恋のリート   作:グローイング

21 / 22
※下ネタに苦手意識がある方には最初に謝罪しておきます。申し訳ございません。
 特にコーヒーやビールを飲んでいる方はいったんページを閉じて、優雅なひと時を過ごされてからお読みいただけると幸いです。


黒森峰の日常② 次期隊長として

 独房の中はとにかく訳のわからない道具が散乱しているので、座る場所など見当たらない。だからと言って礼慈が作った『笑い声に反応して高さを変える椅子』に座る気にはなれなかった。

 とりあえず害はなさそうな箱型の機械に、エリカは適当に腰をおろした。

 害はないと願いたい。

 

「アンタね、もう少しは片づけなさいよ。アンタだけの部屋じゃないのよ?」

「うむ。それは常々反省していることなのだがね。どうも私が掃除しようとすると余計に散らかってしまうのだよ」

 

 天井に頭をぶつけてタンコブを作った礼慈は照れくさそうに言った。手先が器用なわりに、こと家事になると、この男は途端に不器用になるのだ。

 エリカは肩をすぼめた。

 

「あのね。そんなだからアンタ以外の整備士がいまだにこの場所を使えないんでしょうが」

「私だけここを独占してしまっていることは申し訳ないと思っているよ」

 

 さすがの礼慈も、一室を好き勝手に使っていることに後ろめたい感情はあるようだった。

 

「一応『皆も自由に使ってくれて構わない』と普段から呼びかけてはいるのだがね。どういうわけか誰もが遠慮してしまうのだよ。……まったく、特別扱いする必要はないと言っているのに。私とてみなと同じ一介の学生でしかないのだから」

 

 寂しげな顔を浮かべてそう呟く礼慈だったが……ほぼ固有の結界と化したこの独房で、仲睦まじく団欒できるとでも思っているのだろうか、この男は。

 

「まあ、ときどき小梅君が来てくれて整理してくれるので、これでもマシなほうなのだよ」

 

 その名前が礼慈の口から出た途端、ピクッとエリカの眉が吊り上がった。

 

「……へ、へえ。あの子、いまだにそんなことしてるの? 物好きねホント」

 

 ひきつった笑顔でエリカは言う。その声は動揺していた。

 

 パンターG型の車長である赤星小梅。

 気の強い女生徒の多い黒森峰では珍しい、お淑やかで物腰の柔らかな少女である。

 あまり目立つタイプとは言えないが、その優しい性格や清楚な雰囲気、そしてなかなか発育の良いボディラインの持ち主であることから男子の人気は高く、隠れたファンが多い。

 そんな彼女はどういうわけか、礼慈に対して甲斐甲斐しく世話を焼き、なにかと尽くそうとする。

 本人が言うには、「一年前に大切なことを気づかせてくれたんです。そのお礼をしてるだけですよ?」とのことだが、その多幸に満ちた笑顔からは恩義とはまた別の何かを感じさせた。

 

 エリカはそれをおもしろくないと感じていた。小梅が礼慈のお世話をしている場面に出くわすと、どういうわけかモヤモヤとする。

 世間一般ではその感情を表す的確な言葉があるが……その言葉が浮かび上がりそうになると、エリカは瞬時に首をぶんぶんと振って必死に否定する。

 そんな筈がない。誰がこんな男に対して……。

 

 これはそう。

 小梅のような純粋無垢な少女が、目の前の奇人変態を善人と信じていることに、もどかしさを感じているだけだ。

 そうに違いない。

 ああ、憐れな小梅。彼女は何を思い違って、こんな男に尽くそうという愚かな考えに至ってしまったのか。

 いつか必ず正気に戻してあげなければならない。エリカはそう固く誓った。

 

「アンタ、あの子の厚意に付け込んで変なことしてないでしょうね?」

「失礼な。小梅君に対してそんなことするはずがなかろう」

「どうだか」

「彼女は私には勿体ないほどに出来た友人だよ。感謝してもしきれないほどに、彼女にはいつも助けられているのだ」

「友人、ねえ……」

 

 胸の中のモヤモヤが、少しだけやわらいだ。

 

「ところで、私に何の用かねエリカよ」

 

 礼慈の問いかけにエリカは目的を思い出す。

 そうだった。今日こそはガツンと言ってやるつもりでここに来たのである。

 エリカはふんと鼻を鳴らす。

 

「聞くまでもないでしょ? あれほど言ったのに、またティーガーⅡに余計なことしたでしょ?」

「余計なこととは失礼な。私は常に真剣に君たちのことを考えた上で整備をしているのだぞ?」

「……じゃあ、『今回は操縦手の士気を高める音響効果を用意した』とでも言うつもり?」

「おお。さすがは我が幼なじみエリカ。私の考えを理解しているではないか。やはり我々は深い絆で結びつきあった運命共同体である証拠……いたーい!」

 

