「あああああああああああああ!!」
それは何の前触れもなく唐突に起きた。
今まで静寂を保っていた四季が突如悲鳴を上げ苦しみ始めた。体を絞めるように抱き、もがいている。
--まさか成虫化!?
そう思い慌てて四季の虫であるミカドアゲハを警戒するが、そこには予想外の光景が広がっていた。
先程まで色鮮やかに縦横無尽に舞っていたミカドアゲハ。それが主同様悶え苦しみながら、まるで“溶ける”ように形が崩れていく。
本来ではありえないその現象に驚く暇なく、新たな変化がラナ達を襲う。
それは一言で表すと『泡』だった。
シャボン玉のように儚くも、ゆっくりと宙を舞うそれに心を奪われたのはあまりに場違いであったことともう一つ。
それが元の……彼の虫の残骸から漏れ出していたからだ。
真っ二つにされたその断面から次々と溢れ出す泡。それが大蜘蛛を飲み干すと一気にその量は増え、あっという間に車ほどの大きさになった。
脱皮でもするかのように泡が剥がれていくと、そこには死ぬ前と変わらぬ姿で地に立っている大蜘蛛がいた。……いや、やはり変わった点が二つある。
一つはまるで泡に汚染されたかのように白く変色した躯。
もう一つは黒曜石を思わせていた四つの眼が今は鬼灯の様に紅く染まっていることだ。
「なに……あれ……」
身の毛がよだつような悪寒に襲われる。
“異質”--一目見ただけで分かる。
遭ってはならない、対峙してはいけないと本能が告げている。
逃げだしたいという感情は、しかし目の前の更なる異変の前に成りを潜めてしまった。
「うそ……」
「虫が怯えている……?」
虫には自我が存在する、宿主とは別の確たる人格を持っているのだ。
ファンタジーなどに登場する超能力とは異なり、力そのものに意思がある。それは例えるなら手足が勝手に動くような、自分の一部でありながら自分の制御を離れてるようなもの。虫の制御が難しいのは主にこれが原因でもある。
彼らは貪欲で、隙あらば夢を食い尽くしすぐにでも成虫化を果たそうとする。しかしながら、そんなにすぐに食べ切れるほど脆い夢はそうそうなく、その時期が来るまでの間彼らは大人しく宿主に使役されるのだ。
そんな彼らが今恐怖し、震えている。ガタガタと揺れ、戦闘態勢を無理矢理解こうとしている。夢を与えて押さえ込もうと試みるがそれすら拒み、ただ一刻も早く逃げろと言わんばかりに宿主から離れようとしている。
それほどまでに恐ろしいのだ……あの“大蜘蛛の姿をした何か”は……。
ゆっくり。まるでスローモーションのようにゆっくりと前脚の一本を上げ、そして振り下ろす。
その瞬間。大量の泡と糸が洪水のようにその脚から溢れ出た。それらはある一点に向かっていく。
自らの宿主、元とその切り落とされた一部がその津波に飲み込まれる。元を取り込むと、泡が集まり人一人覆うほどの球体に変わる。その球体を外側から糸が何重にも覆い、巨大な繭が出来上がった。
中の様子はわからないが、それはまるで元を守っているような気がした。そんな思いに応えたのか、白い大蜘蛛は繭の前に鎮座する。王を護る騎士のように微動だにせず、ただ外敵を睨む。
「……どうしようか、ラナちゃん?」
「いや、アタシに振られても困るんだけど」
最大の障害であった四季の暴走が終わり、代わりに現れた脅威。しかしそれは圧倒的な存在感と威圧感を放つだけで動く気配がまるでない。逃げるなら今しかない……のだが。
