スキャバーズの小さな体が一瞬宙に浮かんで激しく捩れた。頭が床からシュッと上に伸び、手足が大きく伸び、次の瞬間、スキャバーズがいたところに1人の男が現れた。まばらな色あせた髪はクシャクシャで、天辺が大きく禿げている。肌はスキャバーズの体毛と同じように薄汚れていた。
「ピーター!」とブラックが怒鳴り、地面に横たわる男に掴みかかろうとした。
ハーマイオニーは1歩下がると、ブラックの背中を蹴り飛ばした。ブラックは前に向かって倒れ、杖を床に転がした。ハーマイオニーは素早く杖を拾いあげると、ブラックの背中に体重を乗せた。
「私は殺させてあげるとは言ってないわよ、ブラック」ブラックは暴れようとしたが、首元に杖を突きつけると、静まり返った。「まだ、ペティグリューがアニメーガスであったこと以外は証明していないわ」
ペティグリューは——ブラックの言葉を信じるならば——ハーマイオニーの魔法の支配下にあり、地面に静かに横たわっていた。ハーマイオニーはブラックに杖を向けながらゆっくりと下がった。
ハーマイオニーが「ブラックが少しでも動いたら、何でもいいから強力な魔法を撃って」と言うと、ウィーズリーは黙って頷いた。しかし、顔からは動揺と
ハーマイオニーはブラックを視界内に収めながら、ペティグリューに近寄った。股を足で開き、どこにも武器を持っていないことを確認すると、ハーマイオニーは一歩距離を置き、ペティグリューを見下ろした。ペティグリューは醜い男だった。萎びれた体に、尖った鼻、そして小さな細い目。どことなくネズミを思わせる雰囲気を身にまとっている。
「今から魔法を解くわ。でも、起き上がらないで喋って」
ペティグリューは体の自由を取り戻すと、何度も瞬きした。そして頭を持ち上げて部屋の中を見渡すと、震える指でブラックを指さした。「あ、あいつは、シ、シリウス、ヴ、ブ、ブラックだ!」
「ええ、そうね」とハーマイオニーはさりげない、軽い声で言った。「それで、貴方はピーター・ペティグリューよね?」
男はしばらくの間を置いた後に頷いた。
「どうして12年もの間隠れていたの?」
ペティグリューの体が大きく震えた。そして部屋を再びキョロキョロと見回した。視線の先を追うと、窓やドアを見ているようだ。「あいつが私を追ってくるとわかっていたからだ! お嬢さんがあいつを倒してくれたことには感謝してもしきれない!」
ブラックが低いうなり声を上げた。怒りを押さえつけているかのように、頬のあたりが震えている。
「ブラックは12年もアズカバンに居た。貴方はそれを知っていたはずよ」
ペティグリューは汗をだらだらと流しながら甲高い声で笑った。「シリウスのような強力な魔法使いがアズカバンから脱獄するのは簡単なことだ!」
「これまでに誰一人としてアズカバンを脱獄した者はいなかったのよ?」ハーマイオニーは均一な口調で話した。
「『名前を言ってはいけないあの人』がこいつに何か術を教え込んだんだ!」
「どうしてそう思うの?」ハーマイオニーは頭を傾げた。
「シリウスはスパイだった!」
「どうしてそう思うの?」
「奴はリリーとジェームズを裏切った!」ペティグリューはキーキーと騒ぎ立てた。
「なら、ダンブルドアにその話をしに行きましょう」
ペティグリューは大きく息を呑み込んだ。そしてドアの方へスッと視線を移動させた。「そんなことをすればシリウスが逃げるチャンスを与えてしまう。奴が黙ってついてくるはずがない」
「彼はそう言ってるけど、どうなの?」ハーマイオニーは目の前の男から目を逸らさずに尋ねた。「城までのちょっとした旅に、付き合って貰えないのかしら?」
ブラックははしゃぐ様に答えた。「君がそいつを城へ連れて行くというなら、わたしは喜んでついて行こう」
「シリウスを……信用しちゃダメだ」とペティグリューは震える声で嘆願した。
「立って」とハーマイオニーは短く命じた。
