恋のリート   作:グローイング

5 / 22
親友の弟② 不思議な少年

 基本的に武部沙織という少女は、若い男性と出会うと条件反射のように胸をときめかせる。

 これは決して男たらしというわけではなく「もしかしたら運命の相手かも!」という淡い期待が常に働くからに他ならない。

 恋というのは、いつどんな時に始まるかわからないものである。

 だからこそ親友の弟が大洗に来ると知ったときも、彼女はいつものように甘酸っぱい出会いが繰り広げられるのではないかと、内心ワクワクしていた。

 のだが……

 

(なんか、思ってたのと違うなぁ……)

 

 みほが弟の武佐士(むさし)のことを説明するとき、頭を悩ませた理由がわかった気がした。

 確かに、目の前の少年をひと言でどう表したものか。

 

「ぴょんのすけ。君が良ければ、このまま僕と一緒に来るかい?」

「ニャゴォ……」

 

 武佐士はそう言って優しい目線を猫に投げかける。動物好きの彼は、助けた野良猫をそのまま引き取るつもりでいた。

 

「実家に犬の“こじろう”って子がいるんだけど、君とならきっと仲良くなれると思う」

 

 小さい頃から飼っているという愛犬の話は、以前みほからも聞かされていた。

 ただ、そのときみほが口にした名前は『こじろう』ではなかったと思う。

 ひょっとしたら武佐士が勝手にそう呼んでいるのかもしれない。

 

「大洗から熊本まで一緒に旅するってのはどうかな? あいにくバイクじゃなくてヘリだけど、君と一緒なら楽しい旅になる気がするんだ」

 

 何かの作品の影響か、武佐士は猫と共に旅することを夢見ているらしい。

 

「どうかな、ぴょんのすけ……あっ! ぴょんのすけ!」

 

 しかし猫は武佐士の腕から抜け出した。拒むというよりは、まるで少年のためを思って逃げ出すように。

 猫はそのまま背を向けて歩いていく。

 

「ぴょんのすけ」

 

 武佐士の切なげな呼びかけに、猫はキリッと鋭い視線を向ける。

 

「ニャゴッ」

「ぴょんのすけ……」

「ヌゴオオオ」

「……そうか。わかったよ。『真似事ではなく、お前はお前の物語を突き進め』と。そう言うんだね、ぴょんのすけ」

「いやいや。本当にそんなこと言ってるのあの猫ちゃん?」

 

 涙をホロリと流す武佐士に思わず突っ込みを入れてしまう沙織。

 だが何やらムードに浸ってしまっている武佐士の耳には届いていない。

 

「ありがとう、ぴょんのすけ。君と過ごした日々は忘れない」

「いまさっき会った猫ちゃんだよね?」

「たとえ人間に助けられても決して()びを売ったりはしない。その猫としての気高さを僕はずっと覚えているよ」

「それ単に恩知らずって言わない?」

「さようなら、ぴょんのすけ……」

「号泣!? そこまで悲しいの!?」

「ぴょんのすけー!」

「なんなのこの子~!」

 

 一見するとごく普通の優しい少年。

 しかし、その様子を観察すればするほど、明るみに出てくるのは捉えどころのない天然ぶり。

 あるいは電波さんというべきか、または不思議ちゃんというべきか。

 そこそこ顔立ちの整った年下の少年と出会ったにも関わらず、沙織の胸の内を占めるのは困惑。沙織の人生において、こんなことは初めての経験だった。

 この既知の言葉では言い表せない奇妙な空気感はなんだろうか。

 まるで異次元に引きずり込むような武佐士の独特なペースに、沙織は適切な言葉を見つけられないでいた。

 

 ただ、ひとつだけ確信を持って言えることがあった。

 

 ああ、この子は間違いなく、()()()()の弟だ。と。

 

 

* * *

 

 

「くっちゅん! ふえ~。なんか嬉しいような納得いかないようなこと言われた気がする~」

 

 

* * *

 