 戯言(ざれごと)を抜かす礼慈の頭めがけて、エリカは適当な発明品をぶん投げた。小気味のいい音が独房に鳴り渡る。

 続けざまにエリカの怒号が響く。

 

「操縦中いきなり音楽が流れたら心臓に悪いだけでしょうが!」

 

 前回はエンジンをかけた瞬間に異音が鳴るという魔改造だったが、今回は走行中に車内でBGMが流れるという仕様になっていた。

 それだけならば、まだ大人しい部類ではないかと思われるだろう。音楽の流れる車など別段珍しくもない。その機能を戦車に取り付けただけの話である。

 ……ただ、問題は曲のチョイスにあった。

 

「何でよりにもよって『TRUTH』なのよ!? 運転中に一番聞いちゃいけないBGMでしょうが!」

 

 エリカが言う『TRUTH』とは、世界的有名四輪自動車レースのテーマ曲である。

 タイトルは知らなくとも耳にすれば「ああ、あれか」とすぐに思い出せるほどに有名な曲である。そしてエリカの言うとおり運転中に流そうものなら、ドライバー魂を滾らせるゆえに事故不可避の危険な名曲でもある。それが今朝の訓練で、ティーガーⅡから流れてきたのだ。

 

「普段おとなしい操縦手の子が人変わったみたいに操縦しだして危うく事故るところだったでしょうが!」

「ほう。あの子がか。どうやら実験は成功のようだ」

「何で得意げなのよ! というかいま普通に“実験”とか言ったでしょ!」

「どのVerにするか悩んで無難に初代をチョイスしたのだが、エリカは何Verが好みだね?」

「そうね、わたしはやっぱりVer“05”が好きね。あのドラムとベースがなんともクールで……って誤魔化すな!」

 

 エリカの怒りのボルテージはそう簡単には静まらない。今朝の訓練は、文字通り暴走する操縦手を止めるため相当な苦労をしたのだ。

 そんなことも知らず、元凶の礼慈はあいかわらず涼しい顔をしているのが何とも腹立たしい。

 

「エリカ。できればその時の操縦手君の詳細を聞かせてくれないかね?」

「『ひゃっはー! 誰もわたしを抜かすことはできないぜ!』とか言ってテンションハイになってたわよ! ご満足!? あとで顔真っ赤々にしてたけどね!」

 

 もはやヤケクソ気味に答えるエリカ。

 それでも礼慈は飄々とした笑顔で、

 

「それは、なによりだ」

 

 などと言う。

 ブチン、とエリカの堪忍袋の緒が切れた。

 

「だ・か・ら! 何で満足げなのよ!」

「落ち着きたまえよエリカ。若いうちから小皺が増えるぞ?」

「だ・れ・の! せいだと思ってんのよ!?」

 

 うら若き乙女が浮かべるべきでない鬼の形相でエリカは礼慈へと迫る。

 

「アンタ! わたしらに何か恨みでもあるわけ!?」

「そんなはずなかろう」

 

 聞き捨てならんとばかりに、礼慈は笑顔を消した。

 

「私はいつだって君たちのためになればと思って整備をしている」

 

 やたらと真面目な顔で言うので、エリカは思わず「うっ」と赤面した。

 無駄に顔立ちがいい分、礼慈の真剣な表情は無条件で乙女心を響かせる魔力がある。

 それでも、これまでの所業を思い出せば、そんな気持ちも吹っ飛んでしまうが。

 

「ふ、ふん! よく言うわよ。どうせわたしたちをオモチャにして遊んでるだけでしょうが」

「心外だな。いいかねエリカ? 今回のことを含め、すべては来年の試合を考えた上でのことだぞ?」

「……っ」

 

 来年の試合。

 そのワードに反応してエリカの頭は瞬時に冷静さを取り戻す。

 真っ先に脳裏に浮かんだのは──Ⅳ号戦車に乗った宿敵の姿。

 

「どういう、ことよ?」

 

 エリカは尋ねずにはいられなかった。

 礼慈は変わらず真剣な眼差しで疑問に答える。

 

「君は今日、操縦手君の意外な一面を知って驚いているようだが……しかしエリカ。それは単純に君が彼女について深く理解していなかったからではないかね?」

「……なんですって?」

「“大人しい子”と思い込んでいるのは君だけで、本来の彼女はまったく印象と異なる本性を持っているかもしれないのだぞ?」

「……」

 

