夕暮れの河原で、美男子と野獣……もとい新田剣丞と斎藤九十郎が2人並んで体育座りをしていた。
「俺は……俺はどうすれば良いんだろうな」
「それを俺に言ってどうしようって?」
「どうしてこんな事になったんだろうな」
「ははは、俺が聞きたいぜ全く」
2人の共通する思いは……『どうしてこうなった』である。
「なあ、剣丞」
「何だ?」
「何でお前は、いきなり、唐突に犬子を抱いたりしたんだよ?
もっとこう……伏線とか張ってくれよ、心の準備ができねえだろ」
「……心の準備の問題なのか?」
そう聞き返されると、九十郎はしばし考えこみ、しばし無言になり……
「……ああ、心の準備の問題だよ。
前田利家はさ、やっぱ主人公の嫁になるのが一番良いさ。 俺みたいな屑じゃなくてな」
口を開き、頭に浮かんだ言葉を発音する度に、九十郎は心臓に針が刺さったかのような痛みを覚えた。
心がどうしようもなく負けを認めている。
だけど同時に、それが犬子の叫ぶ『好き』を全否定するものだとも理解している。
それが痛くて、苦しかった。
「あの時、なんで殴らなかったんだ」
重苦しい沈黙を破り、剣丞が九十郎にそう尋ねた。
剣丞の言う『あの時』が何を指しているのかは、基本愚鈍な九十郎でも流石に理解できた。
「……殴る理由が無いだろう」
剣丞は一瞬、九十郎が何を言ったのか分からなかった。
愛する妻を奪われた……本来剣丞にそのつもりは無かったとはいえ、結果として剣丞は犬子を抱いた。
剣丞にとっては、それは九十郎が自分を殴る理由として十分なものだった。
それを九十郎はいともたやすく否定した。
少なくとも剣丞はそう感じた。
本当は身を裂かれるかのような深い深い苦しみと悲しみが九十郎を襲っていたが、剣丞は頭に血が上り、それが分からなかった。
「悔しかったりはしないのか? 怒りは湧かないのか?」
「当然の結果だよ、当然の……
俺みたいな屑が手に入れて良い女じゃなかったんだよ、最初から」
「どういう意味だ?」
「前田利家は、俺みたいな屑の嫁になってちゃいけない奴だっただよ」
瞬間、剣丞は頭が沸騰しそうになる程に激しい怒りを覚えた。
あの時犬子は泣いていた。
九十郎を語る時、犬子は確かに幸せそうに微笑んでいた。
犬子は確かに、新田剣丞ではなく斎藤九十郎を愛していた。
それを全否定する九十郎の言葉が信じられなかった。
「ああ、良く分かった……よっ!!」
「うぐっ!?」
九十郎の顔面がひしゃげ、無駄にマッチョな身体が地面に転がった。
剣丞が九十郎をブン殴ったのだ。
2人の間にはかなりの体格差、体重差があったものの、剣丞は後漢末期の英傑達から直々に喧嘩の勝ち方を教えられた身だ。
当然、全身の筋肉をフル活用して人を殴る技術も叩き込まれていた。
そんな剣丞に思い切りブン殴られたのだ。
九十郎は情けない声と共に派手に地面にダイブしていた。
「て、てめぇいきなり何しやがるっ!!」
「立てよ九十郎、立って殴り返して来い」
「理由になってねぇぞ! 喧嘩売ってんのか!?」
「ああ売ってるんだ、さぁ早く立て! そうじゃなきゃお前は本当の屑になるぞ!」
剣丞に言われるまでも無く、九十郎は屑である。
「この野郎……」
流石に普段から鍛えているだけあって、1発や2発ブン殴られた程度で駄目になる程、九十郎は弱くない。
九十郎はすぐさま起き上がり、ぎゅっと拳を握りしめ、その手を振り上げ……そこで止まった
『九十郎なんかじゃ、剣丞様には勝てないよ、絶対に』
九十郎の耳にそんな声が聞こえてくる。
その声は確かに犬子の声だった。
その声が幻聴だと九十郎には分かったが、言っている事が間違っているとは思えなかった。
きっと犬子は、本心から自分では剣丞に勝てないと思っているに違いないと思った。
「どうした? 何でそこで止まるんだ?」
剣丞がキッと睨みつけながら言う。
九十郎の眼には既に怒りと戦意が消え失せていた。
「俺は……」
『戦ってもどうせ、九十郎じゃ剣丞には敵わない』
『どうせ敵わないなら、戦っても無駄だ』
九十郎の耳に、何度も何度も幻聴が聞こえた。
何度も何度も……何度も何度も何度も何度も……どの言葉も九十郎の魂に突き刺さり、抜けなかった、否定できなかった。
九十郎の心の中に、諦めの気分が蔓延していた。
「俺が勝ったら、犬子は俺のものになるんだぞ……」
そう言った瞬間、剣丞は吐き気がした。
女性を物扱いなんて、どうかしていると思った。
「その方がきっと犬子も幸せだろう」
そう呟く九十郎を見たら、もっと吐き気がした。
全て諦めきった男の眼であった、負け犬の眼であった。
この男は自分では犬子を幸せにできないと決めつけて、思い込んでいた。
剣丞にはそれが分かった。
「美空も俺の嫁になるんだぞ! それで良いのか!?」
必死になって吐き気を抑えながら、さらに剣丞が問いただす。
「上杉謙信みたいな偉人が、俺みたいな屑と釣り合いが取れる訳がないだろう」
やはり九十郎は死んだ眼のままだった、負け犬の眼のままであった。
自分は美空とは釣り合わない、自分と美空が結ばれたら、美空が可哀想だと思い込んでいた。
美空の魂を込めた『好きだ』の叫びは、九十郎の心に届いていない。
上杉謙信だから出会った、上杉謙信だから愛せない。
ただの美空とは思えない。
まるで呪いのように、上杉謙信である事が、美空の努力ではどうしようもない事実が、美空が愛した九十郎の心を蝕み、同時に曇らせていた。
「柘榴もか!? お前にとっては柘榴もどうでも良いのか!?
