虎眼転生-異世界行っても無双する-   作:バーニング体位

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北神篇
第三十三景『転生虎(てんとら)(みそ)ぐ!』


 

「ふぅ……」

 

 人気の無い森の奥。そこにある泉で、一糸纏わぬ裸体を晒すデドルディア族の女。

 その美しく豊かな毛並みはシルクのような手触りを感じさせ、艷やかな唇から紡がれる音色は春情めいた情感が漏れ出る。

 張りのある豊かな乳房に伝う水滴は、釈迦の白毫(びゃくごう)の如き煌めきを放つ。

 眼帯に隠されていない左眼はルビーのような輝きを見せており、瞳は熱情を思わせる熱い火が灯っていた。

 凛とした立ち振舞いを支えるしなやかで逞しい筋肉、そこかしこに刻まれた刀疵は女の魅力をより一層優美に引き立て、濡れた尻尾は扇情的に踊り見る者全てを魅了する。

 

「む……」

「……」

 

 とはいえ、この泉にはディドルディア族の女の他に、女より生々しい刀疵痕が全身に刻まれた一人の若者しかいない。

 ディドルディア族の女……ギレーヌ・デドルディアは、泉の縁に身体を預ける若者を見留めると、茶褐色の肌が上気するのを感じる。

 僅かに頬も染めながら、若者の隣へと近づいた。

 

「隣、いいか?」

「……」

 

 水面に半身を沈め瞑目する若者。ギレーヌが泉に至る前からそこにいたのか、その白髪の総髪はしっとりと濡れそぼっている。

 若者はちらりとギレーヌを見やると、また直ぐに目を閉じる。否定とも肯定ともとれるその態度にギレーヌは一瞬躊躇するも、構わず若者の隣に腰を下ろした。

 

「なんだか……変わったな。お前」

「……」

 

 ギレーヌは久方ぶりに見る若者の姿を、その隻眼にてマジマジと見つめる。

 以前、剣の聖地にて出会った若者の全身は、苛烈な炎を思わせる獣熱を纏っていた。

 だが、今目の前にいる若者からはそのような熱気は発せられておらず。

 少し目を離すと、そのまま背景に同化してしまいそうな自然(じねん)に満ちた姿を見せていた。

 

「あ……」

 

 “空”の境涯ともいえるその姿を見つめる内に、ギレーヌは己の憤怒ともいえる闘魂が鎮まるのを感じる。

 内に憤怒を燻らせる黒狼の剣王は、二つの使命があった。

 ひとつは、恩人であるサウロス・ボレアス・グレイラットの仇討ち。転移事件の全責任を理不尽にも押し付けられた主の無念を晴らすこと。

 もうひとつは、妹ともいえる存在……エリスを守ること。エリスを強く育て、そしてエリスが想いを寄せ続けるルーデウスの元に託す。

 その二つの使命が、今のギレーヌが生きる上での全てであった。

 

「ん……」

 

 だが、若者の存在が、その二つの使命とはまた違った“火”をギレーヌに灯していた。

 かつて若者が見せた未知の技法による剣技。それは、剣士としての本能が鋭敏に反応した。

 そして、かつて若者が放った峻烈な獣性。それは、獣族としての本能を、淫靡に刺激した。

 ギレーヌは己の唇、胸、そして下腹がじわり(・・・)と熱を帯びるのを感じ、思わず思いの丈をぶつけていた。

 

「……お前は、誰かと(つがい)になるつもりは無いのか?」

 

 率直過ぎるこの物言いに、若者は僅かに目を開きギレーヌを見つめる。

 ギレーヌは、三十余年の人生で色恋沙汰にとんと無縁であった。故に、気の利いた口説き文句など言えるはずもなく。

 ギレーヌにあるのは、修羅の如き剣生のみ。

 唯一、色恋めいたものがあるとすれば、あの男……パウロ・グレイラットとの一時のみである。

 

(いや、あれは気の迷いだ)

 

 雑念を払うように頭を振るギレーヌ。“黒狼の牙”時分は、自分もまだまだ未熟であった。故に、発情期をうまく付け込まれ、パウロと関係を持ってしまった。

 今、パウロに出会ってもあの時のように尻尾を振るような真似はしない。いや、例え発情の真っ最中であってもそれは無いだろう。

 なぜなら、剣士としても、雌としても、パウロ以上にそそる(・・・)相手がいるのだから。

 

