甲龍歴414年
アスラ王国フィットア領ブエナ村
パウロ・グレイラット邸
「あーうー」
「うー……」
「はいふたりとも、こっちこっち」
よちよち、てちてちと二人の赤ちゃんが、一生懸命ハイハイをして私を目指している。
朱髪の赤ちゃん……アイシャ、そして金髪の赤ちゃん、ノルンの二人は、競うようにしてその小さな手足を動かしていた。
「ふたりともとーってもハイハイが上手ねー。ここまでこられるかなー?」
「あうー!」
「うー……」
「はい、ついたー。アイシャはすごいわね!」
「あうー!」
アイシャがノルンより先に、私の膝にその小さな手をかける。
抱き上げると、アイシャはうれしそうに「きゃあきゃあ」と声を上げていた。
「う……ふぇぇ……」
見ると、置いてきぼりにされたノルンがくしゃりと顔をゆがめた。
「ノ、ノルンお嬢様──」
「ああ、いいわリーリャ。私にまかせて」
泣き叫びそうなノルンを見て、思わず腰を浮かす我が家のメイド、リーリャ。
それを止め、私はアイシャを抱きつつノルンへ向け手を広げた。
「さあノルン。お母さんは待っているわ。こちらへいらっしゃい」
ノルンは私を見て涙をこらえつつ一生懸命私の元へ向かうノルン。
この様子だと、負けず嫌いな娘に育つのだろうか。アイシャと姉妹仲良くしてほしいのだけれど。
「はいついたー」
「う~……」
ぐずぐずと涙ぐみながら、私の胸元へ顔を埋めるノルンを抱いていると、不思議と愛しさがこみ上げてくる。
腕に感じる子どもたちの存在は、日に日に重くなっていた。
私はゼニス・グレイラット。
この子達
「こらアイシャ! ノルンお嬢様の先を越すとは何事です! 分をわきまえなさい!」
「あうー?」
「そしてハイハイはもっとスマートに! 美しく! 瀟洒に這いつくばりなさい!」
「そ、それはちょっとまだ無理じゃないかしらリーリャ……ていうか這いつくばるて……」
アイシャを抱き上げながら厳しい言葉をかけるリーリャ。アイシャは、きょとんとした表情で自身の母を見つめていた。
紅髪のアイシャはリーリャの子で、金髪のノルンは私の子。アイシャとは異母姉妹ということになる。
「うー……」
「あら、ノルンはおねむかしら?」
うとうとと目をしょぼつかせるノルン。
もう、そろそろ眠る時間かしら。
「じゃあ、私たちは
「はい。お休みなさいませ奥様」
「あうー!」
リーリャが抱えるアイシャにキスをし、私とノルンは寝室へ向かう。
すると、リビングの片隅から
「あー母さん、そろそろ俺も一緒に……」
「そうですかそうですか。自分がやった事忘れて一緒のベッドに入ろうとしちゃいますか」
「か、母さ~ん……」
この男の名前はパウロ。別名、性欲のパウロ。
私が妊娠中にリーリャに手を出した最っ低な男!
情けない声を上げる性欲の権化を俄然無視し、私とノルンは寝室へ向かう。
一応私の夫ではあるが、現在家庭内別居中です!