 さて、本来ならば歓迎会で顔を合わす予定だったはずのみほの弟と、思わぬ邂逅を果たしたあんこうチーム一行。

 双方とも事前に相手の名前を知ってはいたものの、礼儀として互いに自己紹介を済ませた。

 武佐士の挨拶は改めて育ちの良さが伺えるしっかりとしたもので、思わず自分たちまで畏まってしまうほどだった。

 

 みほの言うとおり、悪い子ではない。むしろ良い子すぎると言えた。

 動物好きという思いやり深い性格の上、落ち着いた佇まいで、とても礼儀正しい。悪いところを上げるほうが難しい。

 確かにみほが胸を張って自慢してもおかしくはない好青年だ。

 

 好青年、ではあるが……ただ扱いに困る。

 

「約束するよ、ぴょんのすけ。僕は、僕だけの道を突き進むことを」

 

 しくしくと泣きながら拳を強く握りしめる武佐士に、はたしてどうリアクションを取ってあげればいいものか。

 コミュニケーション能力の高い沙織であっても対応しきれない何かが武佐士にはあった。

 

「それにしても、あまり西住殿に似ていませんね」

 

 優花里が武佐士本人に聞こえないようにボソリと呟いた。

 話を振られた沙織も「そういえば」と思う。

 

 以前みほが言っていた。

 長女のまほは母親似であり、次女である自分は父親似であると。

 しかし、目の前にいる武佐士からはそのどちらの面影も感じられない。

 見た目から似通った部分を探せと言われても、『他所(よそ)の子だ』と断定したほうが早く話は済みそうなほどに。

 

 男児特有の体格の違いがそう思わせるのだろうか。

 武道をやっているというだけあって、武佐士の身体は細身でありながら筋肉の形が服越しでもわかるほどにがっしりとしている。

 背丈は目測だと167cmほど。男子としては小柄だが、背筋がピンと糸で引っ張られるように伸びているので、弱々しい印象は与えない。どこか気迫すら備わっている。

 

 背に抱えた長物は武道のための道具だろうか。

 瀟洒(しょうしゃ)な布に包まれたソレを、少年は身体の一部とでも言うように肌身離さなかった。木に登っているときも背負っていたほどである。

 

 その姿は、どこか“剣豪”を思い起こさせた。ファッションで模造刀を身に着ける若者がいるが、その手特有の不釣り合いな感じはなく、むしろ馴染んでいた。

 もしもカバさんチームの左衛門佐やおりょう辺りが彼と出会ったら、おもしろい反応が見られるかもしれない。

 

 どの道、写真だけを見せられていたら、みほの弟だとは思えなかっただろう。

 それでも彼が西住家の末弟だと納得したのは、その態度や挙動に共通点があったためだ。

 

「別れというのは、何度経験しても慣れるものではありませんね……」

 

 猫との別れを引きずってポロポロと涙を流す武佐士だが、その表情は堅く、一見すると悲しんでいるようには見えない。感情の読めない顔つきはどこか、まほを連想させる。

 しかし涙を流している以上、その内心は激しい感情の波で揺らされているはずである。それも猫とお別れしたというピュアな理由からである。

 純粋過ぎるその情緒は、彼女らがよく知るみほを連想させた。

 

 相好はまほ。中身はみほ。

 武佐士が西住姉妹の弟であることを物語る要素は、しっかりとあった。

 

「武佐士さん、お気を落とされないでください」

「また次の出会いがあるさ」

 

 親友に似た挙動が情を誘ったのか、華と麻子はショックでその場にへたり込んでいる武佐士を慰めていた。

 華はおっとりとした優しい眼差しを向け、麻子は自分が年上であることを誇張するように武佐士の頭をよしよしと撫でている。

 何かと適応力の高い二人はもう武佐士の独特なノリに馴染んだらしい。

 

 柔らかな(いたわ)りを前に、武佐士は眩しいものを見るような瞳を二人に向ける。

 

「五十鈴さん、冷泉さん、ありがとうございます。お二人とも、お優しいのですね。みほ姉さんが全幅の信頼を寄せる理由がよくわかります」

「まあ。そんな……」

「照れるのう」

 