 ギレーヌの言葉に、若者はしばし沈黙していたが、やがて短く言葉を返した。

 

「今は、まだ……」

「そ、そうか」

 

 ある、と答えれば即座に“ならあたしはどうだ?”と告げるつもりだったギレーヌ。

 密かに決意していた求愛を躱されたことで、黒狼の女剣士はますます羞恥で頬を染めていた。

 

「ですが」

「え?」

 

 ふいに、若者がギレーヌの腕を引く。そのまま、ギレーヌの大柄な肢体を自身の膝に乗せた。

 

「身共は、生涯不犯を貫くつもりはありませぬ」

「あっ……」

 

 若者はギレーヌを力強く抱きしめると、その耳元に囁くように呟く。ギレーヌは恋人と睦言を交わした生娘のように上気し、茶褐色の肌色が臙脂色に変わった。

 豊満な乳房から伝わる若者の体温は、黒狼の身を焦がすかのような熱が感じれる。

 木々の隙間から木漏れ日が差しており、泉に浸かる雄虎と雌狼を柔らかに包んでいた。

 

「いくつに……」

「え……」

 

 若者から紡がれた疑問。ギレーヌーは一瞬答えに躊躇しつつも、絞り出すように言葉を返した。

 

「……もう三十過ぎた。年増だな、あたしは」

 

 ギレーヌはシュンと猫耳を垂れ下げ、自嘲めいた表情を浮かべで若者へ応える。

 エリスを守るため、そしてボレアス家一党の無念を晴らすため、とうに捨てたはずの“女”だったが、若者と出会ったことでギレーヌはその捨てたはずの女を再認識していた。

 若者は十代半ば。その若い肉体と、(とう)が立った自分の肉体が、果たして釣り合うのか。

 

(よわい)は関係ありませぬ」

 

 だが、直後に放たれた若者の言葉は、ギレーヌの艶かしい懸念を払拭する。

 

「強い器を備えるのに、齢は関係ありませぬ」

「あ、あぁっ……!」

 

 再度ギレーヌを抱き寄せる若者。力強く、熱い抱擁に、ギレーヌの下腹は増々湿り気を帯びる。

 下腹部に当たる若者の内槍もまた、固く、艶かしい熱を放っていた。

 

「強い種を宿すのに、齢は……」

「あ、ん、んぅ……!」

 

 唇を塞がれ、ギレーヌは悩ましい吐息を漏らす。

 若者の首に手を回し、貪るように互いの口中に舌を這わせる。

 黒狼の雌は、その熱い肉体を雄虎に委ねていた。

 

「ああ……ウィ……」

 

 熱を帯びた互いの性の象徴が、あるべき所に収まる時。

 

「ウィリアム……!」

 

 ギレーヌは若者の名を喚ぶ。

 ウィリアムはただ無言でギレーヌを抱きしめ、己の身体ごと泉の中へ引き入れた。

 

(ああ、なんて……なんて強いんだ……)

 

 背丈は己より少し低い、ウィリアムの小柄な身体。

 それが、とてつもなく大きく、強い存在に感じ、ギレーヌが秘める被虐心をくすぐる。

 獣族の女は、己より“強い”雄にしか身体を許さない。

 ウィリアムが見せた情熱的な獣性は、ギレーヌにとって求めて止まない蠱惑を放っていた。

 

「ああ、ウィリアム……ッ!」

 

 悩ましい律動を繰り返す一頭の虎と、一頭の狼。絡み合う肉体の蠕動が、獣の呼吸を荒くする。

 水面から差す日差しが水中の虎狼を照らし、獣達の営みを柔らかく包んでいた。

 

「ウィリアム、い、イ……ッ!」

 

 そして、虎狼は、同時に達しようと──

 

 

 

 

 

 

 

 

「息が出来ないッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夢か」

 

 北方大地の果て、剣の聖地。

 剣神流総本山にある内弟子衆が住まう宿舎の一室に、朝日の光が差す。光に包まれたベッドの上で、剣王ギレーヌ・デドルディアはボサボサの髪を掻きながら気だるげに茶褐色の裸体を起こしていた。

 

「死ぬかとおもった」

 

