「小波、疲れてない? ちょっと休んでからでも良いんじゃないかな……」
剣丞達が一二三の一夜城への攻撃を開始して少し経った頃、姫野は小波にそう尋ねた。
「……うん? 御主人様が戦っているというのに、休んでいる暇など無いだろう」
小波は怪訝な表情をしていた。
まだ戦は始まったばかりで、休憩をとらなければならない程、疲労は蓄積されていない。
当然、それは姫野にとっても分かり切っていた事である。
しかし、姫野が小波に休憩を持ちかけたのはこれが初めての事ではない。
「で、でもさ、小波はこの作戦の要だし、体調は万全にしておいた方が……」
姫野は言葉を濁していた。
最後まで言い切る事ができなかった。
自分の言葉が白々しい建前の産物に過ぎないと理解していた。
「要だからこそ、急がなくてはいけない。
姫野? さっきからおかしいぞ、どうしたんだ?」
「あ、うん……な、なんでもねーし……」
姫野は……姫野は、本心では小波を殺したくないのだ。
だがしかし、姫野は既に命を受けている。
小波は殺さなければならない。
信虎との戦いのどさくさに紛れ、小波に知らせていない罠におびき寄せて殺さなければならない。
故に姫野は心の中で、信虎と遭遇する事無く戦が終わってくれればと祈ってしまうのだ。
「なんでこんな時だけ、姫野の事忘れねーし」
「忘れる……? 誰が、何をだ?」
「お前が、姫野の事、今まで散々忘れてるし」
「……忘れるも何も、今日が初対面だろう」
小波が先程以上に怪訝な顔をして、首を傾げた。
姫野は一瞬言い返そうとして……やめた。
これ以上こんな他愛も無いやり取りと続けてしまえば、今よりももっともっと殺し難くなってしまいそうだったからだ。
そんな微妙な空気の中で……
「うぐっ!?」
突然、小波が呻き声を漏らし、足を止めた。
「小波!? どうしたし!?」
急に立ち止まった小波を心配し、殺害すべき相手だというのに姫野が駆け寄る。
「は、始まった……か……」
まるで脳髄の一部が直接掴まれたかのような不快な感覚が小波を襲う。
その感覚は、かつて一度……菩薩掌を信虎に投げ返された時に味わっていた。
つまり……
「姫野、句伝無量を掌握された。
つまり、まぐなむ・しゅうとの射程内に入った……本物の信虎が来るぞ」
御家流を掴まれた瞬間から、小波には本物の信虎の位置が直感的に把握できるようになった。
しかし同時に、自分がいる位置もまた、本物の信虎に悟られたと感じていた。
本物の信虎が自分を追い詰め、トドメを刺すべく動き出した事も理解した。
ここまで全て詩乃の予想通りに動いていた。
ここまで全て朧の想定通りに動いていた。
故に……
「八咫烏が伏せている場所まで、信虎を誘い出さなければ……」
「そして罠にハメて……殺す……こ、殺さなきゃ……」
故に小波は、姫野は、あらかじめ決められた作戦通りに事を進めなければならない。
小波は本物の信虎を倒し、愛する主人、新田剣丞に勝利を献上するために。
姫野は小波を殺し、新田剣丞を殺すために。
「うん? 殺せとまでは命じられていないぞ。
今回はあくまで後継者を決めるための戦であってだな……」
「ああ、そうだったし! わ、忘れてたし!」
「こんな重要な事を忘れるなんて、大丈夫なのか?」
「小波にだけは言われたくねーし」
そんな軽口を叩く。
泣きそうな顔になるのを、必死でこらえる。
そして小波と姫野は信虎の部隊を誘き出すために移動を開始した。
離れすぎて信虎が追跡を諦めないように、近づきすぎて信虎の手勢に捕らえられないように……
……
…………
………………
「全員駆け足! これより我らは服部半蔵正成を捕らえる!
奴らの生命線は口伝無量だ!
口伝無量さえ抑えれば、残りの連中などカスにも等しい!
