ハーマイオニーは木曜日の8時ちょうどに防衛術の教室にやって来た。教室は薄暗く、少し気味が悪かった。
背後でドアが開く音がし、振り返ると、ポッターが入って来た。ハーマイオニーの存在に気が付いたポッターは、明らかに狼狽した表情でハーマイオニーを見つめている。
「彼女のことは心配しないで大丈夫だよ、ハリー」
ポッターの後ろから声が聞こえ、すぐにルーピンが教室に入って来た。少し大きな古い箱を抱えているルーピンは、ポッターの背中を軽く押すと、教室の奥へと向かった。
「ミス・グレンジャーはパトローナスに強い関心を持っていてね。わたしが招待したんだ」
ポッターは眉をひそめ、ハーマイオニーをチラッと見てからルーピンに視線を向けた。「彼女が学ぶ必要はないですよ。何たって、ボーイフレンドがディメンター何ですから」
ハーマイオニーはすぐさまポッターを睨みつけたが、ポッターは決して目を合わせようとはしなかった。
「わたしはミス・グレンジャーがハリーと同じようにディメンターに強い影響を受けていたことを覚えている」とルーピンは落ち着いた口調で呟くと、テーブルの上に箱を下ろした。「それに、昨年頃にあった事件が真実であるならば、理由についても推測することが出来る」
ポッターが視線を向けたため、2人は睨み合う形になった。しかし、どちらも何かを喋ることはなかった。マクゴナガルの仕事部屋での会話のあと、2人が秘密の部屋での出来事についてお互いに話すことは1度も無かった。ハーマイオニーはその理由を、自分と同じようにポッターがあの出来事のことを思い出したくないのだと考えていた。
箱が僅かに揺れて音をたてた。ルーピンに視線を向けると、思い出したかのように話を再開した。
「ミス・グレンジャーはパトローナスについて少し調べたんだったよね?」
ハーマイオニーが無言で頷くと、ルーピンは片手をポケットに仕舞って話を続けた。
「なら、呪文を使うためには心を幸せな記憶で満たさなければいけないってことは知っているね。ディメンターを防ぐためにはこの記憶が強力な力を持っていなければならない。君は何か幸せな記憶を思い浮かべられるかい?」
ハーマイオニーは首周りの小さな銀色のチェーンを感じながら、「はい」と頷いた。
「呪文は、『エクスペクト・パトローナム』だ」
ハーマイオニーは心の中で範唱しながら再び頷いた。
「結構。わたしが持ってきたこの箱にはボガードが入っている。これはハリーのレッスンで非常に役に立ってくれた。でも、君の場合はそのまま使う訳にはいかない。君のボガードはディメンターではないからね」
ハーマイオニーは内心動揺しつつも、冷静な表情でルーピンを見つめた。
ルーピンは顎に手を当てながら喋った。「最初にハリーがボガードと対面し、それがディメンターに変化したら、君の番だ。でも、まずは見本を見せて貰おうか」
ルーピンは箱の前にポッターを1人だけを残すと、声をかけた。
「ハリー、用意はいいかい?」
ポッターが頷くと、ルーピンは杖を動かし、箱の蓋を開けた。
ゆらり、とディメンターが箱の中から立ち上がった。教室のランプが揺らめき、ふつりと消え、身を刺すような寒気がやって来た。
ポッターは自信をもった様子で前進し、杖を振った。「エクスペクト・パトローナム!」
ディメンターとポッターの間に明るい銀色の膜が生まれ、ハーマイオニーは温風を受けたかのように体が温まっていく感覚を得た。ポッターは更に前に進み、箱の中にディメンターを押し戻した。
「素晴らしいよ、ハリー!」とルーピンが嬉しそうに言う。ポッターの成功を自分ことのように喜んでいるように見える。「実に素晴らしい。練習すれば2、3年の内に実体的なパトローナスを生み出せると思うよ」
