「…………」
薄暗い部屋に、むわっと立ち込める酒の匂い。
ファルシュは思わず、鼻を摘んだ。
コツン、と爪先が何かを蹴る。床に転がっていた空の酒瓶がコロコロ動いて、壁に当たって止まった。
部屋の奥には机に突っ伏すようにして、酒を注がれたグラスを手にしたフルスがぶつぶつと呟いていた。
「……なんで……どうして、こんな事に……」
「……ママ」
「……あぁ、ファルシュ……」
おずおずと掛けられた声に、フルスはのろりと振り返った。
ファルシュは母の顔を見て、思わず一歩後退った。
今のフルスは髪に白髪が交じり、頬はこけていて目の周りは落ち窪んでどす黒く染まっている。頬には伝った涙の跡がはっきり付いていた。
一目見て、ヤバイ。そう分かる顔だった。恐ろしく、疲れている。ぞっとするような生気の無さだった。
フルスは、娘から興味を失ったように顔を逸らしてぐいっと度数の高い酒を呷った。
「……何で、こんな事になったの……? 私は殺しがしたくなくて逃げたのに……殺さなかったから……殺せなかったから……こんな事になるなんて……殺しても何にもならないって、分かってたから……だからあの人達を殺さなかったのに……殺せなかったのが……間違いだったと言うの……? 誰か……誰か教えて……」
繰り言を呟きつつテーブル上の酒瓶に手を伸ばそうとするが、ファルシュが横から手を伸ばして酒瓶を取り上げた。
「ママ……もうお酒は止めて。体壊すよ」
「うるさい!! こんな事になったのは誰のせいだと思ってるの!!」
声を荒げて椅子から立ち上がったフルスは大きく平手を振り上げる。ファルシュは棒立ちのままで、体を竦ませたり避けようとする動きを見せなかった。
……だが、頬を打つ乾いた音はいつまでも聞こえてこなくて、フルスは振り上げた手を力無く下ろした。そのまま、椅子にどかっと座り直す。
「……ごめん……ごめんね、ファルシュ。お前は……あなたは……何も悪くはないのだからね……私はどうかしていたわ。私のせい、なのよね……」
そう言いながら今度は別の酒瓶の栓を抜こうとするが……思い留まって手を引いた。
ファルシュは酒瓶を遠くに置くと、そっと両手をフルスの頬に伸ばした。
ぬくもりは伝わってこない。代わりにひんやりと、風邪の時に額に乗せる氷嚢のような心地よさがフルスを満たしていく。
「ママ……どうか、どうか……自分を大事にして……私じゃなくて……この体が、そう言ってる……」
「……っ!!」
フルスは、がばっとファルシュを抱き締めていた。娘は、何も言わずに母にされるがままに任せている。
「……ファルシュ……■■■……どうか……どうか……教えて。私はあの時、どうすれば良かったの? 私のせいでこれから死んでいくエイルシュタットの人達の為に……どう償えば? 私は何をすれば良いの? 何が出来るの? どうか、教えて……その答えを……」
「……出来ることは、あったわね。でも私は弱いから……随分遠回りをしてしまったけど」
「えっ?」
頭の上から降ってきたその声に、目を瞑って文字通りめくらめっぽう機関銃を撃ちまくっていたヨナス二等兵は思わず顔を上げた。
そこには、美しい女性が居た。エイルシュタット軍のコートを羽織ってはいるが、軍人には見えない。それほどに、美しい女性だった。
濡れるような長い黒髪を風になびかせた美女。彼はここが戦場だということも忘れて、数秒ばかり見惚れてしまった。
しかしすぐにはっと我に返って、身を潜めていた塹壕から体を乗り出した。
「ちょ、ちょっとあなた……!! そんな所に立ってたら撃たれますよ!! 早くこの中に隠れて……」
このケネンベルクはたった今ゲルマニアの陸空両軍からの連携攻撃を受けていて、しかもここはその最前線。眼前には十台以上もの戦車と、無数の随伴歩兵が迫ってきている。
