戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と柘榴と九十郎第85話『忘却と情愛のルーン』

シャー……シャー……と、砥石の上に刃物が滑る音がする。

 

一振りの刀を無言で研ぎ続ける少女がいた。

殺意と凶器が混じり合った、鬼気迫る表情であった。

 

……

 

…………

 

………………

 

「納得できませんわっ!!」

 

ある日の昼下がりの事、名月は後継者争いを中止しろと美空に詰め寄っていた。

 

「……まあ、そういう第一声が来るんじゃないかとは思ってたわ」

 

昨晩これでもかって位に九十郎とイチャつき、九十郎分を存分に摂取した美空は大して悪びれもせずに名月に応対している。

越後一……いや、日ノ本一のツッコミ名人である美空を動揺させるには、今の名月は迫力とか勢いとかが足りていないのだ。

 

「それで、名月は何が不満なのかしら?」

 

「決まってますわ! 今度の後継者争いの事です!

 お互いに人脈を辿って人を集めて決戦……いえ、それは良いのですけど、

 どうしてそれに美空様の結婚を結びつける必要があるのですのっ!?」

 

「女の意地よ」

 

ただ単に頭を空っぽにして突っ走った結果でもある。

 

「おかげで美空様に恩義を感じている方達が大挙して空さんの陣営に流れてますわ!

 あんな訳の分からない男に美空様を渡せるか~って!」

 

「それが不満?」

 

「不満に決まっていますわ!

 実力で挑んで負けるならともかく、こんな理由で負けるなんて!」

 

「不公平って言いたいの?」

 

「そうです! 不公平ですわ! 平等じゃありませんわ!」

 

「何を言ってるの、素でやってもそれはそれで不公平じゃない。

 元々ね、名月、貴女には実家の力……

 つまり北条の後ろ盾という大きな大きな強みがあるの。

 純粋に本人の資質と能力を競わせるのであれば、

 空の方に何かしらの下駄を履かせないと正直勝負にならないわ」

 

「うっ……」

 

痛い所を突かれ、名月が数秒硬直する。

美空がツッコミ……もとい指摘した通り、名月には北条の名やコネを利用した交渉術があり、財力もあり、人も動かせる。

使えば使う程北条の影響力が強まり、使い過ぎると北条の傀儡政権が成立する諸刃の剣であるが、後先考えなければ空を圧倒するのはそう難しい事では無いのだ。

 

それ故に並行世界の美空は、新田剣丞に空陣営の手助けを頼むのだが……それはまた別の話である。

 

「でも……だからって履かせ過ぎですわ! いくらなんでもこれは酷すぎですわ!

 最早下駄と呼ぶには高すぎで、竹馬ですわ! 竹馬っ!

 そもそも、どうして良く分からない自称天人とか、誑し免状がどうとか、

 そんな変な男に美空様を嫁がせなければならないのですか!?」

 

「ついでに九十郎に自信をつけさせたいと思って」

 

「どう見ても! どう考えても! 越後の後継者問題の方がついでですわっ!!」

 

「そんな事は無いわ、どっちも重要かつ喫緊の課題よ。

 やらないと北条は同盟切るって言ってるし」

 

「うぅ……そ、それは……」

 

名月も人伝手にではあるが、その話を聞いている。

自分の実家が美空に対して無理難題スレスレの要求を突き付けて来た事に、名月も思う所がある。

 

「それでも……それにしても!

 これで私が勝ちでもしたら、完全に悪者ではありませんか!」

 

「へえ、そのこころは?」

 

「美空様の嫁入りに反感を抱いている者がこぞって空の陣営に参加をしています!

 美空様が織田の天人の嫁にでもなれば、

 それは私が美空様を追い出すかのような形になりますわ!