ここが戦の勝敗を分ける要と心得えいっ!!」
九十郎とのテレパシーでの会話を終えると、信虎は喉が裂けんばかりに叫び、
信虎が率いる部隊……越後の精鋭中の精鋭、第七騎兵団が動き始める。
「さて……問題は第七騎兵団の速さが、服部半蔵の予想を上回るか否かだな……」
信虎がそう呟くと、自らも部隊と共に走り出す。
信虎が口伝無量を掌握している間は、他の御家流を掴む事、投げ返す事はできない。
その代わり、小波は口伝無量を使う事ができず、
小波は信虎の、信虎は小波の現在位置が正確に把握できるようになる。
基本的に逃げ隠れしながら戦う忍者にとって、非常に不利な状況である。
「(こちらは半蔵一人捕らえれば良く、しかも相手は我の位置は知れても、
我の手勢の位置は分からぬ……しかし、我らは奇襲伏兵を警戒しながら追わねばならぬ。
状況は五分と言わざるを得んな、 我と半蔵の度胸勝負と言った所か……)」
信虎が冷静に状況を分析する。
越後の精鋭中の精鋭、第七騎兵団を自由に動かせるとはいえ、御家流の掌握によって相手の位置を把握できるとはいえ、超一流の忍者である服部半蔵正成を補足する事は困難極まりない。
しかも……
「ぎゃあぁ!」
「うわらば!」
「ひぎぃ~~っ!!」
しかも風魔忍軍が何日もかけて仕込んだ罠によって、1人、また1人と脱落者が増えていく。
第七騎兵団は越後の精鋭中の精鋭、そう簡単には補充がきかない。
そして信虎にとって、第七騎兵団は晴信を殺すために絶対必要な力であるが故に、この戦いで大きく損耗するのは避けたい所である。
「……ちっ、また伏兵か。 ドライゼを使えれば皆殺しにするのも簡単だと言うのに」
そして土の中、水の中、茂みの中から黒装束の者が現れ、第七騎兵団に斬りかかってくる。
少数とはいえ、いつ、どこから出てくるか分からない奇襲の連続に、自然と追走の足が遅くなっていく。
さらに今回、第七騎兵団はドライゼ銃を持ってきていない。
武田や北条の者が多数参加しているこの戦いでドライゼの性能を見せてしまえば、まず間違い無く武田や北条が対策を立ててしまうからだ。
「さて、どうするか……九十郎からは深追いはするなと言われているが……」
信虎の頭に3つの選択肢が浮かぶ。
1つ目は全速力で服部半蔵を追う事。
2つ目は罠や奇襲に警戒するために速度を落とし、服部半蔵を追う事。
3つ目は半蔵を追うのを諦める事だ。
信虎は即座に2つ目の選択肢を頭の中から排除する。
伊賀忍者の中でも特に優れていると聞く服部半蔵相手に、中途半端な攻撃は悪手であるからだ。
全力で追うか、諦めて引き上げるか……信虎は2つの選択肢の狭間にしばし迷う……が……
「惚れた男には、恰好良い姿を見せたいよなぁっ!!」
信虎はさらに足を速めて半蔵を追いかける。
第七騎兵団もまた、全速力で信虎の後に続く。
服部半蔵は必ず、惚れた男、新田剣丞が少しでも有利に戦を進められるよう、自分を討つ事に固執する筈だ。
必ず、必ず、隙を見せる筈だ……信虎はそれに賭け、決断したのだ。
「速いっ!? 罠は……作動しているのに!? 思ったより足止めができてない!?」
そんな信虎と第七騎兵団の姿に、姫野が動揺する。
罠と奇襲で足止めをしながら、八咫烏隊と森一家が伏せている場所まで誘導する事が、詩乃の策であり、小波と姫野の課せられた任務である。
しかし、第七騎兵団の速さは姫野の段取りを崩す程のものであった。
「手空きの風魔忍軍を集めてるけど、あいつらの速さじゃ間に合わねーかもだし!」
「だったら走るしか無いだろう!」
「そりゃそうだけど、ちょっとは焦るし!」
「なんでも良いから走れ!」
「はいはいっ!!」
姫野と小波もまた、足を速める。
姫野も小波も一流の忍者であるが、第七騎兵団は越後の精鋭中の精鋭だ。
体力も運動能力も凡庸とはかけ離れている。
地形や罠を利用してどうにか凌いでいるが、たった2人での逃走劇はそう長くは続かない。
うだるような蒸し暑さもまた、姫野と小波の体力を容赦無く削り取っていた。
少しずつ、少しずつ、小波達と第七騎兵団の距離が縮まっていた。
「うおおぉっ!!」
「邪魔をするなっ!!」
ついに第七騎兵団の1人が小波に追いつき、小波に斬りかかった。
小波が咄嗟に忍刀を抜き、迎撃する。
