「はぁ……はぁ……」
体が熱い。息は早く、冷たい汗が止まらない。右手で押さえた腹部の傷からは出血が止まらず、服と手を紅く染め続けている。
最初は感覚の全てが痛みに埋め尽くされているようだったが、今では痛みを通り越しているのか何も感じなくなってきていた。
「ふふ……流石はお母様……とうの昔に現役は引退したと言うのに強かったじゃないですか……」
乾いた笑みと共に、私はひとりごちる。
一族から抜けて、次々繰り出される追っ手を全て返り討ちにし続けてきた私に差し向けられてきた最後の刺客は、母だった。母は一族を抜けた私を殺そうと襲ってきて……そして私は、母を殺した。これで、私の一族の魔女はもう私独りになった。その最後の一人も、もう少しで滅びようとしている。母の最後の一撃は、私に重傷を与えていた。
「……惨め、ね……私は……死ぬのか……こんな所で……何も出来ずに……何にもなれずに……」
自嘲の笑いと共に、私は掠れた声で漏らす。両の瞳からは我知らず、涙が伝っていた。
悔しい。無念だ。こんな筈じゃなかった。私は一族の宿命から逃れて、これからは人を殺さずに生きていく道を捜そうと思ったのに。
でも……仕方が無いかとも思う。
私はここに来るまで、多くの人を殺してきた。母の言うなりに。母に逆らって、殺されたくなかったから。
どんな理由があれ、人殺しの末路などこんな風に惨めなものなのだろう。
「……あなた、大丈夫!?」
声が、聞こえた気がした。
私の意識は一度そこで途切れて……
そして再び目覚めた時、私の体はベッドに横たえられていた。腹部を触ってみると包帯が巻かれていて、傷に手当てが施されているのが分かった。
「ああ、良かった。気が付いたのね。あなた森で倒れていて……三日も眠っていたのよ?」
私を覗き込むように見ていたのは、同じぐらいの年頃の紅い髪の少女だった。
「……あなたが、助けてくれたのね。ありがとう。私は、フルス……あなたは?」
「ロレッタ。私は、ロレッタだよ」
紅い髪の少女は、そう名乗った。
ロレッタは魔女だった。遠い昔に私の一族と袂を別った、もう一つの魔女の一族の末裔。
これが白き魔女・ゾフィーの出奔を切っ掛けに分かたれ、それ以降ずっと交わる事の無かった二つの魔女の一族が、再び交わった瞬間だった。
ロレッタの母は血に塗れた道を歩んできた私にあまりいい顔をしなかったが、一方でだからと言って力尽くで追い出そうとまではしなかった。
それからしばらくは、平穏な時間が続いた。元々行く当ての無かった私は、なし崩し的にロレッタ達と過ごす事になった。
ロレッタ達と過ごす中で私が魔法を使う事はなく、人を殺す事もなく。
人間らしい幸せが、そこにあるのだと実感する。私にとっては彼女達との一日一日が、まるで贈り物のようだった。
やがていくらかの時が流れ、私とロレッタは少女から大人になった。そしてロレッタに子供が産まれる。出産には私も立ち合った。赤ん坊を抱き上げた時に腕に走った重みを、私は今も覚えている。私は今までずっと命は羽より軽いものだとばかり思っていた。そのように母から教えられてきたし、事実、私は魔法を使えばほんの一瞬で何人もの命を断ち切る事が出来た。
でも、それが間違いであると分かった。理解し、実感出来た。
今、この手の中にある小さな命の何と儚く、何と重い事だろう。これが、命の重さの本当の意味なのだ。
「おめでとうロレッタ……元気な女の子よ……この子の名前はどうするの?」
「……イゼッタ。この子は、イゼッタ」
すくすくと育っていくイゼッタ。思えばこの頃が、私達の幸せの絶頂だった。だが、喜びの時は長くは続かなかった。
ロレッタが、病に倒れたのだ。
