「では……フルス、今日の座学を始めるわね。予習はちゃんとやってきたかしら?」
私の前に立つ女性が、メガネをクイと上げながら尋ねてくる。私は機械的に「はい」と答える。
この女性は、私の母だ。この人が私を溺愛してくれているのは分かるのに、私はこの人に産まれてからの十年間で一度も、好きだとか安心できるとか愛情や慕情の類を抱いた事が無い。
今まで、私は母の言いなりになって人を殺してきた。
最初に産まれたばかりの赤子を縊り殺した。
次には足腰の立たない老人を焼き殺した。
その次は臨月の妊婦の腹を割いて出血多量でショック死させ、摘出した胎児をピラニアの水槽に投げ込んだ。
母の言葉を信じるなら、私は一族始まって以来の天才らしい。だからこれは私の才能を伸ばし、完璧な殺人者となる為の英才教育だと言っていた。人を殺す事に何の精神的痛痒も感じず、作業として処理できるようになる為の。
だが、私は殺しに慣れる事は一向に無かった。人を殺した後は、いつも母の目を盗んで胃の内容物と懺悔を吐き出していた。
そして言い訳を繰り返す。自分と、自分が殺してきた人達に。
これは必要な犠牲なのだ。私がこのまま殺人者として完成すれば、将来的に何千何万の人をこの手に掛ける事になるだろう。ならば面従腹背。成長して、一族から逃げて追っ手を撃退できるまでの力が備わるまでは母を、一族を利用する。そうしてから私が一族を離れれば、結果として喪われる命は少なくなる筈。これは必要な事なのだ。
……と、それが呆れた偽善・自己欺瞞である事を私は自覚している、
私にとって彼等は何千分の一か何万分の一に過ぎなくても、奪われた人達にとってはそれで全てなのだから。そんなの、言い訳にすらなりはしない。
ごめんなさい。
この言葉をどれだけ繰り返したか、もう覚えていない。
自殺も考えたが、出来ない。私に、そんな勇気は無い。死にたくない人を数え切れないほど殺してきたのに、自分が死ぬのは怖い。
ぐっすり眠れたのは、もういつだったか思い出せない。私は毎晩後悔に眠れず、毎朝悪夢に目覚める。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
脳内でその言葉を紡ぎつつ、私は母の授業に意識を向ける。
「今日の勉強は、私達魔女の力の源泉についてよ。さぁ、言ってみて」
「はい……魔女の力は自分の力ではなく、大地を走る力の流れ……レイラインにあります。魔女はその力を利用して、奇跡を起こすのだと」
「よろしい。ちゃんと予習してきているわね」
母は優しく笑って、私の頭を撫でた。
「で……そのレイラインだけど、場所によって魔力の流れが濃い所や薄い所、全く無い所があるの」
「はい」
だから魔女は魔力が濃い所では強大な力が使えるし、薄い所ではあまりに重量がある物を持ち上げられなくなったりする。当然、魔力の無い所では力は使えない。
「……例えるなら、魔力の流れは川のようなものだと思えば良いわ。川で水仕事をするには、その近くまで行かなくちゃならないでしょ? そして水量が豊富なら色んな事が出来るけど、少しの水しか流れていなければあまり大した事は出来ない……ここまでで、何か質問は?」
私はしばらく考えた後、挙手する。
「……二つ。例えばバケツに川の水を入れて家に持ち帰るみたいに、レイラインから離れた所で力を使う事は出来ないのですか? そして……そもそも魔力とは何なのですか?」
私のその質問は、母にとっては教師冥利に尽きるものであったのだろう。物凄く嬉しそうに、私を抱き締めてくる。
「とても良い質問ね、フルス!! ああ、素晴らしい!! あなたはきっと、史上最高の魔女になれるわ!!」
何度も私に頬摺りした所で、母は居住まいを正して教師然とした態度に戻る。
「……まず、最初の質問だけど、レイラインから外れた所で力を使う方法は、あるわ。それがどんな方法なのかは……また次の機会に教えるとするわね」
母の言葉に、私は内心「チッ」と舌打ちした。一日も早く一族から逃げる為に、少しでも多くの事を学びたいのに。