「実体的?」知らない知識を耳にしたハーマイオニーは素早く尋ねた。
「弱い記憶で作りあげたり、実力が足りなかったりする場合、パトローナスは対象との間にシールドを作り出すのみに留まる。この時のシールドは、大量のディメンターが襲ってきた場合、破られてしまうことがあるんだ。
でも、条件がすべて整っていた場合、パトローナスは動物の形に変化し、非常に強力な力を発揮する。これはディメンターを追い払うことは勿論だが、周辺のパトロールをさせることもできる」
「それはどんな動物ですか?」
「どんな動物かは君に依存する。魔法使いによって、1つ1つが違うものになるんだ。パトローナスは心の内を表す、いわばパーソナリティのようなものだからね。だからこそ、しっかりと自分を守ってくれる」
ちょっとした疑問が頭の中でぐるぐると渦巻き、思わずハーマイオニーは質問を続けた。「パトローナスはゴーストに対しても効果を発揮するんですか?」
「ゴースト?」眉をひそめるルーピンは、顎に手を当てて聞き返した。「なぜ、そう思ったんだい?」
「パトローナスが強力で非常に幸せな記憶で作りあげられるならば、恐れや後悔を抱くゴーストを払い退けられるのではないかと思ったので」
「興味をそそられる考えではあるけど、ゴーストは負の記憶だけでこの世界に残っているわけではないから、効き目は薄いだろう。それに、ゴーストを対処する方法はもっと簡単なものが存在する。君が望むなら説明するが、どうする……?」
「いいえ、その必要はありません」時間を無駄にしていることに気が付き、ハーマイオニーは素早く言った。
「結構。それじゃあ、ハリー。もう一度あそこに立ってもらえるかな。今度は目の前にディメンターを呼び出すのではなく、ミス・グレンジャーが呪文を唱えられるスペースを開けておくんだ。うまくいけば、ボガードはハリーの恐れしか受け取らない。ミス・グレンジャー、ディメンターが出てきたとき、今度は君がパトローナスの呪文を唱えるんだ。呪文は何度唱えても構わない」
「分かりました」
「僕はあれが自分に向かってくるのを黙って見ているんですか?」
「君は本当に危ないと思った時に対処できるだろう? それじゃあ、2人とも、準備はいいかい?」
ルーピンは杖を振り、箱の蓋を開けた。ディメンターは再び立ち上がり、教室は氷のように冷たくなった。杖を握るハーマイオニーの手は若干震え、喉は乾ききっていた。
「いつでも、どうぞ」としかめっ面のポッターが急かした。
ハーマイオニーは咳払いをすると、杖を振り上げた。そして、クリスマスの日のドラコとの記憶を思い浮かばながら叫んだ。「エクスペクト・パトローナム!」
杖の先から一筋の銀色の煙のようなものが噴き出すが、ディメンターが退く様子はない。
「もう一度」とルーピンが促す。
ハーマイオニーは深呼吸をしようとした。しかし、肺は少しの空気を吸い込むだけだった。ハーマイオニーは重たい空気と寒さ、それから徐々にポッターに迫るディメンターに焦り、再び呪文を唱えた。「エクスペクト・パトローナム!」
「もう一度!」
ハーマイオニーは目を強く閉じ、頭の中で詳細な記憶を思い出そうとした。「エクスペクト・パトローナム!」
「エクスペクト・パトローナム!」ポッターが怒鳴るように魔法を唱える。
暖かい波がハーマイオニーを包んだ。ハーマイオニーは深呼吸をし、温風を肺に取り組んだ。
「さて、わたしは最初の1回で君が成功できるなんて期待していなかったよ。むしろ、もしできたら、驚きだよ。これは非常に高度な魔法だからね」
「私は必ず習得できます」