ペティグリューはすすり泣いて、ゆっくりと立ち上がった。かと思うと、急に扉の方に向かって飛び込んだ。そして急いで逃げようと、四つん這いの状態で走り出そうとする。ハーマイオニーは急いで呪文を唱えた。
「インぺリオ!」
ペティグリューは急に止まり、不健康そうな顔を幸せそうに弛ませた。ハーマイオニーは暖かい波のようなものを感じ、満足感を全身で味わった。ハーマイオニーは後ろを振り返ると、ブラックに視線をやった。
「わたしなら奴を殺すことが出来る」とブラックは提案した。「そうするのが最も簡単で安全な方法だ。頼む、杖を渡してくれ」
「渡す前にやることがあるわ」とハーマイオニーは首を振った。「インぺリオ!」
ブラックは一瞬身動きを止めると、ジッとハーマイオニーを見つめた。
ハーマイオニーは微笑んで、ブラックにポッターの杖を投げ渡した。「ウィーズリーを浮遊させて、私の後についてきて」
ブラックは何も言わず立ち上がり、杖を振ってウィーズリーを浮かべた。ウィーズリーは完全に気が抜けているように見えた。
ハーマイオニーは部屋の出口に進んだ。「さあ、行って」
ペティグリューは階段の下に向かって降り始めた。ハーマイオニーは後ろからウィーズリーとブラックが付いてきているのを確認すると、その後を追った。トンネルを戻る間、ハーマイオニーの体ではアドレナリンが湧き上がっていた。魔法省が必死に捜索していた逃亡犯のシリウス・ブラックを捕えるだけでなく、ピーター・ペティグリューが生きていたことも発見したのだ。しかも、ペティグリューはポッター夫妻の死と何らかの関係があるように思われた。
――私の名前がありとあらゆる新聞に載ることになる。たぶん、学校からまた賞を授与されるわ。魔法省だって何らかの表彰をするはずだわ。マーリン勲章どころか、他の物も授与されるかも。
トンネルの出口を出て、夜空が見える頃になっても、ハーマイオニーはニヤケ顔を浮かべていた。涼風が体を冷やし、ハーマイオニーは自分の体を抱きしめた。ペティグリューが何やら木の幹の辺りを触ったかと思うと、柳の木が動きを止めた。
ハーマイオニーは城への経路を歩きながら星が瞬く夜空を見上げた。森の先からはホグワーツの塔の先が見える。
突然、後ろの方から足音が猛スピードで近付いて来て、背後でぶつかる音がし、鋭い悲鳴が上がった。慌てて振り返ろうとするが、背中に何かが当たり、ハーマイオニーは地面に転がった。
すぐさま立ち上がったハーマイオニーが後ろを確認すると、暗がりの中でブラックが組み敷かれていた。少し離れた場所では、空中から落ちたウィーズリーが痛みを訴えて叫んでいる。
「ハリー、よせ!」と誰かが叫んだ。
光がポッターとブラックの元に走り寄った。そしてポッターはブラックの上から引きはがされた。
「こいつが僕の父さんと母さんを殺したんだ!」
「待ちなさい、ハリー!」
ハーマイオニーは聞き覚えのある声を聴いて警戒を強めた。事態はまだ解決していないようだった。ハーマイオニーはまずは状況を確認することにした。
ハーマイオニーは目を擦ると、杖に光を灯らせた。
近くには鼻が折れ、血まみれなブラックとポッター、そしてルーピンがいる。そして離れた位置でウィーズリーが横たわっている。
「ハリー、少し離れてくれ」ルーピンはブラックをじっと見つめて、急くように尋ねた。何か感情を押し殺して震えているような、緊張した声だった。「シリウス、まさか、本当に奴が生きているのか? 何処だ、何処にいる!?」
ハーマイオニーはペティグリューが暗闇で何やら動いているのを見つけ、素早く光を投げた。明かりに照らされ、ペティグリューの姿がはっきりと目視できるようになる。ペティグリューは身動きを止めて震えだした。
ルーピンがハーマイオニーの傍に現れて呆然とした口調で呟いた。「信じられん……」
「り、り、リーマス……」ペティグリューは引き攣った顔で呻いた。
ルーピンはペティグリューの傍にしゃがみ込んだ。「グレンジャー、この男に何をしたんだ?」
