ボーダー本部基地のエンジニアが多数詰めている開発室へと通じる廊下では、無言のしかし凄まじい『おにごっこ』が繰り広げられている。やっているのは風間 蒼也と清治だった。
先ほど清治が一瞬見せた動画を見た直後、同じくその場にいた風間隊所属の歌川 遼と菊地原 士郎があっけに取られる中、急遽始まった追いかけっこは、次第に追いかけっことは言い難いほどの熱を帯びてきている。
清治が自身のタブレット端末で一瞬見せた動画は、風間には身に覚えのないものであった。だが、無意識下の『記憶』の中にそれらしいものがある。
ある夜、風間は同年の諏訪 洸太郎と木崎 レイジと共に、清治のすすめる飲み屋でしたたかに酒を呑んだ。
もちろん自身が前後不覚になる程に呑むつもりは無いのだが、諏訪が異様なまでの勧め上手だったのだ。
自身と同じくポーカーフェイスの木崎が表情も顔色も変えずに淡々と、しかしぐいぐい呑む姿を見て、
――― まるで象が水を飲んでいるみたいだな…
という感想を持ったあたりまでは記憶にあった。だがその後のこととなると、どこをどう歩いて自宅まで戻ったのかを、風間は全く覚えていない。
先ほどの感想の記憶の後は、ほとんど全ての記憶が無い。あるのは、なぜか自室の入り口で下半身裸で眠っていたということと、そんな自分の状況をいぶかる暇もなく訪れた凄まじい頭痛の記憶だけだった。
その日が非番だったのは幸いだったが、今後二度と諏訪とは呑まんぞという(何度目かの)決意の中で、風間は自身の感覚の中に、何者かと戦ったらしいような感触が残っていることに驚いた。
腕や足から伝わるその感触には、その相手とかなり激しく戦ったのであろうという実感があった。それにも拘らず自分は無傷だ。頭痛と下半身が裸なのを除いて。
後日そのことを諏訪と木崎に問い合わせてみたが、諏訪は曖昧な笑みを浮かべるだけだったし、木崎は帰る方角が2人とは違うため、飲み屋を出た後のことは知らないという。
なんとも釈然としないまま日々を過ごしたわけだが、計らずも今、その応えが清治の端末に表示されたのである。
動画には、赤い何者かに激しい攻撃を繰り出す風間の姿があった。ただ、完全に酔っ払っている風間の動きは当然ながら尋常ではなかった。動きもしない郵便ポストに何度となく斬りかかるが、その斬撃がポストに当たることはなかった。
そして、自らの攻撃が空振るたびに
「なんという身のこなしだ…」
「今のは良くかわしたな!」
「素早さだけでは俺には勝てんぞ」
と、酒が入っているとは思えない尋常な口調で言っている。
もっとも、全て外れているとはいえ斬撃自体は見事なものだった。酒のせいで足元が多少おぼつかない面も見られたが、おおよそB級以下で上を臨むアタッカーたちにとっては見本になりそうな見事な連撃の数々だ。とうてい酔っぱらいが踊っているようには見えなかった。
やがて満足げに両手に持ったスコーピオンをしまうと、やはり酔っ払い然としたふらついた足取りであさっての方向に歩き去っていく風間。動画にはその一部始終が収められていたのである。
そんなものを後輩どころか人に見せられるわけがない。映っている当人であれば誰であってもそう思うに違いなかった。況んや誇り高き男、風間 蒼也である。A級トップレベルの隊を預かる実力と、それに見合うプライドを持った彼がそれを看過するべくもなかった。
それにしても、2人の立ち回りは見るべき者が見ればうなり声を挙げるほどのレベルだった。さほど広くもない廊下を縦横無尽に飛び回りつつ、片方が相手に飛びかかればもう片方はひらりと躱し、また片方がつかみかかればもう片方が見事な体さばきで間合いを離れる。
互いにトリオン体に換装しているとはいえ、その動きは目を見張るものがあった。もし事情を知らずにこの様子を普段から清治を下に見ている連中が見れば、やはり驚かずにはいられなかったに違いない。
どう見ても、清治が風間の攻撃を牽制しつつ見事に躱しているようにしか見えないのだ。
