「晴信うううぅぅぅーーーっ!!」
まるで殺意と暴虐が形をもったかのような、恐ろしい声が響き渡る。
光璃は知っている、薫も知っている、武田晴信の近習達も、武田信廉の親衛隊も大部分がこの声の主を知っている。
「母様……?」
「母様が来た……」
光璃の母……いや、武田晴信の血縁上、生物学上の親である、武田信虎の声である。
「そう……光璃と母様は、どこまでも似た者同士……
だから憎み合って、だから殺し合って……だから……同じ男性に安らぎを感じて……」
光璃にはすぐに分かった。
光璃はすぐに理解した。
今日の信虎の目は、自分の知るどの信虎の目とも異なっている。
今まで何千回、何万回と向けられた殺意という名のどす黒い感情に、嫉妬の感情、女の感情が入り混じっていた。
『その男は私の物だ』『私の物に手を出すな』『私の物を盗るな』『私の物を奪うな』『この泥棒猫め』『この薄汚い盗人め』『この汚らしい売女め』
どれもこれも、およそ実の娘に向けるべき、向けて良い感情では無かろう。
だがしかし、武田晴信と武田信虎は出会った瞬間から、晴信がこの世に生まれ落ちたた瞬間からこういう関係だ。
実の娘、実の親など関係無い。
奪い合い、憎み合い、妬み合い、殺し合う関係なのだ。
瞬間、光璃は折れて萎えかけていた戦意を再び燃え上がらせる。
負けてなるものか、こんな所で死んでたまるかという意思と決意を新たにする。
突如として光璃の前に現れた斎藤九十郎が何者なのかも、何故自分の前に来たのかも、何故自分を助けようとするのかもまるで分からなかったが、分からないまま死ぬのも、この男を他でもない武田信虎に奪われて喪うのも御免だと思った。
「全速で離脱! 1人でも多く逃げ延びよ!」
光璃が立ち上がる。
ここが正念場だと、光璃にここまでつき従ってきた近習達も奮い立つ。
ここさえ切り抜ければ、どうにかなる。
武田晴信さえ無事に逃げ延びれば、きっとどうにかしてくれると。
「囲え! 回り込め! 退路を絶て! 雑魚はこの際どうでも良い!
武田晴信1人殺せばこの戦は我らの大勝だぁっ!!」
信虎がヒステリックな金切り声で叫ぶ。
「晴信だ! 手柄首だぞ!」
「晴信を殺せ、我らの恨みを思い知らせろ!」
「逃がすな! 走れ走れ走れぇっ!!」
第七期兵団が勢いを増し、晴信へと殺意を向ける。
「心、不慣れとは思うけれど」
「私も武田四天王です。 こなちゃん程強くなくとも、覚悟ならとうの昔に……
御屋形様を御守りして! ここが私達の死に場所だから!」
甲軍が光璃を逃そうと最後の力を振り絞り、越軍はそうはさせんとばかりに奮い立つ。
「母様が目の前にいるのに……」
「……今は殺せない。 一旦退いて、殺す手段を考える」
「分かってるよ……けど……」
薫が思わず目を伏せる。
光璃程ではないにせよ、薫もまた信虎の殺意を浴び、信虎に殺意を抱いている。
我を忘れて走りださないのは、自分以上に強烈な嫌悪や殺意を抱く光璃が『退く』と決めたからだ。
薫には分かっている。
光璃は甲斐の生命線であり、光璃の命が尽きる時が甲斐の命脈も尽きるためだと。
そしてきっと、光璃さえ生き伸びれば、信虎を殺す算段も立ててくれると。
だからこそ自分は、今までずっと光璃の影武者に甘んじてきたのだと。
だからこそ自分は、この劣勢極まりない状況で、剣丞を撒いて光璃の元へ舞い戻ったのだと。
「お姉ちゃん、行ってきます」
「……見届けてはあげられない」
「見届けようとしたら怒るよ、流石に」
薫が光璃にふっと笑った。
光璃に最後に見せる顔が、泣き顔でもなく、恐怖や絶望に染まった顔でもなく、笑顔であってほしいと願うから。
「薫……お前何を……? まさかてめぇっ!?」
九十郎が何かを察し、怒声をあげとする。
「九十郎さん、会ったばかりの人にこんな事を頼むのもどうかと思うけど……
お姉ちゃんをよろしくね。 あと、剣丞さんも拾っておいてもらえると嬉しいかな」
優しく微笑みながらそれだけ告げると、九十郎の返事を待たずに薫は武田の騎馬隊を全滅させた恐るべき兵器・ドライゼ銃を構える第七騎兵団をキッと睨みつける。
「我こそは甲斐武田の頭領! 武田光璃晴信である!