その只中に突っ立っている女性は自分の体を的にしているようなものだ。狙い撃ちにされる。
しかしその女性、フルスはほんの少しも怯えた様子を見せず静かに、泰然としてゲルマニア軍を睥睨していた。
そっ、と手を掲げる。
投降のポーズ、にしては妙だ。片手しか上げていない。
ヨナスがその意味を図りかねて首を傾げたその時……
超常が、起きた。
---問おう。慮外者ども---
「!? な、何だ!?」
「この声は……!?」
屋敷の一室でうなだれていたフィーネが、思わず顔を上げた。
ハンス少佐も、懐から拳銃を抜いて周囲を警戒する。
「これは……?」
ゲールの随伴歩兵は、思わず足を止めた。
「この声は……フルスさんが?」
「うん」
高台にて戦場全体を見渡すイゼッタが、すぐ傍らのファルシュへと尋ねる。幼女はいつも通りの無表情で、頷いた。
---お前達は、誰の許しを得てそこに立っている?---
僅かな時間だったが敵も味方も、戦場全体の動きが止まる。
そして誰からともなく、視線が一人へと集まっていく。敵も味方も。
原理は分からないが戦場全体にこの声を響かせているのは、この女なのだと。
---重ねて問おう。お前達が、---
それ以上を口にする必要は無いとばかりフルスへ銃口を向けた十挺ものライフルが火を噴いて、彼女の足下へと手榴弾が投げ込まれ、爆発。すぐ傍にいたヨナスは、悲鳴を上げながら頭を抱えて塹壕にうずくまった。
もうもうと立ち込める爆煙。それを見た随伴歩兵達は、ほっと息を吐いた。
今の女が何だったのかは分からないが、とにかく敵なのは確かだった。
得体が知れなかったが、しかしもうこうなっては関係ない。全身蜂の巣で、五体はバラバラに……
---お前達が立っている此処(ここ)は、其処(そこ)は、彼処(あそこ)は、何処(どこ)だと思っている?---
声は、止まらない。
もうもうと立ち込める黒煙を越えて、フルスが姿を現す。
この戦場にあって尚衰えぬ輝きを纏う美女は怯えず走らず、無人の野を行くが如くしずしずと歩みを進める。
---このエイルシュタットは遠き古より、我等”白き魔女(ヴァイスエクセ)”が衛る地ぞ!!---
「どうやって、こんな事が?」
「……イゼッタさんにも同じ事が出来る筈だと、ママは言ってました。私達魔女の能力は、触れた物に魔力を流して操る力。体に触れている空気に魔力を流し、振動させることで広域に声を響かせる事が出来るって」
「じゃあ……銃や爆弾から身を守ったのも?」
ファルシュは頷いた。
「自分の周りに分厚い空気の層を作って、それで弾丸を逸らしたり爆風を受け流したり出来るって」
「……そんな事が……」
イゼッタは試しに掌に意識を集中し、魔力を空気に流そうとしたが上手く行かなかった。魔力を込めようとしても、流動する空気はすぐに拡散してしまって抑えが利かない。よっぽど意識を集中すれば何とかなるかも知れないが……それをフルスは、雲霞の如き大軍勢を前に涼しい顔でやってのけているのである。
これはイゼッタの一族とフルスの一族の、在り様の違いと言える。
イゼッタの一族は、力を濫用する事を良しとせず、ひっそりと生きる事を選んだ者達。力を制御し、使わない事をこそ良しとする。当然、人を傷付ける事など以ての外である。
対してフルスの一族は魔女の力を富を得る為の”道具”として”武器”として積極的に使う事を選択した者達。人前で無闇に使う事は、彼女達に限っては問題にはならない。何故なら力を見た者は全て殺すか、さもなくば自分が殺されるかだけだからだ。
その必然、フルスの一族はその”武器”と”道具”の使い方を研究し、研鑽してきた。単純に「こうすればこうなる」という経験則ではなく「どうしてこうすればこうなるのか」と理論立てて裏付けを持って解明し、発展させてきた。