「ああ、君は必ず成功させるだろう」とルーピンは穏やかに言った。「もう一度やってみよう。でも、その前にチョコレートを食べるといい」そう言うと、ルーピンはポケットに手を突っ込んだ。
ハーマイオニーは「自分の物を持っているので、私は結構です」と断ると、ハニーデュークスのチョコレートバーをポケットから取り出した。
・
「あなたがもう少し我慢してくれれば——」
「僕は自分が襲われるのを黙って見ているつもりは無い」
「ポッター、貴方は十分な時間をくれていないわ!」とハーマイオニーは怒鳴った。「時間があれば、私は成功させられた!」
「時間は十分にあった」とポッターは肩をすくめた。「箱から僕にたどり着くまでには十分な時間がある」
「貴方はそれを早く止めているのよ」とハーマイオニーは吐き捨てた。「でしょ、先生? ポッターはあまりにも早くパトローナスを唱えています。呪文を唱えるための十分な時間を提供されていません」
「そうだな、わかった……」とルーピンは考えにふけった様子で呟いた。「別の思い出を選んだほうが良いかも知れない」
「別の記憶、ですか?」
「その記憶は十分な強さを発揮しないようだ。別の、より幸せな記憶が必要だ」
「この記憶は幸せな記憶です」
ルーピンは安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。「ミス・グレンジャー、わたしはより幸せな記憶と言ったんだ。君が思い浮かべていた記憶が幸せであることを疑ったわけじゃないよ。でも、耐久力のあるしっかりとした盾を作るためには、もっと大切で重要な記憶が必要だ」
「『O』の成績を取ったときのことを思いだせばいいじゃないか」とポッターが揶揄うように言った。「君はそれを取ろうといつも必死になっているんだから、幸せでないはずがない」
「ハリー」とルーピンが困った顔でたしなめた。
「『O』を取るために必死にならなければならないのは貴方の方でしょ」
「別に僕は勉強だけに拘っているわけじゃない。それに、僕は『O』評価を得ている」
ハーマイオニーは鼻で笑って呟いた。「せいぜい1つや2つでしょ」
「もう十分だ」とルーピンが声を抑えて叱った。「2人とも寮に戻りなさい。もう随分と時間が経っている」
ハーマイオニーはバッグを拾いあげると、教室の外へ向かった。
廊下を少し歩いたところで、早足で近づいてきたポッターがハーマイオニーの横に並んだ。
「君はディメンターと戦いたいのか? もしそうなら、僕は君の遊びに付き合うつもりはないんだけど」
「ポッター、お願いよ。貴方とは違って、私には本物の恐怖があるの」
「本物の恐怖だって?」ポッターは馬鹿にしたように笑った。「男子生徒に褒められたぐらいで、僕はヒステリックになったりはしないけどね」
ハーマイオニーは立ち止まり、ポッターの顔をマジマジと見つめた。
「実際、そうなんだろ……?」ポッターは慌てた様子で視線を逸らした。
ハーマイオニーはポッターに詰め寄り、「どこでその話を聞いたの?」と小声で尋ねた。
しかし、ポッターは何も答えず、肩をすくめるだけだった。
「どこで、それを聞いたの?」ハーマイオニーは更に1歩詰め寄り、再び尋ねた。
「スリザリンの誰もがマルフォイほど君を評価していないってことだよ」ポッターはそう答えると、1歩下がり、寮の方へ少しずつ踏み出した。「でも、まぁ、僕はそんなに心配する必要はないと思うけどね」
ハーマイオニーはポッターが廊下を進み、グリフィンドール寮に続く階段を登っていくのを見ていた。そして、ポッターの姿が消えた後も、2、3分の間、その場に立っていた。
――スリザリンの誰かがポッターに何かを喋った?
