虎眼転生-異世界行っても無双する-   作:バーニング体位

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双兎篇
第十四景『仰天愚息泥沼湯殿(ぎょうてんぐそくどろぬまのゆどの)


 虎と死神の死闘から一週間が経った。

 深手を負ったウィリアムは一度は覚醒するも、その後は野生動物が傷を癒やすかの如く昏々と眠り続けていた。

 

 中々目を覚まさない若虎に、グレイラットの家族はどうしようもなく不安な日々を過ごす事となる。

 特にアイシャは毎日つきっきりで昏睡状態のウィリアムの世話をしていた為、シルフィエットやノルンが逆にアイシャの心配をするほど心身共に擦り減っていた。

 だが、数年ぶりに安らぎを得た虎の寝顔は穏やかな物であり、北神流の秘薬の効果もあってその肉体は徐々に瑞々しい生命力を取り戻しつつあった。

 

 

「ウィル兄ぃ、おはよう」

 

 朝。水を張った桶と手拭を手にしたアイシャが、ウィリアムが眠る部屋へと入る。

 リーリャから仕込まれたアイシャのメイドとしての佇まいは、10歳の少女とは思えないほど落ち着いた物であり、その姿は瀟洒なメイドのそれであった。

 静かな足取りでウィリアムが眠るベッドへと向かう。巣で眠る虎はアイシャが近づいても規則正しい寝息を立て続けていた。

 

「ウィル兄ぃ、ちょっとごめんね」

 

 アイシャはウィリアムにかけられた毛布をそっとめくった。包帯が巻かれた上半身と共に無数の疵痕が露わになる。死神に深々と抉られた箇所以外にも残る疵に、虎の歴戦の痕が見て取れた。

 縱橫に走る疵痕を、アイシャはそのか細い指でそっと撫でる。

 

「何度みても、凄い傷だね……」

 

 湿った手拭でウィリアムの体を丁寧な手つきで拭いながら、アイシャは切なげな表情を浮かべた。

 転移してからの虎の壮絶な生き様を匂わせるその痕と、記憶とは違う抜け殻のような白髪を見て、アイシャの胸に様々な感情が湧き上がる。

 

 どうして、ウィル兄ぃだけこんな酷い目に会うの

 どうして、ウィル兄ぃだけひとりぼっちだったの

 どうして、ウィル兄ぃだけこんなにも変わってしまったの

 

 どうして、ウィル兄ぃは、あの時あたしに──

 

 胸を締め付けるような悲しみが、アイシャの胸に湧き上がる。

 ウィリアムに七丁念仏を突きつけられた際に感じた辛さ、悲しさ、怖さを思い出したアイシャは、ウィリアムの体を拭う手を止めてその可憐な唇をきゅっと結んだ。

 

 目の前に横たわるウィリアムを見つめる。

 その寝顔はもうひとりの兄、ルーデウスより父パウロによく似ていた。だが、ルーデウスやパウロが見せる陽気さは一切感じられない。

 穏やかな顔つきで眠る虎であったが、纏う空気は刀剣を思わせる怜悧さを放っており、獰猛な肉食獣のような近づき難い雰囲気を漂わせていた。

 

(でも──)

 

 アイシャは思い起こす。

 

 アイシャ、と名前を呼んでくれた。

 美しくなったな、と慈しんでくれた。

 泣き喚く自分の頭を、小さかったあの頃のように優しく撫でてくれた。

 

「もう、あんなひどい事しちゃ嫌だよ……」

 

 責めるように、少しばかり力を込めて虎の肉体を磨くアイシャ。

 

 自分に剣を突きつけ、死神と血みどろの死闘を演じたウィリアム。

 自分とノルンを、優しく包んでくれたウィリアム。

 

 どちらが本当の兄の姿なのだろうか。

 いくら考えても、アイシャにその答えを見つける事はできなかった。

 

 

「……よし! 今日も綺麗になったよ!」

 

 やがて虎の肉体を磨き終えたアイシャは、毛布を掛け直しつつそれまでの沈んだ空気を吹き飛ばすような快活さでウィリアムに語りかける。

 アイシャの活気を受けても尚、虎は眠り続けていた。

 

「もう。いい加減起きなきゃダメだよ、ウィル兄ぃ」

 

 朝寝坊する兄を起こすかのように優しく声をかけるアイシャ。

 虎の返事は無い。しかし、アイシャは目を覚まさなくても大好きな兄がそこにいるだけで、どこか満たされるような気持ちになった。

 

 虎の眠るベッドに腰掛け、まじまじとその寝顔を見つめる。

 傷を癒やす虎は少女がいくら見つめてもまったく起きる気配を見せなかった。

 

「……ちょっとだけ」

 