「裏切ったのは奴だ!」ブラックが泣き叫んだ。「わたしじゃなく奴が——」
「黙れ!」とポッターが叫ぶ。
「ハリー、落ちつきなさい」とルーピンが諭すように言った。「シリウスがピーター・ペティグリューを殺したと言われていたが、奴は生きていたんだ」
「生きていた? あいつが殺したんだ! ファッジだって——」
「ファッジは碌に調査をしなかった! 奴はマグルの証言だけを聞くと、裁判すらせずにわたしをアズカバンに収容した! わたしはピーターを殺していない!」
「ハリー、この男はピーター・ペティグリューだ。彼が生きているならば、わたし達が信じてきた物がすべて間違っていた可能性がある」
「リーマス、お前なら真実が分かるはずだ……。裏切ったのはピーターだ!」
「ち、違うんだ、リーマス!」ペティグリューは泣きわめき、地面の上を爪で引っ掻いた。
「お前はジェームズの、そしてリリーの秘密の守り人だった」とルーピンはブラックに言った。
「直前になってわたし達は入れ替わったのだ」
「なぜだ?」とルーピンは真剣な目でブラックを見つめた。
ブラックは言葉を選んでいるように見えた。喋り出すまでにちょっとした時間を使った。「わたしはそれが、賢い作戦だと……思ったのだ」
「それで、こいつがペティグリューを殺さなかったとすればどうなるんですか?」ポッターはまくし立て、ルーピンからブラックに視線を移した。「それが一体何を変えるんです?」
ルーピンはブーツの先でペティグリューを軽く突いた。ペティグリューは震え、鼻水をすする。「罪のない男性が、12年もの間、ネズミとして隠れる必要があると思うかね?」
ペティグリューは黙りこんでいた。ルーピンは無言で杖を振った。赤い閃光が飛び出し、ペティグリューの体に直撃する。ペティグリューは前方に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。どうやら気絶させられたようだった。
「隠れる理由なんてたくさん考えられますよ。でも、そんなことは今どうだっていいでしょ」
「お父さんにそっくりだ」とブラックがブツブツと呟いた。「君はまるで若いときのジェームズのようだ」
ポッターが突き飛ばし、ブラックは後方に倒れた。ルーピンは慌てて冷静さを欠いているポッターを制止した。
「奴が秘密の守人だったんだ!」ポッターはルーピンの腕の中で怒鳴り散らした。「お前が、お前が、父さんと母さんを殺したんだ!」
ブラックは激しく頭を振った。「わたしのせいだった。わたしに責任がある。でも、わたしは2人を裏切ったりなどしていない! わたしはジェームズにピーターを守人にするように提案した。そうすれば、誰もを欺き、ヴォルデモートの手から2人を逃がせると思ったからだ」
「それは素晴らしい作戦だった」とルーピンは重たい声で呟いた。「人々はシリウスが守人だと完全に信じ切っていた」
ブラックは頷いた。「ああ……。わたしの友達でさえも……守人がわたしであることを疑ったりしなかった」
ルーピンは伏し目がちに呟いた。「せめて……わたしだけにでも、相談してくれていれば……」
ブラックは慰めるように柔らかな声を出した。「極少数で決めるのが作戦だったのだ。そのおかげで効果は高まり、リーマスでさえも完全にだますことが出来た。完璧な作戦のはずだった」
「ピーターさえ裏切らなければ、か……」
「ペティグリューは自分から情報を漏らしに行ったのね」とハーマイオニーは唐突に言った。誰もがハーマイオニーの方を振り向いた。「ブラックが追いかけた時、ペティグリューは逃げようとしていたのよね? ということは監禁されていたという訳ではなかった。貴方が追い詰めた時、拷問されたような様子はなかった?」
ブラックは無言で頷いた。
「分からないな」とポッターが呟いた。「ペティグリューが裏切ったのだとしたら、どうしてわざわざここにやって来たんだ?」
