痛い。
痛い痛い。
痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイ痛痛痛痛痛痛ーーーーー。
覚悟はしていた筈なのに、その激痛は簡単に私の想像を上回った。
噛み締めた歯茎からは血が滴って、握り締めた棒がミシリと鳴るのが意識のどこかで聞こえてきた。
確かこれが始まったのが午前2時過ぎだった。
今頃は夜明けだろうか? それともまだ5分と経っていないのだろうか? それすらも分からない。どうでもいい。
だけど痛みの一色だけに塗り潰されていた意識に、少しだけ別の色が入ってきた。
聞こえてきたのは、音楽で使う「ラ」の音に近かった。
涙に滲んでいた視界に、紅い色が入ってくる。
そっと差し出されたものを、私は朦朧とする意識の中で受け取った。
ずしりと、生まれてから22年、この人生の中で感じた事の無いような重みが伝わってきた。
こんな時でも、私は心の奥底で「これを簡単に毀せるな」と思ってしまっていた。
でも同時に、そんな事を絶対にしないだろうとも確信していた。私は今、壊れやすい宝物を抱いているのだ。この世界に、今私の手の中にあるものほど大切なものは無いように感じられた。
そして、理解した。
私は今この時の為に生まれ、生きてきたのだ。
そしてこれからの命の全てを、この子の為に遣うのだろう。
この世界のあらゆる残酷さから、この子を衛る為に残る時間の全てを消費するのだろう。
「生まれてきてくれてありがとう……■■■……」
「姫様、姫様、姫様……!!」
何とか森の中に軟着陸(不時着とも言う)したイゼッタとフルス。しかし取り敢えずゲールから逃げ出したと、安堵する。
……訳には、行かなかった。そんな暇も無かった。
イゼッタに抱かれたフィーネはぐったりと意識を失っていて、彼女の呼び声にも反応を示さない。
「落ち着いて、イゼッタ」
乗ってきた椅子から立ち上がったフルスが、そっとイゼッタの肩に手を置いた。
「患部を見るわ、服を脱がせるから手伝って」
落ち着いた声でそう言われて、イゼッタははっとする。そうだ、慌てふためいている場合じゃない。今は姫様の命を救う為に、精一杯の事をしなくちゃ。
だが指示された通りにフィーネの服を脱がせてケガした右腕を目の当たりにすると、改めて顔が蒼くなった。上腕部の肉が抉られていて、血が今も出続けている。
「……ファルシュ、いつもの針と糸持ってる?」
「ん」
母の指示を受けて、ファルシュは黒いローブのような服の懐をごそごそ探ると、縫合キットを差し出した。
「それと消毒薬」
「ん」
再びファルシュは懐を探ると、今度は小瓶を取り出して母に渡す。
「後、包帯も」
「どうぞ」
三度同じやり取りが繰り返されて、フルスは「うん」と頷いた。
「……幸い、と言うべきか弾は抜けているわ。消毒して縫合し、包帯を巻くわ。ひとまずの応急処置だけど……しないよりはずっと良いわ」
「よ、用意良いんですね……フルスさん」
「……まぁ、ね。あなたにも処置を手伝ってもらうわよ、イゼッタ」
フルスは顔を上げずにイゼッタに相槌を打つと、集中しきった顔でフィーネの治療を開始していく。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声が出る。
イゼッタには専門的な医療の知識など無いが、それでも目の前の女性の腕前が凄い事は分かる。フルスの指先は少しも戸惑ったりせずに滑らかに動き、次々に的確な処置を済ませていく。
「フルスさん、凄い……!!」
「……別に凄い事はないわ。慣れてるだけよ」
「……慣れてるって、何にですか?」
問われてフルスは、視線だけ動かしてイゼッタを見た。
「……人の肉を縫う事に」
そんな二人の後ろで、ファルシュは倒木に退屈そうに座り込んでいたがふと、思い出したように腕を動かした。