 危うく酸欠で死ぬところだったと、寝汗と共に冷えた汗を浮かべるギレーヌ。

 夢で良かった、と思いぴょこんと猫耳を立てる反面、内容の生々しさを思い出し気鬱げな表情を浮かべた。

 

「なんて……都合の良い夢なんだ……」

 

 へなりと猫耳と尻尾が垂れる。

 寝起きの剣王からは普段の勇壮な気質は全く感じられず、羞恥と未練で全身を弛緩させていた。

 あのような夢を見るとは、また発情期が近づいて来たということか……。

 そう思ったギレーヌは、夢に出てきたウィリアムの姿を再度思い起こす。

 

(あいつは、あたしをそんな目で見ていない)

 

 ウィリアムが剣の聖地へと挑んだ後、ギレーヌはウィリアムと共に旅をした事を思い出す。

 あの時は、発情した自分がウィリアムに迫ったが、当のウィリアムはまったく淫気を催さず、慇懃に黒狼の発情を受け流していた。

 

 “またな”

 

 そう言って、半ば斬り捨てるように口付けを交わした。だが、その“また”は、果たしてあるのだろうか。

 

「ウィリアム……」

 

 ぼそりと、虎の名を喚ぶ。

 ああ、やはり夢は夢。実現しない、夢であり己の浅ましい願望だ。

 ウィリアムの名を呟くと同時に、そのような切ない想いが、ギレーヌの心の貝殻に沸き起こっていた。

 

「……エリスは、もう起きたのか」

 

 ふと隣接されたベッドに目を向けると、綺麗に折り畳まれた寝具があるのみで、同室である妹弟子の姿は無かった。

 ギレーヌと寝食を共にするエリス・グレイラットは、姉弟子が悩ましげな夢にうなされている間、とっくに起床し日課である一人稽古に出向いていたのだ。

 

「う……」

 

 そして、エリスがいなかったことは、ギレーヌにとって僥倖だった。

 ギレーヌは下腹部に冷気を感じ、恐る恐る毛布をめくる。

 

「おぉぉ……」

 

 絶望の呟きと共に、毛布の下から現出せしは見事な地図(・・)が描かれたシーツ。

 布地にじわりと染みたギレーヌ領の版図は、まるで戦国の日ノ本を際限なく侵略せしめた織田家全盛期が如き広がりを見せていた。

 当然、寝小便をするような年でもないし、寝小便をするような年にもなっていない。

 

「なんてことだ……」

 

 寒冷地では就寝する際、裸のまま寝具に潜り込む者が多い。

 これは地肌が発する体熱を衣服が阻害せず、効率良く熱を寝具内に留まらせる利点があり、また裸で寝ることにより脳内ホルモンが分泌されレム睡眠に入りやすいという利点がある為であったが、今現在のギレーヌにとって裸で寝た事は欠点以外何物でもなかった。

 

「うぅ……」

 

 気色悪さで顔を顰めつつ、もそもそとベッドから這い出る裸の剣王様。

 ともかく、今は一刻も早くこの事態を隠蔽せねばならない。

 エリスとは共に行水を行うほど、いわゆる裸の付き合いともいえる明け透けな関係を築いてはいたが、流石にシーツを、それも小便以外の体液で濡らした事実は見られるわけにはいかず。いや、よしんば小便でも深刻な事態なのは変わりない。

 

「……よし」

 

 先程とはまた違った羞恥で頬を染めたギレーヌは、いそいそとシーツを引っ剥がそうとベッドの縁に手をかける。

 

「むんっ!」

 

 そして勢い良くシーツを剥ぎ、そのまま滅多斬りにし証拠隠滅を図らんべく、ベッドの脇に立てかけられた師より賜った愛刀、剣神七本剣“平宗”を取ろうとした。

 

 が。

 

 

「ギレーヌ! 朝ごはんよ!」

「フゥッッッッッッ!?」

 

 

 バアンッ! と勢いよく部屋のドアが開かれ、両手に朝食が乗せられたトレーを掲げた朱色の乙女が現れる。

 剣の聖地へ至ってから、乙女はそれまで培った貴族作法の一切を忘れ、ただその獣性を磨くことだけを胸に抱いていた。故に、両手が塞がった状態で扉を開けるのに、足を使うという横着っぷりは全く気にせず。また、姉弟子であるギレーヌもその辺りのマナーについては無頓着であり。

