赤牧市の市内にある築十年足らずのマンション。その一部屋は特環が用意した元の拠点だ。
調査や任務の手続きなどで時間を食らい、日が完全に暮れた頃初季とともに帰ってきた。
着いて早々シャワーを浴びに行った初季とは対照に、未だに元は智美の姿でリビングのソファーに横たわっていた。
こちらに着いてからまだ日が浅いため、最低限の物しかない部屋を見渡しながらくるくると人差し指を回す。その指には糸が絡まっており数秒凝視した後消滅させる。
「相変わらず趣味が悪いんじゃないかなー」
一見独り言のように発した言葉は、確かに『誰か』に向けたものだ。
しかし返答はなく、静寂だけが部屋を埋め尽くしている。
無反応の相手にやれやれと首を振るとポケットからケータイを取り出しある人物へ連絡を入れた。
「や、久しぶり元気にしている? ん? 誰か分からないって? ああ、ゴメンゴメン今ちょっと『変わってて』ねぇ。慣れないかもしれないけど、聞いて欲しいんだー」
立ち上がり、ベランダへの窓を開ける。昼に感じた刺すような日差しは完全に消え失せ、代わりに涼しい風が部屋に入り込む。
乾いた空気が流れるように通り過ぎる。その一瞬の心地よさを堪能すると再びケータイを耳に当てる。
「窓開けることをオススメするよ、今日は一段と夜風が気持ちいいからねー」
恐らく通話口の向こうでは首を傾げているのだろう。だが通話相手の性格的についついその通りに動いてしまうはずだ。
ケータイから聞こえてきた僅かな音を確認すると智美はベランダから離れ、部屋すら出て、廊下にまできた。それはもう十分過ぎる程に。
そして目視で邪魔になりそうな障害物がないことを確認すると、最後に一度だけケータイに向け言い放った。
「じゃ、今から行くから」
その言葉が合図となり、智美は駆け出した。
廊下からスタートしてゴールは“ベランダの向こう”。一般的な短距離走の五十m走よりも更に短い距離を全力で駆け抜けた。勢いは落とさず、むしろ上げるつもりでベランダに足を踏み入れると手すりや柵を飛び越えた。
そのまま重力と慣性の法則に従い、智美の体はマンションから少し離れた道路に叩きつけられるはずだった。
しかし彼女の手に絡まって伸びる糸がストッパーの役目をし、寧ろ振り子のように引き戻された。
少し落ちたことにより元いた自室ではなく、その一階下の部屋に吸い込まれるように入っていく、窓に当たらなかったのは幸いにも空いていたからだろう。
もっとも……。
「ぶっ!?」
そのすぐ傍にいた人物には当たってしまったようだが。
「やっほー、お邪魔するよ“じゃのめ”」
クッション代わりに下敷きにされた少年に対し、智美は片目を閉じ、愛らしい笑みを浮かべて挨拶した。
少年、深見雅人は内気な子どもだった。
人との触れ合いを恐れ、干渉を拒み、ただ一人であり続けようとした。
しかし如何に望まなくとも特定の誰かとは接触してしまう。そして雅人にとってもその『誰か』はいた。
クラスの学級委員をしている少女。彼女とは特に接点はなかったはずだった。しかしある時を境に彼を気にかけてくるようになってきた。
イジメにはあっていなかったが、彼はその性格故にクラスで孤立していた。別に他人からどう思われようとも気にすることはなかったが、そんな彼を『学級委員』という立場にいる少女は見過ごすことは出来なかった。
他人に興味がなかった彼にとって、それは刺激的だったらしい。事あるごとに話かけてくる彼女のことがじょじょに気になり始め、ある『想い』が生まれた。
そしてそれに惹かれ“化け物”が現れ、その存在によって彼は虫憑きへとなった。
幸い暴走はせず、更には戦闘には不向きな能力の所為もあり、すぐには特環に見つかることはなかった。
しかし、半年もしない内に別件でその区域に来ていた元の感知に引っかかってしまい、敢え無く捕縛。
その後中央本部の監視班に配属となっていた。
以上の経緯から、彼は元に対して苦手意識を持っている。元本人は気楽な関係が望ましいと思っているのだが、そこは捕らえた者と捕らわれた者。意識の相違があるのは仕方のないことだろう。
「相変わらずの覗き趣味、大いに結構。でもさ、やる相手間違えてない?」
脚を組み、他人のソファでふんぞり返っている智美とは対照に雅人は床で正座している。智美の手には糸でぐるぐる巻きにされた球体状の物がある。それは先程帰宅した際に“巣”に引っかかった彼の虫の一体だ。大蜘蛛の特異な糸によって捕らわれたそれは消すことも大きさを変えることも能力を使用することすら出来ない。
雅人の虫はジャノメアゲハと呼ばれる虫に酷似しており、虫が見聞きしたものを宿主も知ることが出来るという能力だ。単体ではなく群体型であり、効果範囲も数kmに渡る程広い。戦闘能力は皆無に等しいものの、その能力故に監視班では重宝されているとの事だ。
さて、問題はどうしてそんな彼の虫が自分達の部屋にいたかということだ?
