朝六時、健布都家リビング。
テーブルの上には三人分の朝食が並んでおり、パッと見ただけなら、平和な朝の風景である。しかし、空気はかなり重い。
「で、お兄ちゃん。その人が誰なのか説明してよ」
正面の席の美華が、俺の隣に座っている少女(美華の服を借りて着ている。胸がキツそう)を指差しながら言った。
「それが、俺の知らないコなんだよ。もちろん、名前も知らない」
「心当たりは?」
「あるにはある。実は昨日……」
俺は夢で見たことと部室であったことを余すことなく全て話した。
美華は難しい顔になり、
「なるほど、初対面じゃなくて昨日も会ったと、おまけに夢に出てきた事もあると……。てことは、お兄ちゃんの言ってたことは本当だった……」
「そうなるな。昨日の美少女は俺の幻覚じゃなかったってことだ」
「うぅ……ごめんね。信じてあげられなくて……」
「いや、気にしなくていい。俺なんかに、突然『美少女が現れた!』なんて言われても信じられないのは当たり前だからな」
「……うん、そうだね」
美華は少し申し訳なさそうに肯定した。
妹よ。少しくらいフォローしてくれても良いのよ?
と、まぁそんなことより、これで誤解は解けたはずである。俺が名前も知らないような少女に手を出すわけがないことは、美華も承知している。
ならば次は、少女の身元を聞き出すべきだろう。
「ねぇ、君の名前を教えてくれないかな?」
俺はできるだけ笑顔を作って訊ねた。
すると、少女は不思議そうな顔になり、
「え? わからないのですか?」
……わからねぇよ。だから訊いてるんだ。
そう思いつつ、顔には出さずに頷く。
「そうですか。では、教えましょう。私の名前はこころです」
「ふむ……こころ、ね……」
…………あれ? 人じゃないけど、俺の知ってるやつにそんな名前のやつがいたぞ。
美華の方に目をやると、彼女は?マークを浮かべて、頭を左右に揺らしていた。
飼い猫の名前と同じってことくらい気づけよ。
仕方ないので、美華の代わりに俺が答えだと思わしきことを言う。
「失礼だけど、君は俺のペットかな?」
「あ、わかりました? そうです。私はご主人のペットなのですニャー」
「……人型になれるようになったと?」
「その通りです」
ふむふむ、なるほど。ウチの飼い猫が人型になれるようになったと……。原理がわからん。科学的説明は無理そうだ。
というわけで、どういう経緯なのかをこころから聞くことにする。
「どうしてそうなったかわかる?」
「もちろんですとも」
こころは力強く頷いた。
「ご主人と初めて会った日を私は忘れません。その日は雨が降っていました。そして、私は暗くて狭い場所、ご主人たちの言うダンボール箱に閉じ込められていました。温もりなんて全くなくて、私は寒さで震えて——」
「場面設定とか聞くのめんどくさいから、簡潔に頼む」
「はい……」
こころは
俺自身、申し訳なく思うが、学校があるため、あまり時間をかけるわけにはいかないのだ。
「私は猫又という妖怪になったんです」
猫又。
日本では鎌倉時代前期の書物に最初の記述があり、中国では隋時代の書物に記述があった妖怪である。長い年月を生きた猫が妖怪化することで猫又になるらしい。
妖怪なら変身できても別におかしくはないだろう。
俺は納得しかけるが、おかしいことに気づいた。
記述によると、猫又は猫が長い年月を生きることで生まれる妖怪であるはずだ。しかし、こころは特段長い年月を生きたというわけではない。俺がこころを拾ったのは一年半ほど前であり、その頃はまだ目が開いたばかりの小さな子猫だった。こころの年齢は一年半くらい(人間で言うと十七歳くらい)なのである。記述通りの方法で妖怪化するには若すぎる。
「ふふふ、今『若すぎる』と疑問に思いましたね?」
「ああ……」
全くその通りなので、俺は正直に肯定する。
「まぁ、そうですよね。私の妖怪化の方法は特殊だったんです」
「いったい何があったんだ?」
「それを聞きたいのなら、ご主人は私と交尾を——」
「なら聞くのやめた」
「ま、待ってください。教えますから!」
俺の言葉に慌てるこころ。
勝った……!