 国中の者に反感を持たれて、とても国を纏められませんっ!!」

 

「じゃあ貴女が勝っても私が追い出される事にならない方法を教えるわ。

 それなら少しはやる気が出るかしら?」

 

美空はにこやかに笑ながら名月に告げる。

 

「……そんな方法があるのですの?」

 

「本当は自力で気づいてほしかったのだけどね」

 

「うぅ……ご、ごめんなさい……」

 

名月はついこの間まで幽閉同然の暮らしをしていたため、世間知らずな所がある。

 

名月は幼い頃に結ばれた武田・北条間の同盟締結と同時に、武田光璃晴信の養子にとなり甲斐に移住した。

 

だがしかし、名月は武田晴信を親と思った事は無いし、晴信も名月を娘と思った事は無い。

名月にとっても、晴信にとっても、2人の関係は人質以上のものではなく、会話らしい会話は『土蔵に戻れ』と『聖杯を破壊しろ』くらいしか無かった……と言うのは流石に嘘だが、とにかく親子らしい会話は一切無かった。

 

そして晴信は当然のように北条を裏切り、風魔忍軍の総力を結集した決死の救出作戦の末に小田原まで逃げのび、今度は長尾と同盟を結ぶので長尾景虎の養子になれと言われ……今に至る。

 

それ故に彼女は、他人の内心や思惑を読むのが苦手なのだ。

 

「名月、劣勢の中での戦いを全力で学びなさい。

 全身全霊で挑んでなお越えられるかどうか怪しい高い壁に挑みなさい。

 もし勝つ事ができたのなら、貴女を越後長尾家の時期当主とするわ。

 私は文句を言わないし、誰にも文句は言わせない」

 

美空が名月にそう告げる。

期待していると……そう告げられているのが分かった。

 

「は、はいっ!!」

 

名月は自然と意気が高揚し、身体に力が張っていくのが分かった。

期待されている、娘として期待されている。

ただそれだけの事が名月には何よりも嬉しいのだ。

 

「そしてもう一つ、私が追い出されない方法、

 貴女が針の筵に座らずに越後長尾家次期党首をやる方法だけど……」

 

美空は妖しい笑みを浮かべ、名月の耳元に口を近づけ……囁く。

 

 

 

 

 

「要は戦いが終わった時に、新田剣丞が死んでいれば良いのよ」

 

 

 

 

 

その声には、確かな殺意が宿っていた。

良さげな話が一気に台無しである。

 

「私に……私に味方を討てというのですの?」

 

「事故を装って殺しなさい、鬼の仕業に見えるような殺し方ならなお良いわ。

 名月は知っているかしら? 事故を装って味方を殺すのって、案外簡単なのよ。

 貴女が思っている以上に、とてもとても簡単なの」

 

名月は思った、聞きたくなかったそんな話をと。

美空はそんな名月の表情の変化を感じ取り、やっぱりまだ当主の座は重いかなと考えた。

 

美空とて戦国時代の人間だ、無能過ぎて手にを得ない場合や、謀反を企んでいるのは分かっているが証拠が掴めない場合等に、やむなく味方殺しに手を染めた事がある。

片手で数えられる回数ではあるが……美空は確かに、味方殺しの経験があるのだ。

 

そして今、名月にそれをやれと命じているのだ。

 

「でも……でも、もし失敗したら……」

 

「今の言葉、本気で言っているのなら私は貴女を見限るわ。

 失敗を怖がって何もできない大将がどこにいるのよ」

 

「しかし織田との関係は!?」

 

「最悪の場合切り捨てるわ、剣丞の首と一緒に絶縁状を送り付けてしまうわ。

 貴公の首は柱にでも吊るされるのがお似合いだってね」

 

織田との戦争不可避である。

 

「公方様もおられるのですよ」

 

「あんな奴もう親友でも何でもないわっ!! ついでに殺しておきたいくらいよっ!!」

 

「えぇ……つ、ついでに公方様まで殺すんですの……?」

 

名月の信じられないと言いたげな視線を前に、美空がはっと我に返る。

 

そして今までの一葉との交流とか、双葉との文通とかを思い出し、思い出し……

 

「……前言撤回するわ、新田剣丞以外は可能な限り死なないように動きなさい。

 特に公方様は」

 

でっかい溜息と共に、美空は前言を撤回する。

 

しかし、難易度はさらにハネ上がった。

圧倒的に不利な戦で勝利しつつ、新田剣丞を事故を装って殺し、剣丞と四六時中ベッタリな一葉は殺さない……ここまで来ると諸葛孔明でもキツイ条件である。

 

「あの、私の記憶が確かでしたら、

 あの人って九十郎さんが土下座までして殺さないでくれと……」

 

「ええ、してたわね」

 

「……良いのですの?」

 

名月が再び美空に尋ねる……殺しても良いのかと。

今度の質問の意図は実利の話では無く、心情の話である。

 

「昨晩、もう一回詳しく話を聞いたのよ。

 新田剣丞は日ノ本から鬼を追い出す要になるかもしれない……

 だから殺してほしくない、という事なのよ」

 

