戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と九十郎第8話『好きになっても良いよね?』

 

犬子が拾阿弥を斬殺して、一夜が明けた頃……清洲城の一室で処分の言い渡しを待っている犬子の元で、九十郎が盛大に罵声を浴びせていた。

 

「馬鹿なの!? お前馬鹿なの!? 死ぬの!? 一体何を考えてんですかねぇ!?」

 

馬鹿馬鹿と連呼しているが、この男の大江戸学園での渾名は『ジェットストリーム馬鹿』、あるいは『馬鹿三連星のマッシュ』である。

 

「でも、九十郎の笄が……」

 

「それは知っている、おおよその事情はひよ子から聞いた。

 だがな犬子、俺があれを贈った時、何を言ったかは覚えているのか?」

 

「う、うん……萱津の戦いで、犬子が九十郎を助けた御礼だって言ってたよね……」

 

「命を救われた礼にと贈った物が、恩人が命を落とす原因になったら、

 贈った奴はどう思う? どう感じる?」

 

「あ……」

 

それを聞いた瞬間、犬子は頭をガァン! と殴られたかのような衝撃を感じた。

九十郎が命を賭けた証を護るため、自分も命を賭けたのだと思ってした行為が、何よりも九十郎の想いを穢し、疎んじるものだと気づかされたのだ。

 

「九十……ろ……」

 

「拾阿弥ってのは従軍経験も無い茶坊主だったんだろ?

 犬子なら殴り倒して笄を取り上げる事もできただろうに、何故わざわざ刀を抜いた」

 

「ち、ちが……違わない……けど……でも……」

 

「どうしても殺したいなら真夜中に屋敷に忍び込んで殺すね、俺なら。

 最近は改善の兆しがあるとはいえ、まだまだ尾張の治安は良くない。

 押し込み強盗なんて珍しくも無い、DNA鑑定も指紋照合も不可能。

 事件を迷宮入りさせる事なんてそう難しくはない……」

 

合理的かもしれないが、この男の思考は外道極まりなかった。

 

「それなのに誰かさんはわざわざ清州城内主君の眼前で、

 犯人は私でございと叫びながらぶった斬った訳だ」

 

外道な上に厭味ったらしい男である。

 

「で、でも……そんなの……武士らしく……」

 

「ははは、うちの御主人様は笄を盗られた怒りで、

 茶坊主を斬り殺すのが武士らしい態度だと言い張りたい様子だな」

 

「うぐっ……」

 

今にも消え入りそうなか細い声で反論しようとしていた犬子であったが、とうとう何も言えなくなってしまう。

 

「怒りにまかせて斬れば自分がどうなるのか、俺が何を思うのか、

 斬る以外に方法は無いのか……何一つ、思い浮かばなかったのか?」

 

犬子は両目に涙を一杯に溜め、大きく一度頷いた。

 

「……馬鹿なのかお前は?」

 

静かに、吐き捨てるように言う……本当に厭味ったらしい男である。

拾阿弥も口が悪い少女であったが、九十郎には負けるだろう。

 

言うだけ言うと、九十郎はふうぅ……と大きく深く溜め息をつく。

 

失望した、見損なった……そんな感情を、犬子はありありと感じ取った。

短気で短慮、不出来な主と見限られるのだと……そう思った。

 

そう思った瞬間、犬子の心が真っ暗になった。

心が真っ暗になって、涙がぼろぼろと零れ落ちた。

 

死ぬのは怖くない、切腹を命じられても悔いは無い、九十郎の笄が軽んじられるのを黙って見ているよりは何十倍もマシだと昨日は思っていた。

だがしかし、それこそが九十郎の想いを最も軽んじ、踏みにじる事だった……それに気づけなかった自分が情けなかった、悔しかった、吐き気がした。

 

今になって死にたくない、命が惜しい、切腹なんて嫌だと考えてしまう自分が、誰よりも醜く思えた。

 