「私は強すぎる感情によって妖怪化したんです」
……なるほど、わからん。
「スポーツ選手がリラックスして試合に臨むと動きが良くなるように、心の状態は
スポーツ選手の例えはわかりやすかった。調子がどうとか、気分がどうだったとか、そういう話は部活でスポーツをしているクラスメイトからよく聞く。俺自身も陸上をやっていたことがあるから、感情が身体に及ぼす影響は身を以て実感している。
だが、しかし、それでも、感情で身体自体が変化するはずがない。
感情の高ぶりで変身するヒーローは特撮や漫画でかなり見かけるが、それができるのはフィクションの世界に住んでいるような特異体質の方々だけである。
余計に理解できなくなった気がするが、話を聞いていれば理解できるかもしれない。
そんな淡い期待を込め、無言をもって話の続きを促す。
「私の強すぎた感情は愛、ご主人に対する恋愛感情です。ご主人が助けてくれたあの日、私は死にかけていて目もほとんど見えていませんでした。でも、あの優しい声と温もりはしっかりと伝わってきました。あの日から、ご主人は私の王子様なのです。でも、ご主人と恋をしたいと思ったところで、私は猫でした。猫の私では、ご主人に振り向いてもらえません。だから、私は人間になりたいと願ってしまいました。その結果、強すぎる恋愛感情を糧として、私の身体は人に近い妖怪に変化したのです。まぁ、私にも自分の身体にどんな作用が働いたのかはわからないんですけど」
こころは最後に少しだけ笑って説明を終えた。
……やっぱり、聞いてもわからなかった。まぁ、こころ自身にも詳細はわからないのだから、俺がわからないのは当然だろう。……親父の会社で科学的な検査してくれないかな。
そんな風に呑気なことを考えていると、
「驚かないんですね」
「ん、何が?」
不思議そうな顔を向けてくるこころに聞き返す。
「だって、妖怪ですよ。そんな非科学的な存在がこうして目の前に現れたのに、驚くどころか動揺もしないなんて不思議です」
…………あー、なるほど。
確かに、普通の人なら驚くだろう。架空の存在だと思っている人が大半だろうし、存在を信じている人であっても突然目の前に現れたら戸惑うだろう。しかし、それはあくまで
「だって、俺も美華も妖怪見たことあるし。てか、ほぼ毎日会ってるし」
「……はい?」
「聞き返されても、そのまんまの意味だ。俺たちは妖怪を知っている」
「ちょちょちょ、待ってください! え、なんで⁉︎」
「なんでって言われてもなぁ……。
そう言って、美華に目を向けると、彼女はコクリと頷いた。
こころはさらに混乱した様子で、
「にゃぁぁぁあ⁉︎」
「落ち着いて。ほら、どーどー」
「ふー……ふー……」
「よーしよしよし」
「にゃー……」
美華がなだめると、こころは落ち着いた様子を見せる。
……ところで、こころがこちらに頭を下げているんだが、これは撫でてくれということなのだろうか。
「撫でないからな」
「…………」
正解だったらしい。
がっかりした様子で顔を上げるこころ。
「まぁ、気を落とすなよ。それよりも今は妖怪の話だろ?」
「まったく……逃げるのだけは上手いんですね」
「自分にメリットのない面倒なことや危険なことからは逃げるのが一番」
「む……メリットならありますよ」
「え、あるのか?」
「ええ。元から高い好感度が急上昇、エッチなゲームだったらヤりたい放題犯したい放題のエロエロなこころルート突入です。まぁ、私のこの身体自体がご主人への愛の結晶みたいなものですからね。だから、ここで私の好感度を上げて、さらなる愛の「じゃあ、妖怪の
長くなりそうだったため、半ば強引に話を切った。
俺が女の子に手を出したなんて噂が立ったら、変なふうに誤解する人が出てくる可能性があるじゃないか。不良だと思われたら、どうすりゃいいんだ。親父にも影響が出るかもしれないだろ。
支社と言えども、俺の父親は会社のトップに立っている。だから、俺も息子として恥じないようにしなければならない。変な噂が立った時、その被害を
とりあえず、これ以上遅くなるとまずいため、さっさと妖怪の話を始めることにする。
「ウチの学校の先生の一人が妖怪なんだよ。俺たちはほぼ毎日お世話になっていて、こころも時々お世話になっている先生だ」
「あ、もしかして……」
こころには思い当たる教師がいたらしい。
「察しが良いな。多分、その先生だ」
「三年B組の
「そうそう——って、違う‼︎」
五里崎先生は二〇代後半の男性教員。担当している教科は体育。筋骨隆々としたボディビルダーのような体格で、とても毛深い。おまけに顔の彫りが深いので、その見た目はほとんどゴリラである。その見た目とは裏腹に優しい性格が生徒たちから好評(渾名はゴリキング)であり、学園内ではかなりの人気を誇る教師である。
と、五里崎先生のプロフィールを頭の中でまとめてみたが、俺が知っているのはこの程度である。と言うのも、俺の体育の担当教師が五里崎先生ではなく、面識がほとんどないからである。そもそも、お世話にすらなっていない気がする。
……こころよ、なんで五里崎先生が出てくるんだ。
「違うんですか? あの見た目、どう見てもゴリラの妖怪だと思う思うのですが……」
「ゴリラの妖怪なんて聞いたことねぇよ! ほら、もっとお世話になっている人がいるだろ?」
「……いましたっけ?」
「いるよ! 担任、部活動の顧問!」
「えぇー、そんな山吹色の髪の女教師なんて知りませんよ」
「知ってるじゃねぇか!
