンの様子を、兄であるウィリアムは半眼で見つめていた。

 

「まだ腕と肩で振っている。それでは剣先に“気”が籠もらん」

「は、はい……!」

 

「深呼吸をしろ」とノルンへ短く告げ、ウィリアムは自身の木剣を手に取る。

 生真面目に深呼吸し、息を整えたノルンは真剣な眼差しで次兄の次の言葉を待つ。

 

 ちなみにノルンは元々素振りを五十本もこなせるほど体力がある娘ではなかった。

 ウィリアムの剣術指導が開始された当初、素振りを終えるのに数刻の時を要していた程である。だが、ウィリアムはノルンが素振りを終えるまで、じっと妹の姿を見つめながら待っていた。

 

 叱りもせず、褒めもせず。ただ出来るまで待つ。

 ウイリアムの不器用な優しさは、確りとノルンへ届いていた。

 

「ノルン。正眼に構えろ」

「はい!」

 

 ノルンはふうと息をひとつ吐くと、木剣を正眼に構える。

 この一ヶ月、ウィリアムの剣術指導を受けてきたノルン。偉大な兄に一歩でも近付こうと、健気に鍛錬を続けている。

 そんな妹に、ウィリアムは日々自身の稽古、そして双子への稽古の合間を縫ってノルンに稽古をつけていた。

 傍から見たら仲睦まじき兄妹の剣術稽古。だが、その稽古内容は生々しいほど“実戦的”でもあった。

 

「構えていろ」

「はい!」

 

 ウィリアムはノルンが構えた木剣へ、軽く払うように自身の木剣を横打ちする。

 カン、カンと、乾いた音が鳴る度に、ノルンが構えた木剣は揺れに揺れた。

 

「柄の握りが甘い。これでは簡単に打ち負ける」

「はい!」

「もっと肩の力を抜き、脱力しろ」

「はい!」

「木剣はそっと握り、締めるのは小指だけにせよ」

「はい!」

 

 ひとつひとつ具体的な指摘をする内に、横打ちされる木剣のブレ幅は少なくなっていく。ノルンはウイリアムの指導効果に驚嘆しつつ、より一層稽古に打ち込んでいた。

 

(もっと、頑張らなきゃ!)

 

 この一ヶ月、木剣を振りに振ったノルン。だが、次兄がここまで実践的な指導をしてくれるとは、当初は思いもよらず。

 最初は走り込みと素振り程度しかやらせてもらえないと思っていたノルンは、素振りを十分にこなせるようになった頃から始められたこの指導内容に驚きを隠せずにいた。

 と同時に、次兄の期待に応えるべく、懸命に剣を振るっていた。

 

「ノルン。そのまま思い切り振り下ろせ」

「はい! ……え、このまま?」

 

 ふと、ノルンが構える木剣の前に立ったウイリアム。そのまま、自身に打ち掛かるよう指示をする。

 木剣とはいえまともに当たれば流血は避けられないことに、ノルンは思わず躊躇した。

 

「構わん。頭をかち割るつもりで来い」

「は、はい!」

 

 だが、そんな妹に、ウィリアムは冷断に木剣を振り下ろすよう告げる。ノルンは戸惑いつつも、意を決してウィリアムへ打ち掛かった。

 

「やあああッ!」

 

 彼女を知るものが聞けば実に微笑ましい気合声と共に、ノルンの木剣がウィリアムの頭上に振り下ろされる。

 だが、ノルンの木剣はウィリアムの頭上10センチ程で停止した。

 

「え──?」

 

 見ると、いつのまにかノルンの左脇下に、ウィリアムの木剣が押し当てられていた。

 少女に木剣が当たる前に寸止めされ、優しく押し当てられた木剣。ノルンはそれによりそれ以上木剣を振り下ろす事が出来なかった。

 

「肩の力と腕力だけで振るとこのように打ちが遅くなる。振りは背と胸の筋を使え」

「は……はい……」

 

 ウィリアムの剣速はノルンの目では到底捉えきれず、わけも分からぬ内に自身の振りが止められたのに、少女は戸惑うばかりである。

 

「ゆっくりで良い。背筋と胸筋を意識して振ってみろ」

「は、はい!」

 

 ウィリアムはノルンを叱ることなく、淡々と指導を続ける。

 ノルンは言われた通り背筋と胸筋を動かす事に集中し、木剣を上段に構えた。

 そのまま、ゆっくりと木剣を下ろす。

 だが、まだ兄の指摘を十分に理解していないのか、その振りは先程と変わり映えしない振りであった。

 

「まだ胸筋が使われていない」

「ひゃぁぁっ!?」

 

 すると、ウィリアムは唐突にノルンの慎ましい乳房に自身の手を当てた。

 未だ咲ききらない未成熟な蕾。とはいえ、乙女に変わりつつある少女の肉体は余人が思う以上に敏感である。

 ノルンは突然乳房を触られた羞恥で顔を真っ赤に染め、素っ頓狂な声を上げながら胸元を抑えた。

 

 尚余談ではあるが、ノルンは異母妹アイシャとは違い実の兄弟にも肌を晒すのを躊躇うほど、ある種の身持ちの固さがあった。

 これはノルンらの祖母であるクレア・ラトレイアの“貞淑な乙女はこうあるべし”という教育があったのもあるが、どちらかといえばノルンが本来持つ羞恥心によるところが大きかった。アイシャがルーデウスやウィリアムの入浴に全裸で乱入し背中を流すのとは雲泥の差である。

 

 尚余談中の余談ではあるが、ウィリアムの入浴時、最近はリーリャまでが入浴介助を行うようになった。これはゼニスの入浴時、誤ってウィリアムが浴室に入ってしまったのが事の発端だが、リーリャはついでとばかりにそのままウィリアムの肉体を嬉嬉として磨くようになった。