 元気良く入室した乙女は、北帝オーベール・コルベットにより“北聖”の印可を授けられたばかりからか、その心気は充実しており。そして、その自信に満ちた表情は着実に乙女の剣境が深まっているのを感じさせた。

 

 ギレーヌは乙女の自信に満ちた表情に、これほどの衝撃を受けたのは初めてであった。

 ちなみにその尻尾は驚愕でギンギンにおっ立っている。

 

「いつまで寝ているの! もう皆とっくに道場に──」

 

 元気一杯に現れたエリス・グレイラットは、目前に広がる惨劇を正しく認識出来ず、そのまま朝食を抱えながら硬直した。

 

「……」

「……」

 

 両手に朝食を乗せたトレーを持つ、稽古着姿のエリス・グレイラット。

 両手に水玉を刻んだシーツを摘む、全裸姿のギレーヌ・デドルディア。

 両者は互いの姿を正しく認識出来ず、その正体を探るかのように見つめ合っていた。

 

「そ……」

 

 だが、永遠に続くかと思われた均衡は破られる。

 先に動いたのは、朱色の乙女だった。

 

「そういう日もあるわね!」

「!?」

 

 どういう日があるのか。

 そのような疑問を返す間も無く、エリスは現れた時同様にバアンッ! と大きな音を立てながら稲妻の如き疾さで戦略的撤退を果たした。

 激しく打ち付けられた扉は、エリスの激しい蹴撃にも関わらず存外に原型を保っていた。

 

 独り身の姉弟子である。

 エリスの中に、ギレーヌのこのような惨状を、見て見ぬ振りをする情けが存在した。

 

 大好きなギレーヌおねえちゃんのこの姿、見るに耐えぬ──!

 

 もっともこの時のエリスはただ思考を放棄しただけとも言えた。

 

「……」

 

 後に残されたギレーヌは、己は一体今何をしているのだろうか、そしてシーツを摘む己は一体何者なのだろうかと、普段の脳筋ぶりには似合わない哲学的な思考に耽っていた。

 だが、腐っても剣王。

 再起動するにはそれほど時は掛からず。

 

「……ふっ」

 

 やがて、乾いた笑いをひとつ漏らすギレーヌ。

 剣王は、ただやるべき事をやるだけだ。そう、改めて決意した。

 

 剣の聖地で修行に明け暮れ、その後冒険者になって、ボレアス家に拾われ、転移事件で紛争地帯に飛ばされ、フィットア領難民キャンプでアルフォンスを手伝って、そしてエリスを伴い再び剣の聖地へ戻って。

 ギレーヌは同時に三つ以上の事が出来ない。同時に出来るのは、二つだけ。

 今までも、そしてこれからも。

 

 そうだ。己には何よりも代えがたい二つの使命があるのだ。

 エリスを立派に育て、信頼出来る男に託す。

 そして、サウロスの名誉を守る為、その生命を奪った仇敵を滅するのだ。

 

 ウィリアムに抱く想いは、剣士としての憧憬めいた感情しかない。

 狼は、ただ虎の牙を見て、倒錯しただけだ。

 

 それが、剣王ギレーヌ・デドルディアの今。

 孤高の黒狼は、己に課せられた使命を再認識し、虎に対する想いを封印した。

 

 それが、剣王ギレーヌ・デドルディアの、今なのだ。

 

 

 

 そしてギレーヌはシーツを細切れにし、翌日風邪を引いた。

 

 

 

 

 

 


 

 魔法都市シャリーア

 ルーデウス・グレイラット邸

 

 剣術者の朝は早い。

 夜も開けきらぬ暁闇の中、ウィリアムはいつものように静かに起床し、ルーデウス邸の庭にて朝の一人稽古をこなしていた。

 右足をやや引きずる(・・・・)ようにして大地を踏みしめるウィリアム。

 先の迷宮での一戦以降、ルーデウスがいくら治癒魔術を行使してもその裁断された足甲は癒着せず。ウィリアムの右足甲は裂けたまま外皮が再生していた。

 