「魔力とは何なのか?」「自分達の力の限界は何処か?」「何が出来て何が出来ないのか?」
どうすれば、この力でもっと効率良く人を殺せるのか。
何百年もの間、自分達の欲の為に。そればかり考えて人の世の理を乱し続け、魔法の技術を開発してきたのだ。
その最先端の魔法技術が、数百年に渡る妄執と研究と欲望と研鑽の結晶が、今フルスに宿っているのだ。
「じゃあ……私達も」
「うん、乗って!!」
イゼッタは手にした騎乗槍に魔力を込めると、それに跨る。
魔力を付与された槍が、ふわりと空中に浮いていく。他にイゼッタが用意していた十数本の槍も、その後に追従するように浮遊していく。ファルシュは絶妙のバランス感覚で、その内の一つに立った。
「……行きましょう」
---我は汝等に、二つの道を与えよう。一つは今すぐ武器を捨て、この地より去る道。そうすれば……我はお前達を生かして帰そう……だが……---
あからさまに、戦域全てに響くフルスの声色が変わった。
---もし、踏み留まって戦うと言うのなら。それは……とてもとても、悲しい選択だと言える---
一瞬の沈黙。
そして、
「バカを言うな!!」「バケモノが!!」「死ね!!」
それまで呆けていたゲルマニア兵達の銃口が、全てフルスへと向いた。
---愚か者めらが---
しかし引き金に掛かった彼等の指がちょっぴり動くより、それよりも早く。
ぐらり。
ほんの僅か、大地が揺れた。
地震だろうか?
反射的に、歩兵達が足元を見た。
次の瞬間、大地から長い物が伸びて、彼等を全て刺し貫いていった。
平原が、数秒で森に変わった。無数の木が生えた。
ただしその木に横に伸びる枝葉は一つとしてない。ピンと屹立して天に向かっていく幹のその先端は、槍の如く鋭く尖っていた。
5秒と経たない間に、随伴歩兵は全滅した。近代戦に於ける3割の損耗率を指す言葉ではない。文字通りの全滅、損耗率10割。全ての歩兵が、死んだ。
雨が降った。紅い雨が。平原の緑色が、一瞬にして血で紅く染め上げられた。
戦場から、音が消えた。
エイルシュタット兵も、ゲルマニアの戦車も、全て動きを止めていた。
地面から伸びた幾本もの木は、植物ではなかった。それらは土で出来ていた。ただし物凄い力を掛けられて、石のように硬く固められていた。
これはイゼッタの一族にも伝わっている護身魔法の応用だ。雪や砂、土といった物体に魔法で働きかけ、圧縮して硬度・密度を高め、棘や針のようにして射出する。手で直接触れられなくとも”自分の一部”である血を媒介として、発動させる事も可能である。
このケネンベルクの地は膨大な魔力に満ちた土地であり、魔女は魔法を使い放題と言って良い。
魔女の魔法の本質は、触れた物に魔力を付与して操る事。
そしてフルスは、『足で』『大地に』『触れている』。
つまりはこの地に立つ限り、フルスにとって視界の全てがいつでも起爆出来る地雷原にも等しいのだ。
だがこんな事は、まともな頭では方法論として思い付く所までは出来ても、実行には移さない。移せない。イゼッタには頭の片隅に思い浮かべる事すらできないだろう。
生まれた時から魔法を使う殺人者として育てられたフルスだからこそ、思い付いて逡巡を挟まず実行出来たのだ。
何が起こったのか分からないが、しかしとにかくこの針地獄を創り出したのがフルスである事を理解した戦車兵は、搭乗する戦車の主砲を戦場に立つ魔女へと向ける。
すると、ある戦車兵は突然の浮遊感に襲われた。ある戦車兵の世界が回った。ある戦車兵は自分の目を疑った。
ある戦車は突然すぐ真下に空いた巨大な孔へと落ちていき、ある戦車は地面が波立ってひっくり返され、ある戦車は土砂の津波に呑まれた。