……しかし、母にそんな思惑が悟られては全てが水泡、画餅。私は内心の苛立ちと、顔の筋肉との連動を完璧に遮断する。
「では、もう一つの質問。これもとても良い質問よ。魔力とはそもそも何なのか……これは我が一族が何百年に渡って実験と研究を続け、そしてあなたのおばあちゃん……つまり、私のお母様の代でやっと明らかになった事なの。研究の礎になれた人達も、きっと喜んでるわ」
そんな訳がないだろう、狂人が。しかも礎に『なれた』だと? お前達……いや、私達が勝手に選んで攫って、彼等から命も尊厳も何もかもを一方的に奪ったクセに。盗人猛々しいとはまさにこの事だ。
頭の中で悪口雑言を叫びつつも、私は講義に意識を向ける。
「いい、フルス? 魔力の正体とは、それは------」
エイルシュタット公国首都、ランツブルック大公宮殿の会議室。
イゼッタとフルスはフィーネに呼び出され、この部屋に通されていた。ここに列席しているのは勿論フィーネ、他にも大公補佐官のジークハルト・ミュラー、公国軍の重鎮であるシュナイダー将軍、ヴェルマー首相とそうそうたる面々である。実質的にエイルシュタットの政・軍のトップが一堂に会していると言って良い。
「あ、あの……私、凄く場違いな気がするんですけど……」
どこかおどおどしたイゼッタの感想も、当然と言える。
「そんな事はない、ここにいる者達は、皆そなた達に礼を言わねばならぬ立場だ」
と、フィーネ。
そして少し間を置いて話し始める。これは何か話しづらい話題だなと、フルスは直感した。
「……単刀直入に言おう。我々は国を救う為、そなた達の力を借りたいと思っている」
『……まぁ、そう来るわよね』
退屈そうに頬杖付きながら、フルスは心中で呟く。
この展開はイゼッタと共に森の中を歩いていた時の会話から、予想出来ていた。
「だが……その前に聞いておきたい事がある」
フィーネの視線が、イゼッタの額に貼られた絆創膏へと動いた。入浴中に傍に飾ってあった像が倒れて、落ちてきた水瓶に当たった際のケガという事だった。
「何故……そなたは水瓶を避けられなかったのだ? ケネンベルクで見せた力があれば、容易い事であろう?」
「あ……」
戸惑ったようなイゼッタの視線が、すぐ隣に座るフルスへと動いた。
「それに……」
「それに、ハンス少佐と合流するまでは、私達は森の中を『歩いて』フィーネ様をお運びした。魔法で飛べば数分と掛からぬ距離であったのに。それは何故か? そう疑問を抱かれるのでしょう?」
「む……」
フィーネの言葉を先取りしたフルスが、話しながら列席した一同を見渡す。表情の機微を観察するに、推察は当たりのようだ。
「あの……フルスさん」
「良いわよ、イゼッタ。話して」
「……はい」
了解をもらったイゼッタは、話し始めた。魔女の秘密を。
「私……姫様の国を守る為に戦う事は全然出来ます。やりたいです。でも……いつでもどこでも、という訳には行かないんです」
そこからのイゼッタの話は、25年前にフルスが母から受けた講義の内容と同じだった。
魔女の力の源であるレイライン。その土地が持つ魔力量によって強い力を使える場所と力が弱まる箇所、全く使えない場所があるという事。
このランツブルックはレイラインが通っていない、魔女が力を使えない場所。つまり、この地ではイゼッタもフルスも、ただの少女と女でしかないという事も。
「……今の話は、魔女にとっては重大な秘密ではないのか?」
「はい……何百年も隠されてきた秘密で、仲間以外に喋ったら喋った人も聞いた人も、みんな殺されちゃったらしいです」
ちらっと自分を見るイゼッタに、フルスは頷いて返す。今の説明が真実であった事を裏付けするものだ。
物騒な内容に、ビアンカとハンスは思わず身構えた。
「あ……でも、魔女はもう私とフルスさん、それにファルシュちゃんの3人しか居ないですし……気にしないで下さい」
「……ええ、そう。『この力を使える者』は、確かにもう私達3人しか居ないわ」
そっと手をかざすフルス。その掌中に、小さな宝石のような翠色の輝きが生まれる。