「あら、ウィル」
「……」
ノルンを抱えて寝室へ入る。すると、ちょうど私達の寝室に、次男ウィリアム……ウィルが木剣を手に座っていた。
ウィルはいつも夕飯を食べた後、家の中で一番過ごしやすい場所を選んで黙想をしている。今日は私達の寝室がお気に入りだったようだ。
別に、ウィルとの家族仲が悪いわけじゃない。ウィルは、なんだか猫のようなきまぐれな気質を持っているだけだ。
ルディとはまた違った意味で変わった子……でも、愛すべき、我が子。
「ウィル……?」
じっと木剣を見て、彫像のように動かないウィル。
まるで、熟練の鍛冶師が剣の出来栄えを確かめるかのように。
「……ッ!?」
ふと、一瞬、ほんの一瞬だけ、ウィルの姿が
「え……?」
「……お母上」
私に気付いたウィルがぺこりと頭を下げる。
驚く私に構わず、ウィルは悠然と木剣を床に置いていた。
「あーうー」
「ノルン?」
すると、さっきまで眠そうにしていたノルンが、急に身を乗り出してウィルに手を振る。
「お兄ちゃんのところに行きたいの?」
「あうー!」
もぞもぞと腕の中で身を捩らすノルンに導かれるように、私はウィルの前へ座る。
「ウィル、ノルンが抱っこしてほしいって」
「かしこまりました」
ウィルは表情を変えずにノルンを受け取る。
ルディと違ってあまり妹たちに興味がなさそうにしているウィルだけど、ほんの僅かにウィルの口元が緩んでいるのを見て、私も自然と笑みが零れた。
「
「きゃうー!」
なんだかんだで、ウィルは面倒見の良いお兄ちゃんをしている。
ボアレスの家で家庭教師をしているルディが、ちょっとかわいそうなくらい。
ウィルや、妹たちの成長を見れないなんて……。
しばらくウィルとノルンが戯れる様子を眺めていたけど、ふと先程のウィルの姿が気になり、なんとなしに声をかけた。
「ねえ、ウィル。さっき、ウィルが一瞬消えたように見えたんだけど、あれは──」
「お母上」
私の声を遮るように、ウィルの研ぎたての剣のような鋭い声が上がる。
ピシャリと遮るように投げかけられた言葉に、思わず肩を竦めた。
「そろそろ、お父上をお許しになってください」
でも、次にかけられた言葉は、穏やかで、暖かな口調だった。
「それは……」
私は敬虔なミリス教徒。
ミリスの教えでは、結婚した男女は生涯一人の伴侶を愛すべしとある。
だから、私は私を裏切ったパウロが許せなかった。
いや、パウロだけじゃない。パウロと不義を交わした、リーリャも。
二人はミリス教徒ではない。だから、子供ができてしまったのは仕方ないのかもしれない。
でも、なぜよりによってパウロとリーリャが?
信じていたのに、ずっと二人で騙していたの?
ひどい、よくも、裏切り者。
許せない。
許せない。
許せない……!
「お父上が我慢できなかったのは、お父上の責任です。リーリャも我慢できなかったのは、リーリャの責任です」
ウィルは、あくまで穏やかに言葉を続ける。
まるで、癇癪を起こした私を宥めるかのように。
「でも、お父上とリーリャは、お母上を愛しています」
「……」
愛している。
パウロと、リーリャが、私のことを。
理解っている、それは。
でも──
「それに、兄上のお気持ちも」
「ルディの、気持ち……」
私の長男、ルーデウス。
あの時、リーリャの妊娠が発覚した時。
賢くて聡明なルディは、子供らしい“演技”をしてまで私達の間を取り持っていた。
理由は簡単だ。
『僕にとっては、両方とも家族で兄弟です!』
恐れていたのだ、ルディは。
家族が離れ離れになる事を。
だから、必死になってその場を収めようとした。
私はルディに免じてリーリャを許した。
