「さぁ……■■■……夕食の時間よ」
テーブルの上に、ほかほかと湯気を立てたシチューが置かれる。
「…………」
「あなたの大好物だったでしょう? さぁ、冷めない内に……」
「……いただきます」
■■■はそう言うとスプーンを手にして、シチューを掬って口に運ぶ。そうして咀嚼し、嚥下する。
「……どう?」
私は、どんな高名な美食家に出す時よりも(尤も生まれてこの方そんな経験は無いしこれからも無いだろうが)緊張して、感想を待つ。
果たして、こいつの感想は。
「……美味しい。のは、分かる。うん、美味しい」
まるで他人事のように、■■■は答える。
この答え方は感想と言うよりも、数学の公式を述べているだけのように思える。
シチューに含まれる物質が味覚を刺激して、その結果が美味しいという反応だと言っているかのような、恐ろしく客観的な答えだ。
「……そう……」
私はもう、失望も絶望もしなかった。寧ろこの結果は予想できたものだった。
分かっていた筈だった。こいつは、■■■とは違う。
利き手が違う。■■■は左利きだったけど、こいつは右利き。
一人称が違う。■■■は自分をボクと呼んだけど、こいつは私と呼ぶ。
性格が違う。■■■は明るくてよく喋り、暗くなるまで一日中外で遊んでいるような子だったけど、こいつは無口で本ばかり読んでいる。
私の呼び方が違う。■■■は私をお母さんと呼んでくれたけど、こいつはママと呼ぶ。
他にも挙げればキリがないが、結論は一つ。
こいつは、■■■とは違う。
「……はぁ」
どこか自嘲するように、私は溜息を吐いた。
分かり切っていた事だった。
”なくしたものはもどらない”。
ブドウはワインになる。だがワインはブドウにはならない。ワインは酢になる。だが酢はワインにならない。
この手から離れてしまったものを取り戻そうとして、私は3年間も無為に、不毛に費やしてしまった。
もう、失望する力も失せた。怒る気力も無くなった。涙も涸れた。
あるのは諦観と自嘲だけ。我ながらバカな事をしたものだと。
『……それも、もう……そんな不毛は、今日で終わりにしましょう』
私は、力を解放した。
こいつの背後の、キッチンに置かれていた幾本もの包丁やナイフがふわりと浮き上がる。あらかじめ触れておいて、魔力を込めていたものだ。こいつは、シチューを食べていて気付いていない。
空中で包丁やナイフの切っ先が、全てこいつの背中へと向く。
後は、私の意思一つを引き金として全ての刃物がこいつに突き刺さり、体内から『あれ』を抉り出す。
『死ね……いや、壊れろ。その顔を、もうこれ以上……私に向けるな』
私が刃物を動かそうとした、その時だった。
こいつの頬が、濡れていた。両眼から、涙が流れている。
私は一瞬、刃物のコントロールを忘れた。
「……何故、泣くの?」
「……悲しいから」
何とも間抜けなやり取りだと、今にしてみれば思う。悲しいから泣く。この時の私はこの子にそんな機能が備わっている事すら忘れていた。
「……何が、悲しいの?」
「……この料理は、ママが私を喜ばそうと作ってくれたものでしょう? でも、それを食べても私は美味しいとは思うけど幸せだとか、嬉しいとか……そんな風に胸が、心が動かない……この体は、ママとの絆を確かに感じるのに……その実感を持てない……」
「……それが、悲しいの?」
ふるふると、こいつは首を横に振った。
「……悲しいのは、喜べない事じゃない……ママが、私を深く愛してくれているのは分かるのに……そんなママの気持ちに、私が応えられない事が……ママを幸せに出来ないのが……とても、とても悲しい……ごめんなさい、ママ」
「……っ!!」
私は、魔力を手放した。空間に静止していた包丁やナイフは、そのまますとんと床に落ちて転がったり突き刺さったりしていた。
「……ママ?」
戸惑ったように、この子は背後を振り返る。
私は、この子を抱き締めていた。いつの間にか、私の目からも涙が伝っていた。
「ママ?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
殺せない。壊せない。棄てられない。私には、できない。
「私が……私が、バカだったわ……」
そう、バカだった。