ちなみに九十郎の腹の中は犬子の千倍も万倍も醜い。

さっきから延々と説教を続けているが、この男の内心に犬子に対する真心など一切無い。

あるのは失望、落胆、軽蔑、そして……こっちの幸せな未来予想図を見事にひっくり返しやがってコンニャロウメ、ここまで御膳立てしてやったんだから歴史の通り順当に出世しろよという、逆恨みにも似た怒りである。

 

なお、九十郎は全く知らない事ではあるが、日本史における前田利家も拾阿弥を斬って信長の怒りを買っている。

 

「犬子」

 

もう何千回、何万回と聞き続けた九十郎の声が、今日だけは地獄行きを宣告する閻魔の声のように聞こえてきた。

 

「えぐっ……ぐす……くじゅ……くじゅうろぉ……」

 

犬子は大粒の涙をぼたぼたと畳に零していた。

何かを言おうとしてみても、頭の中がぐしゃぐしゃで、口も思うように動かなかった。

 

様々な感情がドロドロに溶け合って、犬子は咽び泣いていた。

 

「泣くな、うっとおしい」

 

この男は少女の涙を何だと思っているのだろうか。

 

「うぐっ……ごめんな……さぃ……ごめ……」

 

「俺に謝ってどうするんだよ、謝るならせめて久遠に謝れ」

 

謝った所でどうにもならんだろうがと、九十郎は心の中で付け加えた。

この男は本当に少女の涙を何だと思っているのだろうか。

 

「う……ぐすっ……ごめ、ごめんなさい……役に立たない……

 出来の悪い主で……わ、犬子は……犬子はぁ……凄い馬鹿で……」

 

流石に口には出さなかったが、九十郎は本当に役に立たない御主人様だよなと考えていた。

 

この男は後日鬼の軍団と戦う羽目になり、何度も何度も死に掛けるのだが、この男の精神性は鬼以上に鬼であった。

 

ただ……

 

「泣くな、うっとおしい」

 

先程と全く同じ言葉、だが声のトーンが明らかに異なっていた。

侮蔑軽蔑の色が薄れ、ほんの僅かな優しさがあった。

心底面倒臭いとは思っていたが……同時に犬子を気遣っていた。

 

「九十郎……?」

 

俯いていた犬子が顔を上げる……直後、犬子の視界が塞がれる。

自分が九十郎に抱き締められているのだと気づくまで、そう長い時間は必要無かった。

 

「泣くんじゃない犬子、それ以上泣かれると……俺が困る」

 

この上なく自分本位の理由であった。

だがこの男にしては珍しく、本当に本当に珍しく……何の得にもならない人助けをしていた。

 

「落ち着くまでこうしてやる。 何時間でも、日が暮れようとも」

 

恰好良い事を言っているようだが、日付が変わる前に落ち着きますようにと、九十郎は自分本位な事を考えていた。

 

「あ……う、うん……」

 

筋骨逞しい外見の九十郎が、年齢以上に幼い見た目の犬子を抱きしめる光景からは、何とも言えぬ犯罪臭が醸し出されていたが……それでも犬子は、自分を包み込んでいた混乱と罪悪感と孤独感が薄れていくのを感じていた。

 

「あ、ありがと……」

 

もう何度目のありがとうだろうかと、犬子は思った。

自分は九十郎から受け取ってばかりだ、受け取ってばかりで……何も返せていないと犬子は思った。

 

この少女の中では、先程までの罵倒は叱責であったと脳内補完されていた。

酷い勘違いである。

 

「死にたく……死にたくないなぁ……」

 

そう口にした瞬間、犬子は自分が嫌いになった。

その言葉は紛れも無く本心……九十郎に何も返せないまま死にたくないという想いからくるものであった。

 

しかし、自分がこれから死ぬのは自分の落ち度、身から出た錆……それを九十郎に言ってどうするのだ、どうなるのだと自己嫌悪した。

 

「そうか、そうだよな……死にたくないよな……

 俺も死にたくねぇ、いつだってそう考えているよ」

 

しかし、九十郎は犬子を罵倒しなかった、犬子を責めなかった。

ゆっくりと優しく、犬子の言葉を肯定した。

それで良いんだ、死にたくないなんて誰でも思っている事だと……

 

