恋のリート   作:グローイング

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大洗の長い一日② 沙織との約束

 幼なじみの沙織が少年を抱きしめているのを見て、麻子は話題も忘れるほどに顔面を蒼白にした。

 

「沙織! お前、いくら男に飢えているからって、ついに見境なく!」

「いやいや、そういう感じではないようですよ冷泉殿」

 

 古い少女漫画のように白目になっている麻子に対し、すかさず優花里はフォローを入れた。

 実際、沙織は飢えた肉食系女子と化したわけではない。

 彼女の表情は、まるで無茶する弟のことを慮る姉のように切なさを宿したものだった。

 

「武部さん、なぜ、泣かれるのですか?」

 

 とつぜん抱きしめられた武佐士は、何が起こっているのかわからず、ただ慌てていた。

 そんな武佐士の態度が、沙織の瞳をより潤ませる。

 

「弟くんが危なっかしいからだよ!」

 

 沙織は武佐士を強く抱きしめる。

 また彼が気が付かないうちに、危ない場所に行かないように。

 

 沙織はいま、激しく怒っていた。

 

「なにが『皆さんが傷つかなくてよかった』よ! 弟くんは傷ついているじゃない!」

 

 治療が終わるや、「なにはともあれ」とそう呟いた武佐士。

 まるで自分は傷ついても大したことはないと遠まわしに言っている武佐士を見て、沙織の中で制御できない感情が湧き出た。

 

「弟くんのバカバカ! 何でそんなこと平気で言うの?」

「武部さん? あの、お気遣いは嬉しく思いますが、ケガ自体はこの程度で済んだのですから、そこまで気に病まなくとも……」

「そういう問題じゃないでしょ!」

 

 見当違いも甚だしい武佐士に、沙織は一層怒りと悲しさを募らせる。

 武佐士が言っているのは結果論でしかない。

 

「どうしてわからないの? わたしが怒ってるのは、そういうことじゃないよ」

 

 軽傷で済んだからといって、「よかったね」などと口にできない。

 そもそも……

 

 

 

「死んでたかもしれないんだよ?」

 

 武佐士がしたことは確かに立派かもしれない。正義の行いかもしれない。

 それでも沙織は受け入れるわけにはいかなかった。

 

 どんな言葉で取り繕うと、それは──

 

 命のやり取りだったのだから。

 

「ダメだよ弟くん」

 

 武佐士の首筋に、いくつもの熱い涙が落ちた。

 

「ダメだよ。もっと自分を大事しなきゃ。見てられないよ」

 

 人助けのために平然と命を懸けられる武佐士が、沙織は怖かった。

 迷いなく危険な渦中に身を投げられる武佐士が、沙織は怖かった。

 だがなによりも、その命が消えていたかもしれないという事実が、一番怖かった。

 

「弟くんのこと、凄いって思うよ? でもね、それでも、あんなマネしちゃダメだよ。すごく、すごく怖かったんだから……」

「武部さん。ですが、僕が行かなければ、もっと被害が出ていたかもしれない。警察が来る前に、手遅れになっていたかもしれない」

 

 武佐士は頑なに言った。

 

「『自分なら助けられるかもしれない』。それがわかっているのに、逃げるのは卑怯なことなんです。なにより」

 

 静かな声の中に、武佐士は感情を込める。

 

「誰かが悲しむのは、嫌なんです」

 

 それが武佐士の行動理念であることは間違いなかった。人はそんな彼を褒めたたえるかもしれない。

 しかし、

 

「なら、いまわたしが悲しんでるのはいいの?」

「……」

 

 沙織はその理念の隙に刃を突き立てた。

 

「みぽりんの前でも、同じこと言える?」

 

 そして、彼にとって一番答えに窮するであろう存在を引き合いに出した。

 

 返事はなかった。

 その時点で、天秤は沙織のほうへ傾いた。

 

「弟くんには、弟くんなりに譲れないものがあるんだよね? それはわかるよ。でもね……」

 

 穏やかな声で、沙織は語りかける。

 

「約束して? 大洗(ここ)にいる間だけは、危ないことはしないって」

 

 きっと武佐士は、これまでも今日のように誰かを救うために奔走してきたのだろう。純粋な心に宿る勇気と正義で、悪人と戦ってきたのだろう。

 それが彼の日常なのかもしれない。彼の住む世界は、見ている世界は、明らかに自分たちとは異なる。

 それでも沙織は言う。

 少なくとも、ここにいるときだけは、普通の男の子でいてほしいと。

 そうでなければ、

 