 リーリャは性的な昂ぶりを覚えているわけではないのだろうが、ウィリアムの裸体のあんな所やこんな所にまで手を這わせ、恍惚(うっとり)とした表情を浮かべる実母の様子を目撃したアイシャは「どん引きしましたけどね!」と、後にルーデウスに語っている。ちなみにウィリアムは何かを諦めたかのような表情を浮かべ、リーリャのされるがままになっているのが常であった。

 父パウロが嫉妬めいた眼差しで風呂を覗いていた事は、ここでは割愛する。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん! いきなり胸を触るなんて──」

「ノルン」

 

 だが、そんな少女の可憐な抗議を冷然と遮るウィリアム。

 ウィリアムは全く下心無く、あくまで指導の一環で少女の肉体に接触しただけである。

 

「え……あ……ご、ごめんなさい……」

 

 そんな兄の様子に、ノルンは過剰な自意識に羞恥を覚え、更に頬を染めていた。

 だが、恐縮するノルンに構わず、ウィリアムは唐突に自身の汗衣に手をかけた。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん?」

 

 朝日が差したとはいえ、ルーデウス邸の庭は未だ氷点下の寒冷に包まれている。

 そんな冷えた空気の中、ウィリアムはその傷だらけの上半身を妹の前に晒した。

 

「ゆっくり振る。手を当てて確かめてみろ」

「は、はい」

 

 一切の無駄のない次兄の肉体。その体躯は、ともすると筋力トレーニングを欠かさずに続けている長兄ルーデウスよりも華奢である。

 だが、剣術には不要な筋肉が一切削ぎ落とされたその肉体は、ダイヤモンドの如き密度が備えられており。更に、(かすみ)の鉄血が交わってから虎の肉体の密度は以前よりも遥かに増していた。

 そして、その高密度の肉体が備えし凄まじき剛力は、生半可な筋力トレーニングでは決して得られぬもの。

 

 ウイリアムに促され、ノルンは頬を染めつつおずおずとその胸に手を当てた。

 

(……あったかい)

 

 朝の冷えた空気とは違い、兄の肉体からはじわりと暖かい温度が感じられる。そして、強硬度と思われたその肉体は、少女が思っていたよりも柔らかく、指先がやや埋まるほどである。

 

「ふわぁ……」

 

 ノルンは少しだけ陶然とした表情を浮かべ、先程の自身を棚に上げるかのようにもみもみと虎の胸板を堪能していた。

 

「戯け。筋の動きを確認せい」

「は、はいぃ!」

 

 ここで初めて叱責を受けたノルン。

 残念なものを見るような兄の視線に、ノルンは何度目かわからぬ羞恥を覚え額に汗をかいた。

 

「……」

 

 ウィリアムはため息をひとつ吐くと、ゆっくりと木剣を上段に構える。

 そのまま、へそと水平の位置になるまで剣を振り下ろした。

 

「わかるか」

「は、はい。わかります」

 

 脇がしっかりと締められ、剣が下ろされると同時に胸筋が盛り上がる。

 その様子を文字通り肌で感じたノルンは、兄が言わんとした事をやっと理解できたことで目を輝かせていた。

 

「このように振れば剣先は胸につかえてこれ以上下には行かぬもの。また、それ以上の下は無駄。無駄な動きは一切排除し、剣を振ることのみを考えよ」

「はい! ウィリアム兄さん!」

 

 ノルンはウィリアムの指導を念頭に、脇を締めゆっくりと木剣を振る。

 先程とは比べるまでもなく改善されたその振りを見て、ウィリアムは小さく頷いていた。

 

「……でも、ウィリアム兄さん。これじゃ、威力が足りなくないですか?」

 

 何度か木剣を振った後、ノルンはふと疑問を浮かべる。

 たしかに合理に則った剣の振りではあるが、果たしてこの振りが兄が見せる凄まじい威力を生み出す元となるのかと、疑問を覚えずにはいられなかった。

 

「……しばし待て」

「……?」

 

 そんなノルンに、ウィリアムは黙って家の中へと戻る。不思議そうに首をかしげるノルンであったが、しばらくして一本のショートソードを手にしたウィリアムが戻り、庭に設けられた立木の前へと進んだ。

 立木には藁が巻かれており、前世での試斬台のごとき造りを見せている。

 これは、ウィリアムがルーデウスの許可を得て、アイシャと協力して作り上げた代物である。もっとも、一人で拵えようとしていたのをアイシャが勝手に手伝ったというのが本当のところであるが。

 

「ノルン」

「はい」

 

 ウィリアムはノルンを呼び寄せると、ずずっと鞘から剣を引き抜く。

 朝日に照らされた刀身の光が眩しく煌めき、ノルンは思わず目を細めていた。

 

「これで斬ってみろ」

「え、あ、はい」

 

 すると、ウィリアムは柄をノルンへと差し出し、試斬するよう促した。

 戸惑いつつも、ノルンはぐっと背筋と胸筋に力を込め、立木の前に立つ。

 

「やあっ!」

 

 ショートソードは数打ち品の粗剣であったが、きちんと手入れがされているのかノルンが思っていた以上に良く斬れた。

 掛け声と共に袈裟斬りを放つと、立木の上部が裁断される。ノルンは満足そうにウィリアムへと振り返った。

 

「斬れました!」

 

 なるほど、正しい振り方をすれば威力はきちんと出るんだ──。

 そのような思いを抱きながら、まるで子犬のような笑顔を見せるノルン。

 

「ノルン」

 

 だが、ウィリアムはそれを否定するかのように厳しい声を上げた。

 

「剣術は試斬(しざん)ではない」

「え──」

「貸してみろ」

 

 呆気に取られるノルンから剣を受け取ると、ウィリアムは先程のノルンと同じ様に立木の前に立ち、剣を構えた。

 

「……ッ」

 