 余人の前ではなるべく常の足取りを見せるウィリアムであったが、未だ微妙な重心の変化に慣れておらず。こうして以前の感覚を取り戻すべく稽古に勤しんでいた。

 以前のウィリアムであれば対手の油断を誘うべく、ことさら跛足を装っていただろう。だが、盲目の龍が見せたそれとは真逆であるのは、家族に余計な心配をかけさせまいとする虎の優しさか。

 あるいは、あの不退転戦鬼との旅が、虎に僅かな変化をもたらしていたのか。

 どちらにせよ、前世の虎からは考えられぬ変化ではある。

 

 北方大地に位置するシャリーアの春は遠い。雪深い朝の空気は、氷点下の厳寒に包まれている。

 だが、ウィリアムが身につけているのは薄手の汗衣に麻のズボンのみ。加えて素足である。ウィリアムは、熱く白い息を吐きながら木剣を振るっていた。

 面打ち、下段、袈裟、逆袈裟、車斬り、下段払い。それらの基礎的な型を半刻程。

 十分に身体が温まった後、虎眼流奥義に関わる秘太刀の型を振る。飛燕の如き疾さで繰り出されるその素振りは、ウィリアムが吐く白い息と合わさり宙空に一輪の白薔薇が咲いたように見えた。

 

 その後は汗衣を脱ぎ、庭に設けられている井戸を用い二十杯のみそぎ。

 桶に薄い氷が張り付く程の寒さの中、冷水を浴びるウィリアムの肉体からはもうもうと湯気が立ち上る。

 

「……」

 

 ほんのりと桜色を浮かべた濡れた肉体。水滴を拭う虎の心気は、精気が十分に漲っているように見えた。

 

「……ッ」

 

 再度汗衣を纏ったウィリアムは、再び木剣を正眼に構える。しかし先程の様に激しく木剣を振るわけでもなく、そのまま彫像の様に不動の姿勢を保っていた。

 みそいだ肉体からは汗が引いていたが、静止し続けるウィリアムの肉体からはじわりと熱気が噴き出しており、僅かに照らされた朝日に照らされゆらゆらと陽炎めいた空気の歪みが発生していた。

 まるで、この世界に溶け合うように、ウィリアムの肉体の境界は曖昧なものとなっていた。

 

 

「おはよう、ウィル」

 

 不動のまま小一時間経過した頃、ふいに声をかけられたウィリアムは、おもむろに声の元へと視線を向ける。

 

「……おはようございます、兄上」

 

 視線の先には、ウィリアムの実兄であるルーデウスの姿があった。愛妻シルフィエットのセレクトウェアであるラインの入ったトレーニングウェアに身を包んだルーデウスへ、行儀よく頭を下げるウィリアム。

 ルーデウスはひらひらと手をふりながら弟へ応えていた。

 

「お、おはようございます……ウィリアム兄さん……」

 

 ルーデウスの後ろには兄弟の実妹、ノルン・グレイラットの姿もあった。ルーデウスと同じく動きやすい長袖長ズボンの上下、ラノア魔法大学指定の体操着に身を包んだノルンは、朝の冷えた空気を受けその言葉尻を震わせながら次兄へ挨拶していた。

 普段はラノア大学の学生寮で生活するノルンであったが、週の何日かはこうしてルーデウス邸にて寝泊まりをしている。

 そして、とある理由にて、兄弟……いや、次兄であるウィリアムに、剣術を習っていたのだ。

 

「じゃあウィル。俺は走り込みに行ってくるから、ノルンをよろしくな」

「はい。兄上」

 

 やや怯えたように身を竦ませるノルンの頭を撫でながら、ルーデウスは自身の日課であるランニングへ向かうべく弟へ妹を託す。

 家族が再び揃った事で、ルーデウスは長兄としての自覚をより一層芽生えさせていた。

 

「……ほどほどにするんだぞ」

「はい。兄上」

 

 幼少期の苛烈な稽古ぶりを見ているからか、ルーデウスは毎日このような注意を弟へ言い含めていた。

 何回も繰り返されたであろうこのやり取りを、ウィリアムもまた生真面目に繰り返していた。

 

「いってらっしゃいませ、兄上」

「い、いってらっしゃい。ルーデウス兄さん」

「うん。いってきます」

 

 自宅の門をくぐり、白い息を吐きながら走り出すルーデウス。そのまま、街中へと走っていった。

 早朝のシャリーアの街並みは静かなものであるが、大きな商会や冒険者ギルドの前では眠たげに目をこすりながら活動を始めている人間がちらほらと見える。

 

