恋のリート   作:グローイング

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親友の弟① 奇妙な出会い

 近頃のみほは、やたらと上機嫌だった。

 気づくと鼻歌を奏でていたり、奇妙なステップを踏んでは「ふふふ♪」と笑っている。

 見るからに浮かれているそのサマを指摘すると彼女は、

 

『え~? そんなことないよ~。いつもどおりだよ~』

 

 と蕩けた声で否定し、ぽわわ~んとした表情を親友たちに向けるのであった。

 

「みぽりん、どう見ても弟くんが来るのが待ち遠しくてしょうがないって感じだよね~」

「本当に弟さんのことが好きなのですね」

「生粋のブラコンだなあれは」

「ちょっとだけ弟殿が羨ましく思えてきました」

 

 あんこうチームの四人は街中で買い物をしながら、みほの過剰な喜びように戸惑っていた。

 同時にまだ見ぬ弟に対しての関心をますます深めていく。

 

「どんな子なんだろうね~みぽりんの弟」

 

 優しい性格をしているみほが弟を大事にしていること自体は不思議ではないし、違和感もない。『弟思いのお姉さん』という称号は、みほのイメージにピッタリだ。

 しかしそれでも、あそこまで弟の来訪を喜び、待ち望む姿を見ると『弟思い』では済まされない何かを感じさせる。

 

「みほさんの様子を見るに、きっと良い子なのでしょうけど」

「それでもあそこまで溺愛するものか? いくら仲がいい姉弟だからって」

「一人っ子の身ですとわからないですね。その辺どうなんですか武部殿?」

 

 一人っ子である三人組は、この中で唯一姉妹持ちである沙織に意見を求める。

 ずばり、姉というのは下の子に対してあそこまで感情的になるものなのかと。

 尋ねられた沙織は「いやいや、みぽりんのは過剰すぎだって」と首を振る。

 

「わたしも妹とは仲はいいけど……それでもみぽりんほど浮かれたりはしないかな。そりゃわざわざ会いに来てくれるのは嬉しいけどね」

 

 普段は会えない身内と久方ぶりに会えることになれば、程度の差はあれど心が弾むだろう。

 だがみほの場合は四六時中、夢見心地に舞い上がっているのだ。みほ本人は「ブラコンじゃないよ。普通だもん」と主張しているが、もはやブラコンと言っていいのかすら怪しい領域に踏み込んでいるように思える。

 

 異性の兄弟姉妹ではそれが普通なのか、やはり西住家が特殊なのか。なにはともあれ……

 

「実際会ってみないことには何もわからんだろう」

 

 麻子の冷静な指摘に「それもそうだ」と他の三人は頷く。

 

「予定では今日来るはずだよね、弟くん」

「お会いするのが楽しみですね」

 

 彼女たちが持つ買い物袋の中身には、みほの弟を迎えるパーティーのための用品が入っている。『姉弟水入らずなのだからあまり大袈裟に騒がないほうがいい』という麻子の言葉に一度は従おうとした彼女たちだったが、みほが快く歓迎パーティーを提案してくれたのだ。

 

『むうちゃんもそのほうが喜ぶと思うから。皆のことも、その……大切な友達ができたよって紹介したいし』

 

 そんな嬉しいこと言われてしまえば、遠慮の気持ちも吹っ飛んでしまうというもの。彼女の親友として、弟を盛大に歓迎しようという運びになった。

 そういうわけで今日はこのあんこうチームのメンバーだけでささやかな歓迎会をすることになっている……のだが、

 

「本当ならさぁ、わたしたちだけで弟くん歓迎して『楽しい思い出つくろう』って思ってたのに……」

「いつのまにか大ごとになっちゃいましたね~」

 

 溜め息をつく沙織に合わせて、優花里も苦々しく笑う。

 

 実はもうひとつの歓迎会が後日の予定に含まれている。

 あんこうチームが意図しない形で、それは決まってしまった。

 

