ふと、目覚めた。
……知らない部屋だ。あの見慣れた殺風景な病室ではない。
おかしい。何故、私はあの病室の外に?
そもそも、私には最期の時が訪れたのではなかったか?
いや、そんな疑問は些事に過ぎない。
本当におかしいのは、失われた筈の首から下の感覚があることだ。
寝かされたベッドの柔らかさを全身で感じている。
開け放たれた窓から吹き込む風が、蒲団からはみ出た素足を撫でて行くのが分かる。
手に触れた毛布の手触りを感じる。
どうしたこと? これはいったい……?
暫し呆然と、ベッドの上に寝そべり続ける。
ただ、何時までも呆然ともしていられない。私は意を決して、感覚を取り戻した体に力を入れる。
すると、あまりにもあっけなく上半身を起こすことが出来た。
「本当にどうしたことなの、これは?」
思わずそんな呟きが零れ出る。
上半身を起こしたことにより、視界が高くなる。
私はゆっくりと部屋の中を見回す。
洋風の寝室だ。
一人で寝るには大き過ぎるキングサイズのベッド。
ベッド傍のサイドテーブルには、瀟洒なテーブルランプ。
少し離れた場所には、木製の衣装箪笥と大きな姿見がある。
私はその姿見に引き寄せられるようにベッドから抜け出した。
ひんやりとしたフローリングの上に足をのせる。
やはり、あっけなく立ち上がることが出来た。
歩き方を忘れたということもなく、問題なく姿見まで歩み寄る。
「………………………………」
驚き過ぎて、最早言葉も出ない。
姿見に映ったのは、西洋人の少女だった。
年の頃は、十四、五ぐらいか?
現実離れした、何とも不自然なまでに整った容姿の持ち主である。
寝癖と無縁と思えるさらさらの金砂の髪。
小さな
個々のパーツで見てもこれ以上なく整ったそれらが、奇跡的なバランスの良さで配されている。
首から下は一糸まとわぬ裸体だ。
白い陶磁器を思わせる滑らかな肌。胸は年相応の大きさか。巨乳ではないが、美しい形をしている。
くびれた腰に、信じられないぐらい細長い手足。
美の女神ですら嫉妬するような美少女。
そんな美少女が、困惑した表情で私を見つめ返している。
右手を上げてみた。姿見の中の少女も右手を上げる。
今度は逆の手を。やはり、姿見の中の少女も同じく手を上げる。
「うーん、これは………………」
姿見の中の美少女が、眉を潜めながら口を開く。
OK、認めよう。
この姿見の中の美少女に私はなっているのだと。
体が動くのも、前の体と違う体になっているからというわけだ。
疑問は全て解決した。……とは、当然いかない。
新たな疑問が湧いてくる。
何故、私はこのような別の体になってしまっているのか? それと……。
「この黒い……靄? 靄のようなモノは何?」
そう、少女の体からは、黒い靄、あるいは湯気のようなモノが立ち昇っていた。
この現象をどう飲み込めばいいのか?
これが、良いモノなのか、悪いモノなのかも分からない。
ただ、どうしたわけか、この黒い靄を体から垂れ流している現状が、直感的にマズイことであるように思われた。
どうにかして、この靄を抑えることが出来ないだろうか?
私は、立ち昇る靄に意識を集中する。
それを体に押し留めるように念じてみた。一秒、二秒、三秒……。
「んっ? 止まったわね。なんだか、体に纏わり付いた感じ……かしら?」
黒い靄は、肌の上を厚い膜のように覆っている。
思いの他上手くいった。上手くいったのだが……。
どうも腑に落ちない。何かが引っ掛る。何だ? 何だろう?
既視感とでも言えば良いのか? 私はこれを知っている。どうしてか強くそう思う。
……駄目だ。あと少しで思い出せそうなのに、思い出せない。そんなもどかしさを覚える。
一度首を振った。気持ちを切り替えよう。思い出せないのは仕方ない。
確認しなければいけないことは他にもある。
とにかく現状を把握するために出来ることをしよう。まずは家探しだろうか?