「……あんな女狐にお世話になんてなっていません」
「元の動物まで知ってんじゃねぇか!」
越前先生に何か恨みでもあるのかと思わせるほど頑なに拒否するこころ。俺のツッコミが追いつかない。
俺が知っている妖怪とは、越前先生——越前
山吹色のロングヘアに、まさしくボンッキュッボンッという効果音が相応しい完璧な体型。その金色の瞳には不思議な光を宿しており、思わず引き込まれそうになるミステリアスな色気を漂わせている。性格は優しく(時々サディスティック)、常に落ち着いた様子で行動する。ちなみに、担当教科は社会(世界史とか、地理とか)である。見た目も性格も、これ以上ないほどの美人であり、男子生徒や男性教諭から圧倒的な人気を集めている。しかし、その正体は九尾の妖狐である。
本人曰く、傾国の美女と言われた妖怪狐、
生涯の相手を一人と決め、それ以外の相手に身を許すことは絶対にない。まさしく、玉藻前を
「まったく……越前先生に何かされたのか?」
優しい越前先生がこころに変なことをするとは思えないが、一応聞いてみる。
「無理やりお風呂に入れられたんですよ! あの女狐も一緒に裸になって入ってきて……。私のおっぱいを揉み揉みしていいのは私が気を許している人だけです」
……あの時か。
今年の四月頃、俺と美華は父親に呼び出されて一週間ほどアメリカに行かなくてはならなかった。その間、こころの世話をすることができないため、越前先生に預けたのだ。きっと、その時に風呂に入れられて、腹を洗われたのだろう。
プンスカと怒るこころに、俺は苦笑する。
「多分、変な意図があってやったわけじゃないと思うぞ。猫を飼うのは初めてだったみたいだし、洗い方がわからなかったんだろ」
「でも、乙女の胸を揉んだんですよ……」
「男じゃなかっただけマシだと思っとけ」
「えぇー……」
「まぁ、許さなくてもいいけどさ。俺も触らないようにするから」
「あ、いや、それは……」
何か言いたげな様子だったが、先手を打っておいた。
俺自身おっぱいは好きだが、「めっちゃ好き!」と言うほどではないため、
「……さて、謎も解けたみたいだし、料理がまだ温かいうちに早く食べようか。美華、遅れないようにな」
「うぅ……はい……」
美華の受けたダメージは予想以上に大きかったらしい。
俺は美華の頭に手を置き、
「……別に気にすることじゃないと思うぞ。俺は(兄妹として)美華のこと大好きだからな」
「もうお兄ちゃんったらぁ……」
美華は顔を赤らめて照れ笑いを浮かべる。
そんな俺たちのやりとりを横から見ていたこころは、
「むぅ……」
不満そうに頬を膨らませていた。
「美華が羨ましいです……」
「こころはまた今度だ。あ、学校についてきてほしいから、早く食べ終えてくれよ」
「はい。なるべく早くしま——ついてきてほしい……ですと?」
「ああ、頼む」
「私が……必要なのですか?」
「ああ、必要だな。こころじゃなきゃダメだ」
「むっふー! わっかりましたぁ! 私、ご主人のために全力でご飯を食べさせていただきます!」
「いや、あんまり急がなくてもいいからな」
興奮するこころに苦笑いしつつ、ツッコミを入れる。
……昨日のことを部員達に説明するだけなんて言えない。
「あ、待ちなさいこころ。いただきますを言わないと!」
「にゃ?」
「手を合わせなさい」
美華に言われ、こころは頭に?マークを浮かべたまま手を合わせる。
俺も続いて手を合わせた。
「「「いただきます」」」
と、まぁそんなこんなで、健布都家の崩壊は免れたのであった。
◇