『へえ~西住ちゃんの弟が来るんだあ。じゃあ思いきりお持てなしをしないといけないね~』

 

 どこから情報が入ったのか生徒会長の角谷杏に知られると、戦車道履修者総出でみほの弟を歓待する流れになったのだ。

 ささやかな歓迎会だけで済ますつもりが、騒がしい大イベントも加わってしまったわけである。

 

「お祭り好きの会長に知られたら、こうなるのも無理はないだろう」

「だよね~。絶対に騒ぎたいだけだよねあの人」

 

 何かとイベントを好み、事あるごとに急な催し物を開催する杏。そんな彼女がこんなおいしい話を見逃すはずがなかった。

 学園内に入るための申請許可はすでに通っているらしいので、いつでも迎えることができるという徹底ぶりだ。

 

「弟くんビックリするだろうなぁ」

「ちょっとお姉さんに会うつもりだったのが、旅行先の女子校で手厚く迎えられるわけだからな」

「男子としては、逆に居心地悪く感じるかもしれませんよね」

「お気を悪くされないといいのですが」

 

 会長の企てに知らず巻き込まれる形になってしまったみほの弟に、申し訳ない気持ちになるあんこうチームだった。

 

 主催者の杏が『イエイ! 西住ちゃんの弟ちゃん滅茶苦茶もてなしちゃうよ~!』と煽るおかげで、戦車道履修者の間ではみほの弟のことで話題が持ちきりだった。

 それは純粋な好奇心であったり、動揺であったり、警戒心であったり、一方で甘酸っぱい期待もあったりと、千差万別で(かしま)しい女子トークが繰り広げられている。

 

 これが観光客の多い学園艦ならばそこまで騒ぐこともなかったのだろうが、観光地として注目度の低い大洗女子では外部の人間そのものが珍しいのである。

 歳の近い異性がやってくるともなれば、お祭り騒ぎになるのは無理からぬ話だった。

 

「でもさ、やっぱりみぽりんが一番ウキウキしてる気がするなあ」

 

 沙織の発言に三人も「うんうん」と同意する。

 まったくもって、あそこまで陽気に浮かれるみほは見たことがない。

 

「今日なんて腰フリフリしながら部屋の掃除してたもん」

 

 エプロンを着て弟を迎える準備をしていたみほの姿は、身内が来ることを楽しみにしている姉というよりも、遠距離恋愛している恋人を待ち侘びている乙女さながらであった。

 

『今日はむうちゃんの大好きな鶏の唐揚げとアップルパイ用意してあげなくっちゃ~♪』

 

 そう呟くみほの周りには大量のハートマークがぽわぽわと浮かんでいた。

 

「みぽりんがあそこまで溺愛するなんて……もしかしてぇ、それぐらい弟くんがカッコイイってことなのかなぁ?」

 

 沙織はどこか所望を込めた顔つきで疑問を口にする。瞬く間に表情が緩んでいく。

 

「弟くん超イケメンだったらどうしよう~。わたし親友の弟に恋しちゃうかも~♪」

 

 うっとりと夢見心地な世界に陥る沙織を見て、他の三人は「また始まったか」と溜め息をつく。

 

「はっ!? も、もしかしたらこれが本当に運命の出会いになっちゃったりするんじゃない!? やだも~! みぽりんのこと“お姉さん”って呼ぶ日が来ちゃうかも~?」

「沙織さんはともかく、向こうも沙織さん相手に恋するとは限らないのでは?」

「華はどうしていつもそう夢ないこと言うの!?」

 

 相変わらずの恋愛脳で暴走する沙織に対し、あくまでも天然に言葉の刃を振り下ろす華。

 何度繰り返しているか分からないお馴染みの光景に麻子は呆れ顔を、優花里は苦笑いを浮かべる。

 

「沙織。そういうことは冗談でも西住さんの前では口にするんじゃないぞ」

「ええ。なんとなくですが、西住殿に対しては禁句のような気がします」

「まっさか~。みぽりんもそこまでブラコンじゃないでしょ~」

 

