「一体どうなっとるんだ!! 迅と武蔵丸の妨害! トップチームの潰走!」
ボーダー中央会議室で、怒気も顕に鬼怒田が吠える。無理もないことだった。
今から1時間ほど前、先ほど出撃した強襲部隊が空閑の黒トリガーの奪還に失敗したとの報が届いたのである。
詳細としては、強襲部隊は玉狛支部の迅と、それに協力した清治、嵐山隊によって退けられたというものだった。
ただちに最高幹部に会議招集の通知がもたらされたが、幹部だけあってすぐにそれに応じることができる者はいなかった。
メディア対策室長の根付がいち早く会議室にやって来たが、忍田本部長も含めた本部所属の最高幹部全員が揃うにはさらに20分もの時間を要したのである。
「武蔵丸くんのことはそちらの管轄ではないですか? 開発室長」
根付が茶化すとも揶揄するともなく放った一言に、鬼怒田は顔をしかめつつも黙るしか無かった。確かに清治は、エンジニアとしては鬼怒田の部下なのである。
「そ、それはともかくだ! 問題は何よりも… 忍田本部長!!」
先ほどから静かに腕組みをして物思いにふけっていた忍田に向かって鬼怒田が気焔を上げる。
「なぜ嵐山隊が玉狛側についた!?」
「なぜ?」
鬼怒田の問いに答える忍田の声は、質問者のそれとは反対に極めて静かなものだった。だが、その言葉に含まれる怒気と殺気はその場を凍りつかせるには十分なものであった。
「それはこちらの台詞だ。なぜ論議を差し置いて強奪を強行した?」
さすがの鬼怒田も、この忍田の放つ気配に気圧されてしまった。現在のボーダートップ隊員である太刀川の師にして、ノーマルトリガー最強と呼ばれる忍田のそれである。
「これ以上刺客を差し向けるつもりなら、今度は嵐山隊ではなくこの私が相手になるぞ。城戸派一党」
最後のセンテンスにどれほどの怒りが込められているのかが如実に現れている。忍田もまた、清治とは違う理由で彼らの行動を『強盗』と断じているのだ。
主流派である城戸司令以下の人々とは一線を画し、玉狛ともまた違う独自の路線で防衛にあたる彼らしい考えであり態度であった。
この忍田の発言にはさすがの城戸も少し驚いたようだ。わずかに口を開いて忍田の方を見ている。
―――怒らせたのはまずかったな… ここはやはり懐柔策を…
一連のやり取りを見ながら唐沢はそう思った。彼は黒トリガーの奪取について積極的に反対はしなかったが、当初に口にした通り交渉と抱き込みの方が事は穏便に済むだろうという考えを持っていたのである。
「… ならば仕方あるまい。次の刺客には天羽を使う」
城戸の放った一言は忍田さえも顔色を変えさせるのに十分、いや十二分であった。
天羽 月彦。ボーダーにおいて3つある黒トリガーのうち最後の1つを持つ男。ノーマルトリガーの使用においても迅に近い実力を持ち、黒トリガーにおいては迅さえも凌ぐとされるボーダーの最高戦力だ。
黒トリガーの威力もさることながら、その見た目があまりにも人間離れしているがために、根付などからはボーダーに対するイメージの低下につながると見られている人物である。
「まっ、待ってください城戸司令! 彼を表にだすとボーダーのイメージが…」
根付が言うには、彼の戦いを一般市民に見られてしまうと、ボーダーに対するイメージが大きく損なわれるという。黒トリガーの重要性は十分に認識してはいるが、彼としてはボーダーの表の顔のイメージもそれと同等かそれ以上に重要だった。
「街を破壊する気か…」
新たな怒気をこめて忍田が言う。街の安全を最優先とする彼にとって、一帯が平地と化してしまうほどの威力を持った天羽を防衛以外の任務で使うことなど許容できようはずもなかった。
「トップチームを退け、その上ノーマルトリガー最強の忍田本部長が加わるというのであれば、こちらとしてもそれ相応の対応をするほかはない」
城戸としては、何がなんでも空閑の黒トリガーを入手するという不退転の決意を表明したのである。これには誰もが押し黙る他ない。ところがである。
「あんれま。そんなら喧嘩ぢゃのぉて戦争でっせ」