「危ないことばっかりしてたら、みぽりんが……お姉さんが心配で泣いちゃうよ?」

 

 みほもきっと、日頃からこんな風に弟の身を案じていたに違いない。会ったばかりの自分ですら、こんなにもハラハラしてしまうのだから。

 そんな親友の心労を思うならばこそ、今この場で言い聞かせなければならなかった。

 

 沙織は争いごとが嫌いだ。

 戦車道の試合ならともかく、傷つけあうだけの争いは、悲しみしか生まない。

 それで誰かが帰らぬ人になってしまったら、それ以上の悲しみはない。

 大事な人たちが傷つかずに済む道があるのなら、格好悪くたって、情けなくたって構わない。

 笑顔で触れ合えるのなら、それが一番いいはずだから。

 

 武部沙織という少女は、自然とそう考えられる人間だった。

 だからこそ、会って間もない相手にでも、本気の涙を流せるほどに、心配することができる。

 だからこそ、《本当の思いやり》を前にした少年の心を、打つことができる。

 

「武部さん……ごめんなさい」

 

 いまだに泣きながら抱きしめる沙織を、武佐士も同じように抱きしめた。詫びるように、落ち着かせるように。

 いま彼の瞳に正義の火は灯っていない。代わりにあるのは、水のように清らかな静けさだった。

 

「約束、します。ここに滞在している間は、無茶なマネは致しません」

「……絶対だよ?」

「はい。絶対です」

「みぽりん悲しませるようなことしたら、許さないからね? いくら弟くんでも」

「心得ております」

 

 誓いを口にする武佐士の声に、深い重みが加わった。

 

 そして、続いて漏れた呟きは、とても安心しきった声だった。

 

「あなたで、よかった」

 

 みほ姉さんの傍にいてくれた人が、あなたでよかった。

 

 言外でそう伝えられたのが、沙織にはわかった。

 ふと、胸の奥から熱いものが込み上がるの感じた。

 密着した肌が、火照ってきた。

 武佐士の鍛えられた両腕は、沙織の華奢な肉体をいっぱいに包んでいる。

 固い筋骨が、少女の柔らかなひと肌に吸い込まれるように埋もれていく。

 

 男の子なんだ、と今更になって沙織は自分が異性と抱き合っていることを意識する。

 幼い頃に父親に抱きしめてもらったのとはまるで違う。

 成長した女のカラダが初めて知る、男性の感触。

 ドクンという音が耳で聴きとれるほどに、心臓が高鳴っている。頭の中が、火でぼうっと燃えているように熱い。

 

 一瞬、彼が親友の弟であることを忘れた。

 それとはまったく別の対象として、意識が占められていく。

 心のどこからか、自分ものとは思えない艶を孕んだ囁きがする。

 できることなら、もう少しこのまま……

 

「話は済んだろ? いつまで抱き合ってるんだ」

 

 麻子の冷めた指摘に、二人は我に返ってパッと離れた。

 

「真面目な話してるかと思ったら、なに変な空気を出しとるんだお前ら」

 

 麻子が呆れ気味に呟く。

 

「だ、大胆なことなさいますね、武部殿」

 

 優花里にしては珍しく、ドキドキと乙女の顔を浮かべて言った。

 沙織は瞬く間に、自分がしたことを思い出して茹蛸のように赤くなった。

 

「おおお、弟くん! あああ、あのね? いまのは、その、ふふふ、深い意味はないからね? 親戚の男の子にしてあげるのと同じ感じみたいな? 家に帰って来た猫ちゃんを抱きしめてあげるみたいな? そそそ、そんな感じだから!」

 

 我ながら混乱しているなと思いながら、沙織はあたふたと言い訳を並べた。

 

「いえ、気にしておりません」

 

 対して、武佐士は随分と冷静であった。

 というよりも、

 

「むしろ、たいへん役得でした」

「あらヤダこの子ったら素直!」

 

 単に躊躇いというものがないだけだった。

 親指を立てて馬鹿正直に本音を打ち明ける武佐士。

 

「たいへんご立派な胸部を間近で体感したことにより、男性として深く感激致しました」

「清々しいくらいに正直だから逆に怒れない!」

 

 女性としては許しがたい発言も、武佐士が堂々と言うと、なぜか卑しいものに聞こえないのだから不思議であった。

 

