現場では、ちょっとした混乱が起こっていた。きっかけは空閑だった。
到着した現場で何とか踏みとどまっていた空閑と三雲、レプリカだったが、徐々に流れてくるトリオン兵の数が増え始めてため押され気味になっていった。
また、B級は東の元に合流し、全員で市街地の防衛に当たるように命令が出された。
この指示は的確なものであったと言える。実際レプリカもB級の1つの隊ではラービットに隊員全員が捕獲されてしまう懸念があると言う。
実際、風間隊の到着があと僅かでも遅れていれば、諏訪隊は全員捕獲されてしまっていたことだろう。
諏訪隊は20隊ほどあるB級部隊の中でも中位クラスの実力だ。ということは、それ以外のB級部隊は軒並み喰われてしまうだろうし、諏訪隊よりも実力上位であってもそう差の無い部隊でも同様の結果となることが予想される。
そうなると、ボーダーの全戦力の60%以上が失われる計算になる。そのような状況を看過することなどできはしないのだ。
「千佳たちはどうなるんだ!?」
全体を見れば正しい判断ではあっても、個々においてそれが最良であった試しは古今東西稀なことだ。今回の本部判断についても同じことが言えた。
『トリオン兵の排除は、避難の進んでいない地区を優先するとのことだ』
その事実は、三雲にとっては雨取を見捨てるに等しい出来事だった。
とはいえ、実は彼らが思っているほど状況は悪くはなかった。清治の依頼で敵の足止めをしていた二宮隊が、清治が考えていたよりも長い時間その場で戦ってくれていたからだった。
「二宮さん。そろそろ行きましょう。これ以上は…」
二宮としてはここで踏みとどまるには理由があった。『雨取』という人物のこともあるが、依頼主が清治であるということもあった。個人的な事ではあるが、二宮は例の『トリガーチャーハン』から、清治に何度も救われている。
だが、確かに犬飼 澄晴の言う通りだった。既に足止めのレベルを越えているし、そろそろ移動しなければ西地区の防衛にも障りが出る可能性がある。
「よし。お前たちは先に離脱しろ。俺はここを一掃してから行く!」
「犬飼了解!」
「辻了解!」
この後、一時的にではあるが南西地区に流れ込む敵の数が著しく低下したのは間違いない。
さて。混乱の方である。三雲が自身の行動が結局裏目に出てしまったのではないかと逡巡している時に、突如としてラービットが出現したのである。
間髪入れず襲いかかって来た敵の一撃を、三雲はレイガストをシールドモードにして受け止めた。以前の彼ではできなかったであろう見事な防御ではあったが、この場合は相手の攻撃が強すぎた。
さすがにレイガストが破壊されるほどではなかったが、上空から飛び降りてきた勢いも乗せられたその一撃は、三雲の動きを止めるには十分過ぎた。
「……!!」
予想していたよりも遥かに強力なラービットの一撃に動くこともできない三雲に、敵はとどめとばかりに次の攻撃を仕掛けてくる。だが、攻撃にうつる一瞬の隙を衝いたのが空閑だった。
「
自らの黒トリガーで強化した体を使い、強烈な蹴りをラービットに食らわせた。
凄まじい衝撃を受けてラービットは吹き飛んだが、破壊するには至らない。黒トリガーで強化した一撃でも破壊できない程にラービットの外殻は堅いのだ。
「うお。こいつかってーな」
素直な感想をもらした空閑を、三雲が諌める。
「黒トリガーは使うなって言ったろ! ぼくや林藤支部長がかばえなくなるぞ!」
言っていることはもっともだったが、これは杞憂であることが分かるのはもう少し後になってのことだった。
「出し惜しみしてる場合じゃない」
正しい判断だった。いくら空閑でも、不慣れな上に出力が抑えられた訓練用のトリガーを使っていたのでは、ラービットの相手などとてもできそうにない。仮に正規隊員の使うトリガーを使用できたとしても、1対1では厳しい戦いになったかもしれない。
さらに言えば、ラービットとの交戦はおそらくこの場だけでは済まないはずだ。風間の言い草ではないが、さっさと倒して次に移らねばならない。
だが、これが混乱を作り出す契機となってしまったのである。空閑が横合いから急に射撃を受けたのである。
「やっぱこいつボーダーじゃねーぞ!!」
そこに居たのは、B級下位部隊である茶野隊に所属する茶野 真と藤沢 樹だった。
「本部!! こちら茶野隊!! 人型
彼らはB級隊員ではあるが、空閑たちとはまだ面識が無い。その状況で交戦している現場にボーダーのトリガー以外のトリガーを使用している空閑を