(……大丈夫かなぁ、ウィルとノルン)

 

 そのような光景を見つつ、ルーデウスは浅い呼吸を繰り返しながら弟と妹を想う。

 

(あの時は、まあ俺のせいでもあるけど……)

 

 家族が再び揃った、一ヶ月前のあの日。

 それは、決して穏やかなものでは無く。

 

 ルーデウスは、やはり弟が転生者であった事を再確認し、そしてその苛烈な価値観を見せつけた日を思い出していた。

 

 

 

 

 


 

「ルディ、おかえりなさい」

 

 そう言って、シルフィはそっと俺の背中に手を回した。

 シルフィのか細く、温かい手。

 大きくなったお腹からも、優しい暖かみを感じる。

 

「……ただいま」

 

 息を切らせた俺を、優しく包むシルフィ。

 今はその優しさが、甘く、辛い。

 

 ヒトガミは旅に出る前、“後悔する”と言っていた。

 振り返ってみると、確かにゼニスは廃人になり、ロキシーと望まぬ関係を持ってしまった。

 あのままヒトガミの助言に従いシャリーアに残っていたら、ゼニスはともかく、ロキシーとは何事もなかったのではないか。

 あの山本勘助が憑依していたんだ。わざわざ俺が助けにいかなくても、あの時のロキシーは無事に生き延びる事が出来たんじゃないか。

 ウィル達がいたのなら、ロキシーは無事に自分を取り戻していたのでは。

 

 そう思いながら、シャリーアに着いた時。俺は急に悪寒を感じた。

 後悔とは、何も旅先で起こるわけではない。

 シャリーアに残るシルフィ達に、何か良くない事が起こったかもしれない。

 もしシルフィや、アイシャや、ノルン……皆に、何か良くない事が起こっていたら。

 

 そう思ったらいても立ってもいられず、俺は家へ……シルフィの元に駆け出していた。

 そして、アイシャとノルンが出迎えてくれて、その後シルフィが迎えてくれて。

 何事もなく、全員が無事だったのにホッとした。

 

 そう、全員が無事。

 パウロも、ゼニスも、リーリャも。そして、ウィルも。

 家族全員が、無事に揃ったんだ。

 

「おいルディ! 急に走りだして一体どうしたんだよ!」

 

 パウロが大声を上げながら追いかけてきた。見ると、その後ろにはギース、タルハンド、リーリャ、ヴェラ、シェラ、エリナリーゼ、ロキシー、ゼニス……そして、双子の兎と、ウィルがいた。

 

「お父さん、お母さん、ウィリアム兄さん!」

「お……おかえりなさいませ、旦那様、奥様……ウィリアム様」

 

 パウロの姿が見えると、ノルンが涙を浮かべながら駆け出す。アイシャも一緒に駆け出そうとするも、すぐにメイドの顔になり深々と頭を下げた。

 

「ノルン、アイシャ! ああ、久しぶりだなあ! 大きくなったなあ!」

「お父さん! お父さん!」

 

 パウロも大粒の涙を浮かべながらノルンを抱き上げる。

 ノルンはパウロに抱きつきながら、えぐえぐと涙を流していた。

 そんなパウロとノルンを、ゼニスは相変わらずぼんやりと見つめていた。

 

「……アイシャちゃん。遠慮しなくていいんだよ」

「で、でも……」

 

 その様子を羨ましそうに見ていたアイシャへ、シルフィが優しく声をかける。

 見ると、リーリャもまたアイシャの方を見て、優しげに微笑んでいた。

 

「アイシャ……立派に、グレイラット家のメイドとして働いているようですね」

「お母さん……」

 

 アイシャが不安気な表情で俺とパウロ、そしてリーリャを交互に見る。

 最後にウィルの方を向くと、何かを感じたのか、アイシャは見る見る目に涙を浮かべていった。

 

「アイシャ……」

 

 ウィルが、アイシャの名前を呼ぶ。それがきっかけになったのか、アイシャは先程のノルンと同じ様に、リーリャの元へ駆け出した。

 

「う、うえ゛ぇぇん!」

 

 大泣きしながらリーリャに抱きつくアイシャ。リーリャは、黙ってアイシャの頭を撫でていた。

 