夢を見た。
それは一年半ほど前、俺がこころを拾った時の記憶。
冬のある日、美華と詩帆を先に帰宅させ、俺は一人だけで下校していた。
その日は太平洋側では珍しく雪が降っており、昼間であっても薄暗かった。おまけに、冬の夜の訪れは早い。天気が良ければ、日没は五時半頃だが、その日は五時の時点でほとんど真っ暗だった。
いつもどおりの道を通って、いつもどおりのスピードで帰る。
だが、凍える寒さと暗い孤独は俺からいつもどおりを奪い、余裕と引き換えに感覚の鋭敏さを与えていた。だから、俺はその声に気づけたのかもしれない。
「…………」
それは、とても小さな声だった。
音であるかどうかすらもわからない、小さくか細い、まるで弱い風のような声に、俺は気づいた。
普段の俺ならば、ここで無視して真っ直ぐ帰っていただろう。しかし、その時は違った。何故か、その声を無視してはいけないような気がして、声のする方に向かっていた。
「……ァ…………ニャ……」
そこにあったのは一つの段ボール箱。声はその中から発せられていた。
箱を開けると、三毛の子猫が一匹。本当にたったそれだけ。防寒用のタオルも入っていなかった。
子猫は寒さに身を震わせ、母親を求めて鳴いていた。しかし、母猫は来ない。状況を見るに、この子猫は捨てられたのだろう。
「どうしてこんなことを……」
独り言のような疑問に答える者はおらず、俺の声は闇に吸い込まれていった。
何故捨てるのか。そんなこと、誰も答えなくともわかっている。
人間は残酷だ。いたいけな生物を飼育し、自分の都合で勝手に捨てる。その
例えば、自分がマフラーを巻いていて、更にボロ布も持っている時。普通の人間は、人間が寒がっていればマフラーを貸し与え、犬が寒がっていればボロ布を被せる。人間にボロ布を被せるなんてことはしないし、犬にマフラーを貸し与えることもしないだろう。仮に、マフラーを持っている時でも、犬にマフラーを貸すなんてしないはずだ。
——やっぱり、俺は普通じゃないらしい。
反射的に
俺は首に巻いていたマフラーをとると、そのマフラーで子猫を優しく
「諦めんなよ。絶対に生かしてやるからな」
腕の中で震える子猫にそう言い聞かせると、俺は家に向かって走り出した。
ゴンッ!
「ッ⁉︎」
鈍い音とともに、頭に痛みが走った。
俺は突然のことに驚き、飛び起きる。
目の前には越前先生の笑顔があり、クラス全員の視線がこちらに向いていた。
……そういえば、日本史の授業中だったな。
机の上に割れたチョークが落ちていることから、俺の頭に当たった物がチョークであることがわかる。
顔をひきつらせる俺とは対照的に、越前先生は笑顔を崩すことなく、
「ふふふ、わかるわよぉ。日本史とか、地理とか、社会って書いてばっかりだものねぇ。眠くなっちゃうわよねぇ。でも、寝るのはさすがにダメよねぇ。随分と気持ち良さそうに寝ていたけど、私の声は眠り歌じゃないのよねぇ」
……やべぇ、先生怒ってる。おまけに言い訳の余地もねぇ。
と、
キーンコーンカーンコーン……
「あら、授業終了? ……まぁ、いいわ。今回は許してあげるから、次からは気をつけなさい」
そう言って、越前先生は黒板の前に歩いていった。
……ナイスチャイム。助かったぜ。
俺はホッと胸を撫で下ろす。
しかし、安心も
「あ、今度寝た人はケツにチョークぶち込むわよ」
先生の言葉にクラスメイトのほとんどがケツを押さえた。
……数名ほど目を輝かせている男子がいたが、俺は今後そいつらとまともに目を合わせることができないかもしれない。