 エリカは言葉に詰まった。

 図星だったからだ。これまで共にティーガーⅡに乗ってきたあの操縦手に、あんな一面があったことをエリカは初めて知った。

 しかし、

 

「……だから何だって言うのよ? あの子がどういう人間だろうと別に試合には関係な……」

「関係ないと言いたいのかね? はたしてそうかな」

「何が言いたいのよレイジ」

「各乗員の性格や持ち味も理解できていないような状況で、はたして君達は一致団結することができるのかね?」

「……っ」

 

 戦車とは、乗員たちがひとつになることで、初めてその真価を発揮する。

 一人ひとりがバラバラの行動をして、身勝手な判断をしていては、どんな強力な戦車もただの置物と化す。

 そんなことは、エリカとて弁えている。だからこそ常日頃、厳しい統制下で厳しい訓練をすることで一致団結を試みているのだ。

 しかし、そんな考えを礼慈は切り捨てる。

 

「エリカ。形だけの上下関係では、結局はマニュアル通りのことしかできない。それでは去年からの繰り返しだ」

「……なんですって?」

「真の一致団結とは、互いのことを理解し合った信頼関係のことを言う。いまの君にはそれができているか? 自分の乗員のことをどれだけ知っている?」

「……」

 

 何も言えなかった。

 礼慈は尚、畳みかけてくる。

 

「君は知っていたか? ──あの操縦手君はね、以前から『みほ君の戦い』に目を輝かせていたのだよ」

「え……っ」

 

 エリカは息を呑んだ。

 

「履帯を外れることも厭わない、最後の一撃にかけたあの決勝戦での一騎打ち……名勝負のひとつとして戦車道の歴史に刻まれたあの戦いに、君の操縦手君は『自分もあんな戦いを……』と心を突き動かされたのだ」

「……なんでアンタにそんなことがわかるのよ?」

「見くびるなよエリカ。私は整備士だぞ? 乗員が何を求め、何を望んでいるのか、理解した上で我々は戦車を整備する。君たちが思っている以上に、我々は君たちを見ているのだぞ?」

 

 理想的な整備士とは何か。

 それは、口にしなくとも使用者の求める出来栄えに仕上げる仕事人のことである。

 

「だから操縦手くんが現状に不満をいだいていることもわかっていた。だが口にはしなかった。当然だ。言えるわけがない。()()()()()()()()()

「……」

 

 黒森峰の戦いとは王道でなければならない。

 王道とは指針でもある。それがブレてしまっては、戦車道の名誉に関わる。

 邪道など許されない。

 王者ならば尚更、常に王道で勝利を手にしなければならないのだ。

 

 だからこそ、エリカの操縦手も口にすることができない。

 本当はもっと、ずっと、激しい操縦がしたい──あの大洗のように戦いたい──など、口が裂けても。

 

 しかし、礼慈は言う。

 

「エリカ。恐らくもう以前のように、王道だけでは通用しない。戦車道の時代は、確実に変わりつつあるのだ」

 

 そう。戦車道の歴史は変わった。新たな歴史が切り開かれた。

 大洗というイレギュラーの存在によって、波紋は広がりだした。

 

 彼女たちは伝統を覆し、これまでの常識を破壊した。

 人はそれを邪道と称す。伝統に泥を塗る行為だと罵倒する。

 

 しかし……天下を取ったならば、それはもう“革命”だ。

 “革命は”、瞬く間に周囲に影響を与える。

 

「来年からは間違いなく定石は意味を成さないものと化すだろう。多くの学園が新たな戦術を編み出し、猛威を(ふる)うに違いない」

「……どこもかしこも伝統を捨てて、()()()()みたいに戦いだすっていうの?」

「否。いまから換骨奪胎したところで生まれるのは中途半端な部隊でしかないよ。私が恐れているのはね、エリカ──《殻を破り、秘められた可能性を余すことなく発揮した才能》だ。要はプラスによる強化だよ。それも、多大なプラスだ」

 

 少女たちは学習した。

 型を破った戦略を。セオリーに囚われない戦術を。

 かの英国風淑女も口にした。

 

『私たちもやってみようかしら』

 

 と。

 有能な戦術家は、有用な戦術をすぐさま自分の糧とする。

 かの『カンナエの戦い』でハンニバル・バルカが実現した史上最高の軍略『包囲殲滅戦術』をローマのスキピオがすぐさま模倣したように。

 新たな波はまた新たな波を広げる。

 その波に乗れない船は、あっけなく沈没するが必定。

 

「伝統を重んじる姿勢は確かに素晴らしい。先達の思想を守ることもまた尊い。……だがそれに固執し、思考を放棄するのはただの愚か者だ」

「……私がそうだと言いたいの?」

「そこまでは言わない。だが少なくとも、このままではそうなってしまうぞ。一昨年、去年と同じことを繰り返していれば、当然な」

 