 アイシャはウィリアムに掛けられた毛布の中におずおずと潜り込む。

 親猫の元で子猫が丸まるように、ウィリアムの腕枕に収まった。

 

「えへへ」

 

 アイシャはウィリアムが発するあたたかい匂いを胸いっぱい吸い込む。

 安心感と、多幸感に包まれたアイシャはそのまま目を瞑り、ウィリアムの体温を感じ続けてた。

 

(ウィル兄ぃの匂い、昔と変わらないな……)

 

 傍で眠るウィリアムの横顔を見つめながら、アイシャは物心がついたばかりの幼い頃を思い出す。

 こうしてウィリアムにじゃれつき、腕の中に収まっていた時はそのまま眠ってしまう事が多々あった。

 悪戯がバレた時や、ノルンと喧嘩して母リーリャに叱られた時も、こうしてウィリアムに包まれ、慰められていた。

 穏やかな笑みを浮かべ、ただ黙って自分の頭を撫でてくれるウィリアムに目一杯甘えていた。

 

 優しくて、幸せな時間──

 

 そんなアイシャの幸せな時間は、転移事件を機に唐突に終わりを告げた。

 

 

 アイシャはシーローン王国にリーリャと共に転移し、パックス王子の元で軟禁状態にあった時はひどく落ち着かない日々を過ごしていた。

 王宮の侍女達はアイシャの境遇に幾分か同情し、決して無碍に扱う事はしなかったが、常に張り詰めたリーリャにメイドとしての立ち振舞いを厳しく躾けられていた。

 

 やがて、ルーデウスが颯爽とアイシャの前に現れる。

 一時はルーデウス自身もパックスに囚われる事もあったが、パックス王子の兄であるザノバ王子の協力を得たルーデウスは、逆にパックスをシーローン国外追放に追い込み、無事アイシャ達をパックスの手から救い出した。

 初めて出会ったもう一人の兄は、憧れを抱かせる程頼りがいのあるまさにアイシャにとってヒーローだったのだ。

 

 その後は、ザノバ王子の親衛隊であるジンジャー・ヨークの護衛を受けて父パウロが待つミリスへと向かう。

 行きの馬車の中でそれまでの不安から解放されたリーリャに抱きしめられ、母の愛情を再確認したアイシャはすっかりシーローンでの日々を忘れ、家族が揃う明るい未来に思いを馳せる。

 大好きな兄達にメイドとして仕え、幸せな時間をまた過ごしたいと思いながら馬車に揺られていた。

 

 ミリスでの日々はシーローンよりも辛かった。

 

 自身より明らかに劣るノルンを優遇し続けるラトレイア家の人々。

 リーリャも自分の娘よりもノルンを優先するように、再びアイシャに厳しい態度で接していた。

 パウロは公平にその愛情を注いでくれたが、転移事件の不明者捜索の活動に忙殺されたのもあってか、何かにつけて卒なくこなすアイシャよりノルンに構う事が多かった。

 

 それでもアイシャは粛々とメイドとしてのスキル、そして剣術と魔術、勉学と己を磨き続けた。

 いつかまた、ルーデウス……そして、ウィリアムに褒めてもらうために。

 少女の切なる思いと、優秀な兄に引けを取らない才能がアイシャを辛い日々を支えていたのだ。

 

 そして、ルーデウスを頼ってノルンと共にシャリーアへ来た。

 アイシャにとってノルンはひどく不公平な存在であり、自分よりも遥かに劣るこの腹違いの姉妹が何事も自分より優先されるのが嫌で堪らなかった。

 だから、そんな不公平なミリスからシャリーアへ移った事でアイシャは本当に自分の実力が評価され、兄に仕えながら好きに生きていけると信じていた。

 

 アイシャは優秀だった。

 一を聞き十を知る賢い少女だった。

 そんな少女が、転移事件から芽生え始めた人を評価する時の差別が、シャリーアに来て増々増長したのは仕方ない事なのかもしれなかった。

 

 アイシャは必ず能力で人を判断した。

 そんな他人に対して絶対評価を下すようになった事が、アイシャに“理屈抜きで人を好きになる”という気持ちをわからなくさせた。

 愛がわからなかった。

 だから、ノルンが抱いていたルイジェルドに対する淡い恋心も理解できなかったし、ルーデウスとシルフィエットが一緒になったのも表面的な事実としてしか受け入れられなかった。

 

 ルーデウスは優秀だ。とてもじゃないが、アイシャでは敵わない。

 だから好意を持って接する事ができた。シルフィエットもそう。

 でも、ノルンは優秀じゃない。

 剣術も、魔術も、勉学も何もかもが自分より劣るノルンが、ルーデウス達に“愛されている”という事が理解できなかった。

 

「ウィルにぃ……」

 