「犬子……大丈夫、大丈夫だからな……俺が付いているからな……」

 

そう言いながら九十郎は犬子の頭をぽんぽんと撫でる。

 

客観的に見て、何の根拠の無い言葉であった。

だけど今の犬子にとっては、何よりも強く確かな言霊に思えた。

 

「あいつも昔、こうやって泣き止ませてたかな……」

 

九十郎が言う昔とは、この男に人並みの良心が存在していた頃の話である。

意外に思える方も居るかもしれないが、この男は大江戸学園に入学するまでは多少は可愛げがあった。

 

「あいつ……?」

 

犬子が思わず聞き返す。

全身が密着している筈なのに、九十郎が嫌に遠くに感じた。

さっきまで早鐘のように震えていた心臓が、スーっと静かになっていくのを感じた。

 

「俺の幼馴染の片割れだよ。

 虫の声も、車の音もしない静かな夜は、時々布団の中で泣き出すんだよ。

 1人は寂しいよ、妹に会いたいよ……なぁんて言ってなあ……」

 

あれ? そういやあいつ一人っ子だったような? 妹って誰だ?

桃園で誰かと何かを誓い合ったのかな……なぁんて事を考えながら、九十郎は犬子の肩を抱き続ける。

 

「あいつもガキの頃は可愛げがあったのになぁ……

 一体誰の影響であんな鬼畜外道に育ったんだか……」

 

蛙の子は蛙だっただけである。

 

犬子はそんな呟きを聞いて、やはり九十郎は自分に言っていない過去がある、

隠し続けている何かがある……そう気づく。

すると無性に寂しくなり、無性に悲しくなり、九十郎の背に回した両腕にぎゅうぅっと力を籠めた。

 

「その人、今どうしているの?」

 

「んん……いや……そうだな、どこで何をしてるんだろうな……」

 

……嘘だ。

 

本当はどこで何をしているかなんて分かり切っている。

今もなお大江戸学園……現代日本で毎日をエンジョイしているだろうと思っている。

あの卑劣様以上に卑劣で外道なクソ女が、自分が死んだ程度の事で生き方を変えたりはしないだろうと思っている。

だけど九十郎は嘘をついた。

 

九十郎は生来、嘘が苦手な性質だ。

犬子は生来素直で、純真で、割と騙されやすい性格であったが……それでもなお、九十郎を見続けてきた時間だけは誰よりも長い。

それ故に犬子は気づいた、九十郎は嘘を言っていると。

 

気づいていながら……犬子は何も言えなかった。

きっと自分は数日もしない内に切腹が命じられる。

故に今日が九十郎と会える最後の日、今日が九十郎と話ができる最後の日だと分かっていながら、犬子にはそれを追求する勇気が無かった。

 

「大丈夫だ、俺が居る、俺が付いている、俺が助ける、俺がどうにかする。

 だから泣くな、安心して笑っていろ」

 

九十郎は犬子の耳元で、そう囁いた。

 

それはかつて……前の生にて、寂しさに涙を漏らすファースト幼馴染対して言った言葉と同じであった。

一言一句違わずに同じ台詞であった。

 

この台詞をファースト幼馴染に言い、しかもそれを録音された事で言質を取られ、

九十郎は反射炉やスクーナー船の建造に駆り出される羽目になったのだが……この男、全くもって成長が無かった。

 

そして……どれだけの時間そうしていたのか、いつの間にか犬子の涙は引いていた。

密着していた身体と身体が離れる時、犬子の手が名残惜しそうに九十郎の方へ伸びかかり……空中で止まる。

 

「もう十分だよね……これ以上欲しがったら、もう駄目だよね……」

 

「何の話だ?」

 

「九十郎の話」

 

「何のこっちゃ?」

 

「分からないなら良いよ、墓場まで持って行くから」

 

「良く分からんが……まあ、良いか」

 

九十郎は持ち込んできた風呂敷包みの中から小箱を取り出す。

その中には筆に炭、白粉に剃刀、髪飾り……それは女性の持つ美しさを引き立たせるための道具、武家の娘として生きてきた犬子にとっては馴染みの無い道具、化粧道具であった。

