1939年、某日。
「……青鬼からの置き手紙を、赤鬼は何度も何度も読み返して、涙を流したのでした……おしまい」
ベッドのすぐ傍の椅子に腰掛けたフルスは、小さなベッドに横たわるファルシュに読み聞かせていた絵本を閉じた。
本のタイトルには日本という国の言葉で「泣いた赤鬼」とある。数年前に彼の国で刊行されたものが輸入されてきて、フルスもその一冊を手に入れていたのだった。
「……ママは、このお話が嫌いなの?」
横になったままで、ファルシュは頭を動かし母を見て言った。
「どうして、そう思うのかしら?」
「……だって、泣きそうな顔、してたから……」
娘の指摘を受け、フルスは「あぁ、そうね」と頷いた。
「好きとか嫌いとかじゃないわ……ただ、私はこのお話の先を想像すると……不安な気分になるだけよ」
「……不安、って?」
頭を枕に預けたまま、ファルシュは首を傾げるような動作を見せた。
「このお話だと、青鬼がお芝居を打って村で暴れて、その青鬼を赤鬼が懲らしめて人間に受け入れてもらえるのだけど……もし、この先村で何か良くない事が起こったら……例えば、事故とか火事とか……あるいは地震とか飢饉、疫病の流行とか……そんな事があったとしたら、結局の所、それは何の罪も無い赤鬼のせいにされるんじゃないか……ってね」
ファルシュは、本当に不思議そうな顔になった。
「……そんな事で、恩人を裏切るかな?」
娘の問いを受けて、フルスは困ったように笑った。
「ファルシュ……人間には忘れなければいけない事と、忘れてはいけない事があるの」
「……忘れなければいけない事と、忘れてはいけない事?」
「そう……自分が誰かに何かをしてあげた時の事は、忘れなければならない……反対に誰かが自分に何かをしてくれた時の事は、忘れてはいけない……私は、それが人間にとって本当に大切な事だと信じているの」
「……そう、だね。うん、そうかも知れない……ママ、私もそう思うよ」
「でも……実際にはそうは行かない……私も含めて、殆どの人間はその逆……人から受けた恩はすぐ忘れてしまうけど、自分が何かしてあげた時の事は『貸し』だって、ずっと覚えているもの……残念で醜い事だけど、それも人間なのよ」
「そう……なの、かな?」
「そうなのよ、本当に……本当に残念だけど……経験者は語る……よ。私はそれを見た……ファルシュ、あなたも……いや……あなたは知らないし体験してもいないけど……あなたの体は……それを識っている筈でしょう……?」
泣きそうな顔のフルスが、そう語った瞬間だった。
小屋のドアが吹き飛んで、軍靴の音が夜の静寂を破る。
「「!?」」
ライフルや手榴弾で武装した兵士が駆け込んできた。
現在。
「ロンディニウム橋落ちた」という童謡の歌詞がある。国籍や男女に関わらず、誰もが一度は聞いた事があるであろう童歌だ。
しかしそんなマザーグースが、現実に起きる様を見る事になるとはリッケルトは昨日までは想像すらしていなかった。
ブリタニア王国の首都であるロンディニウムは、地獄と化していた。
クローン技術によって造られた魔女の兵団、エクセ・コーズ。
同じ顔をした何百人もの魔女。彼女達によって操られるV1飛行爆弾は容易くブリタニアの対空防衛網を蹂躙し、首都を火の海に変えていた。
「こんな形で……ブリタニアへの侵攻が叶うなんて……」
リッケルトは、無性に胸が苦しくなってネクタイを剥ぎ取った。
今まで彼は世界の終わりを想像した事は無かったが……もしそんなものがあるとすればそれはきっとこんな景色ではないだろうかと思った。
そしてこの光景を創り出したのは自分だと思うと、彼は不意に猛烈な吐き気を覚えた。
「うげっ……げえーーーっ!!」
物陰に駆け込むと、嘔吐する。
胃液も含めて内容物が何も無くなって、胃が乾く感覚を初めて味わった。
3ヶ月前、エイルシュタットへと潜入した時に回収した魔法の地図(正確にはそれを収めたカメラ)と、魔石。それがジグゾーパズルに描かれた「魔女の兵団」の絵を完成させる最後のピースだった。パズルの最後のピースを埋めたのは自分だった。自分の行動がもたらした結果を目の当たりにして、吐く物が無くなっても吐き気が治まらない。
「気分はどうだい、中尉……」
「少……いえ、中佐……」
燃え盛るロンディニウムを背にして、ベルクマンが話し掛けてきた。
ハンカチーフで口元を拭うと、やっといくらか気分も落ち着いたリッケルトはふらつきなりながらも立ち上がった。