我こそはという者はかかって来ぉい!!」
そう叫ぶと、逃げるどころか無数の銃口の前に飛び込むかのような特攻を開始したのだ。
いや、命を捨てようとしたのは薫だけでは無かった。
「我は武田晴信! 我を討ち取り手柄首とせよ!」
「武田晴信はここに居るぞ! 私と戦う勇気ある者は来るが良い!」
1人、また1人、気がつけば10名以上の武者達が揃って武田晴信を名乗り、薫と共にドライゼ銃を構える第七騎兵団へと無策特攻を開始した。
無論、その中の大部分は声も、背格好も、鎧兜も、酷いのは性別すらも光璃とは全然違っていた。
しかし、越軍のほぼ全員は武田光璃晴信を直接見た事が無い、声を聞いた事も無い。
それ故に全く似てない自称武田晴信の集団も、第七騎兵団を僅かに困惑させ、標準をブレさせる効果があった。
「忌々しい……」
信虎が表情を険しくさせて、奥歯を強く噛み締める。
かつて信虎は晴信に敗れ、甲斐を追われ、今川義元の居城で軟禁生活を強いられたことがある。
その時は誰一人として、信虎の身代わりになり、信虎を逃がそうとした者はいなかった。
大将としての力量が、人望か、あるいは人としての器そのものが晴信とはかけ離れているのだと突き付けられているようだ。
「忌々しい! ええい忌々しいっ!!」
内藤心昌秀が剣を振るい、まるで自らを盾にするかのように戦う姿を見て、信虎が歯噛みする。
内藤昌秀は、基本的に後方からの物資管理や、後詰として役割を担う者だ。
ああやって真正面から敵兵と切り結ぶ姿を初めて見た。
あんな必死の表情で、必死になって剣を振るう姿を、信虎は初めて見たのだ。
何より……何より九十郎が、本物の武田晴信の手を引きながら、立ち塞がる越軍の雑兵を切り捨てている光景が信虎の心を抉った。
先程九十郎に斬られた方の傷が、ズキン! ズキン! と苦痛を与えてくる。
信虎は吐き気がして、眩暈がして、倒れてしまいそうになった。
「そんなに死にたいのなら……そんなに死にたいのならば殺してやる!
ドライゼだ! ドライゼを撃て! 撃ちまくれ! 銃身が焼けるまで撃ち続けろ!
1人残らず皆殺しにしろ! 殺せ殺せ殺せぇーーーっ!!」
半狂乱になって叫ぶ、叫びまくる。
第七騎兵団が特攻してくる自称武田晴信達に……先頭を駆ける薫に狙いをつけ、射撃。
ズダダダダッ! ズダダダダッ!! と再び時代錯誤の殺戮兵器が火を噴いた。
すぐに辺りに断末魔の叫び声が木霊して、血と硝煙で視界が一気に遮られる。
「あ……ぐぅ……っ!?」
真っ先に晴信を名乗り、駆けだした薫の陣羽織が紅く染まる。
水のように蒼い髪が地で真っ赤に染まる。
「……止めなくて、良いんだよなぁ!」
光璃と九十郎にも、薫を含めた自称武田晴信達が次々と射殺されていくのが見えた。
九十郎はそれを見ながらもなお足を止めない。
「……うん、止めない、止められない」
我が身が張り裂けそうな程の魂の痛みを堪えながら、光璃もまた止まらない。
襲い掛かってくる越軍の雑兵達を切り捨てながら、決死の覚悟で……いや、必ず生き延びる覚悟で走り続ける。
「撃て! 撃て撃て撃てぇっ! 殺せ殺せ殺せぇっ!!」
目尻に涙を浮かべ、信虎が叫び続ける。
周囲があっという間に硝煙で一杯になり、数m先すらもはっきりとしなくなり……
「……頭に血を昇らせるんじゃねーっすよ、信虎」
「ちょっと頭冷やしなさい、向こうはドライゼを撃たせて、硝煙で視界を悪くさせる算段よ」
「九十郎、本気で向こうに寝返ってるなぁ……
今回に関しては、流石の犬子もドン引きだよ、全くもう……」
そんな信虎を止める3人が……柘榴と、美空と、犬子が何とも言えない複雑な表情で現れる。
「お、お前ら……」
「同じ男に惚れてる身として気持ちは分かるけど、一旦切り替えなさい。
今は武田の命脈をキッチリ断ち切る事を考えましょう。
柘榴、犬子九十郎の事、任せて良いわよね?」
「当然、他の誰にも譲れねー役目っすね」
「そうだねぇ。 すぐに軸がブレる駄目亭主を引っ叩く役目は、
私と柘榴以外、誰にもできそうにないからねぇ」
「お互い変な男に惚れちまったっすねぇ」
「ほんと、ほんと」
犬子と柘榴が苦笑し合う。
「私が許すわ、私と信虎の分までブチのめしちゃいなさい」
「合点承知っす!」
「御意! 今回ばっかりは念入りにとっちめてやります!」
犬子と柘榴が鎖を外された猟犬の如く駆け出した。
「信虎、本物の晴信はどれ? 貴女なら見分けがつくでしょ」
「あっちに逃げたのが本物だ!」
「第七騎兵団! 総員着剣! 私に続きなさいっ!!
