「ねぇ、フルス。これを見て、凄いわよ」
いつになくはしゃいだ様子で、母が新聞紙片手に歩いてきた。
渡された新聞を広げると、そこには一面記事で飛行機の写真が掲載されていて大きな文字で「軍で遂に飛行機の実用化に成功。空軍に配備」と書かれていた。
「人間もとうとう、飛行機を戦争に使うようになったのよ。ライト兄弟が飛行機を開発してから50年と経っていないのに、この早さは凄いわね。正直、驚いたわ」
確かにこれは驚きのニュースではあるが。しかし私にはもっと驚いた事があった。
「? どうしたの、フルス」
「いえ……驚いた……と言うか、意外だったので……」
「意外?」
「はい……お母様なら、てっきり『やっとこさ空を飛べるようになるなんて、人間もようやく私達の足下に及んだのね』とか言って勝ち誇るかと思ったので……」
私の知る限り、私の母は魔女の力を誇りにしている。
いや、誇りにしていると言うよりは依存していると言う方が正しいか。ある意味、母にとって魔女の力は宗教に於ける偶像に等しい。母にとって魔女の力は、全てなのだ。母にとって魔女の力を持たない子供に、価値は無い。
その証拠に、私には三人の姉と妹が一人居た。
そう、居たのだ。
姉達と妹は、母に殺された。尤も、母は”殺した”という認識すら持っていないだろうし、罪悪感もゼロだろう。私にしてみれば姉や妹は「何も悪い事をしていないのに殺された」が、母に言わせれば「魔女の力を持たずに生まれた事自体が悪い」のだ。母は自分の腹を痛めた子供を殺したのを、園芸や農業に於ける剪定や間引きのようなものと思っているのだ。
母の代でも一族の中で何人か魔法が使えない魔女が生まれたらしい。当然、それらの子供たちは殺処分されたそうだ。聞いた話だが、祖母の代でも母の代より数は少ないながら魔女の力を持たない子供が生まれたとか。魔女の力を持たない子供が生まれる割合が、代を重ねる事に増えてきている。
魔女の力は、少しずつ受け継ぐ者が少なくなっている。
これは魔女という種族そのものが、滅びつつあるのだろう。
だが、しかし。いやだからこそ、母にとって姉妹の中で唯一人魔女の力を持って生まれた私は希望の光に等しいのだろう。
……正直に言うなら、いい迷惑だ。
そこまで考えた所で、私は頭を振って思考を打ち切った。今、そんな事を考えた所で不毛だ。今は雌伏の時。魔女としての力や技術を高め、知識を蓄え、一族を抜けた後で追っ手が掛かっても撃退出来るだけの力を身に付ける事だけを考えるのだ。その時まで、私は母を利用し続ける。学べる知識や技術は吸収出来るだけ吸収させてもらう。
とにかく、私はここまで魔女の力に依存・固執・妄執している母はてっきりそれ以外のもの、特に科学の類については見下すだけの対象だとばかり思っていただけにこの反応は意外だった。それを受けて母は「ああ」と納得したように笑うと、ちっちっと指を振った。
「確かに私はこの力を誇りにしてはいるけど。でも、他の力を軽視するつもりは無いわ。私達の一族の中には銃が発展しつつあった時代に、銃を侮って銃に殺された魔女も居たの。そこから学んで……私は昔と同じ失敗を繰り返すつもりは無いわ」
「成る程」
内心、こんな所だけはまともだなと私は吐き捨てる。それだけ理性的な考えが出来るなら、魔女に未来が無い事だって気付きそうなものだが。
「……フルス、いずれあなたは飛行機と空中戦をする事になるかも知れない。その時の為に……あなたは学ばねばならないわ」
「学ぶ……何を、でしょうか?」
「空に於いて……飛行機が出来る事と出来ない事、魔女が出来る事と出来ない事を」
ソグネ・フィヨルド湾を眼下に見下ろす山中に立つフルスは、湾内に展開する艦隊を睥睨しつつ、ひとりごちた。
「本当に、人間は凄い……今では戦争に、航空機が実用化されているのだから……」
正直、自分が子供だった頃は戦闘機との戦いなど夢物語のように思っていた。
