病室とは思えないほどに広くて明るく快適な一室だった。
大きな窓に淡いマルーンのカーテンがかかっている。窓側の壁は美しい純白。この色は塗料の色ではなく漆喰の持つ独特のものだ。
ベッドも病院のそれと言うよりは、それなりのステータスのホテルのスーペリアクラスの部屋に使用されているものと同等のものだ。窓に近い場所に設置されている。
そのベッドの足元方向には見舞客がくつろげるようにソファーセットとリクライニングシートが設置されている。まるでホテルの上等な一室のようだ。
患者は老人のようだ。怪我を負っているようでもなければ病気のようでもない。患っているのではなく寿命が近いといった感じだ。
ベッドの傍らにはスーツ姿の男が立っている。黒のスーツに身を固め、オールバックにきちんと決めている髪型を見ると葬儀屋のようにも見えるが、それにしてはあまりにも目つきが鋭すぎる。また、彼の顔には、左眉辺りに大きな傷があった。
スーツの男が何かを告げると、ベッドの老人は仰向けのままかすかにうなずいた。そして一言
「孫に… 残してやりたいのでな」
と告げた。
遡ること4年半ほど前。人口約30万人ほどの人々が暮らす中核都市レベルの都市・三門市は、唐突に侵略者の鋭鋒を受けることになった。
突如として謎の空間が広がり、その空間から異形の怪物が次々と現れ、市内を蹂躙していったのである。
この怪物たちには通常の兵器はほとんど効果はなく、警察および自衛隊も成す術もなく撃退されてしまった。
もはや三門市の失陥は時間の問題かと思われたその時、人々は思いもよらぬものを目にすることになる。
『彼ら』は、侵略者― 近界民(ネイバー)のことを以前から調査・研究していたという。
『彼ら』は、このような時のために密かに牙を研いでいたという。
勇躍する『彼ら』の姿は、絶望と諦念の底にあった三門市民たちに希望とともに小さくはない疑義を植えつけることになる。
彼らは自らを界境防衛機関『ボーダー』と名乗り、それまでどのような手立ても通じなかったネイバーを、まるで積み木の家を壊すかのように軽々と抹殺していった。
喧噪が去ったあと、彼らは言った。
「我々はともに戦ってくれる隊員、隊員をサポートしてくれる職員を常に募集している。共に侵略者と戦い三門市を、そして世界を守っていこう」
と。
防衛任務が終了し、いつも自分が休んでいる休憩コーナーに向かう三輪 秀次の視界に、あまり好ましく思っていない人物の姿があった。
使い古した感のあるテンガロンハットに、濃いエメラルドグリーンの隊服。ボーダー鈴鳴支部に所属する『いい加減男』の姿である。
喫煙は禁じられている場所であるにもかかわらず煙草をくゆらせているが、この煙草は世間一般の認識する『タバコ』とは異なる。その男はパイプ煙草をくゆらせているのだ。
飲料の自動販売機から少し離れた場所に置いてあるソファに腰を下ろしているその男は、書類に目を通しながら偶に右肩をそっと撫でる。彼自身無意識に行う癖なのだ。
「おお三輪っち。任務揚がりきゃ?」
それまで普段あまり見ない真剣な顔をして書類に目を通していた男、武蔵丸 清治がこちらを向いて普段の調子で声をかけてくる。
そんな清治に軽く頭を下げながら
―――ああ。やはり俺はこの人を好きにはなれん…
三輪はそう思った。清治は三輪にとって苦手な人物に分類される。
彼は、清治が他のボーダー隊員にどう思われているのかを良く知っていた。『非常勤エンジニア』『無責任エンジニア』『たまたま黒トリガーを起動できただけのまぐれS級隊員』『ごくつぶしのキヨ』『給料泥棒』『生ごみ』『セクハラの双璧』などなど…
枚挙に暇がないという言葉は彼のためにあるように思える。
その全てが清治に対する正当な評価であるとは、さすがに三輪は思わない。だが、その中のいくつかは実に的確に彼を表現しているとも思っている。
ともかく飄々としてどこか掴み所のない雰囲気を醸す彼は、三輪が嫌悪するもう一人の『セクハラの双璧』に良く似ているように思われるのだ。
ただし、ここで出会った時だけはなぜか別だった。普段ロビーなどで出会った時にはヘラヘラとしながら寄って来て、ずかずかと自分の間合いに入って来る。しかし、ここに来る時は挨拶こそするものの、それ以上話しかけてくることはなかった。
ひょっとすると、彼は三輪がここにやって来る時は一人になりたいと思っていることを知っているのかもしれない。その気遣いも何となく腹が立つのではあるが。
ボーダーの中でも精鋭であるA級の隊長である三輪だが、隊の作戦室には他の隊員もいる。
彼らのことを嫌っているわけではないが、それでも一人になりたい時というものが人間にはあるものだ。
そういうわけで、三輪は一人になりたい時はこの休憩スペースに好んでやって来る。どういうわけか、ここはいつも人がいないのだ。
そして、だからこそ今目の前いにいる、どうも好きになれそうにない人物は、禁止されているにもかかわらずここで煙草を吸っているのかもしれないが。
清治の煙草の香りは、不思議なことにこうした三輪の思いを柔らかくしていく。豊穣な甘い香りは経験上知っているタバコのそれとは全く異なると言っていいだろう。
パイプ煙草は使用する葉によって、味わいや香りが大きく違うということは、しかし三輪にとっては知らないことだしどうでも良いことだった。
ただ、彼はなぜかこの香りは嫌いではなかった。少なくともその香りをくゆらせている人物よりは。
清治は徐に立ち上がると、自販機の方へ向かった。音からして2つ買ったようだ。
2本出てきた缶コーヒーのうちの1本を三輪の方に投げて寄こす。
「どうも」
受け取って礼を言と、三輪は先ほど清治が座っていた所から少し離れたあたりに座る。清治はそんな三輪の様子をニコニコしながら見送ると、再び元の場所に腰を下ろした。
会話は無い。三輪は自分の考え事に耽っているし、清治は珍しく真剣な表情で書類に目を通している。時折首をかしげたり、本人曰く『ハゲ隠し』のテンガロンハットをかぶり直したりしながら。
気に入らない人物と同じ空間に居るという時間を、しかし三輪は心地よく感じていた。
どれほど時間が経ったことだろうか。それまで悠然と書類を見ていた清治が突然に立ち上がった。あまりに急なことで三輪が少し驚いていると
「んじゃな三輪っち!」
言うや、まるで何か恐ろしいものから逃げ出すかのように走り去っていく。
呆然とその後姿を見送る三輪の視界に、走り去る清治を上回る速度で近づいてくる人物がいた。自分の隊のオペレーター、月見 蓮である。
しかし、今の彼女の印象は三輪が普段受けているそれとはまったく違っていた。夜の闇をそのまま細く伸ばしたのではないかと思えるほどに美しい長い黒髪を、全速で走ってきたためかぼさぼさに振り乱している。
息を乱しているその表情は、普段の落ち着いた聡明な印象とは程遠い。
「むさし…まるくん…どこ行った…?」
息を切らせながら般若の形相でそう言う月見にたじろぎながら、三輪は清治が走り去って行った方を無言で指さした。
「っの野郎!!」
今まで一度も聞いたことのない口汚い罵り言葉を残し、月見は一陣の風を纏って走り去って行った。
「…やれやれ」
普段の彼にはそぐわない言葉を漏らすと、三輪は再びソファに腰を下ろした。
―――やはり俺はあの人を好きにはなれん…
月見が清治を追った理由は簡単に想像がついた。考えるまでもないことだった。