 剣を水平に固定したまま体のみを動かし、立木へ刃を入れる。当然のことながら立木は両断されず、刃は四分目のところで停止した。

 

「あ、あの、全然斬れてないですけど……」

 

 更に疑問を浮かべるノルンに、ウィリアムはショートソードを鞘に仕舞いながら答える。

 

「これは普通の人間の首と同じ手応えになるよう拵えた」

「はい」

「それを踏まえて聞くが、ここまで首を斬られた人間はどうなる?」

「……死にます」

 

 ノルンは急に立木が人体に化けたかのように見え、己の背筋に冷えた汗が伝うのを感じる。常の人間であれば四割ほど首が裁断された時点で死は免れず、例え治癒魔術を行使してもそれは変わらないだろう。

 もっとも、高位の治癒魔術を使えば話は変わるだろうが、そのような優れた治癒術師がそうそういるわけではなく。

 

「手首をやられたら?」

「血が沢山出ます……」

「股の下や脇の下は?」

「血が沢山出て、死にます……」

 

 淡々と述べるウィリアムに、重たい表情を浮かべながら応えるノルン。

 己が習う兄の剣術は、悍ましいほどの生々しさが感じられた。

 

「切断に拘泥すれば術理から離れてしまう。今見せたように体だけを動かして、腕や肩に頼らないようにしろ。それが良い稽古になる」

「は、はい。わかりました」

「ただし」

 

 瞬間。

 ウィリアムはそれまでの肉親に見せる顔から、孤高の憤怒を抱える魔剣豪の表情を見せる。

 

「堅甲利刃なる魔物、闘気を十全に備えし使い手、そして類稀なる魔術師と相対する時は、これ以上の術理が必要となる」

「……」

 

 声色こそ変わらぬも、言い放つ言霊はノルンの背筋を凍らせる。

 確かに威力は刀剣が備えしもの。女子供の膂力でも、十二分に対手を討ち果たすことが出来る。魔力が封じられし業物なら尚更であろう。

 

 だが、この世界に潜みし強者(つわもの)共は、その程度で討ち果たせる存在に(あら)ず。

 全ての技を修めし神人、不死身の肉体を持つ魔王、超速の剣を振るいし武侠、無為自然の神域に達した名人、重力を操りし英雄剣豪──そして、不退転の炎を鮮やかに燃やす、散華の(かすみ)

 それらと相対するには、“その程度”の術理では到底太刀打ち出来ないのだ。

 

 そして、その言葉を聞いたノルンの脳裏に、なぜだかわからないが長兄ルーデウスの姿が浮かんだ。

 

(……それは、ルーデウス兄さんにもですか?)

 

 この言葉を口に出したら、グレイラット兄弟が骨肉の争いを演じてしまうかもしれない。

 そう思ったノルンは、その言葉を必死で飲み込んだ。

 口に出したら、それが現実になってしまうかもしれないのだから。

 それほど、今の次兄の姿は、ノルンにとって得体の知れないナニカに映っていた。

 

「以上。今日の稽古はここまで」

「は、はい。ありがとうございました」

 

 稽古の終わりを告げるウィリアムからは、それまでの悍ましい空気は霧散していた。

 

 必要最小限の斬撃で対手を打ち倒す虎眼流の極意は、異世界に於いても変わらず。

 しかし、ノルンに教えたそれはあくまで虎の中で基礎でしかない。

 これ以上の術理とは、剣を糧にし、数多の強者と戦う為の、死狂いなる剣道。

 さらなる高みを目指すには、己の何もかもを捧げねばならない、修羅の道であった。

 

 

「あの、ウィリアム兄さん」

 

 稽古後の柔軟体操をしつつ、ノルンはウィリアムを見つめる。

 虎は変わらず上半身を冷気に晒していたが、全く寒さを感じさせない泰然とした佇まいを見せていた。

 

「なんだ」

 

 短く応えるウィリアムに、ノルンは数瞬躊躇うも、やがてその可憐な口を開いた。

 

「人を斬るって、一体どんな感じなんですか?」

 

 剣術とは、己の身を護るものであると同時に、他者の生命を容易に奪うもの。

 今日、改めてそう感じたノルン・グレイラット。

 ならば、兄はどのような想いで剣術を修め、その“暴力”を行使していたのだろうか。

 そう思ったら、ノルンは自然とそのような疑問を口にしていた。

 無垢な少女では想像すらつかない、虎が潜ったであろう様々な修羅場とは、一体どのようなものなのだろうかとも──。

 

「濡れ手ぬぐいを(はた)くが如く」

「え、えっと、あの、感触じゃなくて、ウィリアム兄さんが、どう思ったかなんですけど……」

 

 妙に生々しい文言が飛び出したことで、ノルンはやや顔を引き攣らせながら訂正する。

 感触も気になるところではあったが、流石にそこまで具体的な話を聞けるほどノルンは残酷無惨な話に耐性を持っていなかった。

 

 ウィリアムはノルンの様子に少しだけ首をかしげるも、やがて何かを思い出すかのように眼を閉じる。

 しばしの瞑目の後、虎は小さく呟いた。

 

「……初めて人を斬った時は、二十あった」

「二十?」

 

 今世において数年前の記憶。

 そして、今世を含めて数十年前の記憶。

 それらを噛みしめるかのように、虎は静かに語り出していた。

 

「恐怖、驚愕、憐憫、気鬱……それらが二十」

「……」

 

 もはや、最初に誰を斬ったのかは思い出せない。

 しかし、その時の感覚だけは、艶かしいほど鮮明に覚えていた。

 静かに語るウィリアムに、ノルンは息を飲み込みながら次兄の言葉に耳を傾ける。

 

「次に人を斬った時は、それが半分の十に減った」

 

 ふと、ノルンはある筈のない鮮血の香りを吸い込む。

 それは、ウィリアム……否、かつて剣鬼と称された魔剣豪から放たれていた。

 