 アイシャはウィリアムの顔をそっと触れる。

 ウィリアムは……優秀なのだろう。

 とてつもなく、強い人なのだろう。

 でも、ルーデウスとは全く異なる……いや、自分がシーローンやミリスで出会ってきた人達とは全く違う異質な空気を纏わせていた。

 

 まるで、何かに対して狂気を孕んだ忠誠を誓っているかのような──

 

 死神との一戦を思い出す。あの時のウィリアムは、アイシャを自失させる程の狂気的な価値観を見せつけていた。

 だから、アイシャの絶対評価では測る事は出来なかった。

 あれだけ焦がれていたウィリアムと再会し、そのウィリアムが自分とは異なる物差しを持っていた事に気付いたアイシャは、ウィリアムにどんな気持ちを持てばいいのかわからなくなっていた。

 ウィリアムを見つめ続けていく内に、この“大好きなウィル兄ぃ”の事が好きなのか、それとも嫌いなのか。

 アイシャはわからなくなっていた。

 

 でも、心に宿るこの安らかな気持ちは何なのだろう。

 

 人を好きになる、誰かを愛する……。

 そんな、ふんわりとした物を越えた暖かい“火”が、ウィリアムの体から感じられた。

 

(好きになるって、こういう事なのかな……)

 

 アイシャはルーデウスやノルンの気持ちが、ほんの少しだけ理解出来たような気がした。

 

 やがて、安心しきったアイシャは日々の疲れが溜まっていたのだろうか。

 そのままウィリアムの腕の中で、穏やかな寝息を立てていた……。

 

 

 

 

 

 

「アイシャちゃん、ここにいるのかな?」

 

 ウィリアムの部屋へ行ったきり中々戻らないアイシャを心配し、シルフィエットが部屋へ顔を出す。

 何か不測の事態が起こったかと思い、やや表情を強張らせていたシルフィエットであったが、スヤスヤとウィリアムに寄り添って眠るアイシャの穏やかな寝顔を見て、たまらなく愛しい物を見るかのように表情を緩めた。

 

「ふふ……安心しちゃったんだね」

 

 シルフィエットは起こさないように静かに兄妹が眠るベッドへ近寄る。

 このままこの幸せな光景を見つめ続けたい衝動に駆られたが、今日は生憎と朝から来客が来ているので流石にアイシャの力を借りねばならぬ状況だった。

 

 静かに、アイシャを起こすべくその柔らかい朱髪に手を伸ばす。

 シルフィエットの細い指が、アイシャの髪に触れようとした、その瞬間──

 

 

 みしり

 

 

「ぃッ!?」

 

 シルフィエットの細い腕に、虎の爪が食い込んでいた。

 まるで親猫が子猫を守らんとするかのように、シルフィエットの腕を万力の如き力で掴んでいた。

 

「い、痛いよッ! ウィル君ッ!!」

 

 みりり、と己の腕が軋む音に、シルフィエットは恐怖と驚愕が混ざった悲鳴を上げる。

 アイシャを庇うように体を起こし、シルフィエットの腕を掴むウィリアムの瞳に光は宿っておらず。

 野生の虎が本能で虎子を守るかのようなこの行動に、シルフィエットは痛みと恐怖で狼狽し続けるしかなかった。

 

「ん……シルフィ姉……?」

 

 シルフィエットの喚く声に反応したのか、アイシャがのそりと目を覚ます。

 直後に目に飛び込んで来た光景に、朱色の少女は目を白黒させ大慌てでウィリアムの腕に縋った。

 

「ウィ、ウィル兄ぃ! おはよう! じゃなくて! 手を放して!」

「痛いよ! ウィル君!」

 

 アイシャがウィリアムの腕に縋り、必死になってシルフィエットから剥がそうとするにつれ、徐々に虎の瞳に光が宿り始める。

 やがて、虎ははっとした表情で締め付けていた手を放した。

 

「お、おはようウィル君……寝ぼけちゃったのかな?」

「ウィル兄ぃ……」

 

 自身の腕に治療魔術をかけながらやや引き攣った笑みを浮かべるシルフィエット。

 心根の優しいクオーターエルフの乙女は目に涙を溜めるも、虎の理不尽な暴力に全く憤るような事はしなかった。

 その様子を見つめていたウィリアムは、自身が仕出かした事に気づき、深々と頭を垂れた。

 

「申し訳ありませぬ……シルフィ殿(・・・・・)

「アハハ……ちょっと痛かったけど、もう治ったから平気……って」

 

 掠れた声でシルフィエットに謝罪するウィリアム。シルフィエットは腕を擦りつつウィリアムに苦笑を向けていた。

 義姉に大事が無かった事に安堵したアイシャはホッとした表情を浮かべ、寝台の傍らに置いてあった水差しからコップに水を注ぎウィリアムに手渡す。

 