でも、パウロのことは、まだ……
「お母上は、リーリャがお嫌いですか?」
「そんなことないわ!」
「お父上は?」
「……そんなこと、ないわ」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
パウロのことを大嫌いになったわけではない。でも、不倫は許せない。
ウィルは、ただ真っ直ぐに私の眼を見ていた。
「お母上だけが我慢することになるのは、不憫だと思います」
「……子供のあなたが気にすることじゃないわ」
「はい。ですが……」
ウィルは、そう言うと少しだけ俯いた。
「ウィリアムは……」
そのまま、細い声で言葉を紡ぐ。
「お母上を、守ります。いかなる嵐にも屈しませぬ」
ウィルの、真っ直ぐな気持ち。
神聖で、尊いその約束は、私の心に染み込む。
ああ、本当に、成長したんだ……
ルディとは、また違った形で。
「……ありがとう、ウィル」
そういうと、ウィルは少しだけ照れたように俯く。
少しだけ、耳が赤くなっていた。
「……寝たようです」
ウィルの腕の中で、ノルンがスヤスヤと寝息を立てている。
起こさないよう、ウィルはゆっくりとノルンをベッドに移した。
「ウィル、こっちへいらっしゃい」
膝をぽんぽん、と叩きながら、ウィルを手招きする。
思えば、ノルン達が生まれてからウィルと二人だけの時間を過ごすことは無くなっていた。だいたいパウロと稽古しているか、それ以外は一人で過ごしている。
今日くらい、私が独り占めしてもバチは当たらない。
少しだけ戸惑っていたウィルだけど、やがておずおずと私の膝の上に腰を下ろした。
「ふふ、重くなったわ」
「……」
癖の無いさらさらな髪を撫でる。
膝に感じる我が子の重み。それが、たまらなく愛おしい。
あと何回、こうしてウィルを膝の上に乗せることが出来るのだろうか。
ウィルの顔はここからじゃ見えない。だけど、耳元まで赤く染まっているのを見て、思わず抱きしめる力を強めた。
「……重いです、お母上」
「あ、あら。ごめんなさい」
私の胸に埋まるウィルの苦しげな声を聞いて、つい力を緩める。
見ると、耳元どころか首筋まで真っ赤に染まっていた。
……胸が大きいのも考えものね。喜ぶのはパウロとルディくらいだし。
「ウィルはおっぱいが大きい娘が好き?」
「は?」
なんとなくそう呟いたら、ウィルが驚いた表情で振り向く。いたずらが成功したような笑顔を浮かべると、ウィルはむすっとした表情で前を向いた。
ふふ、これは“一本”取ったってところかしら。
ウィルは、ただ黙って私に体重を預けていた。
「……」
「……ウィル?」
ふいに、ウィルがドアの方を向く。そのまま、するりと私の腕から離れた。
「ウィル?」
ドアの前にそそくさと向かうウィル。さすがに恥ずかしくなったのかしら、と思っていたら、ウィルがドアノブに手をかけた。
「あー……邪魔するつもりはなかったんだけど……」
「……」
ドアが開くと、ばつが悪そうに佇むパウロの姿。
……聞き耳立てていたなんて、いい趣味しているわ。
さっきまでのウィルみたいに頬を膨らませ、パウロを無視するように顔を背ける。
「……」
「あ、おい、ウィル」
すると、ウィルがパウロの手を引いて寝室に入ってきた。
「あ、おい」
「あっ」
そのままパウロを立たせると、今度は私の手を引く。幼い子どもとは思えないほどの力で引っ張られ、私の身体はパウロの胸の中に押し付けられた。
「ウィ、ウィル?」
戸惑うパウロと私。ウィルは、いつもの澄ました表情を浮かべていた。
「仲良く。万事仲良く」
そう言い残すと、ウィルは静かに寝室から出ていった。
「あー……母さん。ウィルもああ言ってたことだし、そのー……」