防衛術の授業での出来事を目にしたのは3年のスリザリン生のみだ。必然的に、可能性が高いのは彼等だった。
ハーマイオニーは重い足取りで地下牢へと歩いた。談話室に入ると、まるでハーマイオニーの存在を掻き消そうとしているかのように、部屋は騒がしかった。顔を上げたハーマイオニーは、同じソファーにドラコとダフネが座っているのに気が付いた。テーブルの上には本と羊皮紙が積み重ねられている。
「そんなにかい?」
「ええ」とダフネが頷き、羊皮紙に何かを書き込んだ。「死の杖を手に入れたら文字通り敵無しよ」
「なあ、本当に存在するとは思わないかい?」ハーマイオニーが隣に座るのを見ながらドラコは言った。そしてハーマイオニーの肩に手を回し、自分の元へ引き寄せた。
「何の話をして——」
「そんな訳ないでしょ。死の杖は、子供たちに他人の杖をとってはいけないことを教えるだけの物語よ」
「じゃあ、僕たちは存在しない神話を調べるっていう馬鹿な試みをしていたわけだ」とドラコは可笑しそうに笑った。「そういうのはもっと知的な奴にふさわしいと思わないか? ……ゴイル、とかさ」
ダフネは下を向いて笑みを隠しながら呟いた。「それならフリントも良い線よ」
「頭の可笑しいゴーント家とかもな」
「なら、正気を失ったブラック家の人も」とダフネは揶揄うように笑った。
「もしも遠まわしに僕のことを馬鹿にしているのだとしたら、僕はファウリー家の欠点を言っていかなければなら無さそうだ」ドラコはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて呟いた。
ダフネは眉をアーチ状に曲げて言い返す。「別に貴方と戦おうとしたわけじゃないわよ。マルフォイ家は気前が良い家よ」
「グリーングラス家は大胆さが売りだね」
「どうも」とダフネはため息まじりに言った。「アストリアなんかグリーングラス家の特徴を強く引き継いでいると思うわ」
ドラコは肩を揺らして笑う。「僕は『勇敢』って言葉の方がピッタリだと思うけどね」
「確かにそっちの方が良いかも。どちらにせよ、私はそんな特徴いらないけど」ダフネは唇を歪めて呟いた。
2人の会話が途切れた時、これまでにダフネが談話室で勉強をしている姿を見たことが無かったことに、ハーマイオニーは気が付いた。ダフネはまるで他の人と一緒に勉強することを嫌うかのように、部屋で黙々と勉強していることが多かった。「ねえ、トレイシーはどこにいるの?」と、ハーマイオニーは唐突に尋ねた。
「さあ、知らないわ」とダフネは言った。「なぜ?」
「ちょっと不思議に思って。貴方たち2人はいつも一緒だから」
「ええ、私達はいつも一緒よ。親友だもの」
「そうね、知ってるわ」とハーマイオニーは単調な口調で呟いた。「前に聞いたもの」
ダフネは本から視線を上げて、ハーマイオニーを観察するような目で見つめた。
「フラメルが賢者の石を作ったっていうのは本当なのか?」ドラコは独り言を言うように尋ねた。
「ええ」ハーマイオニーが答えると、ダフネはすぐに目を逸らした。
ハーマイオニーは、「部屋に戻るわ。邪魔したわね」と一言呟くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、寄宿舎まで早足で歩き、部屋に着くと、ベッドの上にバッグを放り投げた。
ハーマイオニーは自分の中で何が沸き上がっているのか分からなかった。ダフネに関する何かが、ハーマイオニーをイライラとさせていた。それは、今までに一度も感じたことのない感情だった。
一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとしたハーマイオニーは、自分のベッドの反対側で小さなランプがついているのに気が付いた。ベッドのカーテンは半分閉まっている。ハーマイオニーは鼻から大きく空気を吸い上げると、ズカズカとそのベッドに近づき、カーテンを勢いよく開けた。
パンジーが小さな悲鳴を上げて飛び上がった。そして、ベッドの上で教科書と羊皮紙がバラバラで散った。「いったい何のつもり?」とパンジーはキーキー声で叫んだ。
「あなた、誰かに言いふらした?」
「いったい何の話よ」
ハーマイオニーは杖を取り出し、改めて尋ねた。「誰かに防衛術の授業でのことを話した?」
羊皮紙を集めていたパンジーは、手を止めて、細い目でハーマイオニーを見上げた。「貴方は誰かに私の前に現れたモノを話したりした?」2人はしばらくの間見つめ合い、どちらも口を開かなかった。「私は誰にも話してないわ」と、パンジーはしばらくして呟いた。「とりあえず、まだ、ね」
「なら、今後も誰にも喋らないことね」とハーマイオニーは言い、杖をローブに仕舞った。「そしたら、私も絶対に話さないわ」