恋のリート 作:グローイング
さて、いつまでも立ち話も何だという具合に、あんこうチーム一行と武佐士は移動を開始した。
「じゃあ弟くん。このまま一緒にみぽりんの寮に行こうよ。わたしたちが案内するから」
「重ね重ねのご厚情、いたみ入ります」
沙織の言葉に武佐士は恭しく頭を下げる。
相変わらず歳不相応な礼節を少女たちに見せる武佐士であったが、その頬は子どものように朱に染まった。
「実は、なかなか姉さんの住まいにたどり着けなくて、困っていたところだったのです」
言葉は堅くとも照れくさそうに頭をかく少年の姿に、沙織は思わずクスリと笑ってしまった。
「初めて来た場所ならしょうがないよ弟くん。お姉さんたちがちゃんと案内してあげ……」
「みほ姉さんの気配を追って進んでいたのですが、やはり障害物があるとどうも真っ直ぐにたどり着けなくて」
「うん。いろいろと突っ込んでたら、たぶん日が暮れると思うからもう何も言わないね♪」
沙織も沙織で、そろそろ武佐士の奇抜な言動に対応できるようになっていた。
「武佐士さん。よろしければわたくしと手を繋いで行きましょう? そうすれば迷いませんよ♪」
「え?」
華はウットリした顔でそんなことを提案してきた。
武佐士のみならず友人の三人も、大胆なことを言う華相手に驚きの声を上げた。
「華さん。さすがに僕もそれは羞恥心が生じると申しますか……」
「もう。“華姉さん”とお呼びくださいと言っているじゃないですか、武佐士さん」
「む、むむう……」
鉄面皮ながらも恥ずかしがる反応を見せる武佐士。そんな姿を華はますます愛らしく感じたのか、「さあさあ武佐士さん♪」と良い笑顔でズイズイと少年に迫っていく。
「も、もう華ったら!」
法悦に濡れた顔つきで距離を縮めようとする華の動きを、沙織は肩を掴んで制した。
「お、弟くんちょっと待っててね~」
「まあ。何をなさるんですか沙織さん?」
「いいからこっち来て!」
見かねた沙織は、華の背中を押して少年から遠ざけた。武佐士の耳に届かない距離でひそひそと華に尋ねる。
「もう、どうしちゃったのよ華」
「何がですか?」
「何がって……華があそこまで男の子相手にお熱上げるところなんて初めて見たよ」
「そうでしょうか?」
「自覚ないんかい」
いつものように「ぽやっ」とした顔で首を傾げる華だったが、長い付き合いである沙織だけは今の親友が明らかに舞い上がっていることを見抜いていた。
「さっきだって弟くんに抱きついたりしてたし。ダメでしょ男の子相手にあんな大胆なことしちゃ」
「わたくし、そこまで大胆なことしていましたか?」
「どう考えても年頃の男の子には刺激が強すぎるでしょうが」
お淑やかでスタイル抜群の美人に強引に迫られて動揺しない青少年はいないだろう。
しかし生粋のお嬢様育ちであり、奉公人の新三郎以外の男性と触れ合ってこなかったためか、思春期まっただ中の少年の感情の機微に関して、華はいっさい無頓着であるようだった。
別に友人の弟をかわいらしく思うのは悪いことではない。が、だからといって年端も考えない過剰なスキンシップは淑女を志す戦車道女子として如何なものだろうか。親友としては見過ごせないことだ。正気に戻さなければならない。
……というよりも自分の前でラブコメっぽいことをされるのは我慢ならない。
「直球で聞いちゃうけど、華ってああいう子が好みなの?」
「好み? 恋愛対象として好いているかという意味ですか?」
「そうそう」
沙織の問いにきょとんと驚きの顔を浮かべた華だが、すぐに清楚で爽やかな笑顔を見せ、
「まさか~。沙織さんじゃあるまいし、出会って間もない殿方に恋愛感情をいだくわけじゃないですか~」
「あのね華……人のこと男たらしみたいに引き合いに出さないでよ」
「違うんですか?」
「わたしだって見境なく惚れるわけじゃないよ!」