フルスが戦場に現れてから、ほんの数分。たったそれだけ。たったそれだけの時間で、ケネンベルクの地上に生きているゲルマニア兵は唯の一人も居なくなった。
そう、地上には。
「バケモノめ……殺す!! 殺してやる!! 仲間の仇だ……!!」
急降下するスツーカのパイロットは、愛機を腹に抱えた爆弾がまっすぐフルスへ向けて投下する軌道に乗せた。
ヤツがどんなトリックを使ったのか計り知れないが、コイツの爆発をまともに受けて、生きていられる生物は居ない筈だ。
投下装置のトリガーに指が掛かって……しかし、あらぬ方向から飛んできた棒状の何かが機体を貫いて、機体は爆発。彼の体は炎の中に消えた。
イゼッタだ。
騎乗槍に跨って空を駆け、無数の槍を眷属として従えて。
突如として現れた新たな敵に、訓練を受けたゲルマニア帝国のパイロット達はしかしすぐに頭を切り換える。訳が分からないが、分かっている事は一つ。”コイツは敵だ”。
編隊を組み直し、イゼッタを撃ち落とそうとする。
だがイゼッタはパイロット達が知る空戦の常識からは信じられないような軌道で飛び回り、全ての火線を潜り抜けてしまった。
「行って!!」
イゼッタが魔力で操る槍は意思を持っているかの如く各機を追尾し、追い付き次第貫いて爆散させていく。それは広大な空ではほんのちっぽけな点でしかなく、機銃射撃は当たらない。よしんば当たった所で、ほんの少し動きの軸がブレるだけですぐに軌道修正、再び自機へと向かってくる。
天翔る槍は次々スツーカを貫いていき、あっという間に残ったのは一機になった。
「……一撃だけでも……!!」
その機のパイロットは、もうこの戦いに自分達の勝ちは無いと悟っていた。しかし退くという選択肢は彼の中からは正常な思考と共に、とうの昔に失せていた。地上は地獄絵図、空には魔女。目に映る事象を、頭が理解する事を拒絶している。
だがゴツンという振動が走って、彼の視界は不意に暗くなった。
不思議に思って顔を上げる。そこには……
「ひっ……?」
思わず、上擦った声が上がった。。
真っ黒いローブを纏った幼女が、風防(キャノピー)越しに自分を覗き込んでいたのだ。
ぎらぎら光って血のように紅い目と、視線が合う。
振り落としてやろうと、操縦桿を倒して機を振る。
……よりも早く、幼女……ファルシュは風防にべったりと付けていた手に少しだけ力を込めて強化ガラスをまるで濡れた障子のように突き破ると、指を引っ掛けて風防をむしり取ってしまった。パイロットの顔に、高々度を高速飛行する際の風圧がもろに叩き付けられてくる。
「……」
ファルシュはぬっと手を伸ばすとパイロットの襟首を引っ掴み、コックピットから引きずり出して空中に棄ててしまった。
投げ出された彼は絶叫しつつ手足をジタバタさせながら落ちていって、やがて小さな点になって見えなくなった。
乗り手を失った機は、当然の帰結としてきりもみ状態になって落ちていく。機銃手の悲鳴が、エンジン音に混じって聞こえてきた。
「……」
ファルシュは無表情のまま、落下する機から跳躍。
数十メートルの自由落下の後、少しも膝を曲げずに着地する。
そんな芸当をやらかしたというのに、彼女は何事もなくすぐに歩きだして、傍に立っていたフルスへと話し掛ける。
「……終わった? ママ……」
「……ひとまずは、ね」
勝利の喜びに浸るでもなく、フルスは吸っていた煙草を口から放すとふうっと紫煙を吐いた。
「さて……晴れて戦争に首を突っ込んでしまった訳だけど……これから……エイルシュタットを助けつつイゼッタと私がどうやって生き延びるか……面倒ね」
「はい、ママ」
母の言葉に自分が入っていない事を怒るでも不満に思うでもなく、娘、ファルシュは頷いた。