「ウィル君。よくボクがシルフィだって気づいたね?」

 

 あの頃……ブエナ村でウィリアムと一緒にいた頃は、シルフィエットの髪は緑色であった。

 悪名高いスペルド族を連想させた、あの緑髪。

 それが、転移事件の際にアスラ王宮へと転移しモンスターとの遭遇戦で限界まで魔力を行使した結果、今のシルフィエットの髪色はウィリアムと同じく真っ白な白髪へと変質していた。

 

 アイシャから受け取った水をゆっくりと飲みながら、ウィリアムはシルフィエットの髪に視線を向ける。

 

「……視れば、解りまする」

「ウィル君……」

 

 シルフィエットはあの頃のブエナ村で感じたウィリアムに対するあの想いが、再び湧き上がるのを自覚する。

 本当の意味で自分の事を視てくれたのは、父と母、ルーデウス以外ではウィリアムだけだった。

 心の深い所で繋がった絆を感じたシルフィエットは、慈しむような眼差しでウィリアムを見つめる。

 変質してしまった自分をひと目で気付いてくれたことがたまらなく嬉しく、ウィリアムに乱暴に掴まれた腕の事など最早どうでもよくなっていた。

 

 しかしウィリアムが目の前の白髪の乙女をブエナ村で共に過ごした緑髪の少女だと気づけたのは、そのような感傷的な理由では無く全く別の理由からであった。

 

 骨子術の達人は“透かし”を用いる事が出来る。

 虎眼流はこの骨子術の術理を取り入れ、その剣術を無双の域にまで練り上げていた。

 当然ながらウィリアムの眼力は骨子術の達人のそれと引けを取らず、その慧眼はシルフィエットの髪の色がどう変質しようが関係なくその正体を捉える事が出来た。

 その美しい内臓までも見透かし、シルフィエットが妊娠している事もひと目で見抜いた。

 また、シルフィエットがアイシャと共にいる事で、その子が誰との子なのかも容易に想像がついた。

 

「ウィル兄ぃとシルフィ姉、ほんとの姉弟みたい」

 

 乙女と若虎の白髪を見比べ、アイシャはやや嫉妬が混ざった声色で呟く。

 余人が見れば血の繋がりはアイシャではなく、シルフィエットにあると誤解しかねない程、両者の髪の色は透き通るような白色をしていた。

 髪の色等気にしたこともなかったアイシャだったが、この時ばかりは自身の朱い髪を真っ白に染め上げたくなる衝動に駆られていた。

 

「ここは……兄上の家処で?」

「そうだよ。ルディとボクの家。そして、ウィル君達の家でもあるんだよ」

「それがしの……?」

「うん。ルディが、グレイラットの家族を迎える為に用意した家なんだよ」

 

 慈しみを込めた眼差しでウィリアムを見つめるシルフィエット。

 ゆっくりと、転移事件からの経緯をかいつまんでウィリアムに語りかける。

 ルーデウスと再会し、結婚し、家を買い……そして、ルーデウスがゼニスを救いにベガリット大陸へと旅立った事を。

 シルフィエットの話を無表情で聞いていた虎であったが、母の話が出てきた時は僅かに表情を歪めていた。

 

 しかし、虎は即座に表情を元に戻し、瞑目する。

 瞳の奥に、母……ゼニスの甘く、馨しい温もりを思い出したウィリアムであったが、心の貝殻の深層に燻る“増悪の種火”が即座にその馨しい温もりをかき消していた。

 

「それがしはどうしてここへ……?」

「えっと、それは……」

 

 シルフィエットは死神との果し合い後の顛末を、慎重に言葉を選びながらウィリアムに語る。

 話を聞く内に、ウィリアムはみしりと拳を握りしめていた。

 

(情けをかけられた、だと……!)

 

 またしても己の不甲斐なさ、そして死神を仕果たせなかった事がウィリアムの増悪の種火を瞬く間に憤怒の業火へと変えていった。

 憎しみが、ウィリアムの中で渦を巻いていく。転生してからの増悪の対象達が、虎の心を蝕んでいた。

 

 最大流派の長としてあるまじき卑劣な手を使った剣神。

 憎き柳生と同じように卑劣な諫言で己を嵌めた人神。

 流れ星を封じ己に致命傷を負わせた死神。

 

 憎い、憎いあやつらを、何が何でも妖刀の餌食にせねば気が済まぬ。

 