「……なんだか胡散臭い話ですわね」

 

「奇遇ね、私も同じ事を考えたわ。 そして私は考えた……

 名月をけしかけた程度で死ぬような男に日ノ本の要が務まる筈が無いし、

 私の夫が務まる訳も無いってね」

 

酷い理屈である。

 

「確実に、確実に息の根を止めるつもりで動きなさい、名月。

 万が一貴女が剣丞の抹殺に失敗して、

 しかも下駄を履かせまくった空に勝利するような奇跡が起きたら、

 私もその時は諦めて剣丞の妻になるわ。

 貴女もその時は針の筵に座る覚悟で次期党首をやりなさい」

 

「うわぁ……」

 

美空と名月の脳裏に、最悪の未来予想図が浮かぶ。

たった今脳裏に浮かんだ最悪の未来を実現させてはならないと……美空も、名月も強く思う。

 

「分かりましたわ。 ちょっと可哀そうですけど、新田剣丞さんをあの世に送ります。

 その上で、空さんに勝って、後継者の座を奪わせて戴きますわ」

 

「剣丞を殺す事に気を取られれば、空に勝てない。

 空に勝つ事だけを考えれば、剣丞を殺せない。 中々にすとれすな逆境になったわよね」

 

「すとれす……?」

 

「胃が痛くなる状況って事」

 

「そうですわね、本当に。 少しは手加減してくださっても良いでしょうに」

 

「覚えておきなさい、名月。

 家長というものは常にでっかいすとれすに晒されるという事を。

 そして頼んでもないのに次から次へと困難と逆境が襲い掛かってくる事を」

 

「逆境を知らない私では当主として不適格……ですわね。

 けれど、それを言うなら空さんも同じではありませんか?」

 

「空と愛菜では駄目なのよ。 あの娘は春日山城の奪還の時に、剣丞に助けられているの。

 あの娘は優しいから、たぶん剣丞を殺せないわ」

 

「空さんが逆境を知らないまま当主になったらどうなさるおつもりで?」

 

「実はその辺ノープランよ」

 

「聞きたくなかったですわ、そんな話」

 

ノープランのまま頭を空っぽにして突っ走り、途中何度もゲロを吐きながら軌道修正を繰り返し、最終的にはなんやかんやでどうにかしてしまうのが美空の凄い所である。

 

早い話、行き当たりばったりは美空の通常運転である。

 

「私は当分隠居する気は無いから、数年がかりで経験を積ませるわよ。

 それじゃあ、今度は空と個人面談するから、空を呼んできて頂戴な」

 

「はぁ……分かりましたわ」

 

名月が小さくため息をついてから、のそのそと評定の間から退室する。

正直、気分は重かった。

圧倒的不利な状況から空に勝利し、かつ、新田剣丞を抹殺する。

名月の勝利条件は果てしなく厳しかった。

 

だが……

 

「負けませんわ、これしきの事では」

 

……だがしかし、名月が心の底から尊敬する長尾美空景虎が乗り越えて来た困難と逆境は、今名月が越えようとしている逆境より、数も質もケタ違いである。

どんな困難も、どんな逆境も、ゲロを吐きながら、深酒をしながら、時には吐血をしながら全力で抗い、なんやかんやでなんとかしてきたのが長尾美空景虎だ。

 

それ故に、だからこそ、名月の心は未だに折れてはいなかった。

この程度の困難で心が折れてしまえば、この程度の逆境で諦めてしまっては、長尾美空景虎の娘だなんて恥ずかしくて名乗れなくなってしまうからだ。

 

……

 

…………

 

………………

 

シャー……シャー……と、砥石の上に刃物が滑る音がする。

 

1人の少女が、笑みを浮かべながら一振りの刀を研いでいた。

 

「うふ……うふふ……ふふふはは……あははぁ……」

 

その目には殺意があり、狂気があった。

怒り、悲しみ、嘆き、苦しみ、絶望、渇望……そして愛。

ありとあらゆる感情が殺意と狂気の根っこになり、養分になっていた。

 

「剣丞……剣丞様ぁ……」

 

前田犬子利家の目に、殺意と狂気が宿っていた。

 

……

 

…………

 

………………

 

「さて……空、事情は分かっているわね?」

 

「は、はい」

 