「……私達ってずるいわね。何でも子供を言い訳にして」
「母さん……ゼニス……」
パウロの腕の中で、私はそうつぶやく。
子供たちに変に気を使わせるなんて、親としてどうなのだろうか。
「ゼニス。俺はもうお前を裏切らない。これだけは信じてくれ」
「嘘ばっかり」
「本当さ。今度は絶対に裏切らない」
「……」
お互いの眼を見つめる。
しばらく黙って見つめ合っていると、やがてどちらともなく唇が触れ──
「ふ……ふぇぇぇぇぇ」
「あらやだ! どうしたのノルン!?」
「ぐえッ!?」
全力でパウロを突き飛ばし、ノルンの元へ向かう。見ると、おしめが濡れていた。
「あらあら大変」
替えのおしめを取り出しつつ、私はお腹をさすっている
「何突っ立ってるのよ。“お父さん”なんだから手伝って」
「か、母さん……!」
パッと顔を輝かせるパウロ。
その笑顔を見て、私は少しだけパウロを許す気持ちになれた。
これ以上、ルディや、ウィルに心配かけたくなかったから。
私は、ゼニス・グレイラット
家族との、この幸せなひとときが、ずっと続くと
そう、思っていた
甲龍歴423年
ベガリット大陸迷宮都市ラパン
ベッドに腰をかける一人の女性、そして横たえる一人の若者。
美しい金髪を備えた妙齢の女性は、張りのある肌を僅かに湿らせており、無表情に傍らにいる男へと視線を向けている。だが、その焦点は合っているようには見えず、ぼうと虚空を見つめているかのようであった。
もう一人。ベッドに横たわる若者は、全身に刻まれた痛々しい疵痕を隆起させ、緩めではあるが熱い呼吸を繰り返す、白髪の若武者。
うっすらと汗を滲ませるその身体は、ぐつぐつと煮えたぎる溶岩の如き熱を放っていた。
「旦那様……いい加減おやすみになっては……」
「リーリャ。おれは、ウィルに謝らなきゃならねえんだ」
「でも……」
「謝って許されるとは思ってねえ。でも、ウィルが目覚めたら、直ぐに謝らなきゃならねえんだ」
若者の寝姿を憔悴した表情で見つめる一人の男。男は傍らの女性の傍らに腰をかけ、その手をしっかりと握っていた。だが、それでも女性は男に対し何も反応を示していなかった。
女性……ゼニス・グレイラットの夫であり、若武者、ウィリアム・アダムスの父であるパウロ・グレイラットは、己の仕出かした罪に苛まれながらも、その贖罪をするべく若武者の覚醒を待ち続けていた。
その姿を、パウロの第二夫人でありグレイラットのメイドであるリーリャは、切なそうな表情を浮かべて見守るしかなかった。
ラパンの転移迷宮での一戦。
マナタイトヒュドラ、そして現出した超鋼“不動”を討ち倒した一行。
誰一人、命を落とすこと無く成し遂げられたゼニス救出。だが、代償としてウィリアムが深手を負った。
生命に関わるほどの重傷を負ったウィリアムであったが、同道せし志摩の現人鬼、波裸羅が注ぎし怨血によってその生は繋ぎ止められる。
しかし、かの死神戦と同じように、虎は昏々と眠り続けるのみ。
一行がラパンへ帰還してから、既に三日が過ぎようとしていた。
「なんじゃ、まだウィリアムは目覚めておらぬのか。ていうかお主もいい加減休め」
「謝る前に貴方が倒れたらそれこそ本末転倒ですわ」
「お前ら……」
懊悩するパウロの前に、元“黒狼の牙”のメンバーで、共にゼニス救出に尽力した厳しき大峰のタルハンド、エリナリーゼ・ドラゴンロードが軽食を片手にずかずかと入室する。
応接しようとするリーリャへ手を振りつつ、二人は部屋に備え付けられている椅子へどっかりと腰を下ろした。
「まあ何にせよ飯でも食え。ラパンへ戻ってからロクに飯を食っておらんと聞いたぞ」
「……すまねえ」