 自分たちの敗因。

 明るみに出た欠点。

 それをわかっていて尚、王道だ、伝統だと騒ぎ、改めないのであれば……それはまさしく、学習のしない愚者でしかない。

 

「必要なことは、失敗を糧とし、『進歩』することにある。西住隊長もすでにそれは理解していることだ。だからこそ近々、『訓令戦術』を取り入れることになったわけだ」

 

 訓令戦術。

 司令部に指示を都度尋ねるのではなく、各隊員で判断し、作戦遂行へと向かう指揮法のひとつ。

 すなわち『自分の頭で考え行動しろ』という、受け身の姿勢から能動性を求める、これまでの黒森峰になかった作戦形式だ。

 

 そして、将来的にエリカが背負うことになる黒森峰の新たな姿でもある。

 

「エリカ。君はそんな新しい黒森峰の次期トップとなるのだ。ならば、君も今までと同じというわけにはいかないはずだ」

「そんなのわたしだって……」

「わかっているというのかね? なら改めて尋ねようじゃないか。君は、手と手を取り合わなければならない乗員たちのことを、どれだけ理解している?

 装填手君の趣味は? 砲手君の将来の夢は? 通信手君の日課は? 車長の君は把握しているのかね?」

「……」

 

 知らない。

 訓練以外で、彼女たちと会話したことなど、一度だってなかったのだから。

 しかし……

 だからと言って、それがどうしたというのだ。

 

「そんなの……」

 

 エリカは、意地を張るように言う。

 

「そんなこと答えられたからって、何だって言うのよ?」

 

 そうだ。

 勝てばそれでいいのだから、余計なものなどいらない。

 自分の役割を理解して、その役目を全うすればいいだけの話ではないか。

 ただ自分たちは軍隊として、群体として、完成していればいい。

 そうすれば、きっと、今度こそ《彼女》に……

 

「──みほ君なら、簡単に答えられるのではないか?」

「っ!?」

 

 そのたったのひと言が、エリカの中にある礎を、大きく揺るがした。

 

「なぜ彼女があそこまで戦果を上げることができたのか。それがわからないほど、君もバカではあるまい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女にあって、自分にはなかったもの。

 今なお、それは彼女のもとにあって、成長し続けているもの。

 そして、未だに自分には存在しないもの。

 

「わたしは……」

 

 黒森峰の伝統に従うことこそ……そしてなによりも、敬愛するまほに付いていくことが正しい道だとエリカは信じて疑わなかった。

 だが、その時間はもう終わろうとしている。変化を求められている。

 これまでとは違う方法で、黒森峰を成長させ、進歩しなければならないと。

 

(だったら……)

 

 ならば、自分がこれまで信じてやってきたことはいったい……

 

「……あいや、すまん。少し感情的になりすぎたようだ」

 

 エリカの顔色を見て、礼慈は声色を柔らかにした。熱弁したことを恥じるように頭をかく。

 

「追い詰めるような質疑をするなど、私らしくもないな。エリカ、傷つけてしまったようなら詫びるよ」

「……別に」

 

 エリカは顔を逸らした。

 いつもなら『レイジのくせにわたしに説教なんて生意気よ!』と某ガキ大将のような憤激するところだが、

 今日に限っては怒る気になれなかった。

 

「エリカ、よかったらコーヒーでもどうだ? 最近コーヒーメーカーを自作したのだ。一杯ご馳走しよう」

「……そうね。いただこうかしら」

「うむ。待っていてくれ」

 

 礼慈はそう言って、優しくほほ笑んでコーヒーメーカーを取りに行った。

 

 その間、エリカは考える。

 これからの自分に必要なこと。これからの黒森峰に必要なもの。

 

 薄々はわかっていた。このままではいけない、ということぐらい。

 ただ、生まれつきのプライドが認めることを拒否していた。

 そしてなによりも……

 

 黒森峰にもういない《彼女》。

 別の場所であんな輝くような笑顔を浮かべている《彼女》を見ていると、どうしても、受け入れたくないものが芽生える。

 

 ──エリカさん。これから一緒にがんばろうね!