空は緊張した面持ちで頷いた。

 

「当然、分かっているとは思うけれど、今回の戦、ハナっから対等な条件ではないわ。

 これでもかって位に、何段も何段も下駄を履かせたうえでの戦いよ」

 

「はい!」

 

「勝っても決して慢心しない事。 ぶっちゃけここまでやって負けたら恥よ、恥」

 

「は……はい……」

 

美空からプレッシャーがかけられ、空がごくりと唾を呑む。

 

美空は空の肩がガチガチに固まっているのを知っての上で、こうやってプレッシャーをかけている。

 

国主になった者には、大小様々な形で圧力を受ける。

プレッシャーをかけられた程度で実力を発揮できなくなる者は、国主として不適切と言わざるを得ないからだ。

 

それにもう一つ、名月が言う通り、このまま戦わせたら空が圧勝してしまう可能性が非常に高いので、多少は名月が有利になるよう精神的に追い詰めておこうと思ったのだ。

 

「追い詰められた人間の最後の悪足掻きを甘く見るな」

 

そして美空は、冗談の色が一切ない目でそう告げた。

自らの生死を賭け、越後の存亡を賭け、戦場を突っ走る時と同じ目をしていた。

 

美空は過去何度も、何度も何度も何度も何度も、追い詰められた人間の最後の悪足掻きでもって逆境を乗り越えてきたのだ。

 

瞬間、空は怖気を感じた。

一瞬、空は美空に殺されるのではないかと本気で恐怖した。

目がマジだった。

 

「はい、侮りません、侮れません、絶対に……」

 

空は知っている、追い詰められた人間の最後の悪足掻きがどれ程恐ろしいかを。

空は知っている、追い詰められた美空が今まで何度奇跡の逆転劇を実現させたかを。

どんな困難も、どんな逆境も、ゲロを吐きながら、深酒をしながら、時には吐血をしながら全力で抗い、なんやかんやでなんとかしてきたのが長尾美空景虎なのだから。

 

「国主というのはね、どんな絶望的な状況でも諦める事は許されないわ。

 でもそれと同じ位大切なのは、勝てる戦いをちゃんと勝ち切る事なのよ」

 

「ちゃんと勝ち切る……ですか?」

 

「確か九十郎はピュロスの勝利と呼んでいるわね」

 

「はい、知っています。 古代ローマと戦ったピュロスという名前の将軍は、

 ローマ軍と何度も戦い、勝利を重ねましたが、

 戦う度に兵を減らし、ローマは講和を拒み続けました。

 そして戦勝を喜ぶ部下の前でこう言ったそうです、

 『もう一度ローマ軍に勝利したら、我々は壊滅するだろう』と」

 

「それから払った犠牲が大きすぎる勝利を、ピュロスの勝利と言うようになった……

 どうやら空も九十郎から聞いているようね」

 

「はい、九十郎さんのお話はどれも面白いですから」

 

「目の前の戦いをどう勝つかだけ考えていれば良いのは部将だけ、

 大将は次の戦い、次の次の戦いを常に考えながら作戦を進めなければならないのよ」

 

頭を空っぽにして突っ走るのが特技の美空が言っても説得力が無い。

 

とはいえ……武田晴信のような化物のような戦上手が相手で無ければ、美空は普通に色々考えながら戦える。

ギリギリまで頑張って、ギリギリまで踏ん張って、どうにもこうにもどうにもならない、そんな時……ウルトラマンは助けに来てくれないので止む無く頭を空っぽにして戦うのだ。

 

ゲロを吐きながら、深酒をしながら、時には吐血をしながら全力で抗い、それでもどうにもならない時だけ使う切り札中の切り札なのだ。

決してただのやけっぱちではない、決して。

 

「犠牲少なく、勝利せよという事ですね」

 

「名月の方はどんな勝ち方でも、勝ったら問答無用で長尾の次期当主に指名するわ。

 でも貴女は別、勝敗はもちろん、勝ち方も見させてもらうわ。

 例え最終的に勝利していたとしても、被害が大きすぎると判断した場合、

 周囲の反対を押し切ってでも、名月を次期当主にする。

 ああ、それと今言った事は名月には教えない事、必死さが薄れてしまうからね」

 

「は、はい……」

 