「彼はスキャバーズだったのよ」
「そうだ、奴はアニメーガスだ」とブラックが付け加えた。「奴はネズミに変身できる」
ポッターは倒れている男をじっと見つめた。「スキャバーズ?」
「でも、変よね。ペティグリューはアニメーガスが記録されている登録簿には載っていなかった。もちろん、ブラックのことも」
「ジェームズの名も載っていない」とブラックは小さな笑みを浮かべた。
「父さん?」
ブラックは静かに頷いた。
「彼らは私のためにアニメーガスになったんだ」
ポッターが振り向いて聞いた。「どうしてです?」
「先生が、狼男だからよ」
ポッターは口を大きく開けてルーピンをじっと見つめた。
ルーピンは目にかかる白髪の混じり始めた髪を掻き上げた。「わたしは隠していたつもりなのだが、ミス・グレンジャーはあっという間にその事に気が付いてしまった。半年、それも週に3時間ほどしか私と接していなかったというのに、ね」
「でも、それがアニメーガスと何の関係があるんですか?」
ルーピンがゆっくりと口を開く前に、ハーマイオニーが答えた。「狼男は人間だけを襲うの。だから、動物であるときは安全に関わることが出来たのよ」
「賢い女の子だ」とブラックは静かに笑った。「わたし達はアニメーガスになるために、非常に苦労した」
「3人はほぼ3年の時間を費やした。わたしが狼男に変身する晩、3人はこっそり城を抜け出し、トンネルをくぐって、わたしと一緒になった。友達の影響で、わたしは以前ほど危険ではなくなった。アレは本当に幸せな時間だった。ほどなくわたしたちは夜になると『叫びの屋敷』から抜け出し、校庭や村を歩き回るようになった」
「屋敷の外に出たんですか?」ハーマイオニーは金切り声で尋ねた。「狼男の状態で? たった3人の学生と一緒に人が住む地域に行ったんですか?」
ルーピンの顔は一瞬で青白くなった。「ああ、ちょっとした対策があったとはいえ、今ではその行動の愚かさにゾッとしている。でも、あの時はそんなことに気が付かないくらい幸せだったんだ」
「ブラックが貴方をスネイプ先生にけしかけた時、貴方はどれくらい幸せでしたか?」ハーマイオニーは怒鳴りつけた。「先生は全く反省していないように思えます」
ルーピンは言葉に詰まった様子で、顔を歪めた。その顔からは自己嫌悪や罪悪感が滲み出ているように見えた。
「スネイプ、先生だと?」ブラックが鋭い声で尋ね、ルーピンを見上げた。
「ああ、スネイプはここで教職に就いているんだ」とルーピンは答えた。「ハーマイオニー、私はあの時まったく幸せなんか感じていなかった。しかし、自分自身を押さえつけることが出来なかったんだ。狼として、わたしは目の前の人間を攻撃しようとした。あれはシリウスにとっては冗談のつもりだった。でも、それは明らかに行き過ぎていた」
ブラックが嘲笑うかのような声を出した。「当然の見せしめだったよ。コソコソ嗅ぎ回って、我々のやろうとしていることを詮索して……我々を退学に追い込みたかったんだ……」
「……シリウスはトンネルに入る方法を教えたんだ。そう、もちろん、スネイプは試した——だが、結局屋敷まではたどり着かなかった。事態を知ったジェームズがスネイプの後を追いかけて引き戻したんだ。しかし、スネイプはトンネルの向こう端にいるわたしの姿をチラリと見てしまった。だが、ダンブルドアが彼に決して人に言ってはいけないと口止めした」
ハーマイオニーは歯を噛み締めた。「貴方たちは何も罰せられなかったんですか?」
「……わたしたちはその後、慎重に行動しなければならないということを知った」
「そうとは思えんがね」暗闇の中で冷たい嘲る声がした。
ハーマイオニーは向きを変えてスネイプの顔を見ようとした。しかし、見えない力に腹の辺りを掴まり、横に投げ飛ばされた。