 死神が負けを認めていた事を知らないウィリアムであったが、一度勝った相手にも吐き気を催す程の増悪をぶつけていた歪な思想が今生でも消える事は無く。

 増悪の対象が生きているだけでも、到底許す事は出来なかった。

 妹と触れ合った事で人として大切な感情を取り戻したかのように見えた剣虎であったが、深層では未だ仇敵を掃滅せんが為にその狂気の炎を燃やし続けていた。

 帰る家があるという事も、復讐の鬼と化した虎にとってはどうでも良いことであった。

 段々と心の貝殻の奥底で沸き上がる増悪の業火が、ウィリアムの表情にも現れ始めていた。

 

「ウィル兄ぃ、怖い顔してる……」

 

 ふと、傍らで泣きそうな顔で自身を見つめるアイシャに気付く。その可憐な手を、ウィリアムの手に重ねていた。

 

「嫌だよ……」

 

 アイシャはポツリと切なげな声を上げる。

 その姿を見て、ウィリアムは己に再び燃え上がった増悪の業火が、みるみる鎮火されていくのを感じた。

 家族の“愛情”を否定しきれない虎の歪な“矛盾”

 前世の負の感情に囚われていた虎の中で、今生で芽生えた新たな気持ちがせめぎ合っていた。

 

 ウィリアムはアイシャの可憐な顔をその鋭い眼差しで見つめる。

 アイシャの顔が、前世の娘“三重”の面影と重なっていた。

 

 

 やがてウィリアムはせめぎ合う二つの感情から逃れるように、のそりとベッドから起き上がった。

 

「ウィル兄ぃ、まだ無理しちゃ! 傷口だって……」

「大事ない」

 

 心配するアイシャを制し、力強い足取りで立つウィリアム。

 深手を負ったとは思えない程、精強な生命力を発する虎の姿にアイシャとシルフィエットは静かに圧倒されていた。

 

「湯」

 

 ウィリアムはボソリと呟く。

 優秀なアイシャはその一言で、兄が何を求めているのかを瞬時に理解した。

 

「お湯……? お風呂のこと?」

「左様」

 

 アイシャの言葉にウィリアムは首肯する。

 それを見たアイシャは沈んでいた表情を打ち消し、喜々とした表情を浮かべた。

 早速ウィリアムの為に働く時が来たと、嬉しそうにウィリアムの手を掴んだ。

 

「ウィル兄ぃ、あたしが案内してあげる! お背中も流してあげるね!」

「いらぬ」

「えっ……」

 

 即座に否定を突きつけられたアイシャはまたも表情を一変させる。

 ころころと忙しく表情を変える妹を見て、ウィリアムは思わず笑みを漏らした。

 

「アイシャ。飯を用意してくれぬか」

 

 優しげにアイシャに話しかけるウィリアム。

 アイシャは再びその愛くるしい表情をパッと輝かせ、元気良くウィリアムに応えた。

 

「うん! 美味しい朝ごはん用意してるね!」

 

 パタパタと台所へと向かうアイシャを、穏やかな眼差しで見つめるウィリアム。

 その様子を、シルフィエットもまた慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。

 

「ウィル君、お風呂はあっちだよ」

 

 シルフィエットから風呂場の場所を教えてもらったウィリアムは一つ目礼し、確りとした足取りでルーデウス邸の風呂場へと向かった。

 

 

 一人残されたシルフィエットは一息つくと、ウィリアムが眠っていたベッドに腰掛け、体温が残るシーツを撫でた。

 

「まだまだ話したい事は沢山あるんだ……お礼もまだ言ってないしね」

 

 転移してから必死になって頑張ってこれたのも、ルーデウスと一緒になれたのも幼少期のあの一言がシルフィエットの原動力となっていたのは疑いようもなく。

 また、ウィリアムが転移してから今まで何をしていたのかも聞きたかった。

 そして、ウィリアムが自分と本当の家族になれた事も話したかった。

 

「ふふ……叔父さんになっちゃったね、ウィル君……」

 

 まさか既に妊娠している事を見抜かれていたとは露知らず、幸せそうな顔で自身の腹を撫でるシルフィエット。

 近い未来の幸せな家族とのひと時を想像し、増々その顔を緩めていた。

 

 

 しばらく時を忘れて幸せな情景を思い浮かべていたシルフィエット。

 ふと、何かを忘れている事に気付いた。

 

「あ!」

 

 突然、シルフィエットは素っ頓狂な声を上げる。

 ウィリアムは風呂場へ向かった(・・・・・・・・・・・・・・)

 そして、来客も朝風呂に浸かりに来ていた(・・・・・・・・・・・・・・・)

 来客が風呂に浸かっている間に、来客分の食事もアイシャと共に用意するはずではなかったのか。

 

 みるみる青ざめたシルフィエットは、既に惨劇が幕を開けていたことに気づけぬまま、風呂場にいる黒髪の少女の名前を呟いた。

 

 

「ナナホシ……!」

 

 

 

 

 