相も変わらず天然で毒舌を放つ親友であった。
とりあえず、華は別に恋愛感情による暴走から武佐士に熱烈なアプローチをしかけているわけではないらしい。
となると、やはり今の華の浮かれぶりは戸惑いを起こさせるものだった。
「恋愛感情ないなら、何であそこまで弟くんとスキンシップ取ろうとするの?」
「それは、その……」
ここで華は人並みに少女らしい恥じらいを見せた。手を交差させてモジモジとしだす。
おかげで両方の二の腕に挟まれた豊満なバストがなんとも悩ましくたわむので、沙織は青少年の目に映らないよう、自らの身体を壁にして遮った。
華は熱に浮かされたような色っぽい吐息をつきながら語る。
「そのですね。武佐士さんが……」
「弟くんが?」
「わたくしの──理想の“弟像”なんです」
「うお……っ」
沙織の問いに、華はまたもやウットリとした笑顔を浮かべて答えた。女の沙織から見ても思わず「エロッ」と感じてしまうほどに、それは女性の艶を宿した笑顔だった。
「わたくしずっと一人っ子でしたから、妹や弟がいたらなあと、ひそかに憧れていたんです」
「そ、そうなんだ」
「特に武佐士さんのような弟が欲しかったんです♪」
「へ、へえ」
つまり今の華を例えるならば、
『遊びに行った友人宅で出会った下の子が可愛いあまり、お姉さんのように構いたくてしょうがない』
という具合に、一人っ子特有の感情を持て余しているだけのようである。
……ただ、口で言うわりに華の表情がずいぶん雌としての色情に満ちあふれているのは気になったが。
「ああ、みほさんが羨ましいです。あんなに純粋で優しくて愛らしい弟さんがいらっしゃるだなんて。わたくしが姉だったら絶対に溺愛してしまいます」
「まあ確かに、ちょっと放っておけないなあ、って気持ちにはさせられるけど」
華が武佐士に対していだく感情が母性愛ならぬ『姉性愛』ならば、沙織のは順当に前者であった。
もともと面倒見のいい『オカン気質』の沙織である。礼儀正しくはあるがマイペースに天然を見せつける武佐士のようなタイプは、見ていてつい「危なっかしいなあ」と世話を焼きたくなってしまう。転校したばかりで独りぼっちだったみほ相手にそうしたように。
そう思わせる点は、さすがは姉弟だと実感する。だからなのか、会って間もない少年をすでに身近な存在として意識しつつある。
「なんだか、不思議な子だよね。今日初めて会った感じがしないもん」
程度の差はあれ、短時間の触れ合いだけで少女たちが武佐士に対し親しみを覚えているのは事実であった。
彼の純朴でひたむきな姿勢は、気づくと人の警戒心を解き、なごやかな空気を生みだす。
いつのまにか旧来の友人のように語り合っており、遠慮のないやり取りができてしまう。
場合によっては、華のように庇護欲を刺激し、心の壁を取り払っている。
それはひとえに武佐士の人柄によるものかもしれない。小動物を無条件で愛でたくなるのと似た感覚を、彼は醸し出す。
子猫が人間の少年に化けたとしたら、武佐士のようなタイプができあがるかもしれない。
猫とはよく気まぐれを起こして、周りを振り回す動物である。
例えがまさしく的を射ているような展開に、これから彼女たちは巻き込まれることになる。
「あ、あの武部殿、五十鈴殿! お取り込み中すみませんが……」
「どうかしたのゆかりん?」
とつぜん優花里が慌てて声をかけてきたので首を傾げる沙織。
「その、お二人が話している間に弟殿が……」
「武佐士さんがどうかされたんですか?」
華の問いに麻子は平静な顔つきで答える。
「『助けを求める気配がする』とか言って、どっかに飛んでいったぞ」
「「え?」」
* * *
「おばあさま。よろしければ階段に昇るのをお手伝いいたします」
「あら、ご親切にどうも」
歩道橋の階段で難儀していた老婆に武佐士は手を貸し、歩幅を揃えて一緒に昇っていた。