いや、聞かずとも大よその予想は着く。どうせあの副部長が念を込めて自分達を見張らせていたのだろう。あの女ほど「信頼」という言葉が似合わない者はいないのだから。
現にこうして責められているというのに雅人は言い訳すらせず黙って俯いているだけ。これは余計な事を言った際の厳罰を恐れているからだろう。
恐らくこのまま言及した所で時間を無為にするだけだ。
「よっと」
ならばと智美は腰を上げた。
そして手の中のジャノメアゲハの拘束を解いて宙に逃がした。
「今回は見逃してあげる。でも外はともかく家での監視は控えて欲しいな、私はともかく“からす”はれっきとした女の子なんだからね」
特環の局員になった時点でプライバシーなんてあったものではないだろう。しかし、それでもその線引きは大事だと思う。
無いに等しい=蔑ろにしていい訳ではないのだから。
そこを十分に言い聞かせると智美は帰るため踵を反し……そのまま首だけ振り返った。
「ま、それでも止めないって言うなら止めないよ。でも、その時は高高度からの命綱無しのバンジーは覚悟しておくようにね」
そんな不穏な言葉だけを残し今度こそ智美は帰って行った。来る時とは違い今度はちゃんと玄関から出て行ったようだ。
その後ろ姿を見ながら雅人は嫌な任務を任されたことに大きなため息を吐くのだった。
「あれぇ? “大蜘蛛”たん何処か行ってたのぉ?」
「ちょっとヤボヨー♪」
部屋に戻るとシャワーを終えた初季がソファーに座り、何かのバラエティー番組を眺めていた。
玄関のドアが開く音が聞こえた後智美が来た為小首を傾げながら訊くと、軽い感じで返された。
その事自体は然程興味がないのか「ふぅーん」と流す初季。次いで思っていた疑問を投げかけてみた。
「ところでぇ、いつまでその姿なのぉ?」
初季の問いに自分の姿を再度確認する。
腰まである長い黒髪、日本人形のような整った顔立ち、同い歳にしては自己主張が少し強い身体的特徴。ホルス聖城学園の制服を纏った立派な美少女、的場智美。
「何処かおかしい?」
今度は智美が小首を傾げてみせた。
「うん。家に帰ってからもその姿の意味ってあるのぉ?」
その言葉に「ああ」と合点がいった智美は「じゃ、シャワー浴びるついでに戻ってくるねー」と着替えを取りに自室に戻った。
そして……。
「あぁ、だるかった……」
十数分後。
言った通りシャワーを終えてから帰ったきた時にはいつもの元に戻っていた。
「たく、何で女に擬態しなくちゃなんねーんだよ」
面倒だ。そう思いながらも元は自室から持ってきた資料に目を通した。
今回の任務。“かっこう”のサポートと“からす”の教育の同時進行の為男の姿だと不都合が多いのだ。“かっこう”のサポートだけならそうでもないが、そこに“からす”の教育が入ると色々と面倒なことになる。
まず単純に男と女の組み合わせ。グループとかならともかく男女二人組は色んな憶測が飛び交い学校生活に支障をきたす可能性がある。特に今回の潜伏先であるホルス聖城学園は思春期真っ盛りな年頃の子しかいない。
“からす”の再教育を任されたが、これは戦闘能力に対するものではなく態度や姿勢のことを意味している。そういったものは一朝一夕で直るものではないし、ましてや“からす”は筋金入りだ。だからこそ長期的に挑む姿勢になり、そうなったら男の姿ではあらぬ噂が立ち目立ってしまう。
そこで用意されたのが『的場智美』という少女だ。女の子同士なら一緒にいようと「友達」の一言で済む。特に怪しまれる心配はないというわけだ。
その分“かっこう”と接触する時は勘繰られることもあるかもしれないが、今回の様子を見ても大助の方が被る一方なようなのでこちらとしては問題はないだろう。
以上の理由により『的場智美』という少女は今回の任務に必要不可欠な存在なのだ。
「でもなぁ……」
ただ一点、元には気に食わないことがあった。
「“欠落者”の女の子のデータ使うか、普通」
資料に目を落とす。そこには『的場智美』というかつては虫憑きであり、現在は欠落者となった少女のデータが細かく並んでいた。
架空の人物でなく、わざわざ実在の女の子を使う必要性が何処にあるのか?
そんな疑問は当然浮かぶ。しかし考えても分からないものは分からない。何よりこれを命じたのはあの魅車だ。常人に理解できるはずがない。
「ハジメたん、おなかすいたよぉー」
「はいはい、わかったわかった」
僅かに残る嫌な予感を拭うように元は同居人の腹を満たす為に台所に立つのだった。
エタっててごめんなさい。
時間取れるようになったので再開しようと思います。