 

 自分まで変わってしまったら、《あの頃の時間》すらも、すべて嘘になってしまうような気がして……

 

「待たせたなエリカ」

 

 聞き慣れた声によって、エリカは意識を深奥から引き戻す。

 

 そうだ。変わらないものもある。

 小さな頃から傍にい続けてくれた存在。ずっとずっと忌々しいだけだと思っていた彼との縁が今日に限っては……

 

「レイジ……」

 

 エリカは顔を上げる。どこか縋るように。

 柔らかなほほ笑みを浮かべる礼慈が、カートに乗せたコーヒーメーカーをエリカの前に持ってきた。

 コーヒー豆とタンクが入っているであろう木箱。

 

 そして、その木箱の上には『小便小僧』が……

 

「おい」

「さてカップをここに置いてと。よしエリカ。いますぐおいしいコーヒーを淹れてやるからな」

「おいコラ」

「では小便小僧君。一発盛大に頼むよ」

「やめんか!」

 

 弱々しかったエリカの表情は再びに怒気に彩られた。

 

「何なのよアンタ! 珍しくマトモな話するから少し見直したと思ったらものの数秒でコレか! 何なの! 真面目過ぎたら死んじゃう病なの!?」

「なにを怒っているんだね? 私はただ自作コーヒーメーカーでコーヒーを淹れようとしているだけだぞ?」

「そんなコーヒーメーカーから出されたものなんて高級ブランドでも飲みたかないわよ!」

 

 とあるビール会社ではイベントの際、小便小僧の銅像からビールを出させて通行人に振る舞うそうだが、渡された人間がどんな顔を浮かべるかは言うまでもない。

 味がどうこうではなく、生理的な問題である。

 

「なんだねエリカ。まさか君はこのお下品な部分からコーヒーが出ると思っているのかね? あらやだねこのお嬢さんは」

「どう見てもそういう悪意あるデザインでしょうが!」

「なるほど。確かに世の中にはそういうジョークグッズが存在するのは事実だ。モアイ像の鼻からミネラルウォーターが噴出するものとかな。

 だがねエリカ。私の小便小僧君はそんなお下品なジョークグッズとはひと味違う」

 

 そう自信満々に言って礼慈は、小便小僧の頭に手を重ねる。それがスイッチだったのか、小便小僧の目がカッと光りだす。

 

「私の小便小僧君は……」

 

 瞬間、小便小僧の顔面に汗のようなものが噴き出してきたかと思うと……

 

 ぶしゃあああと出血のようにコーヒーが放出された。

 

「顔の毛穴からコーヒーを出す」

「いやああああああああああああ!!」

 

 逸見エリカ、高校生にして多大なトラウマが植え付けられた瞬間である。

 

「おっととと。カップの位置がずれると盛大に溢れてしまうのが難点だな。……よし、できあがりだ。ほれエリカ。熱いうちに飲みたまえ」

「イラナイ」

 

 能面のような顔で断ると、「何だねせっかく淹れたのに」と礼慈は不満そうにコーヒーを飲んだ。

 神経を疑った。

 

「ああ、もう……」

 

 エリカは手で顔を覆った。

 本当に何なのだこの男は。

 いつもふざけているようにしか思えなくて、なのにときどき自分に大切なことを気づかせてくれて、でもやっぱりふざけていて。

 

(どっちが本当なのよ?)

 

 それがハッキリしないから、この自分の気持ちにだっていつまでも整理が……

 

(……何それ?)

 

 ふと頭に浮かんできたものを、エリカは意識から切り落とした。

 

「まあ、あれだエリカ。一人で抱え込むなよ」

「え?」

 

 椅子に座ってコーヒーを飲む礼慈は、そう言って穏やかな笑みを浮かべる。

 

「辛いとき、悩んだとき、困ったとき。そういうときは他人を頼っていいのさ。隊長であってもそれは例外ではない。むしろトップに立つ者ほど、そういうものが必要だ」

「でも、西住隊長は……」

「あの人だって人間だぞ? ただ態度に出さなかっただけで、見えないところで、誰かを頼っていたのさ。整備士の我々がそうだった」

「……」

 

 エリカは基本的に、どんなことも一人で卒なくこなせる。

 だからこそ他人の力を頼ることを知らない人生だったし、そうする自分は格好悪いと思い込んでいた。

 しかし、そんな自分に拘って、いつまでも変わることなく、この誇り高き黒森峰の名を落とすようなことをしてしまったら、それは敗北する以上に格好悪いことなのではないか。

 

「人には限界がある。できないことは素直に他人に頼るべきなのだ。それは決して恥ではないぞエリカ。社会の基本だ」

「だけど……」

「それにエリカ。誰も君が西住隊長並みに素晴らしい隊長になるなど期待していないから、もっと気楽にやりたまえよ」

「おいコラ」

 

 なぜこの男はいつもひと言多いのだろう。

 

「しかし君だって西住隊長と同じことができるとは思ってはおるまい?」

「それは、その……」

 

 そればかりは確かに否定できないことだ。

 隊長の引き継ぎを行っているこの時期、それは身に染みて実感している。あの人の背中は、遥かに遠い。

 だが、それでも追い付かなければならない。越えることはできなくとも、少なくとも近づけるように。

 それが日々、エリカの心を逸らせている。言葉にできない焦りを起こさせている。

 そんなエリカの心情をわかってか、礼慈は言う。

 

「大事なのは君らしさだと私は思うぞ。西住隊長とまったく同じことをしたところで、無理が生じるのは明らかだ。自分ならではのベストを引き出すことが、最も確実な成長法だ」

「わたしらしさ……」

「ああ。みほ君が、大洗で自分の戦車道を見つけたようにね」

「……」

 

 ──お姉ちゃん、見つけたよ! わたしの戦車道!