相手がそこらの雑兵であれば、切り捨てるのは容易い、しかし……
「踏み込みが足りん!」
小波に追いついた男は、刀でそれを受け止めていた。
「くっ、う……」
そのまま唾競り合いに持ち込まれる。
こうしている間にも他の第七騎兵団が次々と集まって……
「小波、何やってるし!」
「ぐぉっ……」
姫野が小波を襲った男を背後から切り捨て、蹴り倒す。
「す、すまない……えっと……」
「姫野だしっ! また忘れて……ああもう、とにかく走るし!」
姫野が小波の手を引き走る。
走る、走る、走る、ひたすら走り続ける。
「(な、なんだ……私は……?)」
全速力で走りながら、小波は自身の心中に奇妙な違和感を覚えていた。
「(私は……この手を知っている……? この手の感触を、暖かさを……知っている……?)」
小波は姫野の手を握りながら、何故かそんな事を考えていた。
理由がまるで説明できない、奇妙な安らぎを感じていた。
「撃てえええぇぇぇーーーっ!!」
「全員伏せろおおおぉぉぉーーーっ!!」
雀と信虎の叫び声が同時に聞こえて来た。
直後……ズドドドドッ!! という鉄砲が連射される音、銃弾が飛び交う音、断末魔の叫び声がそこら中から聞こえて来た。
「よっしゃあっ!! かくれんぼはここまでだ! 行っくぜぇっ!!」
茂みの奥よりフルプレートアーマーの小夜叉が飛び出し、
ほぼ同時に森一家がヒャッハーと叫びながら第七騎兵団へ突撃していた。
八咫烏隊によって銃弾を浴びせられ、手加減なんて器用な真似はせきない森一家に襲われ、
第七騎兵団が次々とあの世へ送られていく。
「ええいっ! 小癪な真似を……狼狽えるな! 隊列を整え迎撃しろっ!!」
全速力で小波を追いかけていたため、第七騎兵団の戦列は伸びている。
越後の精鋭を集めたと言っても、その状況で森一家の勢いに対抗する事は難しく、第七騎兵団の隊列が大きく拉げた。
「……勝機」
その瞬間を、小波は見逃さない。
信虎を守る兵が大きく減っていた。
今ならば護衛をすり抜け、信虎本人を叩けると考えた。
時間が経てばまだこの場に来ていない兵が合流してしまい、体勢を立て直してしまうかもしれないが……今ならばきっと、信虎を討てると考えた。
そうすればきっと、新田剣丞の役に立てると……そう考えて、小波は最後の力を振り絞って近くの木に体重をかけ、しならせ、トランポリンのように利用して跳躍した。
が……しかし……
「焦れたな半蔵……死ねっ!!」
瞬間、信虎がにやりと笑った。
瞬間、小波は周囲がスローモーションのようになったかのように感じた。
あまりにも明確で濃密な死の気配が、小波の脳髄に緊急事態を訴えかけた。
思考が、そして感覚がどこまでのどこまでも間延びしていく。
殺意に満ちた血走った目で、信虎が懐から小さな金属製の機械を取り出していた。
それは九十郎が造り、護身用にと信虎に渡した回転式拳銃……俗に言うリボルバー銃であった。
服の下に仕込める程の大きさで、6発までリロード無しで連発可能な銃こそが、信虎が隠し持っていた切り札なのだ。
「(あれは……鉄砲……?)」
当然、戦国時代生まれの服部半蔵は、リボルバーの存在を知らない。
想像すらした事が無い。
しかし小波は、長年の経験と勘により、信虎が取り出した奇妙な機械が小さな小さな銃だと判断した。
信虎が銃を構え、自分を狙っていると判断した。
ズドンッ! と火薬が破裂する音が響く。
「くぅっ!」
小波が空中で身体を捻り、急所を庇う。
放たれた銃弾が小波の左腕の皮と肉を何cmか抉り取り、鮮血を纏い近くの巨木にめり込んだ。
直後、小波が大きく体勢を崩し、地面に転がり込むように着地する。
肝が冷えたが、軽傷だ……小波がほっと胸を撫で下ろした次の瞬間、小波をさらにさらに驚愕させる出来事が起きた。
ズドンッ! と火薬が破裂する音が響く。
信虎は銃弾と火薬を詰め直した形跡は無いし、別の銃に持ち替えた様子も無い。
にも拘わらず、信虎は再び引き金を引き、銃弾を発射したのだ。
リボルバーを知っている者にとっては当然予想すべき状況である、しかし、鉄砲は1発撃つ度に弾丸と火薬を詰め直さなければ撃てない……そんな常識に染まった小波にとっては、予想すらできない異様な状況であった。