こうした、凍てつくツンドラ平原のような会議室の空気をものの見事に叩き壊すのは、声の主にとってはお手の物であった。
「どぉ〜もぉ〜。こんな時間まで会議とは、エラい人は大変ですのぅ」
「武蔵丸! 貴様!!」
鬼怒田が再び勢いを取り戻した。
「武蔵丸くん。君はいつからここに」
少々呆れたような表情で唐沢が言う。
「いつからも何も、最初っからおりましたよ。わしねっさんといっしょにここに入ったし」
これには一同も完全に意表を衝かれた。後から防犯カメラをチェックしてわかったことだが、確かに清治は根付のすぐ後ろについて会議室に入っている。
普段から足音も気配も完全に消して行動している清治にとっては当たり前のことだし、それに非戦闘員である根付が気が付かないのも仕方のないことかもしれなかった。
会議室に入った清治は、後から入ってくる全員の死角になるところに立って、ずっと会議の様子を見ていたのである。驚くべきことであった。
「それで、何をしに来たんだね?」
冷静に城戸が問いかける。清治はその問いに笑みを浮かべると
「先に結構な『演習』やっちょりましたな。せっかくなんでそん時に、ちょっと試したことがあって…」
と言い出した。
「演習だと!?」
それぞれに異なる考えから同じ感情を持ち、同じ言葉を鬼怒田と忍田が発する。当然ながら彼らとしては、あの戦いを演習などという一言で片付けることなどできない。
「演習、ですよね…」
そう言い放つ清治の目が一瞬に闇色に染まる。その瞬間、その場にいた全員が全方向から息詰まるほどの『殺意』が自分たちを貫くのを感じたのである。殺気ではない。殺意である。
戦闘員としての経験のある城戸と忍田に至っては、瞬間的に自分たちの首が切り落とされる光景が目の前にありありと浮かんだほどである。鬼怒田や根付は当然ながら震え上がり、普段は飄々としている唐沢でさえも戦慄のあまり椅子から転げ落ちそうになったほどである。
「… その演習とやらで、何を試したと?」
それでも努めて平静に城戸が清治に聞き返す。伊達にボーダーの頂点に立つ男ではなかった。
「ええ。ちょっとしたイタズラのつもりだったんですが… 正直シャレにならん結果だったんで急いで報告をと。詳細はこれから配る書類に書いてあります。ああ。ポンさんにはこちらの技術解説も見てもらえますか」
そう言うと、先ほどの殺意を完全に消して、普段の調子で、しかし珍しく真面目な表情で書類を配り始めた。
配られたものに目を通した幹部たちは、そこに書かれていたことに絶句した。そして、非難の視線を鬼怒田に向けた。当の鬼怒田は技術書を見て顔を真っ青にしている。赤くなったり青くなったり、忙しいことだ。
「おま… お前これをどうやって… いや、いつの時点でこんなことに気がついて…」
「いやぁ… 気がついてなんていませんでしたよ。ついさっきまで」
清治の提出した書類はレポートだった。開発室のチーフの一人である寺島 雷蔵との連名で提出されたそれには、先ほどの『演習』において清治がしかけたことについて、経過と結果が詳細に書き記されていた。
一言で言えば、トリオン体に対するハッキングである。外部からトリオン換装している人間のトリオン伝達機能に入り込み、その人物を操るといったものである。恐ろしい話であった。
きっかけはごく些細なものであった。寺島は清治のことをエンジニアとしてはさほど高く評価していなかった。そこそこの技術を持った、まあそれなりに使えるヤツという程度の認識だった。そして、それは実に正しい認識でもあった。
そんな寺島だが、映画の趣味が比較的近い清治とは、開発室のスタッフの中では親しい方に数えらる。しばしば二人で映画を見に行ったりDVDを見たりする間柄だった。
その日二人が寺島専用の休憩室で見ていたのは、とあるアニメ映画だった。
数年前にブームだった作品で、脳にマイクロマシンなどを埋め込んで人間の脳とコンピュータネットワークを直接接続したり、ほぼ全身を人工物に置換したりできるような世界を描いた、いわゆる『サイバーパンク』と呼ばれるジャンルだった。