 


 

 サイレント・セブンスターことナナホシ・シズカは、ルーデウス邸の風呂へ浸かりに来る事が多々あったが、稀にこうして朝風呂も浸かりに来る事があった。

 朝っぱらから風呂に浸かりに来る事は流石に家人の迷惑になるだろうかと思っていたが、以前ルーデウスにそれとなく朝風呂を浸かりたい旨を話したところ快く許しを得た事から、一週間に一度はこうして朝風呂へと浸かりに来ていた。

 

 あの衝撃的な決闘の日から一週間。

 ルーデウス邸に赴くのは風呂に浸かりに来る事が主たる理由ではあったが、あの日以来転生者と疑わしきウィリアム・アダムスの様子を窺いに来る事が目的の一つとなっていた。

 中々覚醒しないウィリアムにやきもきしていたのはナナホシも同じであり、ウィリアムが本当に日本人転生者なのか、またあの日本刀はどのような経緯で手に入れたのかを早く聞き出したかった。

 

 ともあれ本日もウィリアムは覚醒めてはおらず。

 気長に待つしかないと悟ったナナホシは目的の一つである朝風呂を堪能する為、こうして心地よく湯船に浸かっていた。

 

「で、なんであんた達もここにいるのよ……」

「つれない事言うニャよ」

「ボスから教わったの。“裸の付き合い”はめちゃ大事なの」

 

 何故かリニア、プルセナの獣人乙女達もナナホシと一緒に湯船に浸かっていた。

 湯から覗くドルディア族特有の猫のような尻尾、犬のような尻尾をふりふりと揺らし、横に寝かせた獣耳はリラックスした様子を窺わせていた。

 

 ルーデウス邸の風呂はルーデウス自身の拘りもあり、購入してからの大規模改装でもっとも力が入れられた箇所である。

 ルーデウスがこの屋敷を購入した際は、もともと石窯もないただの洗濯兼厨房部屋と非常に殺風景な間取りであった。

 それが、改装を依頼したバシェラント公国の魔術ギルドに所属する一流建築士“大空洞”バルダの尽力により広く、趣のある風呂場へと作り変えられた。

 床にはタイルが敷かれ、風呂場の端にはたっぷりとお湯の蓄えられた大きな湯船、傾斜の付けられた溝からサラサラとお湯が流れていく。湯船は5、6人が浸かっても尚十分な余裕がある程の大きさであった。

 

 そんな大きな湯船に、何故獣人乙女達と一緒に浸かっているのか。

 リニアとプルセナは偶々授業が休講になった事を良いことに朝っぱらから街へ繰り出さんと魔法大学女子寮から元気よく出てきた。

 丁度その時に、ルーデウス邸へ向かうナナホシを目撃した。

 元々あまり絡みが無いどころか、ルーデウスが来るまでは全くといっていいほど交流がなかったリニア、プルセナとナナホシ。

 ルーデウスを中心に出来た人間関係の輪を獣人乙女達なりに大事にしようとナナホシに声をかけたのか、あるいは単に面白そうだからついていっただけなのか。

 十中八九後者だと思ったナナホシはうんざりとした表情で湯船に体を沈めた。

 

「いやー大きなお風呂ってのもなかなかオツなもんだニャ」

「大森林だと川とか湖で行水してたの。それはそれで解放的だったの」

「あっそう……」

 

 獣人乙女達の呑気な言葉に、ナナホシはじっとりとした眼を向ける。

 リニア、プルセナはお世辞にもお行儀が良いとはいえず、大きく足を伸ばして湯船の縁に体を預けていた。

 そして、ナナホシに見せつけるかのようにその大きなバストを湯に浮かべていた。

 先程から圧倒的な存在感を放つリニア、プルセナの大玉に、自身の貧相なそれと見比べてナナホシは増々表情を暗くしていた。

 

「ナナホシ~。さっきから暗い顔してどうしたんだニャ?」

「リラックスするなの。暗い顔してちゃ寛げないなの」

(あんた達のせいで寛げないのよ!)

 

 獣人乙女達の空気の読めない一言に、ナナホシの心は更にささくれる。

 元々一人でのびのびと湯に浸かりに来ていただけに、自身のコンプレックスをガンガン刺激してくるこの獣人乙女達との入浴は、ナナホシにとって全くリラックス出来る状態ではなかった。

 

 チラチラと自分の胸と獣人乙女達の胸を見比べるナナホシを見て、リニアとプルセナはニヤリと厭らしい笑みを浮かべる。

 まるで、存分に嬲れる玩具を見つけた子猫のような、無邪気且つ邪悪な笑みであった。

 

「そんなにあちし達のおっぱいが気になるかニャ~?」

「ボスも悩殺したダイナマイトボデーなの。存分にその眼に焼き付けるといいの」

「な、なによ……」

 