「あぐっ!?」
既に大きく体勢を崩していた事もあり、回避は出来なかった。
小波の右肩が大きく抉られ、間接を貫かれ、周囲に鮮血が飛び散る。
今すぐ治療をしなければ失血死しかねない重傷だ。
銃弾の熱が肉と神経を焼き、衝撃が全身を波打たせ、今まで味わった事の無い凄まじい激痛が小波を襲った。
激痛と一気に血を失ったショックで気絶しそうになるのを、小波はギリギリで堪えた。
そして……ズドンッ! と火薬が破裂する音が響く。
信虎が小波を狙い、3度引き金を引いたのだ。
「(あ……避けられない……死ぬ……)」
瞬間、小波は自らの死を悟った。
優れた動体視力を持つが故に、百戦錬磨と言って良い経験があったが故に、放たれた銃弾が真っすぐ自分の脳天に向かって飛んできている事が理解できた。
2発目の銃弾は、信虎が拳銃の扱いに慣れていなかったが故に、右肩に当たるだけですんだ。
だがしかし、3発目の銃弾は正確に小波の急所に向かっていた。
「(剣丞様……)」
小波は心の中で愛する人の名前を呼び、ぎゅっと目を閉じ……
「小波ぃっ!!」
姫野が小波を庇った。
小波を狙った銃弾は、間に割って入った姫野の心臓を貫いた。
「ご……はっ……」
姫野の胸に空いた銃創から、夥しい量の血が噴き出す。
致命傷だ、間違いなく心臓に当たった……小波にはそれが分かった、理解してしまった。
「え……あ……?」
小波の心の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。
思い出してはいけない、忘れなければならない、名前を呼んではいけないと訴えていた、
「ひ……め……」
小波は目の前の人物を……たった今自分を庇い、心臓に銃弾をブチ込まれた少女の事を瞬時に忘れた。
名前を忘れ、顔を忘れ、存在を忘れた……小波の魂に刻まれ、小波の精神を操作し、
小波の記憶を消し、小波の魂を歪め続けている伊賀忍者に伝わる秘奥義が発現した。
だがしかし、小波の眼からは涙が溢れていた。
小波の心は悲しみで一杯になっていた。
小波の口がその意思と無関係に動き、目の前の人物の名前を呼ぶ……
「姫野ぉっ!!」
悲痛な叫びであった。
悲しみに満ちた痛々しい叫び声であった。
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、信虎は総毛立った。
寒気がして悪寒がした。
「馬鹿な……口伝無量が……!?」
直後、信虎の御家流『マグナム・シュート』で掌握し、封じていた筈の口伝無量の声を聞いた。
『消えてなくなれ』
怨念そのものを声にしたかのような、身の毛のよだつ声であった。
『消えろ』『消えてなくなれ』『みんないなくなれ』『よくもよくもよくも』
『消してやる』『全部消してやる』『全て無くなってしまえ』『おのれおのれおのれ』
『消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ』
憎悪と怨念に満ちた声が、第七兵団や風魔忍軍、八咫烏隊……いや、越後近辺に存在するありとあらゆる生物の魂に直接叩き込まれる。
そして今度は信虎だけでなく、その場にいたありとあらゆる者が恐怖した。
「お、お姉ちゃん、あ……あれ……」
「……っ!?」
「おいおいおいおい! なんだよ、ありゃあ!?」
「あ、あれ……あれも小波お姉ちゃんの御家流なの……?」
山吹色に輝く超常の腕が空に浮かんでいる。
それは小波のもう1つの御家流『妙見菩薩掌』の腕……それが100も200も空に浮かび、しかもその数は際限無く増え続けていた。
「消えろ……消えろ……みんな消えろ……消えて無くなれ……」
小波がぶつぶつと呟きながら、菩薩掌の腕を次から次へと増やしていく。
かつて小波は姫野を見捨てた。
姫野が自分を助けるために醜悪な怪物の前に躍り出たのに、自分は隅っこでガタガタと震える事しかできなかった。
その時、小波が魂を歪める程に強く強く望んだ物が2つあった。
1つはどこまでも遠くに届く声、
日ノ本のどこかで生きているかもしれない姫野にまで届く声……口伝無量。
もう1つは両親を無残に喰い殺し、姫野と生き別れになる原因を作った怪物と、ガタガタと震えて姫野を見捨てた自分自身を殴る為の腕……妙見菩薩掌である。