「いまどき感心な若者さんだね~」
「いえ。見て見ぬフリする自分が許せないだけですから、お気になさらず」
老婆の賛辞に武佐士は謙遜気味にほほ笑んだ。
「うわーん! お母さ~んどこ~!?」
一方、商店街では男の子の泣き声がけたたましく響いていた。
学園艦に務めるスタッフが所帯持ちで子どもがまだ幼い場合、一家全員が海上で生活を送る。そのため今のように親とはぐれた迷子が出るのは学園艦でも日常的な光景だった。
日常的であるがゆえに、通行人の誰も気に留めず過ぎ去ってしまう中、一人の少年が声をかける。
「坊や。泣いてるだけじゃ何も変わらないぞ?」
「え?」
男の子の前に屈んだ武佐士は、ぽんと小さな頭に手を置いた。
「ここに立ったままで、助けを待ってるだけじゃダメだ。自分から動かないと」
穏やかな口調ではあったが、子ども相手でも甘やかさない色合いがあった。
「歩こ。お母さんを捜しに」
「歩きたくないよ」
「お兄ちゃんも一緒に捜してあげるから。ほら、いつまでも泣かない。男だろ?」
「……うん」
武佐士の静かな檄が幼い心にも響いたのか、男の子は泣き止んで歩き出した。
手を繋いでしばらく一緒に歩いていると、息子の名前を呼ぶ母親と無事会うことができた。
「よかったね坊や」
「うん! おにいちゃんありがとう!」
「君が勇気を出して歩いたからだよ? 偉い偉い」
武佐士が頭を撫でると男の子は誇らしげに白い歯を出した。先ほどの泣きベソは微塵もなかった。
男の子はこの武佐士との出会いをきっかけに泣き虫を卒業し、母親も感心する勇気ある少年へと育っていくことになる。
そんな具合に武佐士は次々と……
「ああ! せっかく買った果物が坂道に落ちて!」
「ふんふんふん! すべて拾いました。幸いすべて無事です」
「え? あ、ありがとうございます」
買い物袋から落ちた果物の山を拾ったり、
「離婚よ離婚! あなた仕事と家庭どっちが大事なの!? 子どもだってもうすぐ陸の小学校に通うのよ!? いつまで学園艦で暮らすつもり!?」
「そんなこと言われたって、いまさら陸で職探しするのもなあ……」
「お二人とも。まず、お子さんのことを一番に考えてあげてください」
「っ!? そ、そうだな。子どもの将来をなによりも考えないとな。わかった。俺、陸で働くよ」
「あなた……私こそ、無理言ってごめんなさい」
深刻な夫婦喧嘩を仲裁したり、
「はあ~自分はダメな人間だ。夢も希望もない……」
「あなたが小さい頃好きだったものを思い出してください」
「小さい頃……そうだ俺、ほんとうは料理人になっておいしい料理でたくさんの人に喜んでもらいたかったんだ」
「素敵な夢じゃないですか。ぜひ実現してください」
「ありがとう。なんだか生きる気力湧いてきたよ」
落ち込んでいる社会人を励ましたりした。
「……いい子だ」
「いい子ですね」
「いい子過ぎるだろ」
いきなりいなくなった武佐士を無事見つけたあんこうチームは、少年の人助けを一部始終見ていた。
息を吸うように困っている人のもとへ向かい、あっさりと問題を解決してしまう武佐士の手腕は、感心よりも当惑をいだかせるものだった。
「なんなのあの子? 正義の味方でも目指してるの?」
「警察よりもずっと人助けしてますね」
「お人好しじゃ済まないレベルだな」
そう話している間にも、武佐士はまたひとつ、またひとつと人助けを果たしていた。
「武佐士さん、なんてお優しい心を持たれた
鮮やかに人々を笑顔にしていく少年の活躍に、華だけは目を輝かせて見惚れていた。
その眼差しはとてもではないが、弟のような存在に向けるものとは思えない熱いものが宿っていた。
頬まで赤くして恍惚としている華に、沙織は疑念の視線を送る。
「……ねえ、華。ほんとうに弟くんに恋したわけじゃないんだよね?」
