恋のリート   作:グローイング

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母しほの苦悩

 外での仕事を終えて、西住しほは帰宅した。

 

「お帰りなさいませ、奥様」

「ええ」

 

 家政婦の菊代が物腰柔らかく主人の帰りを迎える。

 彼女はこの西住家で長く働いているベテランの家政婦だ。

 しほの数少ない気心知れた相手でもある。

 

「……」

 

 玄関に置かれた見覚えのある靴に、しほは視線を向ける。

 

「……武佐士は、帰っているのかしら?」

「ええ。お昼頃に」

「そう」

 

 息子のこと聞くわりには、その表情は氷のように冷たい。

 とても母が浮かべる顔とは思えない、と人は言うだろう。

 しかし、しほの理解者である菊代はその胸の内を察している。

 

「ご不安ですか? 坊ちゃまとお会いするの」

「……なんのことかしら?」

「だって、いまだに坊ちゃまと喧嘩したまま仲直りなさっていないじゃないですか」

「喧嘩などしていません。あの子が一方的に意地を張っているだけです」

「それ、坊ちゃまも同じこと考えていると思いますよ?」

「……」

 

 親子ですねーと菊代はほほ笑ましそうに言う。

 ふん、としほは顔を逸らす。

 

「とりあえず、今回こそは坊ちゃまとしっかりお話しされたほうがよろしいと思いますよ?」

 

 意地の張り合いで依然として気まずい関係になっている親子二人を菊代は気にかけていた。

 ここは大人であるしほが折れるべきだということも、何度か伝えている。

 しかし、しほは頑なに首を横に振るだけであった。

 

「必要ないわ。遅い反抗期が来ただけでしょう」

「まあ、そうかもしれませんが……」

「むしろホッとしているわ。あの子にもちゃんとそういう一面があったことに」

 

 武佐士はとにかく聞き分けのいい子で、わがままを言うことがほとんどなかった。

 母親らしいことなど滅多にできなかったというのに、武佐士はしほを深く慕い、いつも敬っていた。

 

『お母さま。いつもお疲れ様です』

 

 学園艦から帰省すると、武佐士はいつもそう言って手土産を渡し、日ごろの感謝を伝えた。

 世の母からすれば、まさに理想の息子像であった。

 

 しかしそんな武佐士も、初めて母親に反抗を示した。

 去年からのことだ。

 ずっと母の言葉を忠実に聞いてきた武佐士がそんな態度を取り始めたことに、しほは少なからず衝撃を受けた。

 しかし、一方でこれが普通なのだとも考えていた。

 あまりにも聞き分けが良すぎても、親としては心配になるものだ。

 

「この機会に一度母親離れしたほうが、きっとあの子のためです」

「坊ちゃまに『お母さまなんて大嫌い!』と言われた日に屋台でヤケ酒したのはどこのどなたでしたっけ?」

「黙りなさい菊代」

 

 西住しほは女傑とうたわれる強かな女性である。

 そんな人物が息子に「大嫌い!」と言われたぐらいでショックなど受けるはずがない。

 その日はちょっと多めに酒が飲みたくなっただけである。

 飲む相手が欲しかっただけである。

 

 最も、その人選は失敗だったが。

 

『あら~。そちらのお子さんは随分と反抗的ですのね~。うちは娘の愛里寿といまでも一緒にお風呂に入るぐらい仲がいいんですのよ~♪ おほほほ』

 

 

「菊代。急に戦車を乗り回したい気分になってきたわ。用意してちょうだい」

「鬱憤晴らしで砲撃しようとするのはおやめください」

 

 菊代は主人に気づかれないよう呆れの溜め息をつく。

 

「わたくしは坊ちゃまが心配です。お慕いしている奥様と喧嘩をなさるだなんて、きっと坊ちゃま自身が心を痛めていらっしゃることでしょうから」

 

 武佐士の内心を慮ってそう口にする。

 武佐士が小さい頃からお世話をしてきた菊代ならではの推察だ。

 ヘタをしたら母のしほ以上に彼のことを理解している。

 

「奥様が見えないところで泣いていたりしているんですよ? 気づいていらっしゃいましたか?」

「……」

「ああ、わたくしが母親でしたら絶対にあんな顔させないのに」

 

 ピクっとしほの眉が吊り上がる。

 あ、これは好感触と菊代は心の内でほくそ笑んだ。

 さらに追い討ちをかける。

 

「今夜にでも慰めてさしあげようかしら」

「あまり息子を甘やかさないでちょうだい菊代」

「奥様が厳しい分わたくしが優しさをですね……」

「必要ありません」

「もう。少しは坊ちゃまのお気持ちも考えてあげてくださいまし。あの子は“ファミコン”なのですから」

「? 最近のゲーム機となんの関係が?」

「奥様、世代としては、それはもう古い機種ですよ?」

「……」

 

 嘘でしょ? という具合に目を見開くしほを無視して菊代は話を続ける。

 