 ナナホシの左右を挟む込むように、邪悪な笑みを浮かべながらじりじりとにじり寄るリニアとプルセナ。

 自分が捕食者に狙われた獲物と気づいたナナホシは、とっさに湯船から上がろうと立ち上がろうとするも、俊敏な獣人乙女達に瞬く間に体を掴まれた。

 

 ちなみにルーデウスが獣人乙女達の豊満な肢体に悩殺されたという事実はない。シルフィエットと結ばれるまで不能だったルーデウスには、乙女達の肉体で劣情を催す事は出来ないという悲しい過去があったのだ。

 

「ちょ、ちょっと!」

「まあまあ。あちし達と楽しくお風呂を堪能しようじゃニャいか」

「スキンシップは大事なの。激流に身を任せるなの」

 

 ニッタリと厭らしい笑みを浮かべ、リニアはナナホシの背後に回り肩を掴む。プルセナは自身の大玉をナナホシの眼前に突きつけ、その細い脚を押さえていた。

 リニアはナナホシの慎ましい胸にスルリと手を滑らせ、思うがままに蹂躙を開始する。

 

「ナナホシはちっちゃいお胸をしてるニャー」

「い、いや! やめて!」

「ほれほれ。ここがええんかニャ?」

「アッ! どこ触ってッ!? あん!」

「感度が良いなの。リニアのガバガバおっぱいとは大違いなの」

「なんニャプルセナ。あちしと戦争したいのかニャ?」

 

 前後から己の肉体を弄ぶ獣人乙女達に、平成日本女子の平均的な体力しか持たぬナナホシでは抵抗しようもなく。

 リニアが背後から胸を蹂躙してくるのを身を捩らせて耐え忍ぶしかなかった。

 

「大人しくするニャ。これもスキンシップの一貫ニャ」

「長いものにはマカロニなの。力抜くなの」

「だ、だめっ! そこだけは!」

 

 プルセナがナナホシの両脚に手をかける。

 強引に、その股を開かせようと力を入れた。

 

「チェック重点ニャ!」

「実際御開帳なの」

「や、やめ……!」

 

 羞恥と湯当たりからか、ナナホシは顔を真っ赤にさせて力の限り抵抗する。

 しかし抵抗むなしく、獣人乙女達の無邪気なスキンシップの前に乙女の蜜壺が露わにされようとしていた。

 

 邪悪な獣達により乙女の秘所が暴かれようとしたその瞬間──

 

 ガラリと、風呂場の引き戸が開け放たれた。

 

「ニャ?」

「なの?」

「ふぇ?」

 

 乙女達は突然開け放たれた引き戸に視線を向ける。

 

 

 そこには、一糸まとわぬ傷だらけの虎が手拭を片手に佇んでいた。

 

 

 突然の出来事に固まる乙女達に構うことなく、パアンッパアンッと、小気味良い音を立て手拭を己の体に打ち付けるウィリアム。

 手慣れた手つきで桶に湯を溜め、勢い良くかかり湯を浴びる。

 全く乙女達を眼中に入れてないウィリアムのその姿は、実に堂に入った立ち振舞いを見せてた。

 

 そして、乙女達の金切り声が浴室に響いた。

 

「ギニャアアアアアッ!! なんで入ってくるニャ!!!」

「ファックなの!! アタマがスットコドッコイなの!!!」

 

 ウィリアムは悲鳴を上げる乙女達に、ギロリとその怜悧な視線を向ける。

 

「静かにせい」

「はいニャ」

「はいなの」

 

 虎の射殺さんばかりのひと睨みを受け、獣人乙女達は即座に口を噤む。

 野生の獣が持つ本能からか、絶対強者による睨み一閃は乙女達に反抗する気概を削ぎ、さながら蛇に睨まれた蛙……もとい、虎に睨まれた犬猫が如くであった。

 

 大股で湯船の縁を跨ぎ、ざぶんと大波を立て勢い良く湯船に浸かった虎は己の股間を隠そうともせず、湯船の縁に体を預けのびのびと寛いでいた。

 

「と、虎のキンタマ……!」

「ごったましかなの……!」

 

 リニアとプルセナは顔を真っ赤にしながら虎の股間を凝視する。

 獣人乙女達は男根を見るのは初めてでは無かったが、虎の凶刃は乙女達を恐れ慄かせるには十分な業物であり、男女の情欲は未だ知らぬ乙女達にとってその剛槍はあまりにも禍々しく。魔法大学のアウトローな番長を初心な生娘へと変えていた。

 

「こんなに黒くて硬そうなのは見たことねーニャ……!」

「ピッカピカのガッチガチなの……!」

 