「もう沙織さんたら。出会ったばかりの殿方に恋をするなんてありえないと先ほどおっしゃったじゃないですかあ♪」
「そう……」
本人がそう力説するなら納得するしかあるまい。
「てか、それより早くみぽりんのとこ行かないと日が暮れちゃうよ。弟く~ん! 寄り道してないで行くよお!」
「あ、皆さん」
「『あ、皆さん』じゃないでしょ! もう、ダメだよ! 勝手にどっかに行っちゃ! みんな心配するでしょ!?」
「え? あ。も、申し訳ございません」
ぷんすかと姉御肌を発揮して怒る沙織に弟気質を刺激された武佐士は、反射的に平謝りをした。
「困っている人を見かけるとつい身体が動いてしまって……」
「それは感心だけど、みぽりんと約束してるんだから、そっち優先しなきゃダメでしょ? みぽりん、弟くんが来るのずっと楽しみにしてたんだから」
「みほ姉さんが……」
「うん。だから早くお姉さんに会いに行こ? もう充分いいことしたんだから、胸を張ってさ。ね?」
「武部さん……はい。わかりました」
「うん♪ いい返事♪」
穏やかな笑顔で頷く武佐士に、優しい声色で沙織はほほ笑み返した。
ちゃんと叱った上で、慰め、かつ褒め称える沙織の見事な姉ぶりに、優花里と麻子は感心した眼差しを送る。
「わあ~。さすがは武部殿ですね~。もう弟殿と姉弟感覚で接してます」
「こっちのほうがまさに『姉と弟』という感じがするな」
麻子の発言に華がピクリと反応する。
「むう~ずるいです沙織さん! わたくしから武佐士さんのお姉さんポジションを奪わないでください!」
「いや奪ってるつもりはないよ!?」
妙なところで親友に対抗心を燃やされ困惑した沙織は誤魔化すように「と、とにかく皆行くよ!」と周りを仕切り始める。
「弟くんの歓迎会のための準備しないといけないんだから、モタモタしてられないでしょ?」
「え? 僕の歓迎会ですか?」
「うん。本当はサプライズにしたかったんだけどね」
同じ目的地に行く以上、もう隠しようもないので、あっさりと打ち明けることにした。
「おいしい料理たくさん作るから、楽しみにしててね♪」
「僕のために、そのような歓待を……う、ううっ」
「わわわ。もう、いちいち泣かないの」
感動のあまり号泣をし始めた武佐士の頬を、沙織はハンカチで拭いた。ナチュラルに姉らしいことをするので、華はまたもや羨ましそうに「沙織さんずるいです」と呟いた。
「会って間もない自分にここまでしてくださるなんて、感激いたしました。お礼になるかはわかりませんが、熊本からたくさんお土産を持ってきたので、よろしければパーティーのときにでも召し上がってください」
「おう。『一文字のぐるぐる』と『太平燕』と『だご汁』か。うまそー」
「なにソレ? てか、はしたないよ麻子」
武佐士の荷物には熊本の名産や銘菓がぎっしりと詰まっていた。これはなかなか豪華な食事会になりそうだと、少年少女はつい「グウ~」と腹を鳴らしそうになった。
ちなみに華は本当に鳴らした。
華ったらやだも~! と沙織が恥ずかしがる華に突っ込みを入れ、周りがホームコメディのように笑うという、なんとも微笑ましいやり取りをしているとき、それは起こった。
「きゃああああ! 銀行強盗よ!」
「最近噂になってる学園艦を集中的に狙った海上テロ集団だあ!」
「警備の薄いうちの学園艦を狙ってやってきたんだ!」
「銃とか持って武装してるらしいぞ! おい警察はまだかー!」
「えええええ!? いきなり何事おおお!?」
平和な時間は唐突に終わりを迎えた。
混乱するあんこうチーム一行だったが、幸い通行人の皆さんが実にわかりやすい説明的リアクションを取ってくれたので、事態の深刻さは一瞬で理解できた。
「な、なんかヤバそうじゃない? ここから離れよ?」
「そ、そうですね。身の安全第一であります」