「その次に斬った時は、その半分の五に……その次もまた半分……また半分……」

 

 そして、虎は今生の妹へ、その瞳を向けた。

 

「段々感じなくなる」

「……」

 

 憂いを帯びた瞳。

 しかし、その瞳からは死者を哀悼する感情は発現していない。

 

「もう聞くな」

「は、はい……ごめんなさい」

 

 ウィリアムはそこまで言った後、ノルンから視線を外した。

 虎は、無垢な妹をこれ以上修羅の道に引きずり込むことはせず。

 ただ孤高の憤怒、そして受け継がれし不退転の炎を燃やすのみである。

 そこに、家族の姿は無かった。

 

(ウィリアム兄さん……)

 

 ノルンはその姿を見て、なんとも言えない哀愁の念が浮かんだ。

 次兄が背負う宿業は、無垢な少女では想像もつかない。

 そして、その業を分かち合うことも、許されないのだ。

 

 唯一許されるとしたら、それは共に並び立つ程の実力を身に着けなければならない。

 そう思ったノルンは、それ以上ウィリアムに言葉をかけることが出来なかった。

 

 

「ウィル兄! ノルン姉! 朝ゴハン出来たよ!」

「ウィル、稽古するなら父さんも混ぜてくれよな~」

 

 ウィリアムがさてそろそろ戻ろうか、と思っていた矢先、庭先に異母妹アイシャ、そして実父パウロの姿が現れる。

 

「おはようございます、父上、アイシャ──」

「ウィル兄! 朝ゴハン冷めちゃうから早く戻ろ!」

「ウィル〜! いい加減父さんにも稽古つけてくれよな〜! 頼むよ〜!」

 

 挨拶をするウィリアムに構わず、コロコロと子犬のようにウィリアムの腰元へ抱きつくアイシャ。

 ついでと言わんばかりにウィリアムの後ろからガバリと覆いかぶさるパウロ。

 朝っぱからからグレイラット父娘にもみくちゃにされた虎は、即座に諦観の表情を浮かべ、されるがままである。

 

「ちょっとお父さん! アイシャ! ウィリアム兄さんが困っているじゃないですか!」

 

 そんな虎に思わず助け舟を出すノルン。

 実際、ノルンの言葉を聞き、ウィリアムの瞳に生気が宿り始めた。

 

「そんなこと言っても説得力ないよノルン姉。ウィル兄のおっぱいもんでたくせに」

「なっ!? い、いつから見てたの!?」

「なにっ! ノルンばっかずるいぞ! ウィル、俺にも揉ませろ!」

「お父さん!?」

 

 直後、虎の眼は死んだ。

 

「朝っぱらから賑やかだね」

「そ、そうですね……少し賑やか過ぎな気もしますけど……」

「旦那様ばかりずるいわ……」

「……」

「あ、シルフィ姉、ロキシー姉、お母さん、ゼニス様! おはようございます!」

 

 騒々しい親子に誘われてか、ルーデウスを除くグレイラット家の人々が顔を出す。

 アイシャはくるりと踵を返し、シルフィ達の前へ元気良く挨拶しに行った。

 父パウロは相変わらず虎の胸板を揉んでいたが。

 

「……」

「奥様?」

 

 すると、ふらりとゼニスが歩き出す。

 幽鬼のような足取りだが、まっすぐとウィリアム達の元へ向かった。

 

「は、母上……?」

 

 そのままパウロに羽交い締めにされたウィリアムの前に立つと、ゆっくりとその両腕を突き出す。

 

 もみり

 

 そして、ゼニスは無表情のまま、無言で虎の胸を揉み始めた。

 

「……」

「……」

「ぶ、母さんも好きだな!」

 

 笑いながらウィリアムを後ろから抱きしめるパウロ。そして、前から愛撫するゼニス。

 虎は両親のシュールな愛情を受け、この世の全てを諦めたかのような無常感溢れる表情を浮かべていた。

 

「なんだか私も触りたくなってきました」

「ボクもボクも。なんか、気持ち良さそうだよね」

「シルフィ姉、ロキシー姉。ウィル兄ってとっても柔らかくて、お日様の匂いがするんだよ!」

「へえー。そうなん──」

「アイシャ。それは少し違います。ウィリアム様のお身体は女童(めのわらわ)と見紛う程の柔肌(やわはだ)ではありますが、内に秘める逞しさは益荒男(ますらお)のようで、その香りは陽射しに照らされた草花の如く青々しく瑞々(みずみず)しい香り。そしてウィリアム様の香りに包まれると安らかな気持ちになりまるで桃源郷に(いざな)われたかのような得も言われぬ至福が沸き起こり思わず母性が刺激されるその美事(みごと)な肉体は娘を献上いえ(わたくし)を捧げても構わぬほどで(かえ)ってアクセントになっているその傷だらけの柔らかく暖かいお肌をゆっくりと優しく撫でつつ手取り足取りメロメロキュンキュン丸──」

「ちょっちょっちょっと待ってお母さん!」

「倒錯しすぎだよリーリャさん!」

「あの、メロメロキュンキュン丸というのはいかなるものなのでしょうか……」

 

 女 中 仏 契(リーリャぶっちぎり) !

 

 虎の肉体にドハマりせし眼鏡メイド、変なスイッチが入り性癖全開!

 その狂気に当てられし娘共、ただ狼狽す!

