恋のリート 作:グローイング
プラウダ学園の図書室はなかなか豊富な蔵書を誇っている。
特徴的なのはやはりロシア本国から寄付された文学作品の数々。
いまだに日本語訳されていない貴重なロシア文学もあったりするので、読書家としては実に興味深い。
辞書を片手に解読しながら読み進めていくのは中々に大変だが、暗号を解く学者のような気分に浸れるので、これはこれで楽しい。
カチューシャお姉ちゃんがお昼寝している間のながーいお昼休みを使って、そんな読書に耽ることがボクの一日の楽しみだった。
ただ……
「ううん……も、もうちょっと」
自分の背が低いことを恨めしく思う瞬間は、やはり棚から本を取ろうとするとき。
読みたい本に限って高い場所にあったりするから、難儀なものである。
「ううぅ、ぐにゅうう!」
プルプルとつま先で立って手を伸ばす。
素直に踏み台とかハシゴ使えばいいじゃんと言われるだろうが、ギリギリ取れそうな高さになると、つい意地を張ってしまう。なんかこう、隣の人は普通に本を取れるのにボクだけ踏み台を使うという光景は……敗北感を覚えてしまう。
いま図書室にはボクしかいないから見ている人はいないし、我ながらつまらない見栄だとは思うのだが、それでも譲れないものというのが人にはある。
なるべくジャンプとかも使わないように、目的の本を手に取ろうとする。ドンドンと跳ねたりしたら図書室に迷惑だからね。
「ぐぬ……むむむ!」
思わず大親友の武佐士くんの口癖「むむむ」と唸りながら背伸びをする。
あとちょっと……あとちょっとだ。もう少しで本に手が届きそうなところで……ガシッとハードカバーを掴んだ確かな感触を実感。
よっしゃあ! と思わず心の中でガッツポーズ。
まるでとつぜん背が伸びたかのように容易く取れた。もしかしてボクを哀れんだ神様が身長を少し伸ばしてくれたのだろうか。
そんな素っ頓狂な想像をするほどに内心舞い上がっていると……
ひょい、と本当にボクの身体は舞い上がるように宙に浮いた。
「ふ、ふえ?」
急に目線が高くなった。
もちろん奇跡の力で身長が伸びたわけじゃない。だって足が浮いているから。
つまりこれは誰かに持ち上げられているということでして……
「欲しい本は取れましたか? ユーリくん」
後ろから、優しく大人びた美声で名前を呼ばれる。次いで……
むにゅうううう、と柔らかい感触が背中にあてがわれる。つい先日、掌で、顔で、身体いっぱいに味わったのと同じくらい大きくて柔らかいふくらみ。
ボクは口をパクパクさせながらゆっくりと振り向く。
こういうことをしてくる人は、幼なじみのノンナさんと、あと一人しかいない。
「ク、クラーラさん?」
「はい♪ こんにちはユーリくん♪」
振り返ると、まるで雪の精のように美しい女性と目が合った。
ロシアからの留学生であるクラーラさん。
ミルクのように真っ白な肌と、バルト海を連想させる青い瞳に、艶やかなクリーム色の長髪。
遠目から見ても見惚れてしまうような生粋のロシア美人と、いまボクは至近距離で見つめ合っている。
というか、抱っこされている。
「ちょ、ちょっとクラーラさん!?」
「ユーリくん、あいかわらずとてもかわいらしいです」
クラーラさんはニコリとほほ笑んで、さらにボクを抱きしめてくる。
豊満な膨らみがボクの二の腕から溢れんばかりにたわむ。
わわ。すごく柔らかい。それに、とってもいい匂い……じゃなくて!