「お゛があざん! おどうざん! ウィルに゛い! みんな、みんな無事でよがっだ! よがっだよぉ!」

 

 わんわん泣きながら、アイシャはぎゅっとリーリャに抱きついていた。

 そうか。そうだよな。アイシャも、家族だ。

 皆を心配する気持ちは、ノルンに負けていないんだよな。

 

「ウィルにいも、黙っていなくなって、しんじゃったらって! おかあさんも、おとうさんも、しんじゃったら、どうしようって!」

 

 わああああんと大きな声で泣くアイシャ。

 そんなアイシャを、ウィルは黙って見つめていた。

 何を考えているのかよくわからないけど、どこかその眼は優しげだ。

 

 ……そうだよな。

 誰がなんと言おうと、アイシャ・グレイラットは俺の、俺たちの、大事な妹だ。

 妾の子なんて、負い目を感じる必要はどこにもない。

 

「なんだか、俺らはいねえ方がいいかもな」

「そうですわねえ……わたくしも早くクリフの所に行きたいですし。もうだいぶ、かなり、ギリギリですし。あ、シルフィの事も大事に思っていますわよ」

「何にせよ家族水入らずの所に水を差すのも野暮じゃしな。儂らはさっさと退散しようかのう」

「それもそうですね」

「ま、また後できちんとご挨拶に伺うのがいいと思います……」

 

 ギース達もやれやれ、といった感じで俺たち家族の事を見ていた。

 本当に、彼らにはすごく助けられた。

 感謝してもしきれない。

 

「皆、改めて礼をする。本当にありがとう。後できちんと礼をしたいから、またウチに来てくれ。つっても、俺ん家じゃねえけど」

「水くせえ事言うなよパウロ。なげえ付き合いじゃねえか。ま、今は家族としっかり向き合ってやれや……先輩とロキシーのこともあるしな」

「ああ」

 

 ノルンを抱えたパウロがギース達へ頭を下げる。

 パウロも、本当はギース達と語らいたい事もあるのだろう。

 でも、今はその時じゃない。

 

「ナクル、ガド」

「はっ」

「はい」

 

 ウィルが双子達へ声をかける。

 双子はウィルの前に膝をつき、神妙な表情を浮かべながらウィルの言葉に兎耳を傾けていた。

 

「……ぐす」

 

 見ると、ノルンが目を赤く腫らしながら、双子を警戒するかのように睨んでいた。

 そういえばウィルから聞いたけど、この二人はラノア大学でウィルと派手にやり合ったんだっけ。

 一緒に旅をしている間は、とてもそんな風には見えなかったけどなぁ。

 

「ギース殿に万事差配を頼んである。しばらく旅の疲れを癒せ」

「はっ!」

「若先生も、どうぞごゆるりと……」

 

 短い言葉を交わすウィル達師弟。

 なんだか、ちょっとかっこいいな。まさに剣豪って感じで。

 

「そういうわけだ。じゃ、またな。パウロ、先輩、ゼニス、リーリャ、それと、若センセ」

「皆さん。長いこと僕たちを手伝ってくれて、ありがとうございました」

「親子揃って水くせえなぁ。それに、冬が明けるまではここらにいるからよ、またゆっくり話そうぜ。先輩」

「新入り……」

「そうそう。そうやって、俺のことは新入りって呼び捨てればいいんだよ。ジンクスだからな……若センセは、まあ今のままでいいけどよ」

 

 そう言ったギースは、にやりと笑っていた。

 ウィルは、ただ黙ってギースに頭を下げていた。

 そうして、皆それぞれ、俺の家を後にしていった。

 ただ一人を除いて。

 

「ルディ……」

 

 ロキシーが、俺のことを不安げに見つめていた。

 俺は、そんなロキシーに黙って頷く。

 シルフィもまた俺とロキシーを見て、やや不安げな表情を浮かべていた。

 

「とにかく、中に入りましょう。いつまでも玄関先にいるわけにもいかないですし」

 

 そう言って、俺たち家族は家の中に入る。

 今回の旅の事も、詳しく話さないといけない。

 ゼニスのことも、詳しく話さないといけない。

 

 そして何より、ロキシーと、俺のこと。

 

 これから始まる、大切な話し合いを。

 

 

 

 家族会議が、始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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