「
厳重に守られた繭を見てため息混じりで呟いたラナにほのかは苦笑を浮かべて応える。
よりによって今度は元の虫が暴走し、元があの中に閉じ込められるなど誰が予想できたか。しかもあの様子から察するに繭は死守するつもりなのだろう。四季の虫すら倒したあの泡が未だ周辺に浮いてるのも気になる。
さっさと撤退したいのに肝心の元があれでは帰るに帰れない。
無理に繭を破ろうにも、それでは四季の二の舞になるだろう。それどころか四季に苦戦した二人が、四季を倒したあれに勝てるわけがない。第一虫がこの状態では攻撃すること自体不可能だ。
なによりも、あれは完全にイレギュラーな存在だ。死んだはずが僅かな変化を持って蘇り、先程までなかった力を振るう。普通に倒せるのかどうか、攻略法が一切分からない。
完全な手詰まり、もうどうしようも出来ない。泣き言すら言いたくなったその時--突如大蜘蛛が爆発した。
爆発する瞬間赤い何かが見えた、まさかと思い振り返る。
そこには満身創痍なはずの四季が不敵な笑みを浮かべながら立ち上がっていた。
「あ……あははは! そうです、それですよ! 私が見たかったのは! これで私も全力を出せます!」
爆炎を受けて尚傷一つ負っていない白い大蜘蛛を見て、狂ったように笑いながら両手を広げる。傷など関係ないと言わんばかりにくるくると踊るように回る。
くるくる、くるくると。すると彼女を始点にどんどんと世界から色が薄れていった。
「四季ちゃん本気!?」
今までに聴いたことのない程ほのかは焦った声を上げる。彼女がなにをしようとしているのか分かったからだ。
特殊型だけが持つ領域。それが広がって広がって広がり続けて、そして……彼女と異質な蜘蛛と繭は世界から隔離された。
見た目は、元あった世界とかわらない景色が広がるそこは、しかし色とりどりの蝶が跋扈する酷く幻想的な世界だった。
建物や器物、果ては植物から色が剥がれ、それが様々な色のミカドアゲハに姿を変える。
十や二十など生温いほどの蝶の大群が暴れ踊っている。
「さあ、見せて下さい……貴方の力をッ!!」
左手を挙げると数十もの赤いミカドアゲハが集まり巨大な火の玉へその姿を変える。
それを耐えず繭の前に鎮座している白い大蜘蛛に向け放つ。避ければ繭が焼き尽くされると言わんばかりの直撃コース。
ある物触れる物全てを蒸発させ突き進む小さな太陽。何者にも止められないと思われたそれはしかし、突如現れた白い壁によって阻まれた。
白い壁--白い大蜘蛛の脚から溢れ出た大量の泡。それに触れた瞬間巨大な火の玉は形を保てずに崩れていく。
「ッ! やはり正攻法は効きませんか……なら」
水色の蝶の大群が白い大蜘蛛の上に集まり、巨大な氷の塊となる。それは氷山と評していいほどの質量を持ち、あまりの大きさにあらゆる物を押し潰せるとさえ思えた。
それが上空から動けぬ大蜘蛛目掛けて落ちてきた。
あれほどの質量を消すには相応の力が必要だが、ほとんど原型を留めていないとはいえ未だに火の玉を溶かすため泡の壁を維持するのに力を使っている。
全力が出せない今一体どうするのか?
期待、興奮、喜悦。様々な感情が胸を占める。そして白い大蜘蛛は彼女の思いに応えた。
顎を頭上の氷山に向け、鋭く尖った牙諸共開き--
--■■■■■■■■ッッッ!!