 麻子と優花里の注意に、沙織は「ないない」と手を左右に振る。

 いくら弟を溺愛しているからといって、あの温和なみほが親友の自分に逆鱗の怒りを向けるはずがないではないか。

 

 ──と、このときの沙織は呑気に考えていた。しかしいざその類いの話題をみほ本人の前で口にしたとき、彼女は親友の思わぬ一面を知って生涯残るトラウマを作る羽目になるのだが……それはまだ先の話。

 

 

 そのようにして、みほの弟についてあれこれ想像を働かせながら道を歩いていると、

 

「……ナゴオォ」

 

 どこからか奇怪な鳴き声が耳に届いてきた。

 一度聞くと無視できない慟哭といえる切実な声音だった。

 

「なんでしょう、いまの?」

「赤ちゃんの声?」

「……いや、猫の声だな」

「あ。見てくださいあれ」

 

 声がする方向へ優花里が指を差す。

 見ると、木の枝に乗った一匹の猫がぷるぷると震えていた。

 

「あらら。木に登って降りられなくなっちゃったんだ」

「お可哀そうに。助けてさしあげましょ?」

「すごく高いところにいるぞ。誰も届かないんじゃないか?」

 

 麻子の言うとおり、猫が留まっている枝は誰が背伸びしても届かない高さだった。

 そこで優花里が得意げに胸を叩く。

 

「自分にお任せください! 木登りでしたら心得がありますので!」

 

 趣味で日頃からサバイバル訓練をしている優花里にとって木登りなどお茶の子さいさいであったが、

 

「いやいや、ゆかりん。スカートで木登りなんてしたらはしたないってば」

「あっ! そ、そうでした……」

 

 沙織の指摘でハッと我に返った優花里は顔を真っ赤にして制服のスカートを手で抑える。

 その日も戦車道の訓練の帰りであるため、全員制服姿だった。

 いくら木登りが得意という能動性はあっても、衆目でサービスシーンを曝すことにはさすがの優花里も恥ずかしがった。

 

「心優しい男が助けることを期待して見なかったことにしよう」

「ええ~見捨てるなんてかわいそうじゃん!」

 

 麻子の発言に沙織が難色を示す。一度見つけてしまった以上、スルーして素通りするのは良心が痛む。

 こうしている今も猫は枝の上で助けを求める鳴き声を上げている。

 

「ナゴオォォォオッ……」

「ほら麻子! あんなに悲しそうに鳴いてるじゃない!」

「悲しそうというより、死にそうな声だな」

「猫の鳴き声ってそういうもんだって」

 

 あまり憐憫を刺激されない愛嬌に欠ける鳴き声に麻子は渋るが、お人好しの沙織は助ける気満々だった。

 

「ナゴオォン……」

「むむむ……」

「しかもほら、もう一匹猫ちゃんいるみたいだよ?」

 

 甲高い鳴き声に続いて重苦しい唸りまで聞こえてくる。

 遠目では見えないが、一匹の猫の後ろに生き物の影らしきものが伺える。

 仲間と一緒に木登りしたのか。なんにせよ切なげな声の二重奏はより沙織を駆り立てた。

 

「とりあえず声だけかけて、猫さんの様子を見ましょうか?」

 

 華の提案に沙織と優花里が頷く。手が届かないのなら、枝から飛び降りるよう誘導するしかない。

 

「一匹はわたしがキャッチするのでお任せください」

「じゃあもう一匹の猫ちゃんはわたしがキャッチするね?」

「仕方あるまい」

 

 木の傍に寄るあんこうチームの四人。

 

「ほらほら猫ちゃ~ん? もう大丈夫だから降りておいで~?」

「ナゴ?」

「むむ?」

 

 安心させる声色で沙織は猫に呼びかける。反応の鳴き声がふたつ。沙織は母性に満ちた顔を浮かべて腕を広げる

 そのふくよかなバストで落ちてくる猫を受け止める態勢を取る。優花里も並んで猫に呼びかけをする。

 

「わたしたちがちゃんと受け取ますから、どーんと飛び込んできてくださーい」

「うん。だから怖くないですよ~。ほら、後ろにいる子もこの胸に飛び込んでおいで~?」

「魅力的なご提案ですが、さすがに倫理的な意味でも物理的危険を鑑みても止めたほうが宜しいと進言いたします」

 

「「え?」」

 

 少女たちは耳を疑った。猫が言葉を話した?