「……これは、僕達の知っている戦争とはまるで違いますね……」
もしバスラー大尉が生きていたら、戦闘機の代わりに魔女が空を飛び、魔法で操られた兵器が人を殺すこの戦場を見て何と言っただろう。魔女の力は、現存する最新鋭の兵器ですら相手にはならない。この地獄は、あまりにもあっけなく現世に顕現した。
「そうだね。魔女の力は今やエイルシュタットではなく、我々ゲルマニアのものになったという訳だ」
「……次はどの国へ侵攻するのですか?」
「さて、それはもう僕には分からないよ。今後エクセ・コーズの指揮は、全て陛下がお執りになる事となった。僕は昇進こそしたものの、出世コースからは外れて失脚、という訳さ……」
「中佐は、もう舞台から降りられるのですか? こんな……こんな地獄を生んでおいて……!!」
自分にだけは言う資格は無いし、上官批判と取られても仕方の無い暴言だとも理解していたが、それでもリッケルトは言わずにはいれなかった。
しかしこれを受けてベルクマンは、
「降りるんじゃない、降ろされたんだ。出る杭は打たれる……出来るだけ目立たないようにしようとは、心掛けていたんだがね……」
どこか厭世的な口調で、そう飄々と語る。対照的にリッケルトは「そんな……!!」と絶句した。
オットー皇帝の不興を買った人間が半年以上生きていた試しがないというのは、軍では有名な話だ。皆、病気や事故で死んでいる。しかしまだ年が若く階級も比較的低い彼にとってそれはどこか対岸の火事のように現実味の無い出来事のように思えていたのだが……自分の上司がその対象になったと知れると、急に現実感が膨らんできた。
「……まぁ、上手くやっていこう。お互いにね……」
「…………」
アルプス山中の秘密基地。
エイルシュタット首都に何かあった時に備えて、大昔の隠し砦を改造し、代々整備されてきた場所だ。
何人ものゾフィーが誘導するV1飛行爆弾によってランツブルックが蹂躙された後、フィーネ達は王城に設けられた秘密の通路から脱出し、現在はここが首都の代わりとなっていた。
「はぁ……」
食堂で、頬杖付いたフルスが紅茶に砂糖を入れた。
当たり前といえば当たり前だが、この一月は気の晴れるようなニュースが一つもない。
今の世界はエクセ・コーズを擁するゲールの脅威に脅かされているという状況だ。
唯一、良い知らせと言えばずっと眠り続けていたイゼッタが目を覚ました事であろうか。しかしそれとて、手放しで喜べるものではなかった。
戦いで、イゼッタの体は酷く傷付いていた。彼女の両足は、機能が失われて動かなかった。ハルトマイヤー軍医の見立てでは時間を掛ければあるいは治る見込みはあるとの事であったが……今となっては、その時間があるかどうかさえ怪しいものだ。
この隠れ家も、いつゲールに見付けられるか……
「はぁ……」
溜息を吐くと幸せが逃げると言うが、フルスに言わせればそれは逆だった。幸せが逃げるから、溜息を吐くのだ。
フルスは再び、目の前の紅茶に砂糖を入れた。
「あ、あの……フルス様……」
「ん? どうしたのロッテさん……」
「あの……少し、砂糖を入れすぎではないかと……」
「え……?」
思わず、視線を落とす。カップの底には、既に紅茶の飽和量を超えて大量の砂糖が沈殿していた。
「…………」
まさか、と思ってフルスはその紅茶を一息で飲み干し、大量の砂糖も一緒に口に入れてじゃりじゃりと噛んだ。
「……!!」
さしもの彼女も、絶句する。
「フ……フルス様……?」
「あ……ロッテさん……これは……その……」
何とか誤魔化そうとして、そこにハンスがやって来た。
「フルス殿。フィーネ様がお呼びです。来ていただけますか?」
「え、ええ……では、ロッテさん……また後で……」
「あ……あい……」
フィーネからの呼び出しを渡りに船と、フルスは足早に食堂を後にしてフィーネの部屋へと向かう。
その数分間で、彼女は色々と思考を回していた。
先程の紅茶は、まるで味がしなかった。あんなに砂糖を入れていたのに。
『とうとう、舌もイカれたか……』
内臓の機能はあちこちが失調している。吐血の感覚が短くなってきていて、隠し通すのもそろそろ限界だろう。
神経にも損傷が出ていて、歩いたり話す度に全身に激痛が走る。
視力が落ちてきていて、裸眼ではもう本も読めない。今はぼんやりとした輪郭と色合いで辛うじて個人が識別出来ている。
左耳が、少し前から聞こえなくなっている。