 

「犬子、今から化粧をするぞ」

 

「え……? お化粧?」

 

「こんな事もあろうかと、前々から買ったり作ったりしていたんだよ。

 鉛の入っていない白粉を自作するのは地味に大変だったぞ、

 ラーメン作ってた頃のTOKIOみてえに土造りからやる羽目になってな」

 

「い、いいよお化粧なんて! 犬子は武家の娘だよ!」

 

「良い訳があるか、ホレ顔出せ、顔」

 

「う、うん……」

 

死に化粧かな……そう考えて、犬子は九十郎の目の前にぺたんと座り、されるがままになる。

 

薄く白粉を振り、口には紅を、眉を少し削り、炭を塗って形を整え、髪を梳き、纏め上げ……犬子の身だしなみを整えている間、2人は終始無言であった。

 

犬子は数cmにまで接近した九十郎の顔を、まるで戦場に立っているかのように真剣な眼差しを凝視しながら、暴れ狂う心臓音に翻弄されていた。

 

『大丈夫だ、俺が居る、俺が付いている、俺が助ける、俺がどうにかする。

 だから泣くな、安心して笑っていろ』

 

先程九十郎から言われた言葉が、何度も何度も犬子の脳内で再生され続ける。

その度に顔が赤くなり、頭がかあぁと熱くなり、心臓がバクバクと跳ね上がるのだ。

まるで九十郎の手で女の子に作り替えられているかのような感覚があった。

武家としての……前田利家としての自分が消え、ただの犬子になっていくかのような……そんな幸せな感覚に酔いしれていた。

 

そして……

 

「最後にカツラを被せて……うん、こんなものかな」

 

差し出された鏡を見て、犬子は大きく目を見開いた。

 

雪のように白い頬、黒く艶やかな眉、上質なシルクのように輝く長髪……まるで良家の子女のように品のある美しさがそこにはあった。

本当に別人に変身してしまったかのように犬子は感じた。

 

「わ……別人みたい……」

 

弦巻マキのコスプレ……は、流石に自重した。

戦国時代で弦巻マキの恰好をさせるのは、目立つ事この上ないからだ。

巨乳だし、声質も近いし、似合うんじゃないかとは思っていたが。

 

「当然だ、別人に見えるように徹底的にやったからな」

 

そんな犬子の感想をよそに九十郎は、俺ってメイクアップアーティストになっても食っていけるんじゃないのか、なんて能天気な事を考えていた。

この男、無駄に器用である。

 

「九十郎、ありがとうね……」

 

……最後に素敵な、幸せな思い出ができたよ。

きっと犬子は地獄に堕ちるだろうけど、きっと犬子は胸を張って死ねるよ。

犬子はそう続けようとした。

 

しかし……

 

「良し、逃げるぞ」

 

「……え!?」

 

その予想外の提案に、犬子は思わず素っ頓狂な声を出してしまう。

幸せな気分は一瞬にして吹き飛んでしまっていた。

 

「何を呆けた顔をしているんだ? 武士道だか騎士道だが北海道だか知らんが、

 お上に腹切れなんて言われて、はいそうですかなんて言えるか、言わせてたまるか」

 

尤もらしく語っているが、戦国時代では無茶苦茶な理屈である。

 

「ほ、本気で言ってるの!?」

 

「当たり前だろう、何のために虎の子の変装セットを持ち込んできたと思っている。

 それにここに来るまで、

 脱出の邪魔になりそうな見張り役を3人も殴り倒してきているんだぞ」

 

「殴り倒したぁっ!? さ、3人もっ!?」

 

これだけ大騒ぎをして、化粧なんてしているのに誰も見に来ないのは、九十郎があらかじめ見張り役を気絶させていたからである。

 

「安心しろ、手加減はした。 しかも逃走資金も携帯食料も逃走経路もバッチリだ」

 

この男、無駄に有能である。

ただし犬子が逃走を潔しとしなかった場合どうするかを全く考えていない辺り、この男は基本的な所で考え足らずである。

 