しかし現実には、これから自分は航空母艦を相手に戦おうとしている。空母という事は当然、艦載機を搭載している。その空母を攻撃するとなれば当然、迎撃の為に戦闘機が出てくるだろう。
「……でも、私は空中戦などするつもりは無いのだけどね」
その言葉を合図に周囲の物体に既に付与していた魔力を、活性化させる。
山間の木々に隠されていた魚雷が姿を見せる。無数の岩石が空中に浮かび上がる。
穏やかだった風が渦を巻き、ごうごうと恐ろしげな音が鳴る。
その風に持ち上げられて、フルスの体はふわりと空中に浮遊する。
これはまだ少女で魔法の習熟度の足りないイゼッタには、出来ない芸当である。
フルスは空を飛ぶのに、イゼッタが跨るライフルのような物体を必要としない。彼女は自分の周囲の空気に魔力を流し、その空気が巻き起こす気流に乗って空を飛ぶ。拡散し、散ってしまう気体に魔力を流して操る事はライフルのような固体とは比較にならない練度を必要とするが、しかしその利点は大きい。
何かに乗るのではなくその身一つで自在に空を飛び回るフルスの動きの自由度は、イゼッタを遥かに上回る。
そして空気の使い道は、ただ空を飛ぶだけではない。
「さて、始めましょうか」
4本の魚雷を引き連れ、太陽を巡る星の如く無数の岩石を周囲にぐるぐると回しながら山を越えて現れたフルスの姿を認めて、ソグネ・フィヨルド湾基地にはにわかに警報が鳴り響いた。既に、警戒の為に湾内に展開していた艦隊は陣形を組み直し、対空砲を乱射している。
しかし、当たらない。
軍艦の対空砲は、最低でも戦闘機ぐらいの大きさと運動性を持った対象を追い払うまたは撃ち落とす為のもの。
魔女のような、戦闘機よりもずっと速く、ずっと小さく、信じられないほど鋭角に動くような目標に当てられるようには造られていない。
ならば、戦闘機による迎撃だが……
「出られないとはどういう事だ!?」
空母ドラッヘンフェルスの甲板で、ゲルマニア帝国軍のエースパイロット、バスラー大尉は整備兵の胸ぐらを掴んで鬼気迫る表情で怒鳴った。
「さ……先程から信じられないような乱気流が発生していて……この状況での発艦など自殺行為です!!」
「ぐうっ……」
苛立ち紛れに、バスラーは整備兵から手を離した。確かに、今は肌が痛くなるほどの強風が吹き荒れている。
「じ……自分も長年船に乗っていますが……こんな風は今まで味わった事がありません!! も、もしかしたらこれも魔女の力では……!!」
「ええい!! なら、俺だけでも出る! 用意をしろ!!」
整備兵はそれを聞いて、正気を疑うような顔になった。
「死にますよ!?」
「俺を誰だと思っている!? 良いから、さっさと準備するんだ!!」
「……これだけの乱気流の中では、戦闘機は飛べないと思っていたけど……うん、勉強してきた事に間違いはなかったようね」
火線を縫うように飛びつつ、迎撃の為の戦闘機が出て来ないのを確認したフルスは満足そうに頷いた。
現在、湾内全体に発生している乱気流はフルスの魔法によるものだった。彼女は既にここに来るまでの道中で大量の空気に自分の魔力を流し、自らの眷属として引き連れてきていたのだ。それを動かして、彼女は局地的に台風かと錯覚するような暴風圏を作り出していた。
これだけの暴風の下では、航空機の発艦は危険極まる自殺行為。
洋上艦の対空砲などは取るに足りない。そして唯一の懸念要素であった戦闘機も発進出来ないとあればもう自分を阻むものは何も無い。
後は予定通り、連れてきた魚雷4本を空母に叩き込んで撃沈する。それで任務は完了する。
フルスはさっさと終わらせるべく魚雷を操ろうとして……
「!!」
周囲を取り巻く大気が、高速で接近する物体をフルスに教える。
フルスは長年の訓練と経験から肌でその大きさと形状、速度を把握して素早く迎撃態勢を取った。
大きさと形状は戦闘機クラス。だがそのスピードは、彼女が知るどんな戦闘機よりも速い。
「……新型? しかし、この風の中で飛び立てるなんて」
呟きつつ、フルスはターゲットを空母から戦闘機へと切り替えた。