タルハンドが差し出すパンを力なく頬張るパウロ。今は、仲間の気遣いがただありがたかった。
「……ギースは、何してんだ?」
ゼニスの手を握りながら、パウロは黒狼の牙結成前からの相棒の姿が見えないのに気づく。
憔悴したパウロは、ミリスにおけるルーデウスとの一件のように、何事も卒なく助言を与えてくれる猿顔の相棒の姿を無意識に求めていた。
「あやつは迷宮の戦利品を売り捌いておるよ」
「貴方がゼニス達につきっきりの間に迷宮へ戻っていきましたわ。ラパンから持ち帰れない分だけを売りに行ったようですけれど、それでも相当の額になりそうですわねえ」
「そうか……そりゃすげえな……」
タルハンド達の説明を聞くパウロ。迷宮の戦利品の売値にも興味が湧いていたが、話を聞く内に、パウロの脳裏にあの者共の姿が想起された。
「で、あの……あいつらは、どうしているんだ?」
パウロの脳裏に浮かぶ双子のミルデッド族の若者、そして奇々怪々な半陰陽者の姿。
迷宮から出た途端、挨拶もそこそこに双子の襟首を掴みいずこかへ消え去った男女を超越せし超人。
志摩の現人鬼波裸羅と、双剣ナックルガードは、明確な目的を持ってパウロ達の前から姿を消していたのだ。
「知らん。ラパンにはいるようじゃが……」
「リーリャから少し聞いたのですけれど、あの双子はウィリアムの弟子らしいですわね。瀕死の師匠の側にいるよりも優先することがあるとは思えませんけど」
「そうか……ウィルに弟子が……とりあえず、ちゃんとお礼言いたかったんだけどな……」
自身が知らぬ内に弟子まで取るほどの成長を見せたウィリアムに、パウロはふっと笑みを零す。と同時に、瀕死の愛息子を救いし現人鬼へ対し礼を欠いていた事を今更ながら恥じていた。
「まあいずれ戻ってくるじゃろ。ゼニスを救うという目的は一緒じゃったとはいえ、一時的に敵対しておったしな。ワシらもきちんと話をしたい。特にあの波裸羅という男には色々と聞きたいことが……いや女……男……? なんじゃあれ、あれどっちなんじゃ?」
「多分男ですわよ。多分。恐らく。きっと。……リーリャ、貴方は一度彼らに会っているんでしょう? 何か聞いてませんこと?」
「いえ、私も詳しくは……」
持参した軽食をつまみながら、一行は奇々怪々な存在である現人鬼へと思いを馳せる。正直、あのような出鱈目な存在とは出会った事は無く。
長い年月を生き、世界中で放蕩の限りを尽くし、あらゆる人間を眼にしていたエリナリーゼですら、現人鬼の存在は異常の一言に尽きていた。もっとも、エリナリーゼが覚えているのは現人鬼の股間に屹立する凶剣の凶悪さぐらいであったが。
「ロキシーに憑いた悪霊の正体、それにあの鎧についても何か知っておるようだしのう。ほんと、ようあんなよく分からん奴を仲間にしておったのうウィリアムは」
「双子の方はともかく、わたくしもあの御方はちょっと……流石にアレは無いですわ。致している最中に大怪我しそうですし」
「まあ、それは分かるけどよ……」
あまり悪く言うもんじゃない、と諌めようとしたパウロであったが、冷静に思い返してみれば波裸羅の存在はパウロにとっても異常すぎた。
苛烈にして意味不明な言動、迷宮にて演じた超鋼との異質な一戦。そして一行を恐慌せしめた怨念の塊ともいえる異形の姿。
何もかもがまともではない波裸羅は、経験豊富なパウロ達ですら当惑せし存在であった。
しばらく波裸羅の正体に思いを馳せる一同であったが、ふと寝室の扉をコンコン、と控えめにノックする音が響いた。
「父さん、ルーデウスです」
「ルディ!? もう身体は大丈夫なのか!?」
「はい。おかげさまで」