「本気で……本気で犬子と一緒に逃げる気なの……?」

 

だがそんな無茶苦茶な理屈が、今の犬子には輝いて見えた。

そんな無茶苦茶な理屈が、今の犬子には福音に聞こえた。

 

「いや当たり前だろう、今更何を言っているんだ犬子は」

 

ちなみにこの男、数刻後に当たり前じゃない事に気がついて頭を抱える。

 

「九十郎……犬子と一緒に……犬子と一緒に逃げてくれるの?」

 

九十郎にとって、今の犬子は助ける価値の無い無能な主だ。

九十郎にとって、今の犬子は従う意味の無い駄目な主だ。

それは犬子自身が一番良く分かっていた。

それなのに……

 

「おう逃げるとも、地獄の底まで……というのは流石に御免だが、

 蝦夷地だろうが琉球だろうが、ロシアだろうが、イギリスだろうが、アメリカだろうが、

 地の果てまで逃げ続けてやるよ」

 

それなのに九十郎は、一瞬も迷わずキッパリと断言した。

ただしこの男、数刻後にこの宣言を死ぬ程後悔する。

 

「犬子は地獄に堕ちる事になっても、九十郎と一緒なら怖くないかな」

 

驚く程すんなりと、犬子はそう言った。

まるで九十郎と一緒に死ぬ事こそが自分の幸せだと、魂そのものが理解して納得しているかのように思えた。

 

「ははは、うちの御主人様は俺を地獄の道連れにする気らしいな。

 死ぬまでは付き合う気だが、流石に死んだ後までは責任はとれんよ」

 

「そっか、じゃあ……九十郎、犬子と一緒に逃げて。 犬子が死ぬまで傍に居て」

 

「ああ良いとも。 俺は犬子が死ぬまで離れやしない」

 

なお、2人とも犬子が死んだ後も九十郎はしぶとく生き残っている事を前提にしているが、先に死ぬのは九十郎の方である。

 

ただし、九十郎は死ぬまで犬子と共に生き続けた。

犬子は九十郎が死ぬまでも、死んだ後も、九十郎とその子供達を愛し続けた。

それだけは確かな事実である。

 

……

 

…………

 

………………

 

犬子と九十郎が蓄電逃亡を決意した頃……織田久遠信長は眉間に皺を寄せ、一睡もせず、何故このような悲劇が舞い込んだのか、犬子をどう取り扱うべきかを考え続けていた。

 

城中での抜刀、そして主君の眼前での刃傷沙汰……常識に照らせば、どちらか片方だけでも切腹は免れず、2つ合わされば打ち首でもおかしくない大罪である。

 

しかし犬子の勇猛さは織田家臣団でも随一と言っても良い。

今川との決戦を控えた今、槍の又左衛門の武名と武勇を喪うのは非常に痛い。

 

それに何より、久遠は既に犬子を身内と考えている。

妹の信行のように真っ向から反旗を翻した者を斬った時ですら、心臓が引き裂かれるような痛みと悲しみに襲われたのだ。

怒りに任せた凶行で、たった一度の過ちをもって殺すというのは……どれ程自分を痛めつけるだろうか。

 

それ故に久遠は悩んでいた。

それ故に久遠は悩み苦しんでいた……

 

そこへ久遠の胃薬……もとい、久遠の精神安定剤……でもなく、久遠の嫁・結菜が部屋の中に入ってくる。

 

「久遠、今朝助命嘆願書が届いたわよ。 2通、壬月と……桐琴からみたい」

 

「……デ、アルカ」

 

全知全能が人殺しに特化し、四六時中殺したり殺されたりしている森一家の頭領からの助命嘆願……およそ想定し難い異常事態だというのに、久遠は上の空だ。

 

「こら久遠! 何をそんな辛気臭い顔をしているのよ!