何かヒントになるものがあればいいのだけど……。
まずは衣装箪笥を開く。
家探ししようにも、裸のままでは落ち着かない。
取り敢えず服を着ることにしよう。
…………ふむ、ゴスロリか。
いや、別にいいのだけどね。
この体の本来の持ち主の趣味かしら?
まあ、西洋人形のような美少女だ。似合わないということもあるまい。
いそいそと下着を身に付ける。
そうして、黒を基調としたフリルの付いたワンピースを身に纏った。
姿見を覗き込む。こくこくと私は頷いた。
ああ、やっぱり良く似合う。
大きなお友達には大層人気が出ること請け合いだ。
……誘拐されないよう、気を付けた方がいいかもね。
さて、では家探しを始めましょうか。
ついと視線を動かす。
……この部屋の中には、もう見るべきものはないかしら?
そうね。なさそうだ。なら、部屋の外ね。
私はドアの方へと歩み寄る。そうして部屋の外へ……とはいかなくなった。
ドアノブを握った際に、それが視界の隅に過ったからだ。
どくんと、心臓が大きく脈打つ。
大きなベッドの傍、床の上に男が横たわっていた。
今までベッドの陰が死角になって見えなかったのだ。
……動かない。ごくりと生唾を飲み込む。
そろそろと、ベッドの傍に横たわる男へと近づいた。
そして、その顔を見下ろす。
その男は、痩せこけ、白髪の目立つ初老の男であった。
年齢はおそらく……五十後半から六十ぐらい?
肌は血色が無く、酷く青白い。
私はそっと、その頬に手を当てる。
冷たい。体温を感じられぬ肌。
「……死んでいる」
私は確認のためか、ポツリとそう呟く。
さて、どうしたものか? この男は一体何者だろう?
この体の父親……というには年が離れ過ぎている。
なら、祖父か何かかしら?
分からないわね。判断の材料が少ない……うん?
本だ。男の傍らに一冊の本が落ちているのを見つける。
装丁から日記だろうかと、当りをつける。
私は屈んでそれを拾うと、遠慮なくパラパラと頁をめくった。
「ッ!」
中身はやはり日記だった。日記だったのだが、記された文字が問題だ。
余りに独特な、印象深い文字。
先程とは比べ物にならない、強い既視感を覚える。
「ハンター文字……!」
そう、それは週刊ジャンプに掲載されていた人気漫画、『HUNTER×HUNTER』の作中に登場する文字であった。
何故、ハンター文字が? いや、それよりもどうして私はこの奇怪な文字を普通に読めるの?
頭の中が混乱して、思考がぐちゃぐちゃにかき混ざる。
そして、唐突にハッと思い当たる。
さっきの黒い靄! あれはひょっとするとオーラではなかったか?
そして、それを拡散しないよう留める技法……!
「念……能力」
そう、念能力。その中でも基礎とされる四大行の一つ、纏。
それこそが、私が行使した技法の正体。
「どうして……?」
まさか物語の中の世界に転生、いや憑依したとでもいうの?
そんな荒唐無稽なことが? だけど、状況証拠がそれが事実だと物語る。
この馬鹿げた推測が正しいとして、どうして私はこの世界の少女に憑依したのか?
私は手の中の日記を凝視する。
これを読めば、その疑問の答えが記されているだろうか?
私はベッドの隅に腰掛けると、本腰を入れて日記を読み耽り始めた。
その日記の中身は、一人の芸術家が理想を追いかけた軌跡であった。
憧れと言うには余りに生々しく、重く、暗い。そうね、妄執と呼ぶのが正しいだろう。
そんなものに憑り付かれた一人の男の物語。
男は子供の頃にある夢を見た。
その夢の中で、天使かと見紛う少女と邂逅した。
男はその少女に一瞬で心を奪われた。
ただ一度切り、夢の中で出会っただけの少女。
しかし、男は成長した後もその少女のことを忘れられない。
やがて、男はその少女を確かな形に残したいと思うようになった。
男は、まず絵画に手を出した。
日々の努力のお陰で、メキメキと画力を上げる男。
しかし、どれほど画力が上がろうと、キャンバスという平面上に描かれた少女は、彼の理想を体現していると言い難かった。
絵画に見切りをつけた男は筆を折る。
続いて彫刻に手を出した。
絵画と違い、立体感のある創作物ならあるいはと考えたのだ。
ただ、これも見切りをつけるに時間はかからなかった。
無機質な石像や銅像では、夢の中の少女が持つ魅力を余すことなく再現できなかったからだ。
次に、藁にも縋るような気持ちで人形師に弟子入りする。
しかし、やはり上手くいかない。
男は焦燥にかられる。
他に何か手段は? 自分に後どれだけの時間が残されている?