影武者に構って本命を逃げすんじゃないわよっ!!」
ほぼ同時に美空と第七騎兵団も動き出す。
「九十郎ぉっ!! 何考えてんのっ!?」
犬子と柘榴が九十郎に飛び掛かる。
「光璃先行け、あいつら俺に用事らしい」
「……気をつけて」
「お前を遺して死ねるかよ」
九十郎が光璃を先に行かせてUターン、犬子と柘榴へと向かって行く。
「御大将には柘榴から謝っとくっすから、戻ってくるっすよ!!」
「そうしたいのは山々なんだけど……なぁっ!!」
槍と太刀がぶつかり合う。
ガチンッ! と火花が散り、柘榴と九十郎の視線が交差する。
「本当に裏切ったっすか!?」
「すまん柘榴、お前にも美空にも恩義はあるが、いくらなんでも光璃を殺す手伝いはできん」
「いや前々から違うって言ってたよね!?
いくらなんでも武田信玄が光璃な訳が無いって何度も言ってたよね!?」
「実際会ってみたら光璃だったんだよ!」
「何でもっと早く気づかなかったっすか!?」
「気づける訳ねぇだろ! 俺だって驚いてんだっ!!」
まるで泣き言のような事を叫びながら九十郎が犬子と柘榴からの攻撃と口撃を躱していく、
「……マジでこのまま甲斐に行く気っすか?」
「そうは言わねぇよ、んな事言いたくねぇし、言わねぇけど……だが、それでも……」
「御大将はそこまで至らねー主だったっすか?
柘榴や犬子は……そんな簡単に捨てられる程に……」
「ああ分かっている、分かっているさ。 俺は今、最低最悪の事を言っているってな……」
九十郎が柘榴を見る。
九十郎にとって最愛の妻、最高の嫁である柘榴を見る。
戦国時代の中で、ただの柘榴として、ただの九十郎を愛してくれた人を見る。
九十郎が胸を張って俺の嫁だと断言できる女を見る。
九十郎が犬子を見る。
九十郎にとって畏れ、敬うべき前田利家を見る。
前田利家でありながら、前田利家である事を否定してまで九十郎を求めた女を見る。
前田利家であり、ただの犬子でもあり、愛おしい女でもある人物を見る。
そして九十郎が少し離れた所で剣を抜き、武田の近衛達と切り結ぶ美空を見る。
九十郎にとって人生二度目の、心の底から自らの主君と呼ぼうと決めた人物を見る。
どんな言い訳をしようとも、九十郎は大事な大事な3人を切り捨てたのだ。
光璃を守るという目的のために……
「武田晴信、覚悟ぉーっ!!」
「くぅっ……」
九十郎がそうこうしている内に、美空は光璃に追いついた。
過去幾多の武田の武者を惨殺してきた愛刀・姫鶴一文字が振り上げられる。
「美空! やめろおっ!!」
「止まれないのよ! 血が流れ過ぎてるのよぉっ!!」
美空は一切止まらない。
武田との戦のために、過去夥しいまでの血が流れ、幾多の将兵や領民が犠牲になったのだ。
今この瞬間のために……武田晴信を討ち取るために、多くの人が動き、多くの金子が使われ、多くの鉄砲鍛冶を拉致一歩手前の強引な手段でかき集め、密偵による防諜もして、真田昌幸に莫大な裏金を握らせて寝返らせた。
今ここでやっぱりやめますなんて言える訳が無い。
過去の武田との戦いで犠牲になっていった者達に顔向けができない。
この戦いで勝つために様々な形で尽力していった味方に何と言えば良い。
そして何より……同じ男に惚れ、あの冷酷な武田晴信を相手に、命懸けで裏切り、寝返った一二三のために止まる訳にはいかないのだ。
なお、その惚れた男が唐突にトチ狂った事を言い出している事には全力で目を瞑った。
「……さっせませんわぁっ!!」
だがしかし、姫鶴一文字が晴信の首を刎ねる寸前、予期せぬ方向から無数の刃がまるで猛牛の群れの如く突進してきた。
「全く次から次へと……誰よ邪魔するのは!?」
無数の刃に刺し貫かれる寸前、美空がバク転の要領で回避する。