そんな二人の傍らを、どたどたドスドスといった感じの鈍重な足音を立てて通り過ぎた一団があった。そこの開発室から出てきたエンジニアたちである。
一応は開発室に見を置く清治が、彼らが開発室の外であんなにも慌てて動いている珍事を見逃すはずもなかった。
「要蔵さん。なんかあったんすか?」
一団の中に親しい人物がいたので、清治は風間を目顔で牽制しつつ声をかけた。
「狙撃手の訓練場で事故発生だ! お前も来い!!」
訓練場でエンジニアが駆け付けなければならないような事故など尋常ではない。清治も彼らに続いて走りだした。
「待て!」
もちろん風間はそれを黙って見送ることはできない。彼を開放するのは例の動画を始末してからだ。
「蒼さん! その動画をわしに教えてくれたんは諏訪っちさんじゃ!」
走り去りながら言い放った清治の一言で、風間は事の全てに合点がいった。つまりは、あの夜面白がって自分に酒を飲ませた諏訪は、その後何か面白いことが起こるかもしれないと密かに自分を撮影していたのだ。
はたして彼の狙いはものの見事に的中した。つまりは、諏訪の謀に自身が見事に嵌ってしまったわけだ。
「諏訪…」
走り去る清治の背を見送りつつそう呟いた風間が、その後どのような行動を取ったかは言うまでもないことだろう。
「ぅわ〜ぉ…」
山田を含むエンジニアの一団から2、3歩遅れて訓練場に到着した清治は、普段は漏らさないような声を上げた。
それも仕方がないことかもしれない。というのも、目の前に広がる光景に度肝を抜かれたのである。
射撃手の訓練場は本部内の他のどの施設よりも大きく広い。10フロアぶちぬきのエリアの奥行きは確か360mにもなるはずだ。
その広い訓練場の壁に、その広さにも見劣りしないような巨大な穴が開いている。偉観とも言えるその光景に驚かない者などいないだろう。
ちなみに、過去にここに穴を開けたのは他でもない清治だ。自身の黒トリガーの性能チェックのための試射であけたのだが、穴のサイズはこんなに大きくはなかった。
両手いっぱいに機器をかかえた清治は、エンジニア用の通用口から入って来てその場で思わず立ち尽くした。
アイビスで打ったらしいその穴は、いくら威力と貫通力を重視したトリガーとは図抜けた破壊力だ。まさに規格外としか言いようがない。
エンジニア用の通用口は訓練場の下にあり、そのままシューティングエリアに入ることができる。ちなみに訓練の際は上にある通用口から入る。
時に、清治が他のエンジニアたちより到着が遅れたのには理由があった。エンジニアたちは訓練場の壁に大穴が穿たれたという第一報を耳にすると、全員すぐさま立ち上がった。
誰一人として機材を持って出かけることはなかった。とにかく何が起こったのかをこの目で『見たい』一心で。
彼らの後に続いた清治はすぐにそれに気がついた。
「何で全員手ぶらなんじゃ」
言いつつ清治は一旦開発室に戻ると、穴のサイズを計測する機器を持ち出したのである。
開発室のエンジニアたちは概して優秀な人々だったが、鬼怒田も含めこうした少し抜けたところもある。清治に言わせれば『ヘンな人たち』だった。
そうした彼らを清治は好きだったし、そんな人たちの末端に自分がいるのを心地よく思っている。そして、そんな人たちと付き合っているから今回のようにさり気ないフォローが不可欠だった。
「何してる武蔵丸! 早く機材持って来い!」
自分たちは手ぶらで出かけておいてこの言い草である。苦笑しつつ清治は彼らの方へ向かった。
途中で大型ネイバーを模した的が置いてあるのを見た清治は、それを見た時に必ず言うことをわざわざ鬼怒田に通信で言った。
「ポンさん。これもそっと改良しましょうや。どう見ても卑猥でっせ」
『んな事言うのはお前だけだ! いいからさっさと計測せんか!』
「へいへい」
清治が言うには、この的の意匠はどことなく多聞天の足元の餓鬼に似ているというのだ。
多聞天とは仏教で言う四天王の一尊で、四天王としてではなく単体で祀られる場合は毘沙門天と呼ばれる神様である。