地面へと着地する前に、大きな音と光が前方で弾けた。ハーマイオニーはスネイプの杖の先から赤い光が飛び出すのを見た。それはルーピンの展開したシールドにぶつかって瞬間的なフラッシュをたき、ルーピンの厳しい顔を照らした。
赤い光の筋がハーマイオニーの向こう側に走った。ルーピンは僅かに横に移動すると、杖を上に振り上げ、光の筋を逸らした。スネイプは攻撃をやめると、ルーピンとブラックに対して防御の姿勢を取った。
「セブルス、君は誤解している」とルーピンは切羽詰まった様子で言った。しかし、杖は用心深くスネイプに向いていた。「シリウスは――」
「ダンブルドアはまたもや君に失望することになるだろう……」スネイプは言葉を遮り、冷たい笑みを浮かべた。
「セブルス——」
「諦めろ、リーマス」ブラックはかすれた声で叫んだ。血で汚れたブラックの顔には歪んだ笑みが浮かんでいて、興奮しているのが目に見えて分かった。「スニベルスは学生時代の再現をお望みのようだ」
「人々はディメンターによってブラックの脳ミソは腐敗したと言う。だが、我輩は貴様が昔から妄想の世界に住んでいた事を知っておるぞ」
「わたしはまだここにいる」ブラックは額を指で叩いた。「ディメンターはわたしから何も奪うことはできない。わたしは自分の罪を分かっている。そしてその罪を償うためにやらねばならんことをな」
「セブルス、頼む——」
「12年経っても我々の関係は変わらんようだ」スネイプはルーピンの話に全く耳を傾けず、嫌な笑みを浮かべた。「暮らしぶりや立場には、随分と差が出来たようだがね」
太陽と同じぐらい明るい光が頭上に打ち上がったかと思うと、スネイプの杖から光の筋が飛び出し、ルーピンとブラックの間で爆ぜた。
ハーマイオニーは頭を抱えて地面にうずくまった。叫び声と爆発音と耳障りな音があちこちで巻き起こっている。何かが右側で動いたのに気が付き、ハーマイオニーは顔を上げた。目を擦って明るい光に目を慣れさせていると、右側にうずくまっているのがポッターであるのが分かった。
夜空には花火のような明るい光が次々と打ち上がっていた。空気を切り裂く音の後、魔法はシールドにぶつかり、その場で爆発するか、無害な方向に弾き飛ばされていた。3人は話すよりも早く魔法を発射していた。彼らは誰も呪文を唱えず、無言で魔法を飛ばし続けている。しかし、どの魔法もダメージを与えることは出来なかった。
ルーピンはブラックの前に壁のように立っていた。スネイプが発射する魔法はすべてルーピンによって防がれている。ブラックは大型の大砲のような攻撃をしていた。ブラックは数秒おきにルーピンの陰から飛び出し、強力な魔法を飛ばすと、一瞬で姿を隠している。
スネイプは爆発系の呪文を飛ばし、シールドの隙間からブラックを巻き込もうとするが、魔法はすべてルーピンによって防がれていた。爆発が起こる度にスネイプは立ち位置を変え、ルーピンを狙ったり、ブラックを狙ったりと、目まぐるしく攻撃を加えている。
ハーマイオニーは3人の魔法使いの決闘を見て畏敬の念を抱いていた。
――これが本物の決闘……。
彼らは魔法戦争を生き残ったエキスパート達だった。ダンスを踊るように動き、一瞬のチャンスを作り出すためにひたすらシールドを叩き付けている。
ポッターが跳ね起きて、ウィーズリーの元に駆け寄った。ハーマイオニーはポッターがウィーズリーの杖を拾ってスネイプの無防備な背中に杖を向けるのを見た。
「エクスペリアームス!」ハーマイオニーは反射的に呪文を唱えた。
ポッターの手から杖が飛び出し、柳の木の近くに落ちた。ポッターは振り返ると、ハーマイオニーに向かって突進した。
ハーマイオニーが呪文を唱える前に2人はぶつかり、地面を転がった。ポッターがハーマイオニーの上に跨り、腕を押さえつける。ポッターの視線が逸れ、地面に向いた。見ると、すぐ近くにウィーズリーの杖が落ちている。
ポッターはハーマイオニーを睨むと、それに飛びついた。ハーマイオニーは素早く距離を取ると杖を振り下ろそうとした。しかし、杖を拾いあげたポッターがそれを妨害しようと再び突進する身構えをとる。