私やロレッタの母は何とか彼女を助けようと尽力したが流浪の身である私達の手元には満足な薬も無く、医者を連れてくるにもそんな金など何処にもなかった。
日に日に弱っていくロレッタ。何日も一睡もせずに彼女を看病して、憔悴していくロレッタの母。まだ幼く死の概念も理解出来ず無邪気に笑っているイゼッタ。
私には、耐えられなかった。彼女達を見ている事が。何より、どうにか出来る手段を持ちながらそれを自分がしない事が。
「ねぇ、フルス……私達、友達だよね?」
「うん……少なくとも、私はそう思っているわ。ロレッタ……」
「じゃあ、約束して」
「約束?」
「うん。お母さんはあなた達を人殺しの魔女と呼ぶけど……あなたがそんな人じゃないのは、優しい人なのは私が一番良く知っているから。だから、約束して。もう、誰も殺さない。何も壊さない……って」
「分かった。約束するわ、ロレッタ。私はもう、二度と魔法を使わない。もう、誰も殺さない。何も壊さない」
それは出会ってすぐの頃、交わした約束だった。
この数年間守り続けてきたその約束を、私は破った。
これが本当に最後と再び魔法を使って人を殺して……大金を手に入れ薬を買った。
私は、たった一人の親友を裏切った。
ロレッタは私を許さないだろう。私は、もう彼女にもイゼッタにも会えない。でも、それでも良い。たとえ二度と会えなくても、友達が元気で生きていて……その娘が健やかに育ってくれているのなら……私はそれで、十分幸せだから。
そう思って、隠れ住んでいた家の扉を開けて……
そこに居たのは……
「おばあちゃん、おかあさん、ずっとねちゃってるね? つかれちゃったの?」
そう尋ねるイゼッタと、泣き腫らしたのだろう眼を赤くしたロレッタの母。そして……ベッドに横たわって、もう二度と目覚める事の無い永い眠りに就いたロレッタだった。数え切れないほど”死”を見続けてきたから分かる。ロレッタの閉じられた瞼が開く事は、もう無いのだと。
「そんな……!!」
間に合わなかった。だが、それだけならまだ良かった。
病の進行が早まる事だってあるだろう。それだけならまだ諦める事だって出来た。
「ロレッタの最期の言葉を、そのまま伝えるよ……」
「おばさま……?」
「『フルスに、会いたい』。この子は……最期にそう言い残した」
「……!!」
世界が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
私の手から薬瓶が滑り落ちて、割れて中身が床に飛び散った。
私は、何をしていたのだ?
親友との約束を破って、彼女を救えなくて、最後の望みすら叶えてやれなかった。
だが……ならば私はどうすれば良かったと言うのだ?
最後まで、ロレッタの傍を離れるべきではなかったのか? 親友が、家族が死ぬと分かっていて、それをどうにか出来る手段を持っているのに?
あるいはもっと早く、約束を破る決意をしておけば良かったのか? そうすればたとえ憎まれても許されなくても、命は救えただろう。
答えは分からない。しかしたった一つだけ分かる事がある。
「救えなかった……」
私は、間違っていたのだ。
私は何もかも中途半端だった。
ロレッタとの約束を守る事に徹すれば、命は救えなくても心は救えた筈だ。
約束を破る決意さえ早くに出来ていれば、心を救えなくても命は救えた。
命か、心か。どちらを選ぶ事も出来ず、決断を遅らせて中途半端に動いた結果が……この有様だ。親友の命を救う事が出来ず、今際の際に立ち合って心を救う事も出来なかった。
そもそも私は本心からロレッタを救いたかったのか? 本当は、ロレッタとの約束を破る事が後ろめたくて、だからその決断を先送りにしたかっただけではないのか? 救いたかったのは友ではなく、結局の所、自分自身だったのではないのか?