「さて……フィーネ様。私もこの国を守る為に戦うのは構いませんが……それ相応の謝礼は……当然、いただけるのでしょうね?」
話題を変えたフルスに、すぐ後ろに立っていたビアンカはあからさまに顔を顰めた。いきなり金の話など、この女はゲスだと。
「……フ、フルスさん?」
「少し黙ってなさい、イゼッタ。それでフィーネ様? 見事この国を守った暁には、それに値するだけの報酬を約束して下さるのでしょうね?」
「それは、無論だ。我が名に誓って十分な謝礼を約束する」
「その言葉に、間違いはありますまいな?」
「くどいな?」
少し、フィーネはむっとした顔になった。
「……そうですか」
にやっと、フルスが意地悪な笑みを見せる。そして椅子から立ち上がった。
「私の条件は二つ。今言ったように十分な報酬と……そして娘のファルシュは戦わせない事。この二つを守って下さるなら、私はイゼッタと共にこの国の為に私の力を捧げましょう。フィーネ様、後で一席設けていただけますか? 報酬の額について、細かな打ち合わせがしたいので」
フルスはそう言い残して、退室してしまった。
残された面々は、最初は戸惑ったように顔を見合わせるがやがて沈黙に耐えられなくなったように、ビアンカが進み出た。
「フィーネ様、発言をお許し下さい」
「よい、言ってみよビアンカ」
「私はこちらのイゼッタは兎も角として、あのフルスという女の力を借りる事には反対です。あんな金の亡者に……!!」
「そうです!! 金でこちらに力を貸すという事は、金で敵に寝返るという事です。ゲールに懐柔されて我々を裏切らないとも……!!」
ビアンカの意見に、シュナイダーも同調した。
「ま、待って下さい!! フルスさんはお金の事ばかり考えたり人を裏切るような、そんな人じゃありません!! ただ、私とは事情が違うから……」
「彼女が我々を裏切らない……という一点に於いては、私も同意見です」
イゼッタの意見に賛成票を入れたのは、意外と言うべきかジークであった。
「もし、本当に裏切りを考えているのなら……イゼッタ君が魔女の力の弱点を話す事を止めていたでしょう。力が使えないこの首都にいる限り、生殺与奪を我々に握られているのと同義ですからね。報酬を執拗に求めるのは……我々がまだ信用されていないという事でしょう」
「と、言うと?」
「つまり、頭の中は謝礼をもらう事で一杯で、裏切りなど考えてもいないというアピールです。彼女なりの保身の術……処世術なのでしょう」
「……フルスさん」
ジークの説明を聞いたイゼッタは、何故だか無性に悲しくなった。
自分は、姫様の為に力を使い、戦う。その事に迷いは無い。姫様を、信じているから。
フルスは、以前に話してくれた。自分の一族は魔女の力を欲望の為に振るい、暗殺や諜報活動に従事してきたと。
……きっと彼女には娘であるファルシュ以外、自分にとっての姫様のような、そんな人は居なかったのだろう。
それが、イゼッタにはとても悲しかった。
ドアを開け、あてがわれた部屋へと入るフルス。
室内は、異様な状況となっていた。
枕やクッションがふわふわと空中を乱れ飛び、床には誰の手にも触れていないのに、ウサギとライオンのぬいぐるみが手を繋いでダンスに興じている。
まるで、イゼッタやフルスが使う魔法のように。
魔法が使えない筈の、このランツブルックの地で。
この超常を引き起こしているのは、ベッドに腰掛けていた一人の幼女だった。
フルスの娘の、ファルシュ。
「……お帰りなさい、ママ」
「……今すぐ、力を止めなさい……ファルシュ」
「はい」
フルスの言葉に頷くと、ファルシュは手を一振りする。
すると宙を舞っていたクッションや枕が重力に従い床に落ちて、自立して踊っていたウサギとライオンのぬいぐるみは見えない操り糸を絶たれてぱたりと倒れた。
「……魔力の無駄遣いは止めなさい。それだけ、あなたの稼働時間が短くなるからね。いつでも補給が出来る訳ではないのだし」
「……はい、ごめんなさい、ママ。気を付けます」