次の瞬間、ハーマイオニーの後ろで叫び声と空気が唸る音があがった。
見ると、シリウス・ブラックが火の玉に包まれていた。火は一瞬で消滅するが、フラフラと数メートル進んだ末にブラックは地面に倒れた。シャツは所々に穴が開き、燻っていた。肉の焼けた匂いが鼻をつき、ハーマイオニーは込み上がってくる胃液を飲み込まなければならなかった。
「ハリー、引っ込んでなさい!」とルーピンが叫んだ。
2人の魔法使いは同時に魔法を唱えるのをやめた。2人はお互いに向き合い、睨みあっていた。静かだ。あまりにも静かだ。過ぎ去る数秒間が、数分のように感じる。
ルーピンが激しく杖を振り下ろした。黄色の閃光が放たれ、空を切った。スネイプがそれを撥ね退けると、ルーピンは前進した。新たな魔法が発射され、さらにもう一つ、さらにもう一つと、息をつく間もない程に魔法が放たれていく。スネイプの展開するシールドは斑紋のようなものを至る所に作り、今にも壊れそうだった。
ルーピンがまた一つ呪文を飛ばした。スネイプはシールドを消し、自身の体で光の光線をかわした。そしてすぐさま攻撃呪文を飛ばした。ルーピンはその攻撃を防いだが、体勢を立て直したスネイプによって押し戻され始めた。スネイプはルーピンが攻撃側だった時よりも早く前に歩き、攻撃呪文を飛ばし続けた。ルーピンのシールドは常に爆発の火に包まれていた。スネイプが歯をむき出しにして笑った瞬間、パチン! という音が辺りに響き、ルーピンのシールドはガラスのように砕け散った。スネイプは魔法を飛ばしルーピンを硬直させると、勢いよく杖を振り、何かで顔面を殴り飛ばした。ルーピンは鼻から血飛沫を上げて勢いのままに地面に倒れ込む。
飛んできた赤色の閃光をスネイプが弾け飛ばした。見ると、ブラックが起き上がっていた。
振り返ったスネイプの目には、狂気が帯びていた。惨めな人間を見下すかのような嫌な笑みが顔に張り付いている。
ブラックは狂犬病にかかった犬のように激しく魔法を飛ばした。スネイプのシールドに、薄い靄がかかったハンマーのようなモノが叩き付けられ、ベコッと歪んだ。
次の瞬間、ブラックの体が『く』を描き、人形のように投げ飛ばされた。
スネイプが上を見上げている。
唸る音が響いたかと思うと、太い枝がスネイプの上に崩れ落ちた。
ドシンと地面にぶつかった柳の木が再び起き上がった。続いて木はハーマイオニーを狙い、頭上から猛烈な勢いで倒れてきた。ハーマイオニーは横に転がってそれを躱し、杖を構えた。しかし、細い枝が頭を打ち付け、ハーマイオニーは地面に吹き飛ばされた。木の幹が後退し、枝が高く上がり、鞭のようにしなるが、ハーマイオニーはそれを見ていることしか出来なかった。
枝は空を切り、打ち下ろされたが、ハーマイオニーに直撃することは無かった。巨大な剣のようなものが枝を切断し、枝は空中を回転してハーマイオニーから6メートルほど離れた場所に落ちた。
突然、熱の波がハーマイオニーを包み込んだ。頭上ではジュージューと燃える音がしている。
ハーマイオニーは後ろに下がって、スネイプが自身の周りに炎の嵐を呼び出しているのを見た。炎の嵐に近づいた枝はポップコーンのように弾け、消し炭となっている。炎はさらに大きくなり、柳の木を包み込んだ。柳の木は痛みを訴えるかのように枝を振り回す。
スネイプの火がより一層燃え上がった。スネイプの周りの草は燃え果て、辺りには粉っぽいものが浮遊している。やがて火が小さくなったとき、柳の木を見ると、彼方此方から煙が上がり、幹が黒焦げになっていた。動き出す様子は、微塵にもない。
月が雲の中から顔を出し、辺りに少量の光が差し込んだため、ハーマイオニーはスネイプがこちらの方を見て状況を確認しているのが分かった。ウィーズリーは意識不明の状態。ルーピンは血を流し、地面で喘ぎ、もがいている。ポッターはハーマイオニーと同様に地面に低く伏せ、ブラックは動かず、地面に転がっている。