 武佐士の直球な賛辞に華は顔を赤くし、麻子は口で言うわりに得意げになった。

 

「秋山さんと武部さんも先ほど進んで僕とぴょんのすけを助けようとしてくださいましたし、本当に皆さん、深い温情の心を持たれた方なんですね」

「え? い、いえそんな~。人として当然のことをしただけであります」

「そ、そうだよ~。褒め過ぎだって弟くん」

 

 不意打ち気味に褒められた優花里は照れくささからフワフワヘアーをもじゃもじゃとかく。

 沙織も過度な絶賛にくすぐったさを覚えた。

 

 月刊戦車道や試合中継などで、あんこうチームの人となりを事前に把握していたためか、武佐士が少女たちに向ける好感度は出会った瞬間から高かった。

 そしていざ本人たちと触れ合うことで、その人徳の高さをより実感し、ますます思慕の念を強めているようだった。

 濁りなき真っ直ぐな敬愛の眼差しは、程度の差はあれ少女たちに面映ゆい感情を引き起こさせるものだった。

 

「こんなにも善良な方々に、僕はどんなお礼をすればいいものか……」

 

 武佐士は姉の友人たちにどこまでも恭しい態度を取る。

 ここまで持ち上げられてしまうと、却って身が縮こまる思いだ。

 

「もう~弟くん。そんなに堅苦しく考えなくってもいいってば」

「そうでありますよ~」

「いえ、そういうわけにはまいりません武部さん、秋山さん」

 

 沙織と優花里は気さくに武佐士を嗜めるが、彼はあくまでも譲ろうとしない。

 

 揺るぎない意志の込もった少年の瞳に、沙織はまた一瞬だけ胸をときめかせた。

 とつぜん見せる武佐士の真剣な表情は、こう心に来るものがある。

 

「みほ姉さんが笑顔を取り戻せたのも、また戦車道を続けられるようになったのも、姉さんをいつも傍で支えてくださった、あなたがたのおかげなのですから。感謝しないわけにはまいりません」

 

 またもや直球な賛辞に顔を赤くするあんこうチーム。

 

「その上、僕とぴょんのすけの危機まで救ってくださいました。感謝しないわけにはまいりません」

「いや、そっちのほうは別に感謝しなくてもいいよ?」

 

 されても逆に反応に困るだけである。

 

「どうあれ、あなたがたがみほ姉さんの恩人であることに変わりはありません」

 

 武佐士はそう断言する。

 どうやらこの子は本当にお姉さん思いで、真面目な子らしい。

 恐縮を越えて深い感心があんこうチームに芽生える。そんな彼女たちに武佐士は口を開く。

 

「この御恩は必ず──(あだ)で返さなくては……」

「「なぜに(あだ)!?」」

 

 唐突に不穏な顔になっておっかないことを言う武佐士に、突っ込みを入れる沙織と優花里。

 

「いい子だと思ってた子がいきなりとんでもないこと言い出したんだけどゆかりん! 怖い!」

「怖い!」

 

 そんな彼女たちの反応を見て、武佐士はどこかやり遂げたような顔で、

 

「いまのは西住流ジョークです」

 

 ドヤッと親指を立てた。

 

「見事なツッコミでしたお二人とも。いかがでしたか? 僕が考案した渾身のボケは」

 

 得意げになっている武佐士に沙織たちは「いやいやいや!」と突っ込みを続ける。

 

「ちっとも笑えないジョークだよ!?」

「単純にびっくりするだけであります! 心臓に悪いであります!」

「え……」

 

 沙織と優花里の指摘にガーンと擬音が付きそうなほど武佐士は気落ちした顔を浮かべる。

 

「笑えませんでしたか?」

「そりゃそうでしょ!」

「というか何であの場面でいきなりジョークを!?」

「実は武道の試合を通じて知り合った友人たちに『お前は話し方が固すぎて絡みにくい。もうちょっと冗談とか言えないのか?』と言及されたことがあるんです。それがわりとショックでして……」