 同朋衆が目の前で死んで落ち込みたくなる気持ちは分かるけど、

 起こってしまった事は仕方がないじゃないの」

 

「う、うむ……それは分かっている。 だがな……だが拾阿弥は、良い奴であった」

 

「え?」

 

結菜は心底意外そうな顔で久遠を覗き込んだ。

 

「良い奴……だったの?」

 

そう言いながら結菜は久遠に対し、それはひょっとしてギャグで言っているのかとでも言いたそうな視線を浴びせた。

 

「結菜も何度か顔を合わせていようが。

 良く気が利き、忍耐強く、謙虚で、いつも笑顔が眩しく……」

 

「犬子の話?」

 

「拾阿弥に決まっておろうが!」

 

「え?」

 

「……何やら、話がかみ合っておらぬな。 まあ良い、まず助命嘆願書を読むとしよう」

 

久遠は壬月の書いた嘆願書を開く。

 

『前田犬子利家は幼少の頃より才気に溢れ、勤勉かつ勇猛である。

 次代の織田家を支える柱石となりうる人材といえる。

 城内での抜刀、主君の眼前での刃傷沙汰は重罪なれど、

 たった一度の過ちでその命を絶つというのはあまりにも惜しい。

 聞くところによれば拾阿弥が犬子を挑発したのを見たという者もおり、

 犬子にのみ落ち度があるとは断言できぬ所。

 この権六めが責任をもって犬子を監督し、立派に更生させるので、格別の慈悲を願う。

 もし助命が叶えば、犬子は自らの犯した罪を恥じ、

 織田久遠信長から受けた恩義に報いんがため、これまで以上に忠勤に努めるだろう』

 

……おおむねこういう内容であった。

 

続いて久遠は、桐琴が書いた嘆願書を開く。

 

『棄てるならくれ』

 

……原文ママである。

 

結菜は思った、犬子を犬猫か何かと勘違いしてるのではなかろうかと。

久遠は思った、犬子を森一家にブチ込むくらいなら、いっそ切腹させた方が楽なのではなかろうかと。

 

「しかし……拾阿弥が犬子を挑発か……俄かには信じられぬ話だが……」

 

「それはひょっとして冗談で言っているのかしら?」

 

「さっきからどういう意味だっ!?」

 

「強いて言うなら久遠の目が節穴だって事かしら。

 あの拾阿弥って娘、評判良くなかったわよ」

 

「な、なんだとぉっ!?」

 

「なんだとって気づいてなかったの!?」

 

……今度は久遠の方が心底不思議そうな顔になった。

 

「え、何……? 冗談でも何でもなく素で気づかなかったの?

 あの娘の評判最悪だったわよ。

 洒落じゃ済まない悪戯も何度かあったし、口は悪いし、

 何で久遠に重用されているのか全く分からないって言ってた人とか、

 尾張の結束を乱すために送られてきた今川の間者だって言う人も多くて……」

 

「いや、その話ならば我も何度か聞いている。

 いずれも根も葉もない噂話、根拠の無い中傷であったと調べがついているぞ」

 

「どうやって調べたの?」

 

「本人から話を聞いた」

 

「誰が?」

 

「我が直々にだ」

 

「他は?」

 

「十分であろう」

 

「その後どうしたの?」

 

「うむ、濫りに流言を放ったとして謹慎、あるいは降格処分にだな……」

 

結菜は久遠の人望の無さの原因の一端を悟った。

久遠は博役を切腹させる程に追い込んでしまった事、妹殺しをしてしまった事を何度も何度も……何度も何度も何度も何度も悔やんで嘆いていたが、実は身から出た錆なのではなかろうかと思い始めた。

 

「久遠、そこに座って」

 

「さっきから座っておろうに」

 

「正座よ! せ・い・ざぁっ!」

 

「お、おう……」

 

あまりの気迫に、久遠は慌てて姿勢を正す。

 

「部下の忍耐強さを鍛えるためにあえて用いているだとか、

 殺す予定の味方の接客を拾阿弥に担当させて、謀反を誘発させているとか、

 そういう風に思っている人がいる事は知っていたの?」

 

「そんな事がっ!?」

 

なお、前者は麦穂、後者は他ならぬ結菜である。

美濃の蝮と呼ばれ、息をするよりも気安く謀反を行う悪女に育てられた少女の脳内は、中々に剣呑であった。

 