「戦車を持ち込んでカチコミするのは如何でしょう?」
「バカなこと言うな五十鈴さん。ここはプロに任せよう」
大慌てでこの場を離れようとするあんこうチームだったが……
「……え? ちょ、ちょっと弟くん!? なに突っ立ってるの!?」
武佐士だけは微動せず泰然自若として、騒ぎの向こうを見つめている。
沙織の脳裏に、先ほどまで人助けをして回っていた武佐士の姿が浮かぶ。
「……まさか、嘘でしょ?」
いくらなんでも、こんな危険なことにまで干渉しようとするはずは……
「皆さんは安全な場所へ退避していてください。僕は少し野暮用ができました」
「やめなさい弟くううううん!!」
この場にいない姉のみほの代わりに沙織は必死に止めようとする。
「何考えてんの!? 銃持ってるとか言ってたじゃん!」
「そ、そうでありますよ! 危ないですよ弟殿!」
「武佐士さん、危ないことはされないほうが……」
「人のこと言えてないぞ五十鈴さん。だが冗談抜きでやめろ。どんだけお人好しなんだお前」
沙織以外の少女たちも必死に止めようとするが、武佐士は騒ぎのほうだけを見つめている。
「心配は無用です。自分も愛用の武装《
「なにソレ!? いいから一緒に逃げようよ! 危ないから!」
背に抱えた長物に手をかけようとする武佐士の手を掴んで沙織は引っ張るが……
「あ、あれ?」
まるで手品のように掴んでいた手を容易く振り払われてしまった。
武佐士は前に進んでいく。
「弟くん!」
「歓迎パーティーには必ず顔を出します。僕なら大丈夫です。武道で鍛えていますから。むしろ、こういう状況を打破するための武道を僕はやっているのです。ここで活かさずしてどこで活かせましょう」
「ホントにどんな武道やってるの君!?」
「僕が通う学園の皆も、そして他校にいる友人たちも、この場にいたら同じことをするはずです。ライヤさんも、ユーリくんも、レイジさんも、カズヒロさんも、イアンさんだって。僕だけが逃げるわけにはいかない」
少女たちは身震いした。
目の前にいるのが、先ほどまで自分たちと穏やかに談話していた少年と同一人物と思えなかった。
明らかに、豹変していた。
まるで猫から──“獅子”になったように。
刃のように鋭い気迫を放ちながら、武佐士は口を開く。
「なにより、皆さんが住まうこの学園艦で──みほ姉さんがいる場所で悪事を働くなど、断じて許さない」
そのとき、少女たちの動悸が激しくなったのは、緊張によるものか、恐怖によるものか、あるいは……
「では、失礼いたします」
「……あっ、ちょっと弟くん待って……って早!?」
沙織が正気を取り戻した頃には、武佐士は一瞬のうちに彼方へと駆け出していた。
……いや、駆け出すというよりは、爆音を立てて掻き消えたというほうが正確か。
「あれは仙術や武術で言うところの『縮地法』というやつか。できる……」
「なに呑気に感心してるのよ麻子!? ああもう! あの子にもしものことがあったら、みぽりんにどんな顔向ければいいのよ~!」
「武佐士さん、なんて勇ましい……」
「華もウットリしてる場合じゃないでしょ! あとそれぜったい弟に向けるような目じゃないから!」
「ど、どうしましょう。西住殿に報告すべきでしょうか……」
パニックになっている沙織の横で、優花里は敬愛するみほに連絡すべきか逡巡した。
愛弟が荒事に首を突っ込んだと告げたら、みほはなんと思うだろうか。
そう考えると、優花里はなかなかダイヤルを押すことができなかった。
* * *
外からサイレンが聞こえてくると、みほは何だか胸騒ぎがした。
つい前の時間まで感じていたものとは、また異なる類いの胸騒ぎだった。
窓の外を眺める。
「むうちゃん、まさか
いつまでもやってこない弟の身を、みほは心配する。