 

 しょぼんと小動物のように縮こまる武佐士。

 

「事実そうなので考えたのです。

 ①まず真面目な会話の(はし)に場を(なご)ませるジョークを投下。

 ②馴染みやすさと親しみやすさをアピール。

 ③心の壁を取り払う。

 ──結果、そこにはきっと円滑な交友関係が築かれ……」

「いやいや! ぜんぜん(なご)まないよ!? 築かれないよ!?」

「円滑な関係どころか誤解から喧嘩沙汰になると思いますよ!?」

 

 今回は人格者のあんこうチームだったからこそ穏便に済んでいるが、相手によっては心の壁がなくなるどころか、そのまま壁をぶち破ってリアルファイト直行である。

 武佐士はガックリと頭を垂らした。

 

「残念です。お笑い番組を見ながら研究を重ねた自慢の一発ネタだったのですが……」

「それにしたって使いどころ間違えてると思うよ!? ダメだからね!? 他の人たちにそのネタ絶対に使っちゃダメだからね!?」

 

 いろいろと危うい天然ぶりを発揮する武佐士に、沙織は年上のお姉さんとして必死に釘を刺した。

 沙織の言葉に素直に頷いた武佐士だったが、「はあ……」と本気で落ち込んでいるらしき溜め息を吐いた。

 

「お笑いの道とは険しいものなのですね。その場にいるだけで指をさされて笑われるサンダースのカズヒロさんが如何に偉大な人物か実感させられます。僕も彼のように自然と周りを笑顔にできる人間になりたいと思っているのですが」

「あの、それ、ただ嘲笑されてるだけなのでは?」

 

 優花里が恐る恐る言うと、武佐士は「まさか」と首を振った。

 ポジティブにもほどがあった。

 

「黒森峰分校に通っているレイジさんは、いつも真新しい発明品で人々に感動の涙を流させる偉大なエンターテイナーですし。みんな気が狂ったように笑いながら血走った目でレイジさんに突撃していくのです。人気者の証ですね。尊敬します」

「それ本当に感動してるの? なんとなく違う意味で突撃してる絵面が浮かぶんだけど」

 

 沙織が疑い深く聞いても、やはり武佐士は「いや、まさかまさか」と首を振る。

 プラス思考にもほどがあった。

 

 類は友を呼ぶのか。武佐士の友人とやらも、マトモな人物ではなさそうである。

 というか、あのサンダースと黒森峰にそんな人物がいることに驚きである。

 

「まあ、慣れないことは無理にするもんじゃない、ということだな」

 

 消沈する武佐士の背中を、麻子がポンポンとあやすように叩いた。年下の少年に対して何かと姉御肌を発揮したいようだった。

 

「冷泉さんのおっしゃるとおりかもしれません」

 

 小さな姉御の言葉を、武佐士は素直に聞き入れる。

 

「僕の兄貴分であるライヤさんも『お前はそのままでいいんだぜ』と以前に優しい言葉をくれたことがあります。大親友のユーリくんも『ありのままの武佐士くんが好きだよ』と僕には勿体ないことを言ってくれました……。そうですね。人間、身の丈に合ったことをするのが一番ということなのでしょう。勉強になりました」

 

 一応、真っ当なことを言ってくれる知人友人もいるらしい。沙織と優花里はホッとした。

 なぜホッとするのか、我ながら不思議だったが。

 

「なにはともあれ失礼を働きました。以後、気を付け……」

「ぷっ。う、うふふふっ……」

 

 反省しようとする武佐士の横で、一人笑いを堪えている人物がいた。

 五十鈴華である。

 口元を抑え、目元に涙を溜めるほどに、込み上がる笑いを留めている。

 

「え? ちょっと華?」

「もしかして今のジョーク……」

「ツボったのか?」

 

 他の三人が信じられないものを見るような目で華に尋ねる。

 華はプルプルと震えながら頷く。

 

「だ、だって皆さん。『仇で返す』って。どう考えてもそう言うべきじゃないところで『仇で返す』って……ぶふっ!」

 