たとえ一機であろうと、脅威を放置しておいては作戦の成否に関わる。
フルスはスピードを上げて戦闘機を振り切ろうとしたが、しかしここで彼女の表情には驚愕が露わになった。
「!! 付いてくる……!!」
ゲルマニア軍の制式戦闘機であるBf109であれば、このスピードには到底付いて来れない筈なのに。しかし現実にこの戦闘機は、ぴったりと自分の背後に追い縋ってくる。
照準を合わせた機銃が、火を噴く。
一発でも当たればフルスの体に綺麗な風穴を空けるであろう口径の弾丸が高速で飛んでくるが、しかし今度は、
「何っ!?」
新型機のパイロットであるバスラー大尉の方が驚く番だった。
フルスは自分の周りをぐるぐると回していた岩の幾つかを動かし、盾として使って全ての銃撃を防ぎ切ったのだ。
ここまでの攻防は、一進一退。しかしバスラーは手応えを感じていた。
機銃での攻撃は、フルスが盾として使った岩を確実に削っている。そしてフルスが従えている岩の数はそう多くはない。このまま攻撃を続けていれば、いずれ防ぐ物が無くなって機銃弾は魔女の体を蜂の巣にする。
「……成る程、凄いのは機体よりもパイロットの方か」
飛びながら、フルスが呟く。
このスピードで飛び回る自分に追いすがってくるのも凄いが、今の銃撃の狙いも正確だった。
「本当、人間は凄いわね……後、30年もすれば多分……私達魔女でも飛行機には勝てなくなるでしょうね」
魔女の力は失われつつある。歴代最強の力を持つ魔女である自分とイゼッタは、言わば燃え尽きる前のロウソク最後の輝きかさもなくば次代に繋げられない徒花か。しかしそれだけではなく、人間の科学の発展は魔法に追い付いてきつつある。
事実、銃にしてもそれが無い時代の者にとっては「火を噴く魔法の鉄の棒」と言える。飛行機だって百年前の人間には「空飛ぶ魔法の船」に見えるだろう。
「でも、まだ今は私の方が上よ。これで……」
岩の一つを戦闘機へと投げ付けようとしたフルスは、しかしその岩が突如としてコントロールを失った事に気付いた。
「!!」
咄嗟に攻撃を中止し、飛行するコースを変更するフルス。
この湾内は魔力の有る所と無い所にムラが激しい。魔力が無ければ、物体を操る事も空を飛ぶ事も出来ない。
フルスが周囲に岩石をぐるぐる回しながら引き連れてきていたのは、投擲武器や盾として使う目的もあったが、最大の用途は自分の周囲に展開させて魔力の切れ目を見付ける為の感知器として使う為だったのだ。進行方向の岩が操れなくなって落下すれば、そちらには魔力が無い事が分かるという寸法だ。
魔力のある空域へと退避した事で墜落は免れたフルスだったが、しかし攻撃のタイミングを逃した事で再びバスラー機に背後を取られてしまった。
「……!!」
「落ちろ!!」
照準器の中央にフルスを捕らえたバスラー大尉が、吼えた。
当たった。
撃つ前から、確信する。彼ほどの歴戦のパイロットをして、滅多にない感覚であった。
しかし操縦桿の引き金を絞ろうとしたその瞬間だった。
全ての常識を超えた事態が起きた。
「!? き、消えた!!」
しっかりとサイトに捉えていたフルスの姿が消失したのである。
上か、下か。それとも左右のどちらかに退避したのか。
バスラーは慌てて周囲を見渡すが、どこにも魔女の姿は見えない。
今までに掻いた事の無い汗がドボッと体中に湧いた居心地の悪さをバスラーが感じた瞬間だった。
ドガガガガッ!!
轟音。続け様に、衝撃が襲ってくる。
機体が急速にコントロールを失い、失速していく。
「こ、これは……!?」
見ると、機体の左翼に岩がめり込んで破損していた。
片翼をもがれた金属の鳥は、きりもみ状態になってまっすぐ海へ落ちていく。バスラーは何とか制御を取り戻そうとするが、その努力は無駄に終わった。何千時間も掛けて培ったあらゆる操縦テクニックも、機体が壊れていては無意味なものでしかなかった。
「く、くそっ……!!」
一体何が起こったのか?