スネイプが歩いて来て、ハーマイオニーを見下ろした。「城へ戻りたまえ。今すぐにだ」
スネイプの後ろでバキバキと何かがきしむ音がした。そして恐ろしいうなり声が辺りに響き渡った。
ハーマイオニーは夜空を見上げて、辺りを照らす月を見た。「満月……」
ルーピンは震えていた。手足の形が徐々に変わり出し、体から硬そうな毛が生え出した。そして、ほんの数秒でルーピンは狼人間へと姿を変えた。狼人間はゆっくりと、重い呼吸をしている。
「城に戻れ」とスネイプが静かに呟いた。「すぐに」
ハーマイオニーは震える足で立ち上がった。ポッターも同様にゆっくりと起き上がっていた。3人の目は用心深く狼人間に向けられている。
「ロンはどうすれば?」
「魔法を使え」スネイプの食いしばった歯が小さな音をたてた。
狼人間が体を起こし、身震いすると、傷ついた肩をなめ回した。
「レビオーサ、ね」とハーマイオニーはポッターに囁いた。2人は一緒に呪文を唱え、ぐったりとしたウィーズリーを持ち上げて、地面に低く伏せたままその場を移動し始めた。
狼人間がこちらを向いて、2、3回鼻を鳴らした。耳は垂直に立ち、ピクピクと動いている。
スネイプはハーマイオニー達の動きに合わせて移動した。そして常に、学生と狼人間の間に自分がいる立ち位置を取っていた。
狼人間は4人が移動しているのをじっと見ていた。固定されたボルトのように、その場から動かず、ただじっと見つめていた。
次の瞬間、狼人間は勢いよく飛び出した。スネイプがすぐさま飛ばした魔法が胸に当たり、狼人間は勢いに乗ったまま地面を転がった。しかし、そこはハーマイオニーとポッターのすぐそばで、慌てて離れようとした2人は、集中力を欠いて、ウィーズリーを地面に落とした。
狼人間は立ち上がると、スネイプに向かって再び跳びかかった。
ハーマイオニーの視野の向こう側から黒い影が飛び出し、狼人間の後ろ首に噛み付いた。
狼人間を後ろに引き戻そうとしているのは、犬に姿を変えたブラックだった。
牙と牙とががっちり噛みあい、鉤爪がお互いを引き裂き合っている——スネイプが火の玉を飛ばしたため、ブラックはすぐさま距離を取った。スネイプはブラックを巻き込むことに躊躇していないようだった。狼人間は火に包まれるが、すぐさま火は消え去った。あまりダメージを受けているようには見えないが、狼人間は後退し始め、森の方へ少しずつ下り始めた。
ポッターが再びウィーズリーを浮遊させた。ハーマイオニーはそれを助けようと杖を構えたが、月明かりの隅で何かが動いているのに気が付き、動きを止めた。
柳の木の近くの芝生を誰かが這っていた。ルーピンが変身した場所へと。ルーピンの杖が落ちているであろう場所へと。
それはペティグリューだった。
目まぐるしく動く状況の中で、ハーマイオニーは完全にペティグリューの存在を忘れていた。ペティグリューは起き上がって、逃げようとしている。
ハーマイオニーは振り返った。スネイプは向こうの方で丘の斜面を下って、杖の先から火炎放射のように炎を飛ばしている。ブラックもその傍にいた。彼らはこちらに対応できそうにもなかった。ポッターはウィーズリーを連れて狼人間から離れようとしている。無防備なウィーズリーをここに置き去りにするのは得策とは思えない。
――動けるのは私しかいない。
ハーマイオニーは杖をきつく握りしめて、ペティグリューを追いかけた。ペティグリューは柳の木の後ろの方へと移動している。
「ボンバーダ!」
走りながらの呪文は狙いからずれ、柳の木にぶつかって木の破片を辺りにまき散らした。
ペティグリューは後ろをチラッと見てから、全力で走り出した。
「ペトリフィカス・トタルス!」ペティグリューは木の後ろから姿を消し、魔法は空に消えた。