 

 夕陽に照らされた、彼女の眩い笑顔。それが、エリカの頭からいまだに離れない。

 

 ずるいと思った。

 どうしてあの子は、自分をおいてどんどん先に行ってしまうのか。

 

「焦るなよエリカ」

 

 礼慈は窘める。いつものように、不遜な態度で。されど、優しい声色で。

 

「君なりのペースで、ゆっくり進めばいい。結果ばかりをすぐに求めては、本当に大事なものを見失うぞ?」

「……」

 

 いつだってこの男は見透かしたようなことを言う。

 偉そうに、憎らしく……しかし、間違ってはないない。

 この男もこの男で、いろいろとずるい。

 

 礼慈はニコリとエリカにほほ笑む。

 

「案ずることはない。私がついているのだ。どんと構えていたまえ」

「……っ」

 

 本当に、本当にずるい。

 

「さて、そんないまの君に必要なのはリラックスすることだと私は思う。そこでこんなものを用意してみた」

 

 そう言って礼慈は懐からひとつの瓶を取り出した。

 

「アロマオイル~」

 

 バックから『パンカッパッパパーン!』と軽快なBGMが鳴りそうな濁声で、青い瓶を高々と上げた。

 気の抜けそうな礼慈の調子に、エリカは思わず床に滑り落ちそうになった。

 

「アンタ、本当に真面目な時間が続かないのね……」

 

 礼慈が美形にも関わらず、女子にモテない理由はこういった一面が原因だ。

 

「というか、そのアロマオイルもアンタの自作? だったら不安しかないから遠慮しておくわ」

「これは普通に市販のものだよ。といっても効力は絶大だがね」

「わたしあまりアロマテラピーって信用してないのよ」

「いやいや。匂いの効果はバカにはできないぞエリカ」

 

 植物の香りには興奮状態に陥った脳を落ち着かせる癒し効果がある。

 このストレス社会、アロマオイルは必需品と豪語する者も珍しくない。

 

「特にこのアロマオイルは評価が高いぞ。ええと、原料の植物はなんと言ったかな? 確か……“淫乱いんらんの花”だったかな?」

「それを言うなら“イランイランの花”でしょうが」

「そうそれだ」

 

 イランイランとは主に熱帯地方に分布する南国の植物である。

 主な成分であるリナロール、ゲラニオールには緊張による過呼吸や心拍をスローダウンさせる効果がある。その即効性と実用性、そして少しクセはあるものの、甘く魅惑的な香りから特に人気の高いアロマオイルである。

 

「とりあえず騙されたと思って使ってみたまえ。気休めかもしれないが、効果はあるかもしれないぞ?」

 

 そう言って礼慈はハンカチに一滴オイルを落とし、エリカに手渡す。

 

「はあ。しょうがないわね」

 

 エリカは渋々と受け取る。まあ、わざわざ自分のために用意してくれたのだ。

 試しに使ってみるとしよう。

 

「でもねぇ、アロマひとつでストレスがなくなるぐらいなら、苦労はしな……」

 

 グチグチ言いながら、エリカはオイルの沁み込んだハンカチを鼻に宛がう。

 

 

 瞬間、逸見エリカの世界は一変した。

 

 

「☆〇×◇♡♪!?」

 

 声にならない嬌声が独房中に響き渡った。

 

「や、やだ、なにこれ……すごく気持ちいい……」

 

 視界が反転する。

 脳髄が肥大化していくような快楽が、神経のすみずみまで浸透する。

 

「なに? なんなのよコレ~」

 

 既知にある香りをことごとく凌駕する芳香を前に、エリカの瞳は蕩けるように潤っていく。

 夢中でハンカチをすうすうと嗅ぎ出す。

 

「ちょっとぉ。メチャクチャいい香りじゃないコレ~♪」

「ほうほう。イランイランの香りは好き嫌いがはっきり別れるそうだが、どうやらエリカの好みに合ったようだな。なによりだ」

「え、ええ。こんないい香り初めてよ~♪」

 