見ると、やや疲れた顔をしたルーデウス・グレイラット、そしてその隣に寄り添うようにして佇むロキシー・ミグルディアの姿があった。
「ロキシーも、もう大丈夫なのか?」
「は、はい。えっと、もう私の中にいた悪霊はいません……」
いつもの魔術師のローブを身に着け、トレードマークである三角帽子を摩りながら応えるロキシー。
傍目ではいつものロキシーであるが、少しばかり頬を赤く染めており、やや挙動が不審だ。そんなロキシーを胡乱げに見つめるエリナリーゼ。どうみても、ロキシーはルーデウスを過剰に意識している素振りが見て取れた。
「ふむ。ロキシーは、あの悪霊が憑依していた事を自覚しておるのか?」
「はい。ほとんど記憶は、ありませんけど……」
タルハンドが何気ない問いかけに言葉を返しつつ、更に顔を赤らめたロキシーはルーデウスの顔をちらりと覗く。
あの悪霊、山本勘助に意識を乗っ取られていた時も、ロキシーの意識は薄っすらとではあるが覚めていた。
まるで、微睡みの中で見る夢のような、嫋やかな意識の中。それが、徐々にはっきりとしていき、完全に覚醒した時──ロキシーは、全裸でルーデウスの上に跨っていた。
驚愕と混乱、そして張り裂けんばかりの愛情が一気に湧き上がり、ロキシーはそのままルーデウスとの行為を継続した。行為中のルーデウスの上気した表情がたまらなく愛おしく、行為を止めることが出来なかった。
そして全てが終わり、ベッドの上でお互い気まずそうになりながらも、これからの事を話し合った。ルーデウスが既に妻帯している事を知ったのもこの時だ。
最初は全て無かった事にしようとしたロキシー。だが、深く懊悩したルーデウスはやがて何かを決心したようにロキシーの手を取り、こうしてパウロ達の前にやってきた。
「父さん。あの、大事な話があるんです」
「ルディ。何を言うつもりなのかわかんねえけど、先に母さんに挨拶しろよ」
「あ、はい。母さん──」
そこまで言ったルーデウスは、ベッドに腰をかけるゼニスを見つめる。母ゼニスは相変わらずぼうとした表情を浮かべており、その視線は定かではなかった。パウロの様子に少々の不審を覚えたルーデウスであったが、再会した喜びがじんわりと湧き上がり、その側へと向かう。
「母さん、ルーデウスです……母さん?」
ゼニスの前に座り、声をかけるルーデウス。だが、ゼニスは息子の声にすら何も反応を示さず、ぼんやりとルーデウスへと視線を向けるのみ。パウロは、その様子を見て泣きそうな表情を浮かべ唇を噛み締めていた。
「ルーデウス様。奥様は──」
ためらいがちにリーリャがルーデウスへと声をかける。パウロを始め、タルハンドもエリナリーゼもその表情は暗い。その様子を見て何かを察したロキシーは、同じように表情を暗くし俯いていた。
「そんな……」
リーリャの口から語られしゼニスの現状。それを聞いたルーデウスは絶句する。
ゼニスは、感情の一切が死滅していた。
声をかけても「あー」「うー」と、赤子のような反応しか示さず。
リーリャの献身的な介護により食事や用を足すのは一人で出来るようになったものの、夫の声掛けにはろくな反応は示さず、ただぼんやりと視線を虚空に彷徨わせるのみであった。
「……クソッ」
短く悪態をつくパウロ。ぎゅっと手を握る力が強まり、ゼニスはちらりと伴侶の顔に視線を向けるも、やがて虚空を無感情に見つめるだけであった。
「……とにかく、無事を喜びましょう。探せば治す方法もあるかもしれません」
「そうだといいがな……」
疲れた表情のパウロはそれっきりただ黙ってゼニスの手を握り、眠るウィリアムを見つめていた。
「ウィルは、大丈夫なんですか?」