その立像の意匠は様々だが、多聞天の足元で鬼の一種である餓鬼がひれ伏しているのだが、この姿が清治が言うには尻を多聞天に差し出しているように見えるらしい。
そのため、清治はこの的を見るたびに卑猥だの破廉恥だのと言うのである。本人の女性職員に対するセクハラはそうではないらしい。何とも彼らしい言い草である。
――― それにしても…
凄まじい威力だとしか言いようが無かった。勿論目の前に広がる大穴を穿った原因についてである。
アイビスは3つある狙撃手用のトリガーで、最も弾速が遅い代わりに威力と貫通力が最も高いというシロモノだった。
貫通性においては清治の黒トリガー『煉』の長距離射撃弾の方がスペック上は上回るが、威力はアイビスの方がいくぶん上だ。それに、聞いた話では雨取のトリオン量は規格外だという。
しかしだ。それにしても、まさか基地の分厚い壁をただの一撃でぶちぬくとはとんでもない威力だ。しかも、この大穴である。塞ぐのに一体どれほどの量のトリオンを消費するのだろうか。
シュートレンジをチラリと見た清治は、困り顔で鬼怒田になでられている雨取と、騒ぎを聞いて彼女を心配してやって来た空閑と三雲に軽く手を振ると壁の方へ足を急がせた。
測定用のマーカーを手に、なるだけ等しい速度で穴の内側を清治は歩いていた。測定器具の中には特殊なブーツがあって、靴底が特別な処理を施したトリオンで固められている。
この処理の原理を清治は知らないのだが、これを施したトリオンは別のトリオンにゆっくり近づけるとまるで磁石のように張り付き、強い力で引っ張ればわりと簡単に引き剥がすことができる。
このため、トリオンでできた壁をまるで忍者のように歩行することができるのだ。もっとも、それをやるためには多少のコツが必要ではあるが。
マーカーの移動距離は端末によって記録され、事前に計測されたマーカーと地上との距離から穴の外周を計算する。そこから必要なトリオン量を割り出すことができるのだ。
鬼怒田が雨取に言った通り、複雑な造形が必要とされない壁の補修などはそう時間はかからない。だが、そうであっても武器トリガーを作成するのと同様にそれなりの量のトリオンを消費することになる。
先の改良型ラッドの一件で相当量のトリオンを備蓄できはしたが、今後の状況を考えれば備蓄は多ければ多い方が良い。ここでこれだけの量を消費するとなると、回復までにどれくらの時間がかかるのだろう。
そう思った時、ふと清治はある考えに思い至った。
穴の周辺をぐるりと散歩して、計測結果を待っている間、清治は再び鬼怒田に通信を送る。
「ポンさん。今回の一件、その子はともかく知っとって黙っとったモンにゃペナルティを与えんといかんでしょ」
『林藤支部長にか?』
「いやいや。いくら何でも幹部にそんなことできんでしょ。そうじゃなくて、他にも確実にこの出来事を『見た』やつがおるはずでっせ」
『…迅か』
「お誂え向けにやっこさん、今単独で防衛任務に着いとるはずです。こんだけの穴を塞ぐにゃ、トリオンをたんまり稼がんといかんでしょ」
『なるほどな… すぐに手配しよう』
すぐに鬼怒田は開発室に詰めている人間に指示を出して、誘導ゲートをできるだけ迅の任務区域に集中させた。
普段よりも圧倒的に多いトリオン兵を始末して一段落した迅は、今日の入隊式の様子を電話で嵐山に聞いたあと
「ところで、今日はやたらに俺のとこに敵が出てくるんだけど、何か知らない?」
と聞いたとか何だとか。
かくして、空閑と雨取の参加した入隊初日は、何から何まで異例ずくしで終了したのだった。
戦闘訓練で1秒を切るタイムで仮想ネイバーを斬り伏せた空閑。トップレベルの戦闘員である風間を相手に、勝利に等しい引き分けをもぎ取った三雲。そして、訓練室の壁に大穴を穿つという、前代未聞の事件を引き起こした雨取。
ボーダー内がこの3人の噂でもちきりになるのは、それほど先のことではなかった。
ムサさんによれば、あの的は見た目がこちらにケツを向けているように見え、的の黒マークがケツホールに見えるとのことです。