「なんかトリオン換装に似てますね」
映画の感想をひとしきり語り合ったあと、ふと清治がそうこぼした。
「そういや似てるな。もっとも、トリオン換装した人間にハッキングをかけるなんて真似ができるとは思わないけど」
その時はこの程度の会話で終わったのである。
しかし、いつもの『ある種のひっかかり』を覚えた清治は、勤務時間外の気が向いた時に、何となくハッキングが可能かどうかの検証をしてみることにしたのである。
結果としては、『難しくはあるが技術的には実行可能』という結論に至った。清治は自分が独自で行っていた検証の経過と結果を寺島に報告し、内密に検証の継続を依頼したのである。
事態が事態なので、寺島も密かに検証を行った。その結果が先の『演習』で清治が実際に使用したアプリの完成であった。
「細かい話はよしときますが、わしは演習の間中ずっと嵐山隊に貼りついちょりました。当然迅隊員の方には
幹部たちは、まだ戦闘の詳細なログを見てはいないが、一応目の前にある書類に戦闘の経過が書かれてはいる。だが、各個人の細かい動きまでは書かれてはいなかった。
ただ、書類には歌川が迅に張り付いた際の不可解な行動や、強襲部隊の通信にのみ乗った奇妙な歌声のことが書かれてはいる。
鬼怒田に渡された資料には、当然ながらもっと詳細なことが書いてあった。
歌川のトリオン伝達基幹にハッキングして、以前の自分と太刀川のログを見せたこと。その際、太刀川の映像は見えないようにしていたということ。補足として、清治の演習参加時のトリガー構成も掲載されていた。
「お前、本当にあれを作ったのか」
少し疲れた様子で鬼怒田がそう洩らしたのは、例の『お徳用おおばさみ』の名をトリガー構成表の中に見出したからである。報告のあまりの内容に、鬼怒田ですらも息抜きを無意識に所望したのである。
出てもいない汗をハンカチで拭いながら、鬼怒田はさらに資料を精読する。清治たちが作成したアプリは歌川のトリオン体だけでなく、本部の作戦コンピューターにも入り込んだというのだ。流石の鬼怒田も驚愕を通り越してしまった。
「こ、こ、こんなことが…」
清治はエンジニアとしては格下に分類される。そのため、本部のインフラを利用するにしてもその権限レベルはかなり低い。ところが、ツールを使用したハッキング状態だと最上レベルの権限が何故か付与されたというのだ。
簡単に言えば、基地システムのどの領域も入り放題、見放題、改変し放題な状態なのである。
さすがにそこまではしなかったが、作戦行動中の強襲部隊と嵐山隊のオペレーターが使用しているデータおよび回線は自由に使えた。清治の下手くそな歌は、月見が使用していた機器をそのまま利用して強襲部隊全員の通信回線に乗っていたのである。
「もう雷さんに初期調査を頼んどります。おそらく今日未明には結果が見えると思うんですが…」
清治が真面目な顔をして説明しているのは珍しくもあり可笑しくもあったが、誰も笑うことができないような内容だった。黒トリガーの奪取も重要だが、清治たちが見つけたこの問題もまた、ボーダーの根幹を揺るがす由々しき事態であると言えた。
「鬼怒田開発室長…」
顔色を白黒させている鬼怒田に城戸が静かに語りかける。
「本件をボーダーにとって最重要課題と認定する。すぐにも開発室で調査と改善を行い給え」
鬼怒田はその命令を受領すると、清治を伴って会議室を退出する。迅が風刃を携えて会議室に訪れたのは、彼らを入れ違いだった。
「迅!」
出るなりそういった鬼怒田だが、最初ほど強い怒気を含んだ声ではなかった。当然だろう。目下のところ、黒トリガー奪取の失敗よりも大きな出来事が目の前にぶら下がっているのだから。
「こんばんわ鬼怒田さん。急がなくていいの?」
「お前などに言われんでもわかっとるわ!」
毒づくと、鬼怒田はまさにドスドスといった感じの足音を立てながら立ち去っていった。
迅と清治は互いに顔を見合わせて同じようなジェスチャーをしたあと、言葉もなくやや悲しげな笑顔を交わしてそれぞれの向かうべき場所へと足をすすめるのだった。