「ファミリーコンプレックスの略です。武佐士坊ちゃまは家族が大好きですからね」

「……そうね」

 

 作文でも、武佐士はよく『僕は家族が大好きです』と書いていた。

 母のしほはもちろん、父の常夫を大人の理想像として尊敬し、二人の姉にとても懐いている。

 だからこそ、一年前に武佐士がしほに怒りを見せたことは、一家全員が驚愕することであった。

 しかし、それはある意味必然でもあった。

 

 

 

『お母さま! みほ姉さんを勘当するというのは本当ですか!』

『まだ決まったわけではありません。ですが、あの子がこれ以上西住流の名を穢すような真似をすればすぐにでも……』

『どうして……』

『?』

『どうしてそんなこと言うんですか!!』

『っ!?』

 

 それは初めて見る息子の本気の怒りだった。

 しほは年甲斐もなく、母の威厳も忘れて、思わず「ひゃうっ」と言いそうになるのを必死にこらえた。

 それほどの剣幕だった。

 

『……許さないから。たとえお母さまでも、みほ姉さんを勘当するなんて、絶対に許さないから!』

『む、武佐士。落ち着きなさい』

『落ち着けるわけないだろ! 勘当ってそれ、家族じゃなくなるってことじゃないか! どうしてそんな……()()()()()()()()()()()をみほ姉さんにするのさ!』

『……』

『そんなひどいことしようとするお母さまなんて──大嫌いだ!』

 

 

 

「奥様。急に膝をつかれてどうされました?」

「なんでもないわ」

 

 ちょっと仕事の疲れが出たのだろう。

 別に息子とのやり取りを思い出してブルーになったわけではない。

 ないったらない。

 

「……はあ。菊代」

「はい」

「今晩の食事は鶏の唐揚げにしてちょうだい。それで一杯やりたいわ」

「かしこまりました。……うふふ」

「何かしら?」

「いいえ。坊ちゃまの大好物の鶏の唐揚げをわざわざご希望されるものですから」

「……」

「あいかわらず不器用ですね」

「偶然です」

「奥様が作ってさしあげるときっと喜びますよ?」

「菊代。人には不向きというものがあるのよ」

「覚える努力が足りないだけでは?」

「黙りなさい。だいたい私が作ったもので……」

「? どうかされました?」

「なんでもないわ」

 

 口から出そうになった言葉をしほは飲み込んだ。

 言えるわけがない。

 自分が作った料理で武佐士がお腹を壊しでもしたら今度こそ本当に……などと口が裂けても。

 

「……武佐士はいまどうしているの?」

「お昼寝をなさっています」

「お昼寝? まったく。あいかわらずよく寝る子ね」

 

 そう言うしほだったが、その口調はどこか穏やかなものが含まれていた。

 

「本当に、いつまでも小さな子どもみたいに……」

 

 息子の温厚な笑顔が脳裏に浮かぶ。

 

『お母さま。僕、西住の家にふさわしい立派な男になります!』

 

 母を信頼しきった無垢な瞳。

 それを思い出すと、いまこうして変な意地を張っていることが、なんだかバカらしく感じてくるのだった。

 

「……ふう」

「奥様、どちらに?」

「起こしに行ってくるわ。そろそろ夜になるのだから」

 

 たとえ(いさか)いを起こしている最中でも、それぐらいのことはしても不自然ではないだろう。

 別に寝顔を見たいとか、久しぶりに母親らしいことがしたいとかそういうわけではない。

 

「ああ、奥様。いまはやめたほうが……」

「なぜ止めるの菊代?」

 

 もしや自分の役目を横取りしようという気か。

 家政婦の分際で、と昼ドラみたいなことでも言ってやろうかと思った矢先、

 

「いえ、まほお嬢様と同衾されておりますので、いまお邪魔するのは無粋かと」

「ぶっ!」

 

 何気なく、とんでもない爆弾発言をされた。

 

「あ、あの子たち姉弟同士でなにをしているの!」

「落ち着いてください。奥様が想像しているような破廉恥なことはしておりません。普通に姉弟仲良くお昼寝をしているだけですよ。やですねーこの人は」

「あなたがややこしい言葉使うからでしょ!」

 

 なにより、しほがそのような早とちりをしてしまうには、ちゃんと理由があった。

 

「心臓に悪いからやめてちょうだい。まほなら本気でそんなことしても、おかしくないのだから……」

 

 憂鬱気(ゆううつげ)に溜め息をもらす。

 

「あの子は、弟に対して本気なのよ?」

 

 

 

 それは、跡取りについて長女のまほと話をしているときに起きた出来事だった。

 

『まほ。あなたが次期家元として西住流を継ぐことに異論はありませんね?』

『ありません。私が西住流を背負います』

『よろしい。では次に跡取りのことです。まほ、そろそろあなたも許嫁を決めるべきとき……』

『いやです』

『話は最後まで聞きなさい』

『いずれ夫となる相手を決めろとおっしゃるのでしょう? でしたら絶対にいやです』

『はあ……どうしてこの話題になるとあなたはワガママになるのですか?』

 