 思い出し笑いでついには吹き出す始末。

 

「あらやだ、わたくしったらはしたな、でも、ヒィ、うふふふふっ。武佐士さんったら、おもしろいご冗談を、ヒィ、あははははっ」

 

 華は笑う。いつまでも笑う。

 以前から彼女の美意識や感性には理解が及ばないところがあった。だがこうも顕著に表れると、さすがの友人たちも……ドン引きしていた。

 

「五十鈴さん!」

 

 しかしそんな華に感動する少年がここに一人。言うまでもなくジョークを口にした武佐士である。

 彼はヒシッと華の柔手を包み込んだ。

 

「まあっ。む、武佐士さん?」

 

 いきなり手を握られて、華は笑いを止めて頬を紅潮させる。

 しかし武佐士は嬉しさのあまり気にしていない。その瞳は感涙で満たされていた。

 

「ありがとうございます五十鈴さん。あなたのような方を笑顔にするために、僕はこれからもジョークに磨きをかけ精進していきます」

「待って弟くん! 精進しなくていいの! 華が特殊なだけだから!」

「武佐士さん……はい、がんばってください。とても面白いご冗談のおかげで、わたくしの心と武佐士さんの心の距離は一気に近づいた気がします」

「華もそんなこと言わないの! 誤解して調子乗っちゃうでしょこの子が!」

 

 的外れな感動に浸る二人の目を覚まそうと沙織は必死に騒いだが、天然の耳には届いちゃいなかった。

 

「苦労して考えたアイディアが面白いと反応されたときの嬉しさはなんと素晴らしい心地なのでしょう。五十鈴さん、あなたはいい人です」

「華でかまいませんよ? 武佐士さん♪」

「はい、華さん」

「はい♪ なんですか武佐士さん♪」

「……あっ。む、むむ……」

「あら、どうされました? 急にお顔を赤くされて」

「あ、その……姉さんたち以外の女の人を名前で呼ぶのは初めてのことなので。勢いで口にしたら、なんだか照れくさくなってしまって……」

「あらあら」

 

 顔を真っ赤にしてもじもじと恥ずかしがる武佐士。

 そんな年下の少年の初々しい反応が、華の琴線に触れたのか。

 

「かわいらしい♪」

 

 ぎゅっと愛しそうに、華は武佐士を抱きしめた。

 

「華さん、何を?」

「うふふ。みほさんが溺愛される理由が、わかった気がします」

 

 戸惑う武佐士を、華はたまらないとばかりに、その豊満な肉体で包み込む。

 チーム内で一番立派なふたつの膨らみが、二人の間でやんわりと押し潰れる。

 思春期の少年は、瞬く間に慌てだした。見てくれの態度からではわかりにくかったが、明らかに激しく動揺していた。

 

「華さん。こんなことをされては、いけません」

「わたくしは気にしませんよ?」

「僕が、気にします」

「うふふ。遠慮なさらず、甘えても構いませんよ?」

「でも」

「なんでしたら、わたくしのことをもう一人お姉さんのように思ってみてください」

「そんな。恐れ多いです。華さんのような、お美しい女性にそのような馴れ馴れしいことを……」

「武佐士さん。ためしに呼んでみてください」

「え?」

「お姉さん、って」

「む、う……」

 

 お淑やかな笑顔は、少年の抵抗意識をたやすく蕩かしていった。

 唇が勝手に言葉を紡ぐ。

 

「──華、姉さん」

「んぅっ」

 

 耳元で呟かれたその呼び名が、華の中にある何かを刺激した。艶っぽい声を上げて、背筋を官能的にのけぞらせる。

 

「なんでしょう。この感覚」

 

 昂揚した表情で華はさらに武佐士を抱きしめた。

 たっぷりとしたふたつの房がますます押し潰れる。

 

「華さん、これ以上は……。生物学的に危うい状況です」

「いけません武佐士さん。もっと、“姉さん”と呼んでください」

「むむむ」

「うふふ。かわいらしい♪」

 

 うっとりした顔で、華は本当の弟にしてあげるように、慈愛の抱擁を続けるのだった。

 

 

 

「……なにあれ?」

「さ、さあ」

「なにか相通ずるものがあるんじゃないか。あの二人」

 

 そんな二人のやり取りを放心しながら眺める沙織、優花里、麻子の三人組。

 いつのまにか誰も入り込めない二人だけの世界を生み出してしまった彼女たちに、どう声をかけていいものやら。

 

(というか、華ってああいう男の子が好みなのかな?)