「出て行け!! 二度とその顔見たくない!!」
ロレッタの母……イゼッタの祖母がそう言って私を追い出したのも当然だ。彼女は私が持ってきた高価な薬を見て、すぐに私が何をしたのかを悟ったのだ。
私は言われるがままに、二人の元から立ち去った。元よりロレッタを救った後は二度と彼女達とは会わないつもりだったし、何よりこんな事があってはおばさまにもイゼッタにも会わせる顔がなかった。
私は流浪の果てに炭坑の町に流れ着き……そこで後に夫となる人に出会った。
程なくして私達は結婚し、貧しくも静かな暮らしが始まった。それは私の人生で、二度目の幸福の時間。
主人は優しい人で彼との生活に不満など何も無かったが……一つ、心に残る事があるとすればそれは親友の忘れ形見であるイゼッタの事だった。おばさまも高齢だったし、彼女達は他に頼れる身内も居なかった筈だ。
何度も様子を見に行こうとするが、その度に約束を破った後ろめたさもあって思い留まった。
そのきっかけになったのは、娘が産まれた事だった。
私は産まれてきた自分の娘に……メーアと名付けた。
瞳を開けて、フルスは回想の海から意識を浮上させた。
「ロレッタ、メーア……あなた達は救えなかった。でも……イゼッタは……イゼッタだけは……必ず……必ず救うから……!!」
フルスは現在、エイルシュタット北西の要衝であるケネンベルクに居る。
フィーネと共にブリタニアでの会議から帰国して三ヶ月。ゲルマニアによる大規模侵攻は息を潜め、国境での小競り合いが行われる程度である。アトランタ合衆国では大陸への出兵のきざしもあり、それに対応する為の備えを行っているのではというのがジークやシュナイダー将軍の意見だった。
その間、フルスとイゼッタは近隣諸国のレジスタンスの支援に出る事が主な任務となり、今では彼女達は反ゲルマニアの象徴として扱われている。何もかもが順調に進んでいる。怖くなるほどに。
ゲルマニアの再侵攻は、その矢先の出来事だった。
東のゼルン回廊と北西のケネンベルクからの、二方面作戦である。
今までイゼッタとフルス、二人の魔女に散々に打ち破られているゲルマニア軍であるがしかし今回は全くの無策で挑んできたという訳ではないようだった。ここに来る前、ランツブルックにて行われた会議で、ハンスはゲールの新兵器と思しき戦車の写真を見せてきた。恐らくは対空兵器で、イゼッタやフルスに対抗する為の物であろうと。
しかしこの程度ならまだ何とかなるであろうというのは、イゼッタとフルス両名に共通した意見ではあった。
エイルシュタットでも魔女の力を最大限に活かす為、爆弾に安定翼を取り付けた空中魚雷なる新兵器が開発されているし、イゼッタの乗る対物ライフルにも様々な改良が加えられ、より魔女の専用武器として相応しい物となってきている。
フィーネの見解では今回ゲルマニア軍を退ける事が出来れば同盟各国の態勢も整い、ゲール包囲網も完成してゲルマニア帝国は各国との休戦に入る目もあるとの事だった。
力の均衡による危なげなものではあるが、それでもこの戦いに勝てば一時のものであろうと平和が戻ってくる。
そうした事情があったからイゼッタもフルスも、この一戦に懸ける想いには並々ならぬものがあった。
そして、イゼッタは東のゼルン回廊の守りに。フルスは西から攻め入ってくるゲルマニア軍迎撃の為に、ここケネンベルクに配置されていたのである。
「来た!! ゲールの戦車大隊です!!」
「魔女殿!!」
「ええ……」
この戦線の指揮を任されたエイルシュタット軍大佐に、フルスは頷いて返す。
「さあ……始めましょうか」
魔法で風を操り、浮遊したフルスは眼下に展開するゲルマニアの戦車隊を見下ろし……そして軍団の指揮者の如く手を振る。
するとその動きに連動するようにして、使い魔の如く彼女に従ってきた幾本もの大剣が魔力の誘導に従って直上より戦車に突き刺さる……
かと、思われたその瞬間だった。
どこからともなく飛来した別の大剣によって、フルスが繰り出した大剣が弾かれた。
「!!」
予想外の事態。
フルスは咄嗟に弾かれなかった大剣を呼び戻し、自分の周囲の空間に配置して防御を固める。
空気に魔力を流して操れるフルスは、一定距離内で動く物体の大凡の大きさや形、それに速度を肌で感じ取る事が出来る。彼女の感覚は、既に高速で接近する物体を捉えていた。
だが、違和感がある。
「これは……」
速度は戦闘機並み。だが大きさはずっと小さく、形状は流線型とはほど遠い。これではまるで……
「まるで……私達と同じ……」
想像と同じものが眼前に現れるまで、ほんの数秒だった。
フルスと同じ高さに滞空し、姿を見せたのはポールウェポンのような杖に乗った、一人の少女だった。ゲルマニア軍の軍服を身に纏い、雪のような銀色の髪と紅い目をした、イゼッタと同じぐらいの年頃の少女。
「……もう止めて下さい。フルスさん」
「……あなたは……」
「私はゾフィー。かつて、白き魔女と呼ばれた者です」
一方、ほぼ同時刻。遠く離れたゼルン回廊でも同じ状況が発生していた。
対物ライフルに跨るイゼッタの前に、彼女は知る由もないが服装・装備・容姿。全てがフルスの前に現れたのと瓜二つの、魔女が現れたのである。
「……もう止めて下さい。イゼッタさん」
「あ、あなたは……?」
「私はゾフィー。かつて、白き魔女と呼ばれた者です」