 もちろん、そうではなかった。

 

「ご厚情いたみいりますが、できれば脚立(きゃたつ)などをご用意していただけると幸いです」

 

 よく目を凝らしてみると、密集した枝の葉に隠れるように一人の少年がいた。

 その少年は猫と同じように、枝に捕まってプルプルと震えていた。

 

 少年の目と少女たちの目が合う。

 

「……」

「……」

 

 不意打ち気味の対面に、両者は言葉を失う。

 

 木の上にいる少年。年齢は自分たちと近いように思えた。

 童顔な顔作りのせいで見様によっては中性的な少女と見間違われるかもしれないが、引き締まりながらも雄々しいカラダつきが彼を『男』であると判別させる。

 客観的に見て水準以上の容姿ではあるが、好みの煩い女性からは「パッとしない」という厳しい評価を貰うだろう。

 つまり印象に残る魅力が特に見当たらない。

 しかし眠たげな瞳はどこか愛嬌を感じさせ、見ていると自然に毒気が抜かれていくようだった。

 長く付き合えば愛着が湧くであろう庇護欲を刺激する雰囲気がある。

 

 ただ、木の枝にしがみついているというシュールな絵面のせいで、それらの印象は地平線の彼方へ飛んでいく。

 いま少女たちの胸中にあるのは、ただただ戸惑い。

 ずばり「何なんだこの子」という珍生物を見つけたときのような心境だった。

 

 気まずい沈黙の中、猫の「ナゴオォォ……」と、もの悲しい鳴き声だけが上がる。

 

「……良いお日柄ですね」

 

 少年から無難な挨拶をされた。「は、はぁ~」と少女たちも無難に応える。

 枝に捕まった状態で、少年は高い位置から見える空を見渡す。

 

「涼しい風も吹いていて、夏としてはとても心地いい日です。お出かけ日和ですね」

 

 気まずさを誤魔化すためか、少年は世間話染みた独り言をつぶやき始める。

 態度には出していないが「あ、この子恥ずかしがってるな」と少女たちは察した。

 

「先ほど小休憩のつもりで木陰の当たる場所で休んでいたのですが、あまりにも気持ちがいいので、ついつい眠りこけてしまったほどです」

「……まあ、そうしたい気持ちもわからんでもない」

 

 スルーするのはかわいそうなので、麻子はとりあえず同意を示してあげた。

 

「そして、どこからともなく猫の声が聞こえてきて目を覚ましてみると、木から降りられなくなった猫がいるではないですか。困っている猫を見たらやはり助けたくなるものです。それが人情というものです」

「う、うん、まあわかるよ……」

 

 同じことをしようとした沙織が少年の言葉に頷く。

 

「特に僕は動物がとても好きなので、見捨てることなどできませんでした」

「それは、感心なことですね」

 

 華が素直に褒めたたえる。

 

「幸い、普段から武道で鍛えておりますので、木を登ること自体に支障はありませんでした。問題はその後です」

「と、おっしゃいますと?」

 

 優花里が先を促す。

 少年は深刻な顔を浮かべて少女たちを見据える。

 

「自分も高いところから降りられないという致命的欠陥を抱えていることを、登ってから思い出しました」

「アホだなお前」

 

 ズバッと麻子が容赦なくそう言うので、他の三人は慌てた。

 

「麻子! あんたね!」

「そういうことは思っていても」

「口にすべきじゃないであります!」

 