そして口伝無量と妙見菩薩掌が、姫野の死を切欠に暴走を始めていた。
憎悪と怨念を無差別に垂れ流す口伝無量の声と、憎悪を怨念を纏いながら際限なく増え続ける菩薩掌の腕がその証である。
「いかんっ! 全員散解しろっ! 我1人では庇いきれんぞっ!!」
「み、みんな逃げてえええぇぇぇーーーっ!!」
信虎と雀が同時に叫ぶ。
第七騎兵団が、八咫烏隊が、風魔忍軍が、そして驚くべき事にヒャッハーと叫びながら制圧前進しかできない筈の森一家すらもが、各々逃げ隠れを開始する。
想いは皆同じ……巻き込まれたら死ぬ、である。
「消ぃ・えぇ・ろおおおおおぉぉぉぉぉーーーーーっ!!!」
ドス黒い殺意に満ちた叫びが物理的に、それと同時に口伝無量によるテレパシーによって周囲に伝わる。
金色に輝く菩薩掌が、小波の憎悪に反応するかのように輝く。
そして無数の菩薩掌が落下してきた。
「ぎゃあぁっ!!」
「うわぁあぁっ!!」
「た、助け……うがあぁつ!!」
「踏み込みが足りん!」
第七騎兵団が、八咫烏が、そして森一家が、無差別に落下する菩薩掌に文字通り叩き潰され、
見るも無残な轢死体へと変わっていった。
血飛沫が飛び散り、脳漿がまき散らされ、骨と内臓がバラバラになって撒かれる、地獄絵図のような光景になった。
「ぐうおぉっ!? な、何だこれは!?
我の御家流が菩薩掌を掌握しているというのに、何故止まらない!?
御家流は1人1つの筈だぞ! 何故こいつは口伝無量以外の御家流を使える!?」
信虎も黙って見ているだけではない。
必死になって逃げ回りながら無数に降り注ぐ菩薩掌の1つを掴み、小波に投げつけ、逃げ回りながら菩薩掌の1つを掴み、小波に投げつける。
しかし、まるでバリアでも張っているかのように、投げ返した菩薩掌は空中で軌道が逸れ、どこか別の場所へと着弾する。
信虎は何度も何度も菩薩掌を投げ返したが、小波と小波が抱きすくめる姫野にはカスリ傷一つつかなかった。
「ええい! 伊賀忍者の頭領は化け物かっ!?」
信虎が思わず悪態をつく。
御家流を使えば気力が消耗し、疲弊し、限界を越えれば気絶する……しかし、暴走した小波はそんな常識すら無視しているかのように、菩薩掌を際限無く連発し続けている。
「ならばっ!!」
信虎が先程姫野を撃ったリボルバーを再び取り出し、構え、銃弾を発射した。
八咫烏隊もまた、暴走する小波を止めるために銃撃を始める。
だがしかし、それら全ては空中で不自然に軌道が曲がり、あらぬ方向へ逸れてしまった。
「駄目か……駄目なのか……」
このままでは全滅する、逃げる事すらできない……信虎の心に絶望が包み始める。
「お、お姉ちゃん……」
「………………」
次々と菩薩掌に潰され、挽肉のようになって死んでいく同胞達を前に、烏と雀もまた、絶望の淵に立たされていた。
雨のように無尽蔵に降り注ぐ菩薩掌の前には、誰もが無力であった。
そんな中で……ぱんっ! と、小さな音が辺りに響いた。
菩薩掌で潰される人の断末魔、ヘシ折れる木々、そして銃声に比べれば小さな小さな音であったが、小波の耳にはやけに大きく響いた。
それは何者かが小波の右の頬を引っぱたいた音であった。
「小波、何やってるし」
気がつけば心臓を撃ち抜かれた筈の姫野から、心音が聞こえるようになっていた。
血色が戻り、冷えていく体温も戻り、閉じていた瞳が開いていた。
「ひ……めの……?」
「そうそう、姫野だし。 珍しく忘れてないみたいだし」
もう二度と目覚めないと思った姫野が目覚め、もう二度と聞けないと思った姫野の声が聞こえていた。
「姫野には予備の心臓が埋め込まれてるし、
片方が無くなったらもう片方が動くから死にはしないし」
そう言って姫野はニコリと笑った。
小波は何故か、その笑顔を前にも見た事があるような気がした。
その笑顔を見ると、ドス黒く心を染め上げた憎悪と怨念が消えていくような気がした。
「あ……私……何をやって……」
空に浮かぶ1000を越える菩薩掌の腕が一瞬にして残らず消えた。
小波の心から憎悪や怨念が消え、御家流の暴走が止まったのだ。
「あ……えっと……」
そして御家流の暴走が止まるのと同時に……
「す、すみません、どなたですか?