さらに空閑に攻撃を加えようとする横合いから、先程空閑に蹴り飛ばされたラービットが迫る。
「待っ…!」
三雲が警告を与えるよりも早くラービットが2人を一掴みにしてしまった。
「新型…! しまった…!!」
ラービットが今まさに彼らを捉えようとした時だった。空閑が攻撃をかけた側に集中砲火を浴びせる一団が現れた。嵐山隊である。
駆けつけた嵐山隊がラービットを片付け、ついでに茶野隊の誤解も解いた頃、本部は思いもよらない攻撃を受けていた。イルガーである。
敵は、爆撃可能なこの飛行トリオン兵を最初から自爆モードにしてボーダー本部に特攻を仕掛けてきたのである。
突入してくるイルガーに、本部は激しい砲撃で応戦する。だが、強力な砲撃にはそれだけ多くのトリオンが必要になるため弾幕を張るには至らない。
また、自爆モードに入ってイルガーは破壊が難しいほどの硬度になる。飛来した2体のうち1体はなんとか撃墜に成功したが、もう1体には突入を許してしまった。
「1体撃墜! もう1体が来ます!!」
本部作戦室で筆頭オペレーターを務めている沢村 響子が叫ぶ。
「衝撃に備えろ!」
忍田本部長が間髪入れずに言葉を発するが、その直後にイルガーの直撃を食らってしまった。
その衝撃は想像以上に凄まじく、基地から距離のある場所にいた三雲たちですら、衝撃波に耐える必要があった。
「基地が…」
「やられた…!」
茶野隊の2人が思わずそう漏らすほどに凄まじい一撃だったのである。
確かに以前の基地では、今の攻撃に耐えられなかったかもしれない。だが、今の基地は違った。
「この間の外壁ぶち抜き事件以降、装甲の強化にトリオンをつぎ込んで正解だったわい」
衝撃で倒れ込み、ようやく起き上がった鬼怒田がそう洩らした。これには、強制的にトリオン集めに協力するハメになった迅の功績でもあると言えた。だが。
「第2波来ます! 3体です!!」
再び基地内に緊張が走る。
「装甲の耐久度は!?」
「あと1発まではなんとか持たせる!」
鬼怒田とのやり取りの後、忍田は矢継ぎ早に指示を出した。各砲門にトリオンをつぎ込み、砲撃を1体のイルガーに集中させると同時に、基地内の各職員にはシェルターへの避難を命じた。
「!?… いや… 1体だけでは…」
根付の疑問はもっともだったが、もちろん忍田には策があった。
「問題ない。残りは1体だ」
その瞬間だった。空中を基地に向かって飛来するイルガーのうち、より基地に近い方の個体が突然四散した。基地に詰めていた太刀川 慶がトレードマークである二刀流の旋空孤月でイルガーを切り伏せたのである。
恐ろしい手並みだ。先の通りイルガーは自爆モードになると驚異的な硬度を誇る。自爆しなくとも墜落するだけで地上に甚大な被害をもたらすほどである。
それを、まるで切れ味の良い包丁で魚を調理でもするかのように事も無げに切り裂いたのは、やはりアタッカートップでありボーダー現役戦闘員最強と呼ばれる彼だからこそできた芸当だった。
だが、そこまでは忍田の予定の通りであったが、その後起こったことは忍田のプランをも上回った。
「もう1体来ます!」
沢村がそう言った瞬間だった。どこからともなく飛来した弾丸が正確にイルガーの『眼』を一撃で撃ち抜いたのである。
均衡を失ったイルガーはそのまま失速し、基地脇の空き地へ墜落して行った。
「し… 忍田本部長…?」
あらかじめ迎撃のプランがあるのであれば、先に言っておいて欲しかったと根付は言ったが、少なくとも最後の攻撃をしのいだのは忍田の計画ではなかった。
「…! 武蔵丸め」
しばらく考え込んだあと、苦々しげな笑みを浮かべつつそう言ったのは鬼怒田であった。
ボーダー本部基地から、直線距離で約28kmと離れた高速道路、その防音壁の一番上に1人の男が立っている。その辺のフェンスの上に立ちたがらアホガキのような佇まいは、高速道路という場所で見かけるにはあまりに不自然だった。
男の手には、銃剣付きの三八式歩兵銃のようなものが握られていた。この場に警官がいれば銃刀法違反で逮捕されるかもしれなかった。
もっとも、彼はつい先程まで白バイ警官と共にしかるべき方法では無い形で三門市へと向かっていた。白バイ警官は三門市は管轄外だったため、市域に入る少し手前で引き返して行ったのである。
男は直立したまま、しばらくは遠くを眺めていた。やがて得心したかのように1つ頷くと、銃をしまって道路へと飛び降りて来た。