 正直に言えば自分たちも麻子と同じ感想を持ったが、何もそこまでハッキリと指摘しなくともいいであろうに。

 

「いや、だってな。ミイラ取りがミイラになってどうする?」

「気持ちはわかるけど初対面相手の人に言うことじゃないでしょうが!」

 

 天才少女というのは物怖じせず正論を言うものだが、これはさすがに怖いもの知らず過ぎる。

 しかし、幸いなことに少年が怒っている様子はない。むしろ己の不甲斐なさを恥じているようだった。

 

「その人のおっしゃる通りです。このような無様な醜態を曝している以上、僕はアホに分類される人種です。向こう見ずのへっぽこです。判断力に欠けるアンポンタンで、知能指数の足りないマヌケであり、愚鈍を象徴とした道化そのものです。どうぞ、笑ってやってください」

「わたしの幼なじみそこまで酷いこと言ってないよ!?」

 

 真面目なのか、卑屈なのか、被虐趣味なのか、少年は過剰に己の行いを恥じていた。

 申し訳なさそうに目の前で震える猫を見つめる。

 

「すまない“ぴょんのすけ”。僕が未熟なばかりに、お前を助けてやれなくて……」

「ヌゴォ~」

 

 ヘンテコな名前で呼ばれた猫は「なんとかしちくり~」という具合に少年を見つめている。

 

「あなたの猫なんですか?」

 

 優花里がそう尋ねると、少年は首を横に振る。

 

「いえ。ここで初めて会った野良猫です」

「え? ではどうして名前が?」

「動物を見ると愛おしさのあまり、ついついその子にピッタリの名前を付けてしまうのです」

「は、はあ……」

 

 ピッタリ、という言葉に些か疑問を浮かべる。

 

「そのネーミングセンスはどうかと思うぞ」

「よく言われます」

 

 またもや麻子が思ったことを代弁してくれた。してくれたところで湧いてくるのは感謝よりも焦りだが。

 

「だから麻子! 思ってもそういうこと正直に言わないの!」

「自分が小さい頃から芸術性に欠ける人間であることは自覚しています。尚且つ風流を理解できない己の感性の鈍さには常々自己嫌悪を覚えており……」

「君も! わたしの幼なじみそこまで言ってないから! そんなに思い詰めないの!」

 

 少年の態度があまりにも慇懃(いんぎん)なので、沙織の良心は必要以上に痛んだ。

 どうも一般的な男子とは一線を画すタイプだった。

 育ちがいいのか、その言葉遣いも若い子にしては丁寧過ぎる。

 吸っている空気が違うというか、別世界の住人のように掴み所がない。

 普段なら若い異性相手に無条件でときめく沙織ですら、目の前の少年に対しては困惑の感情のほうが大きかった。

 

「お気を落とされないでください。わたくしも日々華道の神髄を探求する日々ですが、芸術に果てはありません。そして正解の形も人それぞれです。あなたなりの美学があれば、それで宜しいと思いますよ?」

「ありがとうございます。なんと勇気づけられるお言葉でしょう。お優しいのですね」

 

 生粋のお嬢様である華だけは、いつのまにか意気投合している。

 ほわわんと似た者同士の空気が二人の間に漂っていた。

 

「いや、というかこの状況いい加減なんとかしようよ……」

 

 呑気に会話しているが、猫だけではなくこの少年も救出しなくてはならない状況である。

 なにより、いつまでも木の上にいる少年と話しているので首が痛くなってきた。

 

「とりあえず、どこかのお店から脚立を借りてきましょうか?」

「お願いしてよろしいでしょうか」

 

 プラクティカルに動いてくれようとする優花里に頭を下げる少年。

 

「そもそも、高い所がダメなのによくそんな場所まで登れたな」

 

 麻子がそもそもの疑問を口にする。

 言われてみればそうだ。

 

「いえ、別に高所恐怖症というわけではないのです」

「どういうことだ?」

 

 少年の不自然な解答に麻子は追及をかける。

 