3日前から何か息苦しいような気がして、匂いを感じなくなっているのに気が付いた。
そして、今は味覚まで失われた。
痛みは意識から切り離せば無視出来る。視力や聴覚は、まだぼんやりとは見えるし右耳は聞こえるからごまかしが利く。嗅覚や味覚も、気を付けていればロッテやビアンカの目を欺く事も出来るだろう。
『だが……今のままでも失明したり構造的に体を動かせなくなるのは時間の問題か……』
考えている内に、フィーネの部屋に到着したフルスは思考を打ち切るとノックの後、入室した。
もし、フルスに常人ほどの視力が残っていればぎょっと驚いただろう。
今のフィーネは、信じられないほどやつれていた。
目の下にはくっきりと隈が浮かんでいて、頬もこけている。何日も寝ていないし、食事も満足に摂っていないのだろう。ぞっとするほどに、体から生気が感じられない。
しかしそれも、視力が落ちている今のフルスには分からない。
「あぁ……良く来てくれたな、フルス殿……」
「フィーネ様……何か御用でしょうか?」
「貴殿に、頼みたい事があるのだ……」
「頼み、ですか?」
表情は判別出来ないが、声色からフィーネが神妙な顔をしているのは容易に推測出来た。
「イゼッタを連れて……逃げてほしいのだ……どこか遠く……ゲールの手の届かぬ地へ……」
「イゼッタを……」
「貴殿も見られただろう、イゼッタを……あれほど傷付いて、足が動かなくても……それでもまだ、エイルシュタットの……いや、私の為に戦うと言ってくれた……」
「…………」
「もう、私は……見てはおれぬ……いや……そんな事を言う資格すら、私には無いのだろうがな……イゼッタの祖母は、魔法は無闇に使ってはならぬと、固く戒めていたと聞く……」
『そう……おばさまなら……そう言われるでしょうね……』
脳裏で、フルスは懐かしい顔を思い浮かべていた。
「……それを私が、無理矢理戦いに引きずり込んだ……その報いが……この有様だ……」
自嘲するような響きが、今のフィーネの言葉にはあった。
「だが、今ならまだ間に合う……フルス殿、どうかイゼッタを連れて逃げてくれ!! そして厚かましい願いだろうが、イゼッタを守ってくれ……それが、私の最後の願いだ……どうか……どうか……」
深々と頭を下げるフィーネ。最後の方は、消え入りそうな声だった。
フィーネには、既にこの戦いの行く末が見えているのだろう。恐らくはフルスが思い描いているのと、同じ未来が。
今、ゲールは虱潰しにエイルシュタット全土を捜索してフィーネを探している。粘り強い気質のエイルシュタット国民であるが、その心の支柱は国の象徴であるフィーネの存在。王が取られたら、ゲームは負けだ。
だがこのままでは、この秘密基地もいつかは見付かってフィーネは捕らえられる。心を折られたエイルシュタットの民達は、戦う気力を失って降伏するだろう。
それは避けようのない未来。既にあらゆる逃げ道は塞がれている。
だからフィーネは、イゼッタだけは救おうとしているのだ。公人たる彼女には許される事ではないのかも知れないが、大公ではなく、一人の少女として、己の友を助けようと。
『だけど……まだ、何とか出来る……筈……私なら』
しかしフルスには、イゼッタにもフィーネにも、ファルシュにすら教えていない奥の手があった。
彼女の一族が到達した奥義。
最後の魔法。
『……失うものを、恐れなければ……』
どのみちこのままでも、自分はあと数日も経たぬ内に廃人同然になる。その後は、程なくして死に至るだろう。
例えフィーネの願いを聞き届け、イゼッタをここから連れ出したとしても彼女を守り続ける事は叶わない。ファルシュも、自分が居なくなればそう長くは動いていられない。もって3ヶ月が限度だろう。そうなってイゼッタ一人だけが残って、それが何になると言うのだ?
ならば、最後の魔法を使うべきだ。どのみちすぐに喪われる命なら、何も生み出さず無為にじりじりと生き長らえるよりもより良い未来を創れる方に賭けるべきだ。
フルスの理性はそう訴える。
しかし、感情が訴えてくる。怖い。
『あれを使ったら、どうなるか分からないから……あれは、あれだけは……!!』
理性と感情がせめぎ合って、決心が付かない。
「……申し訳ありません。フィーネ様……少しだけ、考えさせて下さい……」
イエスともノーとも答える事が出来ず、フルスは逃げるようにフィーネの部屋を後にした。
どうしよう? どうすれば良い?