何か、左腕だけ動きに違和感がある。
この時、ファルシュは思い出した。そう言えば飛行機の中で肩を撃たれていたのだった。
少女は右手の指先を左肩の傷口に突っ込むと、粘土の中に入った石を捜すように指先でグチュグチュとこねくり回す。
「……」
こんな作業を行っているのに、幼女は眉一つ動かさず汗も掻かない。表情は無表情のまま動かない。
ややあって、人差し指に固い感覚が当たった。ファルシュは”それ”を摘むと、思い切り引き抜いた。
「……」
とても原始的な手段で摘出した弾丸をファルシュは珍しい形の石を拾った時のようにしげしげ眺めていたが、それにも数秒で飽きたらしい。ぽいっと捨ててしまった。
「……公女殿下は、山の向こうに砦があると仰っていたわね。そこでなら、本格的な治療が受けられるでしょう」
応急処置が済むと、ファルシュは立ち上がった。続いて、イゼッタも腰を上げた。
「じゃあ、姫様は私が……」
「ファルシュ」
「はい、ママ」
ファルシュはその細腕でフィーネの体を掴むと、藁人形のようにひょいっと持ち上げてしまった。
「ファ、ファルシュちゃん?」
「……この子は力持ちだから。力仕事は任せておけば良いのよ」
と、フルスは言う。しかしイゼッタは「ええ……」と困惑顔だ。
すらりとしたフィーネの体はそれは軽いだろうが、それでも8歳ほどのファルシュよりはずっと大きい。なのにファルシュはそのフィーネを抱えてまるで重さを感じてはいないようだった。
「……では、行きましょうか」
フルスはこれ以上議論をする気は無いようだった。ずんずんと進んでいく。ファルシュも、人を一人おぶっているとは到底思えない軽やかな足取りで母の後を付いていく。呆然としていたイゼッタが、最後尾を歩いていった。
「あの……フルスさん?」
「何? イゼッタ」
「これ……やっぱりフルスさんがした方が良いんじゃ……」
「良いのよ、あなたがしていなさい」
イゼッタの両足には、フィーネの処置を行うのに余った分の包帯が巻かれていた。裸足よりはマシという程度ではあるが、舗装もされていない山道を歩くには随分と助けになる。しかし残念ながら包帯はイゼッタの分だけで、フルスの足に巻く分は無かった。彼女は輸送機から脱出した時と同じ裸足で山道を歩いていて、細かい傷があちこちに付いている。
「……どうして、ここまで助けてくれるんですか?」
イゼッタが、遠慮しがちな目で尋ねる。
おばあちゃんから、私達の一族とフルスさんの一族は、ずっと仲が悪いと聞かされていたのに。
問いを受けたフルスは、ちらりとイゼッタを振り返った。
「……」
一瞬だけ躊躇ったように言葉に詰まると、微笑する。
「……私があなたの事を好きだから。それじゃあ理由にならないかしら? それにもう、残った魔女はあなたと私だけ。同病相憐れむ……ってヤツよ」
「ドウビョ……?」
イゼッタの可愛い反応に、フルスはプッと吹き出した。
そっとかざした手に、先程空中で作ったものよりはずっと小さな輝きが生まれる。
「同じ悩みを持った者が、助け合うって意味よ。この……祝福にして呪いを宿す身だからこそ……ね」
「はぁ……」
「逆に私からも聞いて良いかしら? イゼッタ」
「は、はい……」
「あなたと公女殿下はお知り合いのようだけど……魔女とお姫様。ちょっとどんな関係なのか私には想像付かなくてね……勿論、話したくないなら良いけど」
「あ、いえ……そんな事……」
わたわたと手を振って、その後深呼吸するように間を置くとイゼッタは話し始めた。
「……姫様は私の、命の恩人なんです」
まだ幼く、力を扱い慣れていない自分に、魔女とか関係なく接してくれた事。
無知と偏見から来る村人達の悪意から、身を挺して自分を庇ってくれた事。