 

 朝飯前とは言い難い、実に混沌とした家族の風景である。

 

「あ……あはは……」

 

 もはや乾いた笑いを浮かべるしかないノルン。

 しかし、ノルンの胸の奥底から、段々と暖かい感情が生まれていた。

 

(やっぱり、ウィリアム兄さんは、ウィリアム兄さんだ)

 

 幼い頃の、おぼろげな思い出。

 それと寸分違わない、暖かい光景が、ノルンの目の前に現れていた。

 そこには、狂おしい程の激情を内包した魔剣豪の姿はなく。

 

 ただ、家族と触れ合う、若武者の姿しかなかった。

 

 

 

「ノルン……なにこの……なに……?」

「あ、ルーデウス兄さん……えっと、見ての通りです……」

 

 走り込みから帰宅し、困惑に満ちた表情を浮かべるルーデウスを、ノルンはなんとも言えない表情で出迎えていた。

 

 

 

 

 

 


 

 

「ではこれより稽古を始める」

「はっ!」

「よろしくお願いします!」

 

 ルーデウス邸の朝の騒動から数刻後。

 ウィリアムの姿はシャリーアから少し離れた雪原に、双子の兎、ナクル・ミルデットとガド・ミルデットと共にあった。

 

 ルーデウスやノルン、そして先頃からラノア大学の教師に就任したロキシーが通学通勤する中、ウィリアムもまた弟子へ稽古をつけるべく出かけていた。

 パウロと同じく、通勤も通学もしないウィリアムの立場は、有り体に言えば無職そのものである。

 だが、先のベガリットでの戦利品が親子の不労所得を莫大なものにせしめており、特にマナタイトヒュドラを直接仕留めたウィリアムの取り分は十分すぎる程であった。

 

 とはいえ、ウィリアムは金品の管理のほとんどをパウロに任せ、自身の持ち分はアスラ金貨10枚ほどに留めている。

 パウロもパウロで自分の取り分を全てウィリアム、そしてルーデウスに預けるつもりであったのだが、ゼニスの治療に専念すべし、というウィリアムの言葉を受け、その資金を使用し、ゼニスの治療法を探す毎日を送っている。

 ベガリットで得た財産はグレイラット家が生活する上でなんら不足なく、ウィリアムもまた自身の“すべき事”に専念していたのだ。

 

 ちなみにシャリーアへ帰還した当初、ウィリアムはその出自を盛大に勘違いしているナナホシ・シズカの元へと帰還の挨拶に出向こうとしていた。だが、心の準備が整っていないナナホシから“出仕無用。今は家族と旧交を温めるべし”との言伝をルーデウスから受け、その訪問を控えていた。

 

 現代日本への帰還魔法陣の研究が佳境に入っていたことなどで、平成日本女子高生に虎の訪問を受ける余裕が無かったというのもあるが、ナナホシから事のあらましを相談されたルーデウスが一旦会うのを控えるように提案していたのもある。

 

 ルーデウスは、近い内にウィリアムとの“日本語による話し合い”を行う腹積もりでいた。その時に、弟の前世での正体やナナホシに対する勘違いの是正、そして怨身忍者ら衛府の龍神一党について問い質そうとしていた。

 これは同じ日ノ本からの転生者として、避けては通れぬ禊でもある。そのような決意をしつつ、今日までその話し合いが実行されなかったのは、下手に事を急ぐとウィリアムがどのような行動を取るか予測出来なかったから。

 やっと再会を果たし、穏やかな日常を営む家族。それが、再び離散してしまうのを恐れたルーデウスは、日々の学業や雑事をこなしつつ話し合いのタイミングを慎重に図っていたのだ。

 

 そんな兄の想いを知ってか知らずか、ウィリアムは淡々と弟子の戦力増強に努めていた。

 

 既に日は中天に差し掛かっていたが、変わらず深い雪が残るシャリーア郊外の雪原は厳寒に包まれている。

 そのような気温にも関わらず、ウィリアム、そしてその前に膝をつく双子の兎が身につけているのは、朝のウィリアムと同じく薄い汗衣に麻のズボンのみであった。

 

「二人同時で良い。かかってまいれ」

「はっ!」

「はい!」

 

 互いに木剣を携えた異界虎眼流師弟。

 だらりと木剣を下げたウィリアムへ、双子は殺気を込め木剣を“担ぐ”。

 だが、双子の殺気を受けた虎は憎悪にも似た感情を発露した。

 

「殺の気が足りぬ。殺すつもりで来い……手加減いたせば、その方らを撃ち殺す──!」

「は、はい!」

「……ッ!」

 

 ウィリアムの苛烈な言葉。

 それを受けても尚、双子は仕掛けることができない。

 ウィリアムから発せられる炎のような剣気に圧迫され、それ以上動く事が出来なかったのだ。

 

「……すげえな、おい」

 

 そんな師弟の様子を少し離れた所で見つめるは、元“黒狼の牙”のシーフ、ギース・ヌーカディア。

 シャリーアに滞在する間、ギースは双子のシャリーア滞在を世話していたのだが、偶にこうして師弟の稽古を見学することもあった。

 ギースは師弟から発せられる悍ましい程の殺気を受け、背筋に冷えた汗を流す。

 そして、懐に忍ばせた幾枚かの上級治癒魔術が込められたスクロールを握りしめていた。これは稽古後、双子の治療(・・・・・)の為に用意されたものである。

 双子もベガリットの戦利品を換金し懐に収めてはいたが、その使途のほとんどはスクロール代に消えていた。

 

 中々打ち掛かれずにいる双子に、虎は苛立った吠声を上げる。

 

「武芸者なら、剣で死ぬるを冥加(みょうが)といたせッ!」

「ッ!?」

「ッ! う、うわあああああッ!!」

 

 直後、双子は弾かれたようにウィリアムへ打ち掛かった。

 左右同時に放たれる“流れ”

 いかな虎眼流開祖とはいえ、この双撃を躱せるとは──

 

「ギッ!?」

「グッ!?」

 

 否。

 双子の木剣が届く直前、ウィリアムは双子を上回る剣速で“流れ”を双子の顎へと放っていた。

 脳を僅かに揺らされた双子は、途中まで振り抜いた木剣を落とし、その身を地に這わせる。

 