ハーマイオニーは木に駆け寄って、下を見下ろした。丘の向こう側は角度のある傾斜になっていた。先には森が広がっている。非常に暗く、先は全く見通せない。
ハーマイオニーはゆっくりと丘を下ったが、下についたときにはペティグリューの姿は完全に消え去っていた。
「ルーモス」とハーマイオニーは囁いた。光は多少の助けをくれたが、遠くの方まで見通せるわけではなかった。ハーマイオニーはゆっくりと前進し始めた。もしもペティグリューがどこか近くに隠れているならば、全力で魔法をぶつける気構えを持ちながら。
ハーマイオニーはしばらく歩いたところで、向こうの方から小さな青い光が近付いてくるのに気が付いた。青い光は上昇し始め、上の方で震えると蝶のような形に変形した。それが頭の上にやって来たと思った瞬間、目をくらます光と耳をつんざくような音がハーマイオニーを襲い、背後の太い木にたたきつけられた。
ハーマイオニーは何度も瞬きして何とか見える程度の視力を取り戻したが、耳鳴りはずっと鳴り響いていた。
上を見上げると、空が燃えていた。辺りが燃えているという訳ではなく、木の天辺が燃えているのだ。燃える木の隙間からはたくさんの星が見える。星は炎に包まれ、枝と一緒に踊って、揺れて、輝いている。
炎を上げる星が、ハーマイオニーに向かって雨のように降り注いでいた。しかし、ハーマイオニーは動いて躱すことが出来なかった。体が思うように動かない。
そして、耳鳴りはいつまでたっても止まなかった。ハーマイオニーは震える手を耳に当てた。指の先端が湿って、赤く染まる。それを見た瞬間、ハーマイオニーの口の中で金属的な何かの味が広がった。
――血?
ハーマイオニーは傷を確認するためにもう片方の手を顔の前に持ち上げた。手の平は既に血まみれだった。ハーマイオニーは呆然と瞬いた。
――大変。どこか骨折しているかもしれない。
ハーマイオニーは自分の体を見下ろすために首を動かした。何か、可笑しかった。自分の物ではない物が体から突き出している。ハーマイオニーは腹部に手を当て、異物の周りを撫でた。衣服が破れ、シャツが血に染まっている。腹部の傷は信じられないほど大きい。そして、痛みが突然訪れた。
ハーマイオニーは槍のような木が自分の腹部に刺さっていることに気が付いた。痛みや苦しみが一気に高まり、呼吸をすることさえも辛くなっていった。
ハーマイオニーは痛みのあまり叫ぼうとした。しかし、口の中で血が泡立つだけで、声が出ない。血は体全てを染め上げようとしていた。口、耳、腹、至る所から血が流れている。余りにもたくさんの血が流れだしていたが、ハーマイオニーにはどうすることもできなかった。
ハーマイオニーは背に体重を傾けて、出来るだけ動かないようにした。ありとあらゆる動作が拷問だった。静かに、落ち着いた呼吸をしようとするが、呼吸さえも痛みを与えてくる。痛みは止まらない。痛みは決して止まらなかった。
空からはまだ星が降っていた。いつの間にか地面が燃え始めていた。
そしてハーマイオニーは死にそうだった。
呼吸するのをやめたかった。呼吸するのが苦痛だった。
黒い影がハーマイオニーの上を遮った。ハーマイオニーはもう、燃えている空を見ることが出来なかった。
黒い影が動いた。よく見ると、それは影ではなかった。しっかりとした形を持っている。それには手と頭があった。そして、それはゆっくりとハーマイオニーの元へ下って来た。
光が弱まっていく。暗闇が近付き、やがてそれに包まれた。ハーマイオニーは冷気が肺に潜り込んでくるのを感じた。手が見えた。血まみれの手。血まみれの頭。
ハーマイオニーは『それ』が必要ではないように思えた。
ハーマイオニーは何も必要としていなかった。
ハーマイオニーは……手放しても構わなかった。
……しても……。
寒さが急に消え去った。暖かな空気が凄まじい勢いで肺の中に戻って来る。ハーマイオニーは薄れゆく意識の中で、銀色の光がディメンターを吹き飛ばしていくのを見た——