それまで見当違いの道を進んだばかりに、余りにも膨大な時間を無駄にしていた。
この時、男は既に五十歳を超えていた。
何かを新しく始めるには、余りに遅すぎる。
それでも理想を諦められない。男は妄執に突き動かされながら道を探る。
そんな折に、男はそれに出会った。そう、念能力である。
常識を覆しえる超常の力。男はそれに最後の希望を託した。
男が注目したのは念獣である。それも具現化系の念獣。
これならば、今度こそ理想を体現できるのではと考えた。
お誂え向きに、男の念系統は具現化系であった。
ただ、芸術家としては一流だった男だが、念能力者としては最低限の才能しか持たなかった。
その上、念を習得し始めたのも余りに遅すぎた。
男が念能力を極めるには、あらゆるものが足りない。
だが、たった一つだけ抜け道が残されていた。
それは誓約と制約である。
念能力を行使する上で、厳しい誓いや条件を付けることで、念能力を大幅に向上させる手法。
男は誓約と制約として、己の命を懸けることにした。
男の生涯は、理想の少女を生み出すためのもの。
ならば、その集大成が完成する瞬間こそが、自分の人生の終わりであることが相応しいと思ったのである。
かくして、自らの命を代価に念能力を完成させたのだった。
「……そうして生まれたのが、この体というわけね」
なるほど、凡そのことは把握できた。
何故、私がこの体に憑依したのかという謎は残るが……。
その疑問にも、一つの仮説を立てることができる。
それは死者の念だ。
死者が遺した念はより強力なものになりえる。
男の命を懸けるという誓約が、図らずしも死者の念へと繋がったのだ。
結果として、男が想定していた以上の念能力となったのではないか?
よりリアルな少女を生み出すために、死者の念が私という異世界の魂を取り込んだ。
そう考えれば、私がこの体に憑依した理由として説明が通る。
勿論、あくまでも仮説。
真実は知りようがない。ただ、それは重要なことではない。
そう、重要なことは……!
「ああ、本当に奇跡が起きた! 神様のクソッタレに感謝しなくてはね!」
そうだ! 新しい体! 達磨のように動けない体じゃない!
私は自分の足で外へと出て行ける! これでやっと……!
「やっと外へと飛び出して、色々なものを滅茶苦茶に壊しに行ける! 平凡な幸福を享受している連中に絶望を与えてやれる!」
アレルヤ! なんて素晴らしいの!
それに、思い一つで人を呪えたらなんて、そんなかつての細やかな願いも叶ってしまった。
そう、念能力を以てすれば、そんなことも可能なのだ!
何を壊そう? 誰を苦しめよう? どんな呪いを振り撒こう?
ああ、心が躍るわ! 私には今、無限の可能性が存在している!
はてさて、どうしようかしら? 本当に悩ましい。嬉しい悩みだ。
何をしようかだなんて、そんな悩みをまた持てるなんて!
あっ! そうだ。一つ思いついた。
それは一度思いつけば、もうそれしかないってくらい魅力的な案に思える。
ここは物語の世界。物語には当然主人公がいる。
夢と、希望と、冒険に溢れた未来が約束された主人公。ゴン・フリークス。
彼の希望に輝く瞳を、絶望に染め上げれば、それはどれほどの悦びになるだろう?
決めた! 決めた! 決めた!
待っていてね、ゴン。あなたの人生を、私が滅茶苦茶にして上げるから。
私は恋する少女のように、まだ見ぬ少年へと思いを馳せたのだった。