咆哮。
無音に限りなく近い音が大気を震わせる。聴いただけで言い知れぬ恐怖を与えてしまうそれは、氷山と化したはずの虫すら恐れさせ、複数の亀裂を入れた。そしてその亀裂目掛け、それぞれの脚から出た合計八つの泡が入り込む。
数秒の時すら置かず氷山は粉々に砕け散り、同時に火の玉も泡の壁の前に消え去った。
「--ッッッ!!」
連続して膨大な夢を消費したことで四季に凄まじい喪失感が襲った。それに加え、まるで虫がやられた時のような感覚にも何故か襲われた。
しかし、どうしてそんな感覚に見舞われたかなど今の四季には関係なかった。
ただ、今は嬉しかった。この理不尽な強さが、この圧倒的な強さが、身を持って体験できるのが。
これならあの“底王”を、裏切り者を倒すことが出来る。だが--
「まだですよ……まだ全力じゃないですよねぇ!!」
もっとだ、もっと“先”があるはずだ。四季の人として、そして虫憑きとしての本能がそう告げている。
それが見たいがために、四季は全力で虫を使うことを決意した。
百はくだらないであろう黄緑色のミカドアゲハを使い、擬似的な嵐を起こす。そうすれば白い大蜘蛛は否応なく全力を出すしかなくなる。
四季を中心に集まる大量のミカドアゲハ。高速で奔る風は刃のように鋭く触れる物は全て切断する。それは例えあの泡であれ例外ではないだろう。
あの泡に触れたものは溶かされる。しかしそれには多少時間が掛かる、故に高速で奔る風を溶かすのは至難の業。
「さあ、どうしますか--え?」
喜悦に歪んだ顔が驚愕の色に染まる。それに合わせるように嵐にも変化が出始めた。
風力が徐々に弱まり、嵐がただの強風に、強風がそよ風へと変わる。
無論、四季が弱めた訳ではない。勝手にそうなったのだ。再度作り直そうとしても思うように虫が集まらない。それどころか、どんどんと精神が削られるような感覚に襲われる。
何が起きているのか、そう思い辺りを見渡し、そして……絶句した。
--色が剥がれ、褪せた世界に“色が戻っていた”。
宙に浮かぶ数多の泡、それが一つずつ弾ける度に褪せた世界は溶けていき、明確な色を持つ世界が広がっていく。
溶け出した空間から本来の世界が顔を覗かせる。その様はまさに泡沫の夢から覚めるようだった。
「………………」
自分の世界が音すら発てずに消えていく、自分の全力が意図も容易く無に還る。
『壊す』や『塗り替える』といった力技の類ではない。それらとは根本的に異なるもの……あの泡はそういった部類に他ならない。
絶望する暇なく、頭でそれを理解した四季の心境は、しかし穏やかだった。
それはそうだろう、何せそれは本当に彼女達が待ち望んだものだったのだから。
純粋な火力ではあの『裏切り者』を倒すことは出来ない、寧ろ逆手に取られてしまう。仲間内で最も強く、そして四季が友人と呼んだ少女もそうしてやられたのだから……。
強い虫憑きだからこそ勝てない相手--それが四季達の真の敵。
故に、単純な火力以外の方法で倒す手段を用いる存在を欲した、対抗手段が欲しかった。
その為に時期を見計らい、仲間を見捨て、危険を冒してまで来たのだ。
--そして、その成果は今目の前にある。
白い大蜘蛛と繭を見つめ、四季は笑顔を浮かべた。
「もうすぐ……もうすぐですよ、こなた。これで貴女を……」
傍から見れば危機的状況であり、現にそうだ。しかし彼女の目にこの状況は絶望とすら映らない。
「あとは……お願いしますね……
もっと見ていたかったが、既に肉体も精神も限界だった。既に頭は働かず、意識も絶え絶えだ。その為かこの場にいるはずのない最愛の相手の名前を知らずに呼んでいた。
色褪せた世界が完全に終わりをつげると同時に四季は静かに崩れ落ちた。
はい、チート乙。
白いのはあくまで自衛しかしてません。降りかかった火の粉を払った程度で戦闘と呼べるものですらなかったりします、今回のは。
ちなみにこいつ=強化というわけではないですし、今後ピンチになれば必ず出てくるわけでもないです。……というか、コイツの出番はあと一回あればいいレベル。チートとご都合主義が合わさったような奴なんで……。