「ウィリアム様は深手を負っていますが、シェラ様が治癒魔術を使ってくれました。もう傷は完全に塞がってはいるのですが……」
パウロと同じくウィリアムへ視線を向けるルーデウス。リーリャ曰く、ウィリアムの傷は迷宮でパウロに負わされた刀傷以外にも、肋骨がひしゃげており、その一部は肺に突き刺さっていた。それも迷宮に至る前に負ったものであり、重傷を負いながらも母ゼニスの救出にかけつけていたウィリアムの姿に、リーリャは説明しながら目尻に涙を溜めていた。
「そんな状態で……」
ルーデウスは弟の寝姿をじっと見つめる。得体の知れないところがある弟であったが、家族を想うその心根、そして覚悟を見せつけられ、兄として複雑な想いを抱く。と同時に、弟と無事に再会出来た喜びもまたルーデウスの心に湧き上がっていた。
「ひとまず無事で良かったということですわ。これからのことはこれから考えるとしましょう」
「そうじゃな。とりあえずロキシーに憑いた悪霊やあの鎧の正体も気になるが、それはおいおいとして」
それまで黙っていたエリナリーゼ、タルハンドが努めて穏やかな声を上げる。ゼニスが自失している状況は無残ではあったものの、その生命は失われていない。
誰一人、失う事無く旅の目的は達せられたのだ。
ルーデウスはエリナリーゼ達の言葉を聞き、ようやく心に活力を取り戻していた。
「さて、ルーデウスの話を聞く前に……パウロ」
「ああ、何だよ」
ふと何かを思いついたようにタルハンドがパウロへと声をかける。
じっとウィリアムを見つめながら、パウロはぶっきらぼうに言葉を返した。
「いやな、そこにあるウィリアムの剣を少し見せてほしいのじゃが……」
「ウィルの、剣を?」
パウロのみならず部屋にいる全員がウィリアムが眠るベッドの側に立てかけられた刀剣を見やる。独特の拵えを備えたその剣、いや刀。ルーデウスはその形状を見て、はっとした表情を浮かべており、ロキシーもまた眼を見開いてウィリアムの刀を見つめていた。
「持ち主の許可を得ずに勝手に触るのはどうかと思うが……その剣、ちとヒルト*1が傷んでおる。そのままじゃ握りが甘くなりそうでな」
タルハンドは刀を見つめながらやや興奮を隠せないかのように言葉を紡ぐ。見ると確かに刀の柄巻は傷んでいた。だが、タルハンドの内心は鉄細工や鍛冶が得意な炭鉱族の血が騒ぐのか、見知らぬ剣に対する興味が渦を巻いていた。
「……壊すなよ」
「アホウ、今までお主の装備を修繕して来たのは誰だと思っておるんじゃ」
仕方なしに刀……七丁念仏を手に取り、タルハンドに差し出すパウロ。丁寧な手付きでそれを受け取ったタルハンドは、おもむろに七丁念仏を鞘から引き抜いた。
「ほぉぉ……間近で見ると一層……これは……」
「吸い込まれそうですわねぇ……」
「なんだか不思議な感じがします……」
タルハンドはもとよりエリナリーゼ、リーリャも感嘆の声を漏らす。七丁念仏の刀身は怪しい輝きを放っており、見るもの全てを惑わす妖力が発せられていた。
「よし、ではヒルトを外してみるかの」
いつの間にか取り出したのか、刀剣の手入れ道具を片手に七丁念仏の柄を握るタルハンド。おおよその形状をひと目で理解したタルハンドは、目釘が打たれている箇所にポンチを当て丁寧にハンマーで叩く。
コン、コンと叩くと、目釘が外れ七丁念仏の
「ふむ。ヒルトは新しく繕うとして……なにやら妙な文様が描かれておるのう。これは文字か?」
「なんて書いてあるのかしら。これ、人間語でも魔神語でも無いですわ」
茎に書かれた異質な文様。それを見て不可解な表情を浮かべるタルハンドとエリナリーゼ。それは、決してこの世界のどの種族でも読めない、異界の言霊が刻まれていた。