例えこの子が■■■と違っても、この子が私を想ってくれる気持ちは……ホンモノなのに。
一緒に過ごしたこの3年間は、ホンモノなのに。
この子はメーアとは違う。
私はそんな当たり前の事を分かっていて、理解していなかった。
「……あなたに、新しい名前をあげるわ」
「新しい、名前?」
「そう……ファルシュ、それがあなたの、新しい名前。今日から……そう名乗りなさい」
「『ファルシュ(偽物)』……?」
「……そう……ファルシュ。あなたはファルシュ……」
エイルシュタット公国、旧都に建てられた王城。
イゼッタによれば、ここの地下に魔女の秘密が隠されている。そう祖母が語っていたとの事だったが……フルスは、成る程と頷いた。
魔法によって開けられる隠し通路の奥の小部屋。天井には欧州全土の地図と、そこを縦横無尽に走るレイラインが描かれていた。
ここは墓所、あるいは霊廟だとフルスにはすぐ分かった。
部屋の中央にある祭壇には、美しい女性の彫像が祀られている。
エイルシュタットの伝説にある白き魔女のものだ。
「……白き魔女(ヴァイスエクセ)……ゾフィー……我が一族が……私が犯し続けている……全ての過ちの始まりの者……あなたが今の私を見たら笑うかな? それとも……怒るのかな? 呆れるのかな? ……ねぇ、どう思いますか?」
「……綺麗な人ですね」
背後から掛けられた声に、フルスは振り返った。
そこには白い装束に身を包んだイゼッタが居た。そのすぐ後ろには、即位式の為に正装したフィーネも付いてきている。どうやら二人には、今の独り言は聞こえてはいないようだった。
今日は、フィーネの大公への即位式の日だ。それに合わせてイゼッタとフルス、二人の魔女の存在を世界に喧伝する事が、ジークの提案により決まっていた。
フルスもイゼッタと同じような、ただしこちらはより露出が少ないローブのような白装束に身を包んでいた。今の彼女はまるで、いやまさにお伽話に現れる魔女のようだ。杖でも持っていれば完璧と言えるだろう。
「そなたらも負けず劣らずだ。力の具合はどうか?」
「ばっちりです。ここにはとっても濃い魔力の流れがありますから!!」
イゼッタが、天井を指差しながら笑う。
この城は天井の地図のレイラインがとても濃く太く描かれた地点の、更にど真ん中に建てられている。ここでは魔女の力は使い放題と言って良い。
白き魔女の再来をお披露目するパフォーマンスは、さぞかしド派手なものになるだろう。
「……すまぬな、イゼッタ、フルス……ここまでしてもらって……私は、そなたらにどう報いれば良いか分からぬ……」
今夜、世界は白き魔女の再来を知るだろう。
それはもう、決して戻れない道へ踏み出す事だ。帰らざる川を渡ってしまう。
その道を、イゼッタもフルスも自ら選んでくれたのだ。エイルシュタットの民でもない、この二人が。
「……私は、謝礼……礼金目当てですよ。別に感謝していただく必要はありません……」
ふふんと笑いつつ、フルスはそう言い切った。そこで、視線はフィーネからイゼッタへと移る。
「……? フルスさん? どうしたんですか?」
「……いや……」
フルスは少しだけ躊躇ったように首を振って、もう一度イゼッタを見た。
「……イゼッタ、一つだけ覚えておきなさい」
「……はい?」
「……なくしたものはもどらない。行く川の水は絶えなくても、大いなる『流れ(フルス)』の中に、同じ水は決して戻らない。失ってからまた得たものは、それがホンモノでも……やっぱり代替品。偽物でしかないから……」
「えっと……すいません、言ってる事が良く分からないです……」
頬を掻いて、イゼッタが苦笑いする。これを受けてふっと、フルスは眼を細めて微笑した。
「……ふふふ……いや……あなたは必ず、最後までフィーネ様をお守りしなさいと……そういう事よ。私が、そのあなたを必ず守るから」
そこまで言うと「では、先に行っているわね」と、フルスは二人を残して隠し部屋から退室していく。
そして地上へ向かう道すがらで、ひとりごちた。
「そう……私には守れなかったから……だからイゼッタ……あなたは最後の最後まで、フィーネ様を守り通しなさい。私はあなたがそれを為せるように、力の限りを尽くすから」