「……お、恐れ入り──!?」

 

 僅かに顔を上げたナクルに、ウィリアムは無慈悲に木剣をその首筋へ圧し当てた。

 

「ガッ──ッ!」

「ナ、ナクル兄ちゃん……!」

 

 ナクルに馬乗りになり、容赦無くみぞおちに膝を突き刺す。

 脳を揺らされたガドは立ち上がることが出来ず、地に縫い止められた兄が虎に蹂躙されているのを見ていることしか出来ない。

 

「……」

「カッ──」

 

 みしり、と肉と木剣が軋む音が響く。

 頸部を圧迫され、ナクルの顔面は細胞が壊死したかのような重篤なそれへと変わっていった。

 かつてウィリアムに潰された片目は肉が隆起し、残った片目からも血涙が漏れ出る。

 みしりと膝が捻り入り、腹膜を潰されたナクルは尿道や肛門からも鮮血を垂れ流していた。

 

「お、おい! やりすぎだぜ!」

 

 思わず、ギースがそう叫ぶ。

 虎眼流の猛稽古をある程度は見慣れているとはいえ、ここ最近のウィリアムの虐待稽古ともいえる激しさは、流石のギースも目を背けたくなるほどの惨状である。

 そのようなギースに対し、ウィリアムは短く応えた。

 

「痛くなければ覚えませぬ」

「なっ……!」

 

 ウィリアムの冷然たるその言葉。

 それを聞き、ギースはそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。

 

「──ッ、ガアアアッ!!」

「ッ!?」

 

 瞬間、ウィリアムの肉体が宙に浮く。

 ナクルの肉体はバネのように反り返っており、ウィリアムは地雷を踏んだかのように兎兄の肉体から弾き飛ばされていた。

 

 虎眼流“土雷”

 

 兎兄が習得せし、虎眼流の妙技が放たれた瞬間であった。

 

「……」

 

 ウィリアムは土雷の衝撃を咄嗟に腕で防御せしめていたが、ナクルの拳が当たった箇所には早くも青い痣が浮かんでいた。

 上腕部にじわりと広がるその痛み。虎は僅かに口角を引き攣らせ、その痛みを味わっていた。

 

「や、やった……!」

「ナクル兄ちゃん、お美事……!」

 

 双子が喜悦に満ちた表情を浮かべるのを見て、ウィリアムは即座に口元を正す。

 

「立て」

「は、はい……!」

「もう一本、お願いします……!」

 

 虎は、この程度では褒めはしない。

 まだまだ、この双子には強くなってもらわねば困るのだ。

 なぜなら、双子が強くならねば、己が稽古にならぬから(・・・・・・・・・・)

 

 未だあの仇敵を討ち果たす憤怒は消えぬ。

 しかし、その剣神の神妙なる剣境に至るには、あと一歩足りない。

 独り稽古ではその剣境に達するには難しく。

 故に、双子を己の剣境に少しでも近づける。

 

 妹へは、いずれは目録程度の義理許しは行うつもりでいた。

 しかし、この双子へは、義理許し、ましてや金許しなど到底許すはずもなく。

 術許しでしか、その奥伝を伝えることは、許されないのだ。

 

 ウィリアムは、更に双子へと猛稽古を加える。

 

「ガッ!」

「ギィッ!」

 

 渾身の力を込め立ち上がる双子へ、激しい打擲を加えるウィリアム。

 稽古の時間が経つにつれ、双子の肉体は無惨な姿へと変わり果てる。

 肉が腫れ、骨が折れ、血管(ちくだ)が破れ。

 それでも、双子は死に物狂いで稽古を続ける。

 

「……イカれてるぜ、あいつら」

 

 それは、双子に向けてなのか。それとも、ウィリアムを含めてなのか。

 ギースは青ざめた表情を浮かべながら、日が暮れるまで続けられた稽古を、ただその双眸で見つめていた。

 

 

 

 

「……」

 

 そして、いつ果てるともなく続けられた稽古が終わりを告げる。

 死に体ともいえる双子をギースへ託したウィリアムは、一人ルーデウス邸への帰路へついた。

 既に日は完全に暮れており、シャリーアの街中は夜の帳が下りている。

 

「……まだ、足りぬ」

 

 暗い夜道を歩きながら、ウィリアムはそう呟く。

 双子は、本日もウィリアムへ碌な有効打を放つこと無く稽古を終えた。

 双子の才能はこの世界でも有数のものであったが、虎眼流の真髄を修めるにはやや不足。まだまだ時がかかる剣質に、虎は焦れったい思いを想起させていた。

 

「……」

 

 ふと、ウィリアムはかつての弟子、伊良子清玄が瞬く間に虎眼流を己のものとした事を思い出す。

 曖昧の最中、天才美剣士の業に満ちた生き様を視たかつての虎。その有様を思い出した虎は、じわりと怨嗟の感情を滲ませる。

 だが、不思議とその怨恨の火はそれ以上燃え広がず、静かに鎮火していった。

 

(あれは……盗み癖さえなければ喃……)

 

 どこか諦観めいた表情で、そう思考するウィリアム。

 道義を違えなければ、あの剣士は虎眼流の跡取りとして申し分ない才能。

 それは、実子同然に可愛がっていた、あの藤木よりも──

 

「……」

 

 ウィリアムは頭を振ると、それ以上思考するのを止めた。

 それは、いまさら思っても詮無きこと。

 前世での事は、あくまで前世。今世には何ら関係無きこと。

 そう思って、虎は思考を中断していた。

 

 だが、虎は気づいているのだろうか。

 前世の宿業に未だ囚われ、ありもしない徳川家の威光にひれ伏していた事実を。

 そして、その宿業ともいえる身分の檻を、あの不退転戦鬼の火が解きほぐしていたのを。

 