「家中で犬子よくやったとか、スカッとしたとか、

 犬子が斬ってなければ自分が斬っていたとか言ってる人がいる事は?」

 

「そこまでなのかっ!?」

 

最初のは和奏、二番目は桐琴、三番目は壬月である。

正直な所、拾阿弥の死を悼んでいるのは久遠と雛くらいである。

 

ちなみに織田家で最も……下手をしたら日本一怒りの沸点が低い幼女、森勝蔵(後の森小夜叉長可)曰く『拾阿弥って誰だ?』である。

遭遇したら確実に血の雨が降ると察した桐琴が、清州城に近づけないようにしていたのだ。

桐琴自身も、拾阿弥と顔を合わせると殺意を抑えるのが大変なので、よっぽど重大な用事がある時以外は清州に近づかないようにしていた。

 

「おいちょっと待て! いくら結菜の言葉でも俄かには信じがたいぞ!

 拾阿弥は我が元服する前から長く助けてくれた得難い臣である」

 

その辺の事情を久遠が全く気付いていなかった事に対し、結菜は眩暈を覚えた。

ここは一つきつめに脅しておこうかと考え……

 

「久遠、犬子を切腹させたら謀反が起きるわよ……

 いえ、むしろ私が先頭に立って謀反を起こすわ。

 敵は清洲城にあり! とでも叫びながら焼き討ちね」

 

にこやかに笑いながらそう言い放った。

蝮と呼ばれた悪女に育てられた少女の脳内は、笑える程に剣呑である。

 

ただし何度も何度も謀反をおこされ、年中謀反の心配をしている久遠にとっては全く笑えない発言だ。

 

「お、おい結菜……流石に冗談……」

 

「輿入れの時に持ってきた薙刀、どこに仕舞ったかしら?」

 

「うむ分かった、切腹は無しという事にしよう」

 

結菜の迫力に圧され、とうとう久遠は白旗を上げた。

と言っても、元より一度身内と認めた者にはひたすら甘い久遠の事だ、結菜や壬月からの説得が無かったとしても、犬子を切腹させる気は無かった。

 

「とは言え……清洲城内での抜刀、我の眼前での人斬り、いずれも決して軽いものではない。

 知行は全て没収、無期限の出仕停止が妥当であろうが……」

 

「もう一声、槍の又左衛門の勇猛さは来る今川との戦で必ず役に立つ、

 そう言っていたのはどこの誰だったかしら?」

 

「分かっている、追放しては今川との戦で使えぬ。

 であれば……知行を以前の50貫に戻し、赤母衣衆からも外す事にするか」

 

「まあその辺りが落とし所じゃないかしら。

 自らが犯した罪は、自らの槍働きで雪いで貰いましょう」

 

「デアルナ」

 

ふと気がつけば、肩の力が抜けていた。

ふと気がつけば、両肩の重荷が消えていた。

ずぅ~んと重苦しい気分が軽くなっていた。

 

拾阿弥の死を悼む気持ちは無論あるが……それと同じ位、犬子を喪いたくないと思っていたのだ。

 

自分は案外、簡単な事で思い悩んでいたのだなと久遠は思った。

そんな性格だったから拾阿弥は図に乗ったのだが、久遠がそれに気づくのはもう少し後の事だ。

 

いずれにせよ拾阿弥の過去の悪行や、今回犬子があれ程までに激高した経緯に関しては、第三者の手を借りながら再調査すべきか……そう結論づけ、久遠は俯き気味であった顔を上げる。

 

「誰かあるっ!」

 

久遠は人を呼ぶ。

たった今決まった処分を犬子に伝えるために……そしてドタドタと迫力のある足音が自分の部屋に向かってくるのを聞いた。

 

「……無性に嫌な予感がしてきた」

 

久遠は直感的に身構えていた。

また突然の不幸がやってきたのではなかろうかと……

 

「殿ぉ! 一大事にございます!