「高いところがダメなのではなく、『落ちる』という行為がダメなんです。どうしてか自分でもわからないのですが、昔からそうなんです。一瞬の浮遊感、地面にまで落ちるまでの()、そういうのが心理的にダメなんです。足が(つまず)いたときに倒れるまでの間を想像していただけると、わかりやすいかもしれません。あのときの独特な、落下していく感覚が苦手なのです」

「そうか……」

 

 わかるようでわからない苦手意識だった。

 

「自分でも、どうしてそうなのか不思議なのです。持って生まれ持った苦手意識と申しましょうか。武道の試合中では極限の集中状態に入っているので気にならないのですが、それ以外のOFFの状態ではどうも……」

「……ひとつ聞いていいか?」

「なんでしょう?」

 

 麻子は手を上げて「ひと言申したい」という具合に質問する。

 

「木登り自体はできるわけだよな?」

「はい。小さい頃、まだやんちゃだった次女の姉さんとよく一緒に登っていたので、手慣れてはいます」

 

 過去のことを思い出したためか、少年の表情がなごやかな色合いに染まる。

 

「懐かしいです。あの頃の姉さんは、嫌がる僕を無理やり誘い、天辺まで登ったところでよくバンジージャンプを強行させたものでした。今となっては、良き思い出のひとつです」

「落ちるのが怖くなった原因、絶対それだと思うんだけど……」

 

 とても美談とは言えない回想に沙織が冷静な突っ込みを入れるが、少年は「まさか」と認めたがらなかった。あくまでも良い思い出にしたいらしい。

 

「とにかく、木には登れると」

 

 麻子が再三確認を取る。「はい」と少年は答える。

 

「で、落ちるのは無理と」

「はい」

「なら……」

 

 麻子は木そのものに指をさして言う。

 

「登ったときと同じように、木にしがみついてゆっくり降りるのはダメなのか?」

「……」

「……」

 

 沈黙が降りる。

 

「……ぴょんのすけ。おいで」

「ナゴォ」

 

 しばらくして、少年は猫を頭に乗せた。

 

「しっかり捕まっているんだよ?」

「ニャゴ」

 

 木に抱き着いた状態で、少年はコアラのようにピョコピョコと地上を目指してゆっくり降りていく。

 

 少年と猫は、あっさりと地上に帰還した。

 

「……」

「……」

 

 なんとも言えない()が続く。全員笑顔だったが、瞳の中から光は消えていた。

 

「……ぴょんのすけ!」

「ナゴオオ!!」

 

 少年と猫はひしと抱きしめ合った。

 

「よかったね。僕たち、助かったんだよ」

「ニャゴ~ン」

 

 無理やり感動的場面を演出して誤魔化されているような気がしたが、「ま、いっか」と少女たちは納得することにした。

 

「皆様ありがとうございます。この子の分も含めてお礼を申し上げます」

 

 少年は深々と少女たちに頭を下げた。

 傍らの猫も「ニャゴ」と真似するように(こうべ)を垂れる。

 

「いいよいいよ。そんなに気にしなくても」

「なにはともあれ、ご無事でなによりです」

「わたしがいなければ木の上で猫と一夜を過ごしていたかもしれないな」

「冷泉殿。もっとオブラートに包んであげてください」

 

 少女たちは謙遜気味に少年の謝礼を受け取る(一名を除く)。

 

「本当にお恥ずかしい限りです。あのような基本的なことにも気づけないとは……」

「気にしない気にしない。わたしだって『こんな簡単なことも思いつかなかったの?』って自分で自分にビックリすることあるし」

 

 赤くなっている少年の懺悔を聞き上手の沙織は巧みにフォローするが、少年は尚も照れくさそうに言葉を並べる。

 

「武道で激しい試合をしていると、ついつい日常面での通常動作を忘れがちになってしまうのです。試合では木に登ったなら、そのまま跳躍して着地するか、木々の間を飛び越えて移動するか、伐採して突破口を開くという状況ばかりでしたので、このような当たり前のことが完全に意識から抜け落ちていたのです」