何か……何か分かりませんが、初めて会ったのではないような……
すみません、上手く説明できないんですけど……」
……小波は再び、姫野を忘れた。
顔も、声も、名前も、完全に忘れ去った。
「全く……」
姫野はもう一度小波の頬を叩こうとして……やめた。
「全く、初対面でも何でもねーし。 いつもの小波でむしろ安心したし」
そして姫野は安堵のため息を漏らした。
周囲を見回すと、第七騎兵団も、八咫烏隊も、森一家も、1人たりとも無傷の者が無く、戦意を維持している者もまた1人もいなかった。
自分が生き残った事すらも信じられないといった様子であった。
「全く、酷い有様だし。 姫野が気絶してる間に何が起きたのやら……」
そんな時……周囲に伏せていた風魔忍軍が小波達の元へと集まってきた。
「来ちゃったか……まあ、第七騎兵団は戦闘不能だし。
そうなればやる事は……1つしか無いよね」
撃たれた心臓を抑え、ふらつきながら姫野が立ち上がる。
予備の心臓が動いているため、即死こそ免れているが、心臓を撃たれた傷は決して軽くない。
普段のように飛んだり跳ねたりするのは無理だと考えざるを得なかった。
「頭領、我等の任務は……」
風魔忍軍の1人が忍刀を抜いた。
それを合図に、他の忍び達も鎖鎌、短槍、手裏剣、鉄爪といった武器を構える。
「分かってる、分かっているし……
風魔忍軍に与えられた任務は何か、しっかりと覚えているし」
姫野もまた、近くに落ちていた刀を拾い上げて構えた。
限界を超えて御家流を使ったためか、小波は立ち上がる事すらできない程に疲弊していた。
手にした刀を振り下ろせば、簡単に斬れる……姫野にはそれが分かった。
それ故に、だからこそ……
「風魔忍軍の全ての者に告げる……
風魔小太郎はぁ! 今この瞬間をもってぇっ!! 抜け忍になったぁっ!!」
叫んだ、腹の底から叫んだ。
「小波を傷つけようとする者は! 誰であろうと姫野が許さねーしっ!!」
それは北条からの命に背く宣言であった。
風魔忍軍から決別し、小波の……服部半蔵の味方になるという宣言であった。
たぶん自分は風魔忍軍によってこの場で討たれるだろうと思ったが……姫野は清々しい気分になっていた。
「な、何を……?」
突然の抜け忍宣言を聞き、小波が目を白黒させる。
姫野に関する記憶を失った今の小波にとって、姫野は顔も名前も知らない誰かに他ならない。
それが突然、固い結束がウリの風魔忍軍を抜け、自分を守ると宣言したのだ。
小波の驚きと混乱は並々ならぬものであった。
「安心するし、これからは姫野が小波を守ってやるし」
混乱する小波に対し、姫野はもう一度笑いかけた。
そして先頭で忍刀を構える風魔忍者がゆっくりと姫野達の前に進み……
「ならば……私もまた抜け忍となりましょう」
そう言いながら振り返り、風魔忍軍へと立ちはだかった。
「だったら私も抜け忍だぁっ!!」
「おうよ! 頭領だけを死なせてたまるかっ!!」
そんな声がして、風魔忍者が1人、また1人と姫野の傍へ駆け寄って来た。
「抜け忍1人追加だっ!」
「俺も抜け忍びだ! 抜け忍になるぞ!」
「私も頭領について行きます!」
10人、20人と、姫野の側に立つ忍者がどんどん増えていき……
「あ、あはは……姫野って意外と……人望あったみたい……」
気がつけば、姫野と小波に武器を向ける風魔忍者は1人もいなくなっていた。