 虎の剛槍を血走った眼で見つめる獣人乙女達。

 異様な緊張感が辺りに漂う。先程までリラックスしていた乙女達は、さながら処刑場で刑の執行を待つ科人のように震えていた。

 温かい筈の湯は、彼女達を心から暖める事は出来なかった。

 

 ふと、リニアは先程から一言も発していないナナホシに視線を向ける。

 ナナホシは……ウィリアムの肉体を見つめたまま、石像の如く固まっていた。

 

「やべーニャ。ナナホシまばたきしてねーニャ」

「ファックなの。戻って来いなの」

 

 ぺちぺちとナナホシの頬を叩くリニアとプルセナ。

 獣人乙女達の雑な献身により、ナナホシの眼に徐々に生気が宿り始める。

 

 そして、息を大きく吸い全力で叫ばんと口を開こうとした。

 

「しーっ! 大声で喚くと虎にぶっ殺されるニャ!」

「乳首もがれたくなければ静かにやり過ごすなの!」

「~~ッ! ~~ッッ!!」

 

 獣人乙女達が必死になってナナホシの口を押さえる。

 先程のなぶり殺しとは打って変わったこの三人の乙女達の関係は、もはや運命共同体といっても過言ではなかった。

 

「ナナホシ、落ち着いてよく聞くなの」

 

 ナナホシの正面から、その華奢な肩を掴むプルセナ。

 その眼はやや狂気を孕んでおり、ぐるぐると渦を巻いていた。

 

「リニアを生贄に捧げて私達だけでも生き残るなの。クレバーに生きるなの。一言“捧げる”って言うだけの簡単なおしごとなの」

「あのさぁ。あちしそろそろキレていいかニャほんと」

 

 抑揚の無い声で呟くリニア、狂気を孕んだ眼を浮かべるプルセナ、羞恥と恐怖と混乱で再び石化するナナホシ。

 乙女達のみずみずしく、青い花園だったルーデウス邸の風呂場は、今や地獄の釜茹で場と化していた。

 

 ウィリアムはちらりとリニア、プルセナに視線を向ける。

 恐怖でピンと立った耳と、湯船から出ている獣人族特有の尻尾を見てぼそりと呟いた。

 

「犬と、猫か」

 

 ウィリアムの呟きに獣人乙女達は即座に反応する。ぴしりと背筋を伸ばし、虎の尾を踏まないよう最大限に行儀良く言葉を返した。

 

「犬猫じゃないス。リニアっス」

「プルセナっス」

「リニアッス、プルセナッスか……」

 

 リニアとプルセナはウィリアムが何か間違ってるような気がしてならなかったが、虎に対する恐怖心が勝り結局は何も言えず仕舞いであった。

 

 再び沈黙と共に尋常ならざる緊張感が漂う。

 虎と湯船に共にする乙女達の精神はもはや限界に達しており、自身に待ち受ける悲惨な未来を嘆く事しか出来なかった。

 

「あちし達、このまま虎にてごめにされちゃうのかニャ……」

「きっと今夜から不眠不休(寝る暇無し)乱痴気二毛作(ずっこんばっこん)なの……」

「どうして美少女ってひどい目に合わされるのかニャ……」

「うう……うなれ2メートル……とばせ5リットルなの……」

「あちし男性不信になりそうニャ……プルセナ?」

(フォー)(スリー)(ツー)、わん、うっふんなの……」

「プルセナがどっか逝ったニャ」

 

 恐怖と緊張で耐えきれなくなったのか、被虐の妄想の世界へと旅立ったプルセナ。完全に光を失った眼でぶつぶつと意味不明な事を呟き続ける親友の無惨な姿に、リニアはこの世の全ての悲劇を見せつけられたかのような絶望に苛まれた。

 

 心という器は、ひとたび……ひとたびヒビが入れば、二度とは……

 

「って! しっかりいたせニャー!」

「なの!?」

 

 バチイインッ!と、両手でプルセナの頬を挟むリニア。

 親友の健気な精神注入掌に、プルセナは現世へと無事帰還を果たした。

 

「リ、リニア……?」

「プルセナ、戻ってこれたかニャ!? 良かった! 良かったニャ……!」

 

 プルセナを抱きしめながらにゃあにゃあとむせび泣くリニア。

 親友に救われたプルセナもまたリニアを抱きしめ、心を繋ぎ合わせた同胞の腕の中でわんわんとむせび泣く。にゃあにゃあ、わんわんと鳴く獣人乙女達の傍らで、大和撫子は依然石化したままであった。

 

 

「喧しい」

「さーせんニャ!」

「さーせんなの!」

 

 

 

 

 地獄の釜茹では、シルフィエットが大慌てで駆けつけるまで乙女達をぐつぐつと煮込み続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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