 

 

 

 

「やっぱり武部殿は優しいですね」

「昔からああだからな、アイツは」

 

 二人のやり取りを始終見ていた優花里と麻子は、苦笑交じりに言った。

 いきなり抱きしめ合ったことには驚いたが、結果的には武佐士を落ち着かせた沙織に、親友として改めて感服していた。

 自分たちが説得したところで、武佐士は考えを改めなかっただろう。心を開いて相手と向き合える沙織だからこそ、できたことだ。

 

 沙織に向ける武佐士の瞳には、より強い尊敬と憧憬の色が加わったように思えた。

 彼女の思いやり深い心が、姉のみほにとって大きな支えになっていることを実感したのだ。

 みほはチームメイトの全員を頼りにしており、それぞれの役割に対し絶対の信頼を置いている。しかし、精神的な面で最も頼りにしているのは、間違いなく沙織だった。

 

 沙織がどれだけ姉にとってかけがえのない存在か、武佐士は胸に刻んだことだろう。

 この先、沙織に対し頭が上がらないに違いない。

 

「またしても『お姉さんらしい』ところを発揮してしまいましたね、武部殿」

「五十鈴さんがまた駄々をこねそうだな」

「……そういえば、先ほどから五十鈴殿が静かな気がしますが」

「ふむ。言われてみると」

 

 事件現場から逃走してからというもの、華はずっと沈黙を決め込んでいる。会話に加わってすらいない。

 先ほどの武佐士と沙織のやり取りを見ようものなら「ずるいです! わたくしも武佐士さんを抱きしめます!」と言いそうなものだが。

 

 視線を華に移す。

 

「「えっ」」

 

 麻子と優花里は思わず息を呑んだ。

 

 目の前に薔薇色の空間がある。

 近づけば最後、一瞬で意識を蕩かしてしまいそうな甘ったるい空気を漂わせた、もはや亜空間と称すべきもの。

 その中心で、華は立っていた。

 ウットリ、と。

 

「武佐士、さん」

 

 華は、もはや尋常でない領域と言えるほどの、乙女の顔をしていた。

 

「武佐士さん……ああ、武佐士さん」

 

 囁く声色。潤んだ瞳。赤味を帯びた頬と首筋。

 すべてを取っても、いまの華は途方もなく()()()()()()

 道行く男どころか、同性の麻子や優花里までも心が射貫(いぬ)かれてしまいそうなほどに。

 感覚を麻痺させる艶顔を浮かべながら、華は一人の少年だけを見つめていた。

 

「武佐士さん。真面目で、愛らしい上に、逞しさと強さも持ち合わせていらっしゃるだなんて──そんな、わたくし……わたくし……」

 

 両手で頬を抑えて「どうしましょう」と華は身体を揺する。何に困っているのかは不明だが、とにかく蠱惑的であった。

 

「あれは、なんというか……」

「ええ。たぶんですが……」

 

 沙織と武佐士が抱き合っていても、なぜ華は反応を示さないのか。麻子と優花里は理解した。

 

 武佐士しか見えていないのだ。

 恐らく、悪人たちを成敗し始めたところから、彼以外、認識できていないのだろう。

 タイマンやカチコミという用語を使いたがるように、華はどうも任侠映画の類を好いている。そんな彼女にとって武佐士の活躍は琴線に触れるものだったに違いない。

 ……ただ、あれほど色情の溢れた顔を見ていると、それだけが理由とは思えなかったが。

 

「秋山さん。気のせいか、五十鈴さんの目の中にハートマークが浮かんでいるように見えるんだが」

「奇遇ですね。わたしにも確認できるであります」

 

 一方、武佐士はそんな華の情熱的な視線にも気づかず、沙織の胸部についてあくまで真面目に褒め称えていた。

 

「母性溢れる豊満な柔らかさは思わず赤子に立ち戻ったような心境に陥りました。武部さんは素晴らしい母になられることでしょう」

「普通ならセクハラなのにギリギリ嬉しいこと言ってくれるから怒れない!」

 

 夕焼けに染まり始めた空に、沙織の「やだもー!」という声が響き渡った。

 




 そういえば、しほ様の抱き枕カバーが公式から発売されるようですね。
 サンプル画像を西住姉妹に突きつけて「ねえ。どんな気持ち? 自分の母親が抱き枕カバーになるってどんな気持ち?」って言いたい(闇)

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