 

 親友のいままで見たことのない一面に、沙織は戸惑うばかりだった。

 いつもならあのように異性相手に舞い上がるポジションは沙織だというのに、それが今回では華がそのポジションについている。

 実に珍しい光景と言えよう。

 

 もっとも華がいだいている感情がどういう類のものなのか、それは判別がつかなかったが。

 それでも、あの華があそこまで異性相手に感情的になるのは滅多にないことである。

 自分では感じ取れない武佐士の魅力を、華は感じ取ったのかもしれない。

 

(う~ん……)

 

 沙織本人は、男を見る目に自信があるつもりである。

 だからこそ、武佐士という少年の実体を掴めないこの現状は、彼女としては何となく悔しいことだった。

 決して悪い子ではない。良い子過ぎる。それはとっくにわかっている。

 

 ただ、彼と恋愛関係になるというイメージが、どうしてもできなかった。

 マイナスの意味でそう言っているのではない。そもそも、その発想ができない。

 どんな男性相手でも素晴らしい想像に耽ることができるのに、武佐士相手ではそれができない。

 そんなことは、沙織にとって初めてのことだった。

 何故なのだろう。

 

(やっぱり、よくわからない子だなぁ……)

 

 みほの弟、西住武佐士。

 まことに不思議な少年であった。

 

 

 

 

 

 

 結論から言ってしまえば、

 どんなに恋愛について研究熱心であっても、武部沙織は一度も本気の恋をしたことがない。

 彼女が思い浮かべる恋愛は、常に都合のいい空想で塗りつぶされた、おとぎ話に過ぎない。

 現実の恋が実際どういう経緯から始まるのか、結局のところ彼女は未だに知らない。

 経験がない以上──その“予兆”を正しい形で感じ取れないのは、当然と言えば、当然のことだった。

 

* * *

 

 同時刻、みほの部屋にて……

 

「はっ!」

 

 奇妙な危機感を覚えて、みほは窓の外を見つめた。

 

「なに、この胸騒ぎ。なんだか、むうちゃんのおねーちゃんとしてのポジションが奪われかけているような……」

 

 まさか、武佐士が自分とまほ以外の女性を姉として意識して甘えているとでも言うのだろうか。そんな()()をあの子が……。

 ぶんぶんとみほは首を振った。

 そんな筈はない。あのお姉ちゃん子の武佐士が、余所の女性に弟の顔をして甘えるはずがない。

 

「……あう~。でもなんだか不安だよ~」

 

 とりあえずベッドの枕はふたつ並べることにしたみほだった。

 

* * *

 

 同時刻、西住邸にて……

 

 甲高い悲鳴が西住の屋敷に上がる。

 

「どうされましたまほお嬢様? 坊ちゃまが旅行に行かれてからまだ半日しか経っていませんよ? もうお気が触れたのですか?」

 

 悲鳴を聞いて駆け付けた家政婦の菊代は、なぜか武佐士の部屋に入り浸っているまほの様子を確認した。

 布団の残り香を堪能していたまほは白目を剥いてビクビクと震えていた。

 

「あ、ああ。感じる。武佐士が私とみほ以外の女に()()()をしているのを……やめろ武佐士! 目を覚ませ! お前のそんな顔を見ていいのは私だけだ! それに……私のほうが大きいぞ!」

「あらあら。初日からこの様子では先が思いやられますね」

 

 愛弟の欠乏症から半狂乱になっているまほを、菊代は手慣れた調子で介抱してあげるのだった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。