 ほわんほわんと夢見心地な表情でエリカはほほ笑む。

 

「はあ~なんなの、新しい扉が開くようなこの感覚……。例えると、寒風の中で火を起こすためにたくさん用意した重い薪を降ろして、ようやく焚き火で身体を暖められたような安心感よ」

「フハハ、荒〇先生の漫画みたいな例え方だなエリカ」

 

 新感覚の癒し効果に、エリカはすっかり虜となった。

 

「ああ。消えていく。わたしの中からストレスが消えていくわ……」

「驚いたな。想像以上の効果だ」

「ええ。とてもいい気分だわ」

「あれま。効きすぎてまるで別人みたいになってしまったぞ」

 

 ストレスが喪失した途端、逸見エリカはあたかも古い少女漫画のようなビジュアルと化した。

 

「ありがとうレイジ。まるで生まれ変わったような気分だわ」

「うむ。事実、別世界の住人みたいになっているぞエリカ」

「なんだか今なら、どんな人にでも優しくできるような気がするわ」

「たいへんだ。見てくれだけ綺麗なエリカが真の意味で綺麗なエリカになってしまった」

「レイジ。恥ずかしくて言えなかったけど、本当はいつもあなたにすごく感謝しているのよ? うふふ。いつもありがとう」

「すまないエリカ。正直に言おう。今のお前すごく気持ち悪い」

「あら、ひどいじゃない。でも許すわ。いつもわたしばっかりキツイこと言っちゃってるんですもの。これでお相子(あいこ)ね? うふふ♪」

「ひいい。こんなのレイちゃんが知ってるエリカじゃない」

 

 新留礼慈、十七歳。珍しく本気で怯えていた。

 

「そうだわ。あなたのアドバイスに従って乗員の子たちとお話してこようかしら。今ならきっとわかり合えるような気がするわ」

「やめておけ。絶対に気味悪がられるだけだ」

「いいえ。きっと通じ合えると信じているわ。オープンマインドな姿勢で行ってくるわ」

 

 綺麗なエリカはそうして花びらでも舞いそうな歩き方で独房の出口へ向かう。

 ちょうどそのタイミングで別の来客がやってきた。

 

「アラトさん、いらっしゃいますか?」

 

 柔和なほほ笑みを浮かべて入って来たのは、赤星小梅だった。

 いつものように、礼慈の身の回りのお世話にやってきたのである。

 通常状態のエリカであれば、ここでひと悶着あったかもしれないが、入れ違いでやってき小梅に向けられたのは優雅なほほ笑みであった。

 

「あら小梅じゃない。ごきげんよう♪」

「え? ご、ごきげんよう」

 

 爽やかに挨拶をしてくる銀髪美少女に小梅は戸惑った様子だったが、一応同じ挨拶を返した。

 

「いつもレイジのお世話をしてくれてありがとう♪ 幼なじみとしてお礼を言うわ♪」

「は、はあ。その、どういたしまして?」

「世界はこうして優しさで満ちているのね。素晴らしいことだわ」

 

 そんなことを呟きながら去っていくエリカの後ろ姿を、小梅は冷や汗を流しながら見送った。

 小梅は当惑した顔色で礼慈に向き直る。

 

「あの、アラトさん? 先ほどエリカさんらしき人にお声をかけられたのですが……」

「うむ。エリカで間違っていないよ。良かれと思ってストレスを除いたら、とんでもないクリーチャーが生まれてしまった」

「はあ」

「ところで小梅君。何か用かね?」

「あ、はい。サンドイッチを作ってきたんですけど、朝ごはんがまだなようでしたら召し上がってください」

 

 小梅は清楚にほほ笑んで、ピクニックバスケットを差し出す。中には豊富な種類の手作りサンドイッチが丁寧に並んでいた。

 見事な配列を組んだサンドイッチの山に礼慈は目を輝かせる。

 

「おお、助かるよ。朝食を抜いて整備やら工作やらに没頭していたのでね。ありがたく頂くよ」

「もうアラトさんたら。あいかわらず夢中になると自分のことが疎かになるんですから」

「いやはや返す言葉もない」

 

 二人は穏やかに笑い合う。

 その和やかな空気は、誰が見ても初々しいカップルのようであり、昔からの長い付き合いである幼なじみ同士のようであった。

 しかし二人は付き合っているわけではなく、親しくなったのも去年からのことである。

 だがそれでも、正直のところ幼なじみのエリカ以上に幼なじみらしいことをしている上に、その距離感も実に近しかった。

 

「うむ。とても美味だ。コーヒーによく合う」

「お口に合ってよかったです♪」

 

 小梅は心底嬉しそうに両手を合わせた。

 