思考の迷路に陥った彼女は、自分がどこを歩いているかすら曖昧だったが……いつの間にか病室の入り口に立っている事に気付いた。
「もし君が、どうしてもこの状況をどうにかしたいのなら……方法はある……」
「?」
中からジークの声が聞こえてきて、覗き込んでみると……
ビアンカに支えられたイゼッタと、その対面にはジーク。そして彼の手には、掠れた視界の中でも見間違いようもない、紅い輝きがあった。
『魔石……そこにあったのか……!!』
弾かれるように入室したフルスは、ジークからイゼッタへと手渡されようとしていた魔石を奪い取った。
「フルスさん!?」「フルス殿……!!」
「イゼッタ……あなたに、これは使わせられない……これを魔女が使ったら……どうなるか……分かっているの?」
魔石は魔女の命を削り、力の条理を覆す禁忌。使い過ぎれば長くは生きられない。これは二つの魔女の一族の、双方に語り伝えられてきた伝承だった。
フルスは、今の自分はきっと真っ青な顔をしているのだろうなと思った。
「フルスさん、それを返して下さい!!」
「イゼッタ……でもこれは……!! これを使ったら、あなたは……!!」
「私なんて、どうなったっていい!! それより……姫様に、あんな顔させちゃった……あんなの、絶対に……!!」
「っ!!」
パン!!
乾いた音が、部屋に鳴った。
イゼッタの頬に、赤みが差していた。たった今、フルスが平手で打った跡だ。何秒か呆然とした後、イゼッタは戸惑ったようにフルスを見た。
「フルス……さん……」
「……ごめんなさい、イゼッタ……でも、自分を粗末にしないで……あなたを喪ってしまったら……私はそれこそロレッタに……あなたのお母さんに……どう詫びれば良いか……」
姉妹同然だった親友の顔が蘇る。写真の一枚も残ってはいないが、一度も忘れた事のない顔だ。
もし、イゼッタをここで止めなかったら、フルスはその顔をもう二度と思い出せなくなりそうな気がした。それは、死ぬよりも恐ろしい。
『……!!』
そう考えた時、何故だか気分が凄く楽になった気がした。
『……ああ……そうか………』
決心は付いた。
そして分かった事があった。
どうして自分が、ここまで戦ってきたのか。今になってそれがやっと分かった。
「ミュラー補佐官……申し訳ありませんが、フィーネ様を呼んできてもらえませんか? そしてビアンカ女史……ファルシュを連れてきて下さい。例の物を持ってくるようにと」
10分後、フィーネとファルシュが病室にやってきた。
ファルシュは隻腕で全長2メートルぐらいの箱を運び込んでくると、その上に腰掛けた。
「フルス殿……話とは?」
フィーネの顔は、ほんの少しだけだが明るかった。こうしてイゼッタの元に自分を連れてくるという事は、自分の願いを聞き入れてくれる気になったのだろうかと。
「……申し訳ありませんが……ビアンカ女史、ミュラー補佐官……お二人は少しだけ席を外していただけませんか? 私とイゼッタ、ファルシュ……そしてフィーネ様の4人だけで話がしたいのです……」
「フルス殿、それは……」
ビアンカが、口を挟もうとする。
彼女とて今更フルスがフィーネに危害を加えるなどとは思ってもいないが、しかしそれでも近衛の隊長として、フィーネが目の届かない所に居る状況というのはどうにも尻の座りが悪いものがあった。ジークも似たような心境なのだろう。渋い表情を見せていた。
「いや……良いのだ、二人とも。席を外してくれ」
「……は……フィーネ様……では何かあれば、すぐお呼び下さい」
そうしてビアンカとジークが退室し、病室の中にはイゼッタ、フィーネ、ファルシュ、そしてフルス。最初にフルスが望んだ者だけが残される。
「さぁ……これで4人だけだ……フルス殿……話とは……?」
「全て」
「……全て?」
鸚鵡返ししたフィーネに、フルスは頷いて返した。
「全ての真実を、イゼッタとフィーネ様……あなた達二人に伝えたい。私の過去に何があったのか……ファルシュの事……魔石の事……そして……」
少しだけ言い淀んで、しかしフルスはとても穏やかな声で続ける。
「そして、どうしてこの戦争が起こったのか……その、全てを……あなた達二人には、知っていてほしいんです……」