「ごめん。何言ってるのかワカラナイ……」

「どんな武道やっとるんだ」

「ご冗談で言っているのでは?」

 

 異次元の言葉を前に、沙織を含めた少女たちの頭は真っ白になった。

 ただ一人、その異相に馴染みがあるらしき優花里だけは「もしかしてあなたがやっている武道って……」と話を聞きたがっているようにしていたが、それは少年の再度の謝礼で遮られる。

 

「とにかく何かお礼をさせてください。あなた方がいなければ、ここで立ち往生していたのは間違いありませんから。おかげで大事な約束事を破ってしまうところでした」

「そんな、気にしなくていいってば。約束事があるならそっちを優先したほうがいいよ?」

 

 沙織はそう言って遠慮をするが、少年は「いえ」と頑なに譲らなかった。

 眠たげな瞳をキリリと引き締めて、誠意の込もった光を灯す。

 ここでようやく沙織の乙女心は少しだけ「ドキリ」と鼓動を打った。

 

「ここで恩人に対し礼を尽くさないようでは、男の恥です」

「そ、そんな大げさなぁ」

「事実です。どうかお礼をさせてください。そうしなければ、僕は胸を張って──西住の家に帰ることができなくなってしまう」

「ん~そこまで言うなら……ん?」

「いま、」

「西住って、」

「おっしゃいましたか?」

 

 少女たちにとって、聞き逃せないワードが出てきた。

 いま少年は確かに口にした。親友の苗字を。

 

「もしかして、あなたって……」

 

 思えば、大洗の学園艦(ここ)に歳の近い男子がいること、そのものが不自然だ。

 どう見ても艦内に務めている社会人ではない、若すぎる少年。

 そして昔はやんちゃだったという姉。大事な約束事。

 すべてが直結する。

 

 少年は再び、恭しく頭を下げる。

 

「見間違いでなければ、あなた方はⅣ号戦車の乗員ですね? 試合や月刊戦車道などで確認しております。ならば、やはりあなた方に非礼は許されません。姉にとって、大切なご友人なのですから」

 

 もはや否定する材料がない。

 

「じゃあ、あなたが……」

「申し遅れました」

 

 少年は背筋を伸ばして、四人の少女たちと向き合う。

 まるで、名乗ることそのものが誇りであるように。

 

「西住家長男、西住武佐士(むさし)です。姉のみほが、いつもお世話になっております」

 

 

 予定よりも早い、親友の弟との邂逅であった。

 

 

* * *

 

 一方、部屋の掃除をしているみほはというと……

 

「ふえ~」

 

 ベッドの前で顔を真っ赤にして悶えていた。

 手元には弟用に用意した枕が握られている。

 みほはその枕を自分のベッドに並べては抜き取ったり、また置いたりと繰り返している。

 

「ど、どうしよう。むうちゃん、おねーちゃんと一緒に寝たいって言うかな~? で、でもむうちゃんも高校生だし、さすがにないかなぁ……」

 

 それはそれで寂しいなぁ、とみほは枕をふたつ並べる。

 

「中学のときも実家に帰ったら一緒に寝てたし……あうう、でも恥ずかしいよ~」

 

 目をバッテンのようにして、みほは枕をひとつ抜き取る。

 

「でもでもでも、イヤってわけじゃないよ? ただ恥ずかしいだけで……あう、でも断ったらむうちゃん泣いちゃうかも。せっかく会いに来てくれるんだからやっぱり一緒に……」

 

 また枕をふたつ並べる。

 

「……ふえ~! どうしよう~!」

 

 慈愛と羞恥の狭間で葛藤しながら、みほは「ふえ~ふえ~」と枕を交互に入れ替え続けた。

 その姿はさながら“西住流ステップ”に次ぐ“西住流ダンス”と揶揄できそうな奇妙な動きであった。

 


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