 武佐士と同様、まほもいつだって母の躾に素直に従ってきた。

 しかし婚姻のことになると、この娘は極端に反抗を示すのだ。

 

『あなたも西住の女なら家の行く末は考えているでしょう?』

『当然です。私の代で流派を絶やすわけにはいきません』

『だったら跡取りを生むためにも相手を……』

『いやです』

 

 ああもう、としほは頭を抱える。

 こんなやり取りを自分たちはいったい何度やっていることか。

 成長すれば、まほだって冷静になって母の言うことを聞いてくれるだろうと踏んでいたのだが、

 

『私には武佐士がいます。ですから許嫁は必要ありません』

 

 成長をした今でも、まったくその意志を変えようとしていない。

 

『まほ、武佐士は弟なのよ?』

『何か問題でも?』

 

 まるで試合に挑むときのような鋭い目で言う愛娘。

 

『大ありです』

 

 本気で『その程度の障害が何か?』と思っているところが我が娘ながら何とも恐ろしい。

 

『お母様。武佐士以上の男性がいるというのなら私も許嫁に異存はありません。そして断言します。この惑星に武佐士以上の男性など存在しません。ですから、いやです』

『会ったこともないのに断言するんじゃありません』

『どんな男に出会っても、私の中で武佐士の座は揺らぎません。この気持ち、まさしく愛です』

『その愛は姉弟愛に留めておきなさい』

『無理です。もうこの思いは止められません。姉としても、女としても、私は武佐士を愛してしまっているんです』

『……』

『性的にも愛しているんです』

『そこまで詳細に言わなくてよろしいです』

 

 いったいこの娘はどこで道を踏み外したのか、弟の武佐士を本気で愛しているのだ。

 もともと溺愛するほどにかわいがっていたが、それが女としての愛に変わるなど誰が予想できようか。

 

『私と武佐士は幼い頃から互いを知り、そしていまでも仲睦まじく支え合っているのです。これほど私の夫にふさわしい男がいるでしょうか? いや、いません』

『少し落ち着きなさい』

 

 本当にこの長女は武佐士が絡むと人が変わる。

 

 確かに身内贔屓を差し引いても武佐士はどこに出しても恥ずかしくない好青年だ。

 自慢の息子である。

 だからと言って、これとこれとは話が別である。

 

『現実を見なさいまほ。どう考えても弟と結ばれるだなんて道徳的に許されるわけが……』

『血縁上では問題ないはずでは?』

『……』

『……わかりました』

 

 沈黙を決め込む母に対し、まほは挑戦的な笑みを浮かべた。

 

『では、約束を交わしてください』

『約束ですって?』

 

 いやな予感しかしなかった。

 そしてそれは当たっていた。

 出来のいい自慢の長女は、師範でもある母に対し真顔で言った。

 

『武佐士との間に“愛の証”が無事にできた際には、お母様も認めてください』

 

 そう宣言したまほの瞳には、まるで肉食獣のような光が瞬いていた。

 

 

 

「ああ……」

 

 思い出すだけ頭痛がしてきた。

 娘からとんでもない宣告を受けてからというもの、自分の見えないところでアブノーマルなことが起きているんではないかと気が気でないのだ。

 二人が一緒に昼寝をしているというだけでも不安になる。

 はたして息子は無事だろうか。二重の意味で。

 

「先が思いやられるわ……」

 

 母としても、家元としても、しほの悩みは尽きない。

 

「ちなみに奥様。わたくしはまほお嬢様の味方ですからね? あの二人が結ばれるのなら、わたくしは盛大にお祝いいたしますわ」

「菊代、あなたまで冗談言わないでちょうだい」

「本気ですよ? 武佐士坊ちゃまを旦那様って呼ぶ日が来るのを、わたくしひそかに楽しみにしているんですから♪」

「あのね……」

「それにしても、血は争えませんね?」

「なんの話かしら?」

「奥様も同じことおっしゃっていたじゃないですか。常夫様との婚姻を認めてくださらないお母様に対して『なら既成事実を作れば文句はありませんね?』って強引に……」

「忘れなさい」

 

 そんな子どもたちに絶対に明かせない最大級の秘密を軽々しく口にしないでほしい。

 

「奥様。母娘ならお嬢様の決意も理解できますでしょ?」

「……私とまほでは、あまりにも状況が違います」

 

 しほが母と対立したのは、決められた許嫁よりも常夫との恋愛結婚を優先しようとしたからだ。

 

 それだけの障害ならば、まだ説得で解決できるだろう。

 ……しかし、まほと武佐士は姉弟だ。

 その障害はあまりにも大きい。

 

 それがたとえ、

 

 

 

 ──まほ。()()()()()()()()()としても、武佐士は弟なのよ?

 


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