 歪な矛盾を抱える虎は、沸き上がる複雑な想いを抱え、今世の家族が待つルーデウス邸へと歩を進めていた。

 

 

「ウィル兄、おかえりなさい」

「……?」

 

 玄関で出迎えたのは、アイシャだった。

 いつも通りといえばそれまでだが、妙にそわそわとしているアイシャの姿を看破し、ウィリアムは不思議そうに首をかしげる。

 

「なにか、あるのか」

「ふふーん。あのね、ウィル兄」

 

 アイシャはくるりと可愛らしく身を翻す。

 そしてエプロンドレスの裾をつまみながら、恭しく頭を垂れた。

 

「本日はウィリアムお兄様の、十五歳のお誕生日でございます。わたくしは元より家族一同、謹んでお祝い申し上げます」

 

 貞淑なメイド口調でそう述べた後、花が咲いたかのような笑顔を浮かべるアイシャ。

 それを見たウィリアムは、やや呆気にとられつつ、自身がまたひとつ齢を重ねていたことを自覚した。

 

 ああ、そうか。

 己は、もう十五になったか。

 今更ながらそのような感慨にとらわれたウィリアム。いそいそと手を引っ張るアイシャを見て、僅かに笑みを零した。

 

「そういうわけでウィル兄! 主役がいないと始まらないから、はやく行こ!」

「……そう引っ張るな。どこにも行きはせぬ」

 

 そして、虎は可憐な少女に連れられ、暖かい日だまりの中へと向かっていった。

 

 

 栄達の為でなく

 

 まして求道(ぐどう)の為でなく

 

 ひたすら孤高の憤怒(ふんぬ)を晴らす為に剣を磨きし者共

 

 魔剣豪(まけんごう)と呼ぶべし

 

 

 然るに、その宿業

 

 

 情愛に触れし間、未だ狂咲(くるいざき)ならず──

 

 

 

 

 

 

 


 

「いやーマジでお疲れさん」

「イエイエ」

「ドーモ」

 

 ウィリアムがルーデウス邸へ帰途についた頃。

 双子の兎はギースと共に根城にしている安宿に設けられた酒場にて酒を酌み交わしていた。

 既に治癒スクロールにて全快していた双子は、稽古の疲れを癒やすかのように勢い良くエールを傾け、大きい皿にドカ盛りされた肉の煮込みに舌鼓を打っていた。

 

(はふ)(はふ)

(ムシャ)

「あれだけぶっ叩かれたってのに、よくそんだけ飲み食いできるな……」

 

 双子の食いっぷりにやや呆れつつ、ちびちびと酒を呑むギース。

 先程までの死にかけ姿とは打って変わり、ムシャムシャと肉を頬張りグビグビと酒を呷る双子の姿は元気一杯。双子の底しれぬ体力に、ギースは驚きを通り越して呆れるしかなかった。

 

 しばらくはとりとめのない雑談を交わしつつ、ギースはさり気なく双子から視線を外す。

 客はギース達以外存在せず、酒場の亭主も厨房内に引っ込んでいるのを確認したギースは、双子を気遣うかのように柔らかい声をかけた。

 

「ほんとおまえさん達、よくあんな稽古についていけるよな」

「ふぇんふぇんひょゆうっふ!」

「あらへあいむひおっにほんまへほひあんはうぇア!」

「ちゃんと食ってから喋ろよナクル……あと一瞬目離した隙に泥酔するのやめろよガド……」

 

 ガツガツと肉を食い続けるナクルに、ガブガブとエールを飲み干すガド。

 その残念な双子の様子に、全く体を動かしていないはずのギースの方が疲れ果てた表情を浮かべていた。

 

「ま、いいか。ところでナクルよ、おまえさんにいくつか聞きてえ事があるんだが」

「なんスか?」

 

 既に泥酔し、曖昧状態となっているガドを捨て置き、ギースはやや真剣な表情でナクルに話しかける。

 

「お前さん達がベガリットで一緒にいた……あの現人鬼なんだけどよ。ありゃ一体何者なんだ? 結局、一緒にいた時はロクに話すことが出来なかったし、先輩らに聞いても何もわからねえしよ」

 

 前から聞きたかったであろう疑問を口にするギース。

 事実、あのような人間……いや、異形は、経験豊富なギースですら見聞きしたことのない特異な存在であった。

 ナクルはギースの疑問を受けしばし考える素振りを見せるも、やがて素っ気なく答えた。

 

「知らねっス」

「し、知らねってお前……」

「若先生が特に気にしてないっぽいんで、現人鬼殿が何者とか興味ねーっス。いつかぶっ殺してやりてえけど……

「そ、そうかよ……」

 

 呪詛の念を吐きつつ恨めしげな表情を浮かべるナクルを見て、ギースはそれ以上現人鬼について聞く事を止めた。

 

「じゃ、じゃあよ。お前さん達はどういった経緯で若センセに弟子入りしたんだ? たしか、お前さん達は元々北神流だろ?」

「あー、それはー……」

 

 ナクルは隣で爆睡している弟ガドを見つつ、師匠であるウィリアムとの初遭遇時を滔々と語る。

 元々は同門である北帝オーベール・コルベットから連絡を受け、北神流門下へと勧誘しようとしていた事。

 そして相まみえた時、虎の牙に圧倒された事。

 そのまま弟子となり、共にベガリット大陸へと旅立った事。

 要所要所で現人鬼をディスりつつ語ったナクルの言葉に、ギースは深く頷きながら聞いていた。

 

「って感じっス」

「なるほどなぁ。北王を問題にしねえのか……」

 

 ギースは顎をさすりつつ、ウィリアムの戦力を分析するかのようにナクルの言葉を反芻する。

 