「前に備えれば後方が手薄に、左翼に備えれば右翼が手薄に、

 全てに備えればあらゆる地点が手薄になる……これは孫氏の言葉よ。

 追い詰められた名月がどう動くかを考え、注意深く観察し、先手先手を打ちなさい。

 どんな行動にとられても対応できる方法はどこにも存在しないわ。

 私ができる助言はここまで……後は貴女と名月の器量の差が勝敗を分けるのみよ」

 

美空が空にさらなるプレッシャーをかける。

 

この程度のプレッシャーに負けるようでは、長尾の時期当主として不適格だという思いも込めて。

 

「勝ちます、絶対に勝って見せます」

 

空は美空からのプレッシャーをものともせず、必ず勝つと決意する。

 

「そう、頑張りなさい」

 

美空はそんな空の様子を満足そうに見ている。

そして空は……

 

「勝って実現させてみせます……共産主義革命をっ!!」

 

「うん、その意気よ。 私も応援してるから……って、共産主義?

 共産主義って何の事かしら?」

 

後日美空や名月の胃壁をガリガリと削る素敵ワードである。

後の世で制作された織田信長が主役の大河ドラマでは、番組の3分の1がソレとの戦いに費やされたりする。

 

しかし、その辺の事情は犬子と柘榴と九十郎の物語に直接関係しないので割愛する。

 

「では、私は準備があるので、これで失礼させて頂きます。

 絶対に、絶対に勝って見せますから、見ていてください。

 そして共産主義革命を実現させます!

 ウラジミール・レーニンが見た理想を、

 ヨシフ・スターリンが果たせなかった夢を現実のものにして見せます!」

 

「レーニンって誰ぇっ!?」

 

未来の人物である。

 

「失礼しますっ!!」

 

「ちょ、ちょと待って……ああ、行っちゃったわね」

 

空が凄い勢いで走り去っていった。

美空は強引にでもそれを止めようとしたが……やっぱりやめた。

 

空の様子も少し気になったが、それよりも先に会わなければならない者がいるのだ。

 

「まあ、後で時間ができた時にゆっくり聞くしかないわね……

 誰かいる! 犬子をこの部屋まで呼んできなさい!」

 

後日、この時もっと詳しく話を聞いておけば良かったと死ぬ程後悔するのだが……犬子と柘榴と九十郎の物語とは直接関係の無い事なので、割愛する。

 

……

 

…………

 

………………

 

「……美空様」

 

「来たわね犬子、待っていたわ」

 

犬子がゆっくりと美空の前へと歩いてゆく。

その手には抜き身の刀が握られている。

 

ついさっき研ぎ直され、鋭い剣先が鈍く輝いていた。

 

「その太刀、初めて見るわね」

 

「ずっと昔、壬月様から元服祝いで贈られた太刀です」

 

「壬月……織田の鬼柴田よね、確か」

 

「拾阿弥って娘を殺して、犬子が久遠様の元から離れた原因を作った太刀でもあります。

 あの時からずっと、なんとなく使う気になれなかったんですよ」

 

「あら、それなら私と犬子を出会わせてくれた縁起の良い太刀じゃない」

 

「私にとって一番の……いえ、二番目に嫌な思い出がある剣です」

 

一番は新田剣丞に抱かれた事である。

 

「そんな剣を、どうして今日は持ってきたのかしら?」

 

「色々理由はあるんですけど……

 久遠様が愛する人を斬るのなら、この剣が一番良いかなって」

 

「そう……」

 

美空が目を伏せる。

 

何も言わずとも分かっている。

美空と犬子は今、新田剣丞を殺そうと考えているのだ。

 

九十郎が……美空と犬子が愛する男性が、土下座をしてでも助けようとしている人物であると理解した上で、殺そうとしているのだ。

 

かつて久遠が愛した拾阿弥を斬った剣で、今、久遠が愛する新田剣丞を斬るつもりなのだ。

 

「後で九十郎に何て言われるでしょうね、私も、犬子も」

 

「ただの八つ当たりだって、分かっています。

 九十郎も、久遠様も、剣丞様は鬼との戦いで必要になる人だって、

 日ノ本を守るために絶対に欠いてはいけない人だって言っていましたし、

 犬子もそうだと思います」

 

「私は思わないわ、あんな変な男、いてもいなくても大して変わらないわよ。

 八つ当たりとも思っちゃいない、正当な怒り、正当な殺意よこれは」

 

「一番許せないのは、九十郎を忘れてしまった犬子です」

 