初めて、自分を友と呼んでくれた事。
凄く痛い筈なのに、自分に笑顔を向けてくれた事。
「あの笑顔を見た時、私は誓ったんです。姫様の為なら何でも出来る。何でもしようって」
ファルシュの背で眠るフィーネを見ながらそう語るイゼッタの顔は、とても嬉しそうで楽しそうだった。
フルスは、少しだけ眼を細める。
「イゼッタ……」
「はい?」
「……私は貴女が羨ましい」
「え?」
「いえ……何でもないのよ。忘れて」
そう言って頭を振ると、フィーネへと向き直った。
「私も……もっと早くに公女殿下……いえ、フィーネ様とお会いしたかった。そう思ったのよ。私に、フィーネ様が居てくださったなら……」
今のフルスの視線がフィーネではなくファルシュを向いている事に、イゼッタは気付かなかった。
「そうしたら……」
「? どういう事ですか? フルスさん……」
「…………フィーネ様はお優しい方だから、貴女のように縁を結びたかった……って意味よ」
「ああ、そういう事ですか」
得心が行ったという顔で、イゼッタは頷く。そんな彼女にフルスは向き合うと、神妙な顔になった。
「……しかしイゼッタ。あなた、フィーネ様の為に何でもすると言ったわね? ……それはあなたの魔女の力を、フィーネ様の為に使うと考えて良いのかしら?」
「……はい。そうです、フルスさん」
今は真面目な話をしていると感じ取って、イゼッタも真剣な顔になった。
「……それは、難しいわよ? 色々な意味でね」
フィーネは大国の侵攻に晒される小国の姫で、エイルシュタットはゲルマニアと戦争状態。
この状況でイゼッタの力をフィーネの為に使うという事がどういう事か。1プラス1の答えが2になるのと同じぐらい簡単な問題だ。
「……覚悟は、しています」
「…………そう」
自分をしっかりと見据えるイゼッタの視線を受け、フルスは少しだけ悲しそうな顔になった。
目は嘘を吐かない。イゼッタがフィーネの為に尽くそうというのは真実の言葉だ。決意も、固まっているのが分かる。
『でも、だからこそ……』
フルスは首を振って思考を打ち切った。
「……まぁ、この先何がどうなるかは分からないけど……イゼッタ、一つだけ覚えておいて」
「一つだけ……?」
「……私は、あなたが赤ちゃんの頃からあなたを知っている。迷惑かも知れないけど……あなたの事を……娘のように思っている。だから、何があっても私はあなたの味方よ。それだけは、違えぬように」
「フルスさん……!!」
イゼッタは暫くの間は言葉の意味が分からないようだったが、やがてぱあっと花が咲いたような笑顔になった。
「めめめ迷惑なんてそんな!! フルスさんにそんな風に思ってもらえるなんて、私とても嬉しいです!!」
「……そう」
「……けれど、一つだけ言わせてもらって良いですか?」
「? 何かしら?」
「……私の事を娘のように思っているなんて言ったら、ファルシュちゃんに悪いですよ? フルスさんには、実の娘さんがいるじゃないですか」
「……!!」
びくりと、フルスの体が強張って目が見開かれる。イゼッタは「わ、私何か変な事言いました?」と気遣わしげに尋ねてくる。
「い……いえ……そ、そうね……まぁ…………それぐらい、凄く大切に思っているって……そ、そういう意味よ。うん。別に深い意味は……」
「?」
「ママ」
少し早口なフルスの言葉は、ファルシュの小さな声に打ち切られた。
「どうしたの? ファルシュ……」
「……あっちの方から、大勢の人間が歩いてくるよ」
「「!!」」
イゼッタとフルスが顔を見合わせる。
ここはエイルシュタットの領内。とすれば十中八九、その一団はエイルシュタットの人間だろう。前線に近い地域である事を考えると、軍人であろうか。
いずれにせよ、これで助かった。
3人は少しだけ足を速めて、森の中を進んでいった。