「ロキシー、貴方なら何か分かりまして?」
「いえ、私にも……ルディはどうですか?」
ルーデウスはロキシーを見た後、茎に刻まれた文字を見る。旧字で書かれたその文字は、かつて己が生きていた前世世界……日本語で書かれていた。
「えっと……」
しかし、ルーデウスはその文字についてどう説明すればいいか言葉に窮した。以前から疑念を抱いていた弟ウィリアムの正体。そして、先の迷宮にて出会った日ノ本の異形、ロキシーに憑いていた甲斐の鬼軍師。
何か得体の知れない大きな存在を再び感じ取ったルーデウスは、この文字について説明することが出来なかった。
(つーか旧字体過ぎて読めないし……)
もっとも、前世でロクに勉学に励まなかったルーデウスの知識では、そもそもその文字を読むことは不可能であったのだが。
「
突如、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な声が響く。
ルーデウス達が視線を向けると、扉を開け蠱惑的な表情を浮かべる一人の偉丈婦、いや偉丈夫の姿。
傍らにさも仏頂面を浮かべる双子の兎を引き連れ、ルーデウス達にその美姿を見せる。
「堅物被せの試しとは、中々の
「あ、あんたは……」
現人鬼波裸羅。
困惑する泥沼一行の前に現出し、簡素な冒険者装束を纏いながら荘厳な鬼風を漂わせていた。
「あの、貴方はあれが読めるのですか?」
「あん?」
呆気にとられる一同の中で、ロキシーだけが即座に反応する。
波裸羅はロキシーの姿を訝しげに見つめるも、直ぐに蒼髪の少女へ不敵な嗤いを浮かべた。
「ふふふ。憑き物は落ちたようじゃ喃、微乳
「び、微乳!?」
直後、あんまりな波裸羅の言い草に、蒼穹の魔法少女はその可憐な頬を膨らまし猛抗議を上げる。
「な、何なんですかいきなり! 失礼すぎますよ!」
「ふん、ちんちくりんな姿でイキっても滑稽なだけぞ前略以下娘」
「誰がイカ娘ですか!? ていうか略す程の胸だって言いたいんですか!?」
尚も憤るロキシーを無視し、波裸羅はずんずんと部屋に押し入る。
「イキるならせめて──」
そして、椅子に座るエリナリーゼの前に立ち──
「これくらいの美乳を目指さんかいッ!」
「んんんんぅぅぅーッ!?」
そのまま、長耳淑女の美しく整った乳房をむんずと掴んだ。
いきなりすぎるこの惨状に、ルーデウス達は凍りついたようにその身を固まらせる。
「やめろッ! こんなことーッ!」
「信じられないことをするなッ!」
だが、波裸羅の傍らに控えていた双子の兎、ナクルとガドが即座にその暴虐を止めるべく行動を開始する。
渾身の力を込めてエリナリーゼから波裸羅を剥がそうとするも、現人鬼の剛体は双子の力ではびくともしなかった。
「だからやめろって! このスカタン野郎がァーッ!」
「んんぅぅぅぅぅー! わ、わたくしにはー! わたくしにはクリフという愛しの伴侶がぁ~ッ!」
「!? いや大丈夫そうだよ兄ちゃん! この女もなんか変だ!」
よくわからない悶え方をするエリナリーゼを見て、ナクルは「お、そうだな」と即座に思い直した。
「スカタンと申したかこのすくたれ者共。半蔵率いる伊賀忍者共と同じようにど頭カチ割ったろか」
「あい゛だだだだだだだ!!」
「ヤメロー! ヤメロー!!」
その直後、エリナリーゼから手を放した波裸羅のアイアンクローが双子を襲う。
突如現出したこの乱痴気騒ぎに、ルーデウス達はただ呆然と見ていることしか出来なかった。
「……」
故に、ゼニスの目元が僅かではあるが優しげに細まるのを、ルーデウス達は気づくことは無かった。
騒ぎの中、虎は未だに覚醒せず。
ただ安らかに、その熱い呼吸を繰り返していた。