「犬子は何も悪い事をしていないわ、犬子は被害者よ」

 

「それなら、剣丞様も被害者ですよ」

 

「そうかもしれない、違うかもしれない、いずれにしても……」

 

「そうですね、いずれにしても……」

 

「「私達は、新田剣丞を殺したい」」

 

美空と犬子の声が重なった。

美空にも、犬子にも、剣丞を殺さない理由、殺せない理由が何個重なろうとも、剣丞への殺意が抑えられないのだ。

 

理屈ではないのだ、理屈では。

 

「美空様、あれを……」

 

「うん?」

 

犬子が指差す先を見る……一匹の犬が全力で走っていた。

全力で走り、春日山城の石垣の隅から飛び降りた。

まるで恐怖というものが一切存在しないかのように、全くスピードを緩めずに飛び降りた。

 

飛び降りた犬はくるくると宙を舞い、宙を舞い……ぐちゃっと潰れた。

 

「……あの犬は?」

 

「全然知らない人です、ここに来る途中で、たまたま目についた人です」

 

「人……? ああ、そういう事」

 

美空が無感動に頷く。

 

ミンチ肉のようになった犬の死骸がぐきゃりと曲がり、膨らみ、1人の人間の遺体に変わった。

当然、生き返る事は無い。

背骨や脳漿がぐちゃぐちゃに潰れ、ピクリとも動かずに絶命していた。

 

「犬子の御家流……こういう事もできるって、ずっと前から分かってました。

 分かっていたけれど、今までどうしても使う気になれませんでした。 だけど……」

 

「そうね、その能力を使えば、新田剣丞を事故死か自殺に見せかけて殺す事ができる」

 

犬子は挽肉のようになって絶命した実験台を見下ろして、こくりと頷いた。

 

「私はこの太刀と、この能力を使って……剣丞様を殺します」

 

犬子の目には、漆黒の殺意が芽生えていた。

 

犬子とて、剣丞の重要性は知っている。

犬子とて、剣丞に何の罪も無い事を理解している。

犬子とて、剣丞は自分と同じ被害者だと理解している。

本当は精神を操る能力を受けて、一時的におかしくなってしまっただけだと思っている。

 

だがそれでも、斬らずにはいられない、殺さずにはいられない、恨まずにはいられない、憎まずにはいられない。

 

「(だって他に……他に何も思いつかないから……)」

 

剣丞が全てを狂わせてしまった。

剣丞がいるから、九十郎は色々拗らせてしまった。

剣丞に抱かれてしまったから、九十郎はもう二度と犬子を抱く事も無ければ、笑いかけてくれる事も無いだろう。

剣丞が犬子の幸せを完膚無きまでに破壊してしまったのだ。

 

剣丞に何の落ち度も、罪も無いと理解していても、剣丞を殺したところで九十郎が戻ってくる訳ではないと理解していても、それでもなお恨み、憎まずにはいられなかったのだ。

 

そんな犬子の狂気の目は研いだばかりの刀身に向けられ……

 

「ん……? 何か変な模様……こんな模様、前からあったかな?」

 

刀身を見た時、奇妙な違和感があった。

 

峰の部分に、小さく奇妙な紋様が2つ彫られている事に気がついた。

犬子が拾阿弥を斬った日から、壬月から贈られた太刀をまじまじと眺める事は一度も無かったため、記憶が定かとは言えないが……その紋様は、今日初めて見るもののような気がした。

 

「犬子、どうかしたの?」

 

犬子は美空からそう声をかけられ、はっと我に返り。

 

「いえ、何でもないです」

 

きっと今まで見落としていたか、ずっと見てなかったから忘れていたのだろうと思い直し、犬子は奇妙な紋様が彫られた太刀をそっと鞘に納めた。

 

犬子も美空も気づかなかった。

その紋様がルーン文字と呼ばれるものである事に。

持ち主の記憶を混乱させる『忘却』のルーンと、一時的に男女間の愛情や性欲を増大させ、さらに排卵と受精の可能性を大幅に向上させる『情愛』のルーン……優れたルーン魔術の技術と知識の持ち主が悪用すれば、そういう使い方もできる魔法の紋様である事にも。

 

そして美空と犬子はその日見た紋様をすぐに忘れてしまった。

取るに足らない事だと思い込んでしまった。

『忘却』のルーンは、そういう使い方もできる魔法の紋様であった。

 


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