「本当に、いつも小梅君には助けられてばかりだね」

「いえいえ。好きでやっていることですから」

 

 おいしそうにサンドイッチを頬張る礼慈の姿を、小梅は頬をほんのりと桃色に染めて見つめる。

 

「君はいい人だ」

 

 礼慈がそう言うと、小梅はますます頬を紅潮させた。それはとても幸せそうな表情だった。

 

 小梅が礼慈に対してどういう類の感情をいだいているのか、誰の目から見てもそれは明らかだった。

 周りの女子はそんな小梅に対して「趣味が悪い」とよく言う。

 しかし小梅はそんな彼女たちに、いつも余裕の表情でこう返すのだ。

 

 ──アラトさんは、皆さんが思っているよりもずっと、純粋な(かた)なんですよ?

 

 

 

「小梅君といると、改めて人との関係は大事だと実感させられるよ。もし私がこの学園で孤高であったら、とっくの昔に栄養失調で倒れているに違いない」

 

 冗談なのか本気なのか曖昧なことを述べる礼慈に、小梅は優しい眼差しを向ける。

 

「エリカさんとそういう話をされていたんですか?」

「あいかわらず察しがいいね」

 

 礼慈は満足げに賞嘆した。

 

「わかりますよ。アラトさんのことですから」

 

 小梅も嬉しそうに微笑する。

 

 気兼ねなく打ち明けられる相手だからか、礼慈は先ほどの出来事を淡々と語った。

 礼慈の荒唐無稽な行為に慣れている小梅は、ひとつひとつの話題にいちいち突っ込みを入れることなく、穏やかに相槌を打っていた。

 

「そうでしたか。エリカさん、そんなに悩まれていたんですね……」

「意地を張ったところで得することなど何もない。エリカにもそれをわかって欲しいのだが」

「アラトさんは、本当にエリカさんのことを大切に思っているんですね」

「放っておけないだけさ」

 

 礼慈はそう早口に言った。わかりづらくはあったが、小梅は彼が少し照れていることを見抜いた。

 かわいらしい、と心の中で小梅はほほ笑ましく思った。

 

 礼慈は目を細めて話を続ける。

 

「埋もれた才能が明るみに出ぬまま潰えてしまうことほど、無残な悲劇はあるまい。エリカには多くの素質がある。だが、周りに天賦の才を持った者が多すぎて、相対的に自分が劣っていると思い込んでしまっているのだ」

「エリカさんだって、充分立派な方ですのに」

(こころざし)が高すぎるんだな」

 

 礼慈は瞳を閉じた。

 

「到達点というのは、人それぞれ異なるものなのだ。自分ならではのベストを探すことが、人生の命題と言っても過言ではあるまい。『人の価値は唯一無二』と、私の戦友の武佐士君が言っていたが、実にそのとおりだと思うよ」

 

 礼慈は親しい男友達のことをみな“戦友”と呼ぶ。

 そして、それ以上の存在を彼は常に“我が幼なじみ”と大切な宝物のように口にする。

 

「エリカには腐ってほしくない。彼女なら、誰にも手にすることのできない栄光を勝ち取れるはずなのだ」

 

 共に過ごしてきた歳月の重みを感じさせる言葉だった。

 

「エリカならできる。私は、そう信じているよ」

 

 礼慈がなぜここまでエリカという一人の少女に尽くそうとするのか、エリカ本人も含め、誰もが首を傾げることだった。

 だが小梅はわかっていた。礼慈という存在があまりにも奇抜過ぎるせいで、誰もが答えに辿り着けないだけ。少し考えてみればすぐにわかる、至極単純な理由。

 

 小梅だけはわかっている。彼の純粋で真っ直ぐ過ぎる、一途な思いを。

 小梅もまた、同じ思いを目の前の少年にいだいているから。

 

(……羨ましいな、エリカさん)

 

 小梅は切なげな笑みを浮かべて、胸元に手を当てた。

 

 誰もが新留礼慈を変わり者だと言う。

 しかし、知っている者は知っている。彼がどこまでも優しく思いやり深い人間だということを。

 小梅はそのことを、一年前に思い知った。

 

 いまこうして彼と過ごす時間がかけがえないと思えるほど、小梅の胸には強い感情が宿っている。

 その感情が芽生えた日のことを、小梅は思い返す。

 いろんな人間に知って欲しい礼慈の一面。けれどもやっぱり自分だけが知っておきたい、礼慈との特別なひととき。

 

 ひょっとしたら、幼なじみのエリカですら知らないかもしれない彼の本心。

 それを打ち明けてくれた日のことを、小梅は昨日のことのように思い返せる。

 

 ──意識は、一年前へと巻き戻る。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。