「そういや、若センセは死神をぶっ倒して七大列強になったなんだってな?」

「そうスけど」

「俺も迷宮での戦いぶりを見てたけどよ、ありゃぁすげえよな。列強ならヒュドラもあの不動ってバケモンも簡単にぶった斬れるんだな」

「いやぁ、それほどでも……」

 

 ギースがウィリアムを褒める度、ナクルはまるで自分の事のように喜ぶ。

 弟子として師匠が持ち上げられるのは、やはり悪くない気分である。

 

「それに、あの剣もすげえよな。タルハンドも夢中になってたけど、あれも相当の業物だぜ」

「ナナチョウネンブツって銘らしいっス」

「ナナチョウネンブツか。変わった名前だなぁ」

「実際変わってるっス。あんなめちゃくちゃ鍛え込まれた剣、見たことねえっス」

「だよなぁ。ありゃあの有名な剣神七本剣よりすげえぞ」

「いやぁ、それほどでも……」

 

 師匠の愛刀の話題になると、ナクルはちらりと王級剣士の顔を覗かせる。

 一流の使い手ですら目にしたことのない七丁念仏の焼き、鍛え、砥ぎは、やはりこの世界では特異な代物であった。

 

 ギースはしばらくウィリアムを褒め殺すかのように言葉を続ける。

 気分を良くしたナクルは、増々嬉しそうにギースの言葉に応えていた。

 

「ところでよ。もしもの話なんだけどな」

 

 和やかな雰囲気の中、ギースはふと話題を変える。

 ナクルは相変わらずにこやかにギースの言葉を聞いていた。

 

「もし──もしもよ」

 

 ギースはほんの少し、躊躇うように言葉を続ける。

 ナクルはその様子に気づかないのか、相変わらず笑顔であった。

 

 そして──

 

 

「若センセが負ける(・・・)としたら、それはどんな相手──」

 

 

 そう、ギースが言った瞬間。

 

 

「殺すよ、オマエ」

「ッ!?」

 

 

 覚醒したガドが、ギースの喉元に曲剣を突きつけていた。

 

「ガド」

 

 感情が一切死滅したかのような平坦な声で、ナクルは弟を諌める。

 それまでの和やかな空気が一変し、ギース達の周辺は絶対零度まで凍てついていた。

 

「……チッ」

 

 ガドはナクルに諌められ、ゆっくりと剣を引く。

 ガドは先程まで泥酔し惰眠を貪っていたとは思えないほど、冷めた表情を浮かべていた。

 

「ギースさん。ガドはちょっと酔ってるみたいだ」

「ッ! あ、ああ……」

「まあもっとも──」

 

 そして、双子はゆるりと席を立つ。

 その赤色の瞳を、ギースの猿顔へと向けた。

 

「ガドが抜いてなきゃ俺が抜いてたけどな。ガドは俺よりちょっとだけ疾いし」

「そういう兄ちゃんは僕よりちょっとだけ力が強いんだよね。鍔迫り合いになったら勝てないや」

 

 やがていつも通り和やかな空気を纏わせる双子の兎。

 だが、ギースはその様子を見て得体の知れない悍ましさを感じ、全身から脂汗を噴出させていた。

 

「若先生ほどの強さじゃないけどな」

「若先生ほどの疾さじゃないけどね」

 

 同時にそう言い放つ双子。そのまま、部屋へと戻る為酒場の二階へと足を向ける。

 

「ああ、ギースさん」

「な、なんだ」

 

 去り際にギースへ声をかけるナクルの双眸は、紅く、妖しく歪んでいた。

 

「若先生に、負けは無い。これまでも、そしてこれからも」

 

 あの時。

 あのルーメンの森での出来事。

 それは、双子にとって忘れがたき屈辱の記憶。

 師匠が味わいし敗戦の恥辱は、双子にとって決して甘受できるものではない。

 

 死狂うた双子の忠誠心は、決して他者には理解できぬ、ある種の狂信的な崇拝の域へと達していた。

 

 

「……」

 

 一人残されたギース。

 双子兎の狂気に当てられ、茫然自失とした様子を浮かべ──

 

「……へっ、へへへ」

 

 否

 ギースは、唐突に不敵な嗤い声を上げる。

 双子に勝るとも劣らない程、不気味に口角を引き攣らせたギースは、ぎしりと椅子にもたれかかり、何かを思案するかのように天井を見上げた。

 

「うまいことあいつらを操って共喰いさせようと思ったが、ありゃ無理だな……七丁念仏や不動も盗めるとは思えねえし……」

 

 ぶつぶつと独り言を呟くギース・ヌーカディア。

 七丁念仏や不動の発音が、やけに日本語(・・・)の発音に近いことが、猿面の男の不気味さを一層引き立てていた。

 

「迷宮じゃスクロールに細工してもくたばらなかったしなぁ……つーか怨身忍者って、反則だろありゃ……列強クラスをぶつけるにしても、あの霞鬼ってのが出張ってきたら勝ち目薄いしよ……いざとなったら、パウロや先輩達も……どっちにしろ長期戦になりそうだなこりゃ……」

 

 ギースはテーブルの上に置かれたグラスを摘むと、ゆっくりとグラスを傾け酒を呷る。

 熱く、太い息を漏らしたギースは、酒を呑んだとは思えないほど冷たい声色で呟いていた。

 

「ったく、大変だけどやるしかねえんだよなぁ……アイツは俺の恩人で、俺はアイツの恩人になるんだからよ……パウロや先輩は好きだけど、別にあいつは好きでもなんでもねえしな……どっちに付くかっていったら、決まってんだろ」

 

 やがてギースは席を立ち、ポケットから銅貨を出してテーブルに置く。

 フラフラと酒場の出入り口へ向かう様子は、まるで何者かに操られている様相を呈していた。

 

 

「猿が仲間を集めて、虎退治ってか」

 

 

 ヌーカディア族の唯一の生き残りは、己の運命(ジンクス)に従い、夜の街へと消えていった

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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