カァーッと頭からヤカンのように湯気が吹き出る。
「ク、クラーラさん。やっ、お、降ろしてぇ」
クラーラさんの腕の中でボクはジタバタする。
抱っこされていることはもちろん、先ほどの意地を張った姿を見られていたことも含めて恥ずかしさでいっぱいだ。
でもクラーラさんはニコニコとしたままボクを離そうとしない。
どころか、まるでボクの心情を読むように意地悪なほほ笑みを浮かべて、
「がんばって背伸びしているユーリくんを見ていたら、思わず抱きしめたくなっちゃいました♪」
と甘い声色で言った。
羞恥心と色っぽい艶声の二重効果で、ボクはますます沸騰する。
「うう~……」
あまりの恥ずかしさで目をギュッと瞑る。
きっとバッテンみたいな顔をしているだろうボクの反応が余計にクラーラさんを刺激してしまったのか、すりすりと頬まであてがわれる始末。
「うふふ。恥ずかしがるユーリくんもかわいいですよ?」
「お、男に『かわいい』は、褒め言葉じゃ、ないもんっ……ふええ! あ、頭撫でないで~」
もう完全な子ども扱いだ。けど彼女の手つきを気持ちいいと感じてしまっている自分が恨めしい。
「本当にカチューシャ様にそっくりですねユーリくん。ますます抱きしめたくなってしまいます」
「な、ならカチューシャお姉ちゃんに、こういうことすればいいじゃないかぁ」
クラーラさんがカチューシャお姉ちゃんを敬愛しているのは誰もが知っていることだ。
代替としてボクを愛でるのなら本人にしてくれというニュアンスを込めたのだが……
「それとこれとは話が別です♪」
「あうう」
クラーラさんもクラスの女子たちと同じようにボクをちやほやすることが好きなようだった。しかも、その度合いは誰よりも高い気がする。
ボクを見つめる彼女の瞳は近所のお姉さんのように優しく……いや、もはや我が子を見るような慈しみさえ宿している。
高校生とは思えない母性に満ちた表情で、クラーラさんは耳元に囁いてくる。
「ユーリくん」
「な、なに?」
「また前みたいに私のこと……“お母さん”って、呼んでみてください♪」
「わあわあ! その話は蒸し返さないでよお!」
誤解される前に弁明しておこう。別にボクと彼女が以前に特殊なプレイをしたわけじゃない。ちょっとした事情で彼女をそう呼んでしまっただけのことだ。
先生のことを『お母さん』と呼んでしまったというベタなあれではなく、人助けのためにしょうがなくで。
話はボクとクラーラさんが“友人”になった日に遡る。
* * *
寄港日と休日が重なると、ボクは陸にある大型書店で本を買い漁る。
紙袋いっぱいに入った本の山を見ると、カチューシャお姉ちゃんは『よくそんなにご本を読もうと思えるわね』と呆れるが、ボクにとって読書は欠かせないものなのだ。
立派な人間、ひいては立派な男を目指すなら、書物から教養を得ることも大事だと思うのだ。もとから読書好きってこともあるけど。
でも、あまりにもボクが本に夢中になっていると、よくカチューシャお姉ちゃんは『わたしのこともっと構いなさいよ~!』と駄々をこねてしまう。
恋する以前では、ぎゃあぎゃあと読書を邪魔する彼女によく腹を立てていたものだが、いまでは、ほほ笑ましい気持ちのほうが湧いてくる。
──読書は心の旅なんだよ、お姉ちゃん。
その日の朝も拗ねる彼女に対して、苦笑交じりにそう嗜めてきたところだった。
そして、そんなボクの言葉を聞いた彼女は頬を膨らませて……
──カチューシャと遊ぶより、ご本のほうがいいって言うの? ……ユーリの、バカッ
心臓を射貫かれるような感覚とは、現実にあるんだなあと実感した瞬間だった。
「あ~あ~。どうして世の中には、いとこ同士の恋愛小説ってのがないんだろうな~。ぜったいに需要あるのにな~」
緩んだ顔を浮かべながら、ボクは陸でいつものごとく大量の本を買っていた。頭の中で思い人の愛らしい反応を思い返しながら。
「ないなら、いっそ自分で書こうかな。《ボクのいとこのお姉ちゃんが天使過ぎるので本気出すことにした》ってタイトルで」
そんなアホなことを考えながらの帰り道でのことだった。
「ねえ、ちょっとぐらいイイじゃん?」
「日本は初めて? なんなら俺たち案内するよ?」
真摯とは程遠い乱雑な声がボクの意識を引いた。
「ん? あれって……」
どう見ても、街中でナンパをされて困っている私服姿の女性を見かけた。
どうやら、地元の大学生の男たちから強引に遊びに誘われているようだった。
無理もないと思った。手の早い男どもならば声をかけずにはいられないほどの美貌を、その人は誇っていたのだ。そして、その美貌には見覚えがあった。
(あの人は確か、戦車道の……ええと、クラーラさんだっけ)
よくカチューシャお姉ちゃんの側近として、彼女のお世話をしているロシアの留学生だ。
何度か顔を合わせて挨拶をしたことがあるが、特別親しいわけじゃない。
やたらと美人な留学生が来たと学園の男子たちは彼女のことに注目していたけど、片思いの相手がいるボクにとっては関係ない話だったし、クラーラさんもボクに対してそこまで関心があるわけじゃなかったと思う。
カチューシャお姉ちゃんのいとことはいえ、クラーラさんがあくまで心酔しているのはカチューシャお姉ちゃんその人であって、容姿が似通っているというだけでボクまで特別扱いするわけじゃなかった。
だから助ける義理はないと言えば、ないのだが……
(だからって、見過ごせないよね)
こんなところで見なかったフリをするだなんて、男が廃るってものだろう。もちろん人としてもだ。
(助けなくちゃ)
迷うまでもなくボクはそう決めた。だけど……問題はどうやって助けるかだ。
(できれば話し合いで済ませたいけど……)
虐められっ子の経験上、あの手合いはそう簡単には引き下がらない。
ならば武力行使や威嚇で追っ払うという選択肢が出てくるが……ボクみたいなチビがそんなことしたところで、笑いが巻き起こるのは火を見るより明らかだ。
──もっとも、武道をやっている身としては、腕っ節で負ける自信なんてさらさらないのだが。この見てくれから油断した相手を不意打ちで倒すのは、ボクの
けど、もちろん喧嘩に技を使うのは武道の理念に反する行為だ。
(う~ん……皆だったらどうするかな?)