 離れにて謹慎していた前田犬子利家殿が……犬子殿がどこにもおられませぬっ!!」

 

久遠は心の中で叫んだ『どうしてこうなった!』と。

そしてこの瞬間、久遠の胃薬のサービス残業が決定した。

 

全部九十郎が悪い。

 

……

 

…………

 

………………

 

逐電逃亡は、驚く程にあっさりと上手くいった。

久遠は正直犬子に厳罰を下す気は無かったため、逃走に失敗していた方が犬子にとっても、九十郎にとっても、久遠にとっても幸せだったかもしれないが、とにかく2人は無事に逃げおおせた。

 

平素から仕事の合間にセコセコと逃走経路を調べ、いざという時のためにへそくりを貯め、変装道具にギリースーツ、保存食を用意していた九十郎の努力と執念の勝利と言えよう。

この男無駄に高性能である、無駄に。

 

九十郎に手を引かれ、徐々に遠く小さくなっていく清洲城を振り返り、犬子は思う。

九十郎を好きになったのはいつからだろうかと。

 

子供の頃、自分は天下無敵だと思っていた。

荒子の里に犬千代に勝てる者は居なかった。

同年代の子供達はもちろん、大人達も犬千代の敵では無かった。

 

小さな子供の、小さな小さな天の下で、これ以上無い程に増長しきっていた犬千代に冷や水を浴びせたのが九十郎だった。

 

自分は最強無敵で、誰にでも勝てると思って挑み、いとも容易く叩き伏せられた。

何度挑んでも勝てなかった、何度挑んでも跳ね返された。

なにを負けるか、負けっぱなしでいられるか……あの頃の犬千代は、ただそれだけで九十郎の傍に居た。

 

それがいつからか……

 

「ん……あれ……ちょっと待てよ、何で俺は犬子を助けたんだ……?」

 

犬子がそんな事を考えていた頃、九十郎はハタと気づいた。

もう犬子が……前田利家が織田の下で出世する可能性は0なのではと。

自分の安寧な生活を確保するためには、むしろ犬子から離れて他の重臣達、最悪でもひよ子辺りに媚を売った方がよっぽど早いのではと。

 

この男、凄まじいまでのクズ、しかも短絡的で考え足らずであった。

 

「ねぇ、九十郎」

 

ドドメ色の未来予想図に戦々恐々としている時、手を引かれて走る犬子が九十郎に声を掛ける。

 

九十郎に返事をする精神的余裕は無かったが、犬子は構わず話を続ける。

 

「もう……もう、しょうがないよね……? 好きになっても良いよね?

 これだけ色々してもらって、何度も助けて貰って、

 沢山沢山受け取って、もう好きになってもしょうがないよね。

 好きにならなくちゃ、おかしいよね……? 好きに……なっても……良いよね?」

 

興味ねぇよ! 好きにしろよ! 一瞬そう言いそうになったが、九十郎はギリギリで堪えた。

 

ここでキッパリと興味が無いと叫んでいたら、犬子と九十郎は今回が最終回になっていた事だろう。

それが九十郎にとって幸せな事かどうかは不明だが、犬子の方には間違いなくより幸せな未来が待っていた事だろう。

 

「犬子が誰を好きになっても、誰を嫌っても構わんよ。 俺が口出しする事じゃない」

 

正直言って興味無いからな……と、九十郎は心の中で付け加えた。

今の九十郎はそれどころでは無かった。

 

「好きだよ、九十郎。 犬子は……前田犬子利家は、九十郎が大好きだよ」

 

「そうか、ありがとな」

 

九十郎は適当に返事をした。

そして5秒後には犬子の言葉を忘却の彼方に追いやった。

この男は乙女の純情を何だと思っているのであろうか。

 

九十郎は気づかなかった。

犬子が言う『好き』が『LIKE』はななく『LOVE』の方である事を。

 

これからどう動くのかを考えるので一杯一杯で、犬子の表情を見る余裕が無かったし、この男は心のどこかで、あの前田利家が自分のようなクズに惚れる訳が無いと思い込んでいた。

 

九十郎が犬子の想いを正しく理解するのも、九十郎が犬子に愛情を抱くのも、それを自覚するのも……もう少しだけ後の話だ。

 


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