それを理解する前に、風防から見える視界の全てが海で一杯になって、先程とは比べ物にならないほどの衝撃が襲ってきた。
バスラーの意識は、そこで途絶えた。
最新科学の結晶であった戦闘機はバラバラになって、残骸が海面に飛び散っていく。散らばった浮遊物はしばらく海面に漂っていたが、やがて海に沈んでいった。
「……残念だけど、今はまだ、魔法の方が科学を上回っているようね。私達魔女は、お伽話の昔から空を飛び続けてきた。飛べるようになって半世紀も経たないヒヨコには、まだ負けないわよ……」
戦闘機が墜落した海面を眺めながら、滞空するフルスが言った。
確かに新型戦闘機のスピードは、魔女に追従出来るものがあった。バスラーの腕も十分にそれを使いこなしていた。フルスと言えども、スピードで彼の愛機を振り切る事は不可能であったろう。だがどれほどの新型機であっても、どんな凄腕のエースパイロットであっても、戦闘機には絶対に出来ない事があった。そして魔女に出来る事が。
それは、加速ではなく減速。そして滞空。
高速で飛べる戦闘機は、発揮出来る速度が速ければ速いほど、一定以上の速度を出さねばならないように造られている。もしそのスピードを下回ってしまえば、失速して墜落してしまうからだ。
攻撃を受ける直前、バスラー機を振り切る事を不可能と見たフルスは一瞬にしてその空間に停止したのだ。すると当然、バスラー機は空中で止まったフルスをそのまま追い抜く形となる。
10、9、8……と徐々に減速していくのではなく、いきなり10から0に。トップスピードから停止するまでの速度差が酷すぎた為に、エースパイロットであるバスラーの動態視力ですら追い付かず、フルスに後ろを取られる形となってしまった。
そうして絶好の攻撃位置を確保したフルスは、岩を放り投げてそのままバスラー機の左翼を破壊したのだ。
「さて……」
これで、脅威は取り除かれた。後は任務を果たすのみ。
フルスは、引き連れていた魚雷4本を着水させ、空母へ向けて航走させた。
4本の水柱が立ち上り、ドラッヘンフェルスの巨体が真っ二つに割れて沈んでいく。
その様を、近くの高台からベルクマンとリッケルトは双眼鏡を手に観察していた。
「ドラッヘンフェルスが……沈む……!!」
愕然とした表情の部下とは対照的に、タバコを吹かすベルクマンの顔には笑みが浮かんでいた。
「高い買い物ではあったが……価値はあったね」
「? 少佐、それは……?」
「元々、ドラッヘンフェルスは捨てて構わない艦だったんだよ。再び海に出た所で、ブリタニア海軍が総力を挙げて沈めに来るだろうからね。だからこそ、陛下も今回の作戦に使う許可を出して下さったんだが……」
敢えて魔女を釣る為のエサとして用意し、特務がそれを間近で観察する為に。
空母一隻とその乗員、最新鋭の戦闘機とエースパイロット。失ったものは大きかったが、得られたものも大きかった。
魔女の力の弱点。それがはっきりと見えた。
あの魔女が周囲に展開していた岩石。
その一つが落下した瞬間、魔女は不自然な空中機動を行い、結果バスラー大尉に攻撃のチャンスを与える形となった。
魔女の力には使える所と使えない所がある。あの魔女が自分のぐるりを囲むように動かしていた岩石は言わば炭坑の金糸雀。力を使えない場所をいち早く察知する為の探知機であったのだろう。
「それに、大尉はある意味では幸せだったのかも知れないね。飛べなくなる前に、空で死ねて……」
「は?」
「近々、空軍への予算は大幅にカットされるそうだ」
「え、それは……どうしてですか?」
信じられないと、リッケルトが尋ね返してくる。
彼の疑問も当然ではある。
近隣諸国に戦争を仕掛けているゲルマニア帝国がここまで優勢を保っているのは、戦車と航空機を連携させた電撃戦による所が大きい。その自らの武器をより強化する為の予算を、増やすならば分かるが減らすとは一体どういう事だ?
「僕も聞きかじっただけだが……現在、帝国内である計画が進んでいるらしい。空軍からカットされた予算は、そちらに回されるそうだ」
「ある計画……」
鸚鵡返ししてくる部下に、ベルクマンは頷いて返した。
「計画の名前は……エクセ・コーズ」