時計に視線を移す。約束の時間はとうに過ぎている。約束を破らない真面目な武佐士がこうして間に合わないときは、何かしらの事件に巻き込まれたときだけだ。
そして弟は、しょっちゅう何かしらの事件に首を突っ込んでいる。
特に長い休みなどに、武道で知り合ったという友人たちと頻繁に遠出しては、危険なことに関わっているようだった。
武佐士本人は修行の旅やら、大人のお手伝いをしているだけだから心配いらないと言っていたが、どうも誤魔化されているようにしか思えなかった。
なにせ、毎回怪我をして帰ってくるのだ。心配するなというほうが無理だろう。
中学の頃から繰り返されている弟の危うい行動に、何度胸をざわつかせたか知れない。
そして今も同じように、ざわざわと胸騒ぎがしている。
「むうちゃんたら……もしも怪我して来たら、まずお説教なんだから」
ぷんぷんと頬を膨らませながら、みほはボコのヌイグルミを強く抱きしめた。
(……せっかく久しぶりに会うんだから、元気な姿見たいもん)
どうか弟が危険なことに巻き込まれていませんようにと願いながら、みほは部屋で待ち続けるのだった。
願いはすでに儚く散っているとも知らずに。
* * *
・同時刻、西住邸
「ん? どうした武佐士? 今日はずいぶん静かじゃないか。怖いことでもあったのか? 姉さんが慰めてあげよう。ほら、この胸に飛び込んでこい。ん? やけにカラダが縮んだな武佐士。まるでひよこのようだぞ。まあいい。これはこれでお前を胸いっぱいに抱きしめられるからな。ほら、どうだ? 好きだろ私の胸。安心するか? 私もこうしてると、とても安心できるぞ……」
「まほお嬢様お気を確かに。それは坊ちゃまではなくて、みほお嬢様のヌイグルミです」
目から光を消してボコのミニヌイグルミを抱きしめるまほを、正気に戻そうとする菊代だったが、心ここにあらずとばかりに反応がない。
しまいには「武佐士武佐士むさしむさしムサシムサシ」と弟の名を呟くだけとなる。
「困りましたね」
菊代は深く溜め息をついた。
こうなったら学園の友人たちを呼ぶべきだろうか。
武佐士不在の寂しさを埋めるには至らないだろうが、少しは気休めになるかもしれない。
(あれ? でも……)
そこでは菊代は思い至る。
はて、まほに気心の知れた学友などいただろうか。
「……」
まあ、学友じゃなくとも同じ戦車道の人間なら誰でもよかろう。
たとえばそう。門下生の一人でもある逸見さんとか。今年は副隊長として努力した逸見さんとか。まほを心底敬愛する逸見さんとか。忠誠心高すぎてもはや同性愛疑惑のある逸見さんとか……逸見さんしか浮かばなかった。
(こんな調子であと三日も保つかしら。坊ちゃま。どうか無事に帰ってきてくださいね)
このままでは欠乏症からまほが発狂しかねない。ただでさえ妹とも疎遠になっているというのに。
旅先で何事もなければいいのだが、と思いつつも、武佐士にそれを求めるのは難しいと長らく面倒を見てきた菊代は知っている。
人が悲しめば、武佐士は悲しみを無くそうとする。
人が苦しめば、武佐士は必ず力になろうとする。
人が助けを求めれば、武佐士は全力で救おうとする。
父親の常夫と、ある約束を交わしてから武佐士は決してその信念を変えようとしない。
今日に至るまで、彼はそうして生きてきた。
そんな武佐士と深く関わりを持った人間は、ある称号で彼を呼ぶ。
彼の乳母であった菊代からすれば、心中穏やかでいられなくなってしまうような称号だが……あの生き様はまさしく、
(“正義の味方”そのものですからね)
何かと危うい武佐士の無事を、菊代は遠くの地から願うのであった。
「むさし~……」
「はいはい。明日にでも逸見さんをお呼びいたしますから。それで我慢なさってください、まほお嬢様」
客人によって少しでも、屋敷が賑やかになってくれるとありがたい。
みほと武佐士のいない西住邸は、あまりにも静か過ぎる。