美空と共に晴信を追いかけていた第七騎兵団のメンバーが何人かミンチ肉にされる、
「剣丞隊が一員、蒲生梅賦秀ここに見参。
盛り上がっている所申し訳ないのですが、この勝負物言いですわ」
頭クルクルパーマ……もとい、無事に剣丞と合流を果たした梅が御家流・『蜈蚣切丸・神威千里行』を発現させながら飛び込んできたのだ。
「さっきのは梅の御家流……ええい! 外野は引っ込んでなさい。
さもなきゃあ痛い目に遭わせるわよ!」
「あら、外野ではありませんわよ。
私も貴女も、甲斐の武田晴信殿もダーリンの嫁御でしょう」
「もう止まれりゃしないのよ! 私は! 私達はぁっ!!」
渾身の怒りと苛立ちと共に、叩きつけるように愛刀を振るう。
「止まらないなら、もう一発ブチかましますわよ」
梅の周囲に槍の穂先のような形状の影が浮かび上がる。
先程使った梅の御家流をもう一度発現させる準備はできていると、言外に伝えていた。
「そんな脅しに通じるとでも?
そんなチンケな脅しにいちいち屈してたら、一国の当主なんてやってられないわ!」
「国の主であるからこそ、ここで思い留まっていただきます!」
「もうやめてくれ! これ以上血を流す必要なんて無いんだ!」
切り結ぶ美空と梅の元に、詩乃と剣丞、そして一葉が駆け寄ってくる。
「和睦の誓書に署名する者が必要です!
甲斐の武田晴信以外の誰にその役目が務まりますか!?」
「日本中が鬼で大変な事になりそうだって時に、
これ以上無意味な争いをしている場合じゃない!」
「あんたら……相変わらず無責任な事ばかり言って……」
「尻比べはこの位で十分であろう、これ以上はただの死体蹴りよ」
「尻比べなんて適当な理由で兵を動かしてる訳ないでしょうが!!」
「なん……だと……!?」
一葉は本気で尻比べだと思っていた。
「悪いけど、武田との和睦なんてハナッから考えていないわ。
皆殺しにするわ、それ以外にはありえない。 危ないからどきなさい、さもなければ……」
美空が精神を集中させる。
美空の切り札、美空の御家流である三昧耶曼荼羅の光が周囲に漏れ出る。
「絶対にどけませんわ。
そっちが御家流を使うのであれば、こちらももう一発、ブチかまさせて戴きますわ」
梅もまた、負けじと蜈蚣切丸・神威千里行を発現させるため、精神を集中させる。
一触即発の空気が流れ……
「ところで……良い御家流じゃないか、使わせてもらうぞ」
……美空と武田信虎がにやりと笑う。
「な……こ、これは……っ!?」
瞬間、梅は脳髄を直接鷲掴みにされたかのような奇妙な感覚に襲われる。
そして己の意思と能力で発現させようとしていた神威千里行の制御が梅から離れる。
「信虎ぁっ! 構う事は無いわ! 派手にやっちゃいなさい!」
「積年の怒りと憎しみを……ありったけの殺意を全てぶつける。 我の主の分もなぁ!」
「あら? 初めてじゃない、私の事を『主』だなんて呼ぶのは」
「うん? そうだったか? まあ良い……行くぞぉっ!!」
他者の御家流を掴み、投げ返す信虎の御家流・マグナムシュートによって、梅の神威千里行の制御が一時的に強奪されたのだ。
「マ・グ・ナ・ムゥ……」
そして信虎が、九十郎に斬られた傷の痛みを堪えながら、大きく振りかぶり……
「……シュウウウゥゥゥーーートォッ!!」
神威千里行の刃をまるで衝撃波の如くブン投げる。
「危ない! 避けるんだ!」
「きゃああぁっ!?」
信虎の能力を知っている剣丞が叫ぶ。
梅が咄嗟に横飛びをして回避する。
そして信虎が放った刃の衝撃波は……
「あ……ぐぅ……」
……武田光晴信の身体をズタズタに引き裂き、空高く舞い上がる。
「光璃っ!!」
「光璃いいいぃぃぃーーーっ!!」
剣丞と九十郎の悲痛な叫びが周囲に響き渡った。