ここで、武道で知り合った友人たちを頭に思い浮かべてみる。
彼らならこの状況をどう打破するだろうか。
記憶にある彼らを鮮明なイメージとして生みだし、シミュレーションしてみる。
なにか参考になる方法があれば、ぜひ活用してみよう。
まずは《黄金のガーディアン》の通り名を持つサンダースのカズヒロさん。彼なら、たぶんこうするかもしれない
『お嬢さん! ここはオレッちが引き受けるから逃げな! そしてこのナンパ野郎ども! ……その鬱憤はオレッちにぶつけてこ~い! あっ! ああっ……あはーん♪ もっと! もっとぶってこい! これぐらいじゃオレッちの筋肉は満足できないぞ~!』
見苦しいイメージを振り払う。ダメだ。
よし。次は継続高校のライヤさんだ。彼の場合は……
『は? なんで助けなきゃいけねーすんか? 報酬くれるってんなら別だけどよ』
うん。あなたはそういう人だよねライヤさん。二つ名の《群青の死神》に恥じない冷徹ぶりだ。
つ、次は頼りになるボクらのリーダー格。かつて《紅蓮の暴君》で名を馳せ、現在は中卒でありながら聖グロのスタッフとして働いているイアンさん。
『とりあえず玉潰す。女引っかけられるとか思い上がってるようなクソッタレの玉はさっさと潰す。
イアンの旦那。ボクはあなたほど過激なことはできません。
く、黒森峰のレイジさんは……
『フハハハハ! 女性に飢えているというのなら君たち! 私が開発したこの『実際に汗をかき生々しい肉感を誇りお好みの喘ぎ声を上げられるダッチワイフ』を進呈し……』
最後の良心! 西住さん家の武佐士くん!
『ユーリくん。他の人がやることを参考にするんじゃいけない。君だけにしかできないことを、やるんだ』
優しくも厳しい、親友の笑顔が浮かぶ。
武佐士くん……。そうだね、君ならきっとそう言うだろう。
ボクにとって一番の友達であり、最大のライバル。カチューシャお姉ちゃんとは異なる意味での特別な存在。
彼はいつだってボクに大切なことを気づかせてくれる。
でも、ボクだけにしかできないことって、何だ? どうすればクラーラさんを助けられる?
そう考えている間に、事態はどんどん悪化していた。
「────」
クラーラさんはロシア語を早口で捲し立てる。
もちろん通じると思って言っているわけじゃないだろう。日本語が通じない相手だと思わせて、男たちに諦めさせようとしているのだ。
いい案だと思ったが……
「え? なんて言ったのこの人?」
「わかんね。まあどうでもいいや。逆に好都合だろ。助け呼んでも周りに意味通じねえだろうし」
まずい。手段を選んでる場合じゃなくなってきた。
(こうなったら……)
危機に瀕すると、人は本能的に己に必要な行動が頭に生じてくる。
武佐士くんが言う自分ならではの役割。それが天恵となってボクにアイディアを授けた。
授けてしまった。
うん。確かに、悪くない案だ。しかし……
(いや、でも、マジか?)
名案ではあるが、自分でも正直どうかと思う作戦だ。ヘタをしたらボクのプライドがズタズタになり、生涯残る傷跡になるかも。
でも……
「──っ!」
少女の悲鳴が上がる。「助けて!」というロシア語が聞き取れた。
……そうだよ。自尊心が傷つくからって、なんだって言うんだ。
それよりも、無垢な少女の心に傷が残るぐらいなら……
(……男のプライドなんて、いくらでも捧げるさ!)
見ていて武佐士くん。ボクはいま……ボクにしかできないことを成し遂げてみせる!
(いざ!)
嫌がるクラーラさんの細腕を掴む男グループに向かって突貫!
「ぬおおおお!」
ボクは走る。ただ一直線に。恥も外聞も捨て去って。
目標確認!
男子グループの隙間をくぐり抜け……クラーラさんのもとへ到着!
接触完了!
いまです!
「お、お母さあああああああああん!! 早くお家に帰ろうよおおおおお!!」
ボクの口から、涙交じりの声が、空高く向かって放たれた。
《つづく》