言うまでもなく、この男は清治だ。仁別郡で外務・営業部長の唐沢 克己と別れたあと、ホンダ巡査長の先導(?)でここまで戻って来たのだが、あらためて基地に目線を向けた時に基地が攻撃を受けているのを『見た』のである。
サイドエフェクトによって視覚が強化されている清治は、遮蔽物がなければ半径100km程度であれば視界におさめることができるし、遮蔽物がトリオンで作られたものでなければ、その向こう側にいる(あるいはある)トリオンで作られた物なり人なりを見ることができる。
脳の一部を失っている清治がそれを使うのは少なくはない負担を強いられることになるが、ホンダ巡査長と別れた後に一応現状を確認しようとした所、まさに第1波の攻撃を基地が受けている最中だったのだ。
――― もう1発くらいなら保つはずじゃが…
後続の攻撃が無いとは言い切れない状況だったので、清治としては出来る手を打つことにしたのだ。そして、それが奏功したことになる。
以前にも少し述べたが、清治の保つ黒トリガー『煉』は狙撃と中距離射撃、そして銃剣を使っての近接戦闘が可能だ。ちなみに、銃剣は銃から外すことも可能で、どちらか片方を他のトリガー使いに貸し出すことも可能だ。
さて、狙撃銃としての『煉』の性能は、これも以前に述べた通りだ。威力としてはイーグレットを上回り、連射性と弾速についてはライトニングを上回る。そして、弾丸の威力こそ劣るものの、貫通性についてはアイビスのそれを遥かに上回る。
以前玉狛支部のオペレーター兼エンジニアの宇佐美 栞が解析した所、事実上『煉』の弾丸を防御するのは不可能なレベルだという。
そして、さらに特筆すべきは射程だ。『煉』の長距離狙撃時の射程は使用者の目の届く範囲だ。どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。
単純な言い方をしてしまえば、どこまでも見晴らすことのできる清治の、視界の範囲は全て清治の射程距離ということになる。迅と『風刃』と同様、清治と『煉』の相性も良すぎる程に良いのである。
さらには、清治の特殊な射撃能力だ。例えばノーマルトリガーで清治と他のスナイパーを比較した場合、清治はランク的には5〜12位くらいの間を行き来することになる。優秀な部類ではあるが抜きん出るというほどではない。
だが、一般的なスナイパーの射程である800〜1200mを超えると、どういうわけか清治の成績は徐々に上がってくる。およそ5000mあたりで通常射程におけるランキング3〜5位クラスと同等、10000mを超える辺りでトップの当真のそれを上回る。
そして、およそ80000mまではその能力を維持し、それ以降は徐々に精度が落ちて行く。100000mくらいまで来ると普段の清治の能力と同等になる、120000mが限度ということになる。
整理しよう。射程1.2kmくらいまでは上位クラス、5kmくらいまでがトップクラス、10〜80kmまではランク1位レベル、80〜100kmまではトップクラス、そして100〜120kmは上位クラスとなる。
早い話が、清治にとっては120km以内は十二分に射程内ということになる。驚異的であると言えた。
先の射程と射撃精度を考えれば、清治にとってここから基地までの距離は最適な距離の範囲内だった。防音壁に登ってしまえば遮蔽物も無いため、射線が歪む心配もない。
1仕事をしてバイクの所に戻って淡々としている清治を見る人がいれば、これだけのことをやっても眉一つ動かさないその様子に畏怖すら感じることだろう。だが。
――― うおおおおおおぉぉぉ! すげええええぇぇぇ!! あ、当たった! 当たったあああぁぁぁぁ!! すげ!! すっげ!!!
本人の内心はこの通りである。
もっとも、これもまた無理からぬことだった。訓練の中で仮想空間内でこの超長距離射撃をすることはあっても、現実空間では清治も初めてのことである。
ボーダーの仮想訓練技術がいかに優れたものであったとしても、現実空間では想定できないこともありえるということはエンジニアでもある清治も良く知っていた。
そうした中での今回の射撃成功は、基地の防衛においてもそうではあるが『煉』の性能データの取得においても貴重なことであった。
とはいえ、その代償が無いわけではない。
――― う〜… 頭がくらくらしゃ〜がる…
視覚を酷使するということは、清治にとっては重労働だった。
その場で深呼吸をして再びバイクに跨ると、清治はまた戦場へと続くこの道をひた走る。既に退避が完了している三門市市域の高速道路内は、それまでとは比較にならないほどに広々としていた。