柘榴も俺のものになっても良いってのか!?」
祈るような気持ちで、剣丞は叫んだ。
頼むから立ち上がってくれ、頼むから俺に反論してくれ、いっそ俺に殴りかかってきてくれ……そんな思いを込めて、剣丞は叫んだ。
「ぐっ……」
直後、九十郎は自らの唇を強く強く噛み締めた。
ほんの一瞬だけではあるが、九十郎の瞳に戦意が宿った。
「柘榴は……柘榴は俺の……お、俺の……」
言え、言うんだと九十郎は自分自身を叱咤する。
柘榴は俺の女だ、お前には渡さないと言うんだと……
だがしかし……
「そんな事……そんな事俺に聞くんじゃねえよ! 俺が知るかよ!!」
しかし、剣丞と九十郎の視線が交差した瞬間、あっという間に九十郎の戦意は萎えてしまった。
九十郎が剣丞に抱かれる犬子を目撃した時と同じように、一瞬だけ怒りが湧き、戦意が宿り、あっという間にそれらは消えてしまった。
再び負け犬の眼になって、吐き捨てるように言い、頭を抱えながら背を向けてしまった。
「馬鹿野郎ぉっ!!」
剣丞は再び九十郎を殴った。
先程よりもさらに力を籠めて、先程よりもさらに大きな怒りの感情を籠めて殴った。
「お前は何を聞いていたっ!? お前は何を見ていたんだっ!?」
そして剣丞は九十郎の襟首を掴み上げる。
自然と両腕に力が入った。
剣丞には許せなかったのだ。
犬子に柘榴、美空、粉雪、貞子、それに雫……全員が全員、素晴らしい女性ばかりだ。
全員が飛び上がる程に可愛くて、綺麗で、素敵な女性ばかりだ。
そんな女性達が、魂を込めて愛を叫んだ。
それをまるで理解しない、理解しようともしない、自ら目を背け、自ら耳を塞ぎ、自ら心を閉ざそうとする九十郎に怒りが沸いたのだ。
基本好き嫌いが激しい九十郎と違い、新田剣丞には女性の好みというものは存在しない。
剣丞の眼には、この世あらゆる女性が好みの女性で、素晴らしい女性に見えるのだ。
正直頭がイカレてるんじゃないかと思われるような性癖だが、この性癖があるが故に、オーディンは新田剣丞を計画の要に選択し、虎松達は一部例外を除き、新田剣丞を『デトックスされた北郷一刀』等と呼んで嫌うのだ。
「お前には……お前には皆の好きだって叫びが聞こえなかったのかよっ!!」
剣丞は叫んだ。
思い切り叫び、力づくで立たせ、九十郎と目が合い……剣丞は死ぬ程後悔した。
「やめろ……やめてくれ……これ以上、俺から奪わないでくれよ……」
九十郎は怯えていた、本気で怯えていた。
怯え切った目を剣丞に向けていた。
まるで怪物でも見るかのような目で剣丞を見ていた。
少なくとも剣丞には、同じ人間を見る目では無いと感じた。
「あ……」
剣丞は我に返り、手を放す。
手を放すとすぐに九十郎はその場に座り込み、怯え切った目で立ち尽くす剣丞を見上げていた。
バッファローマンのような体格の大男が、自分よりも一回り以上小柄な剣丞に怯えた視線を向けていた。
今までずっと、剣丞は九十郎を強い男だと思っていた。
自信とプライドに満ちた男だと思っていた。
だけどそれが間違いだったと悟った。
本当は怖がりなんだと思った。
だから身体を鍛えていた、だから神道無念流にのめり込んでいった、そして未来の武器や技術に頼ろうとしたのだと思った。
本当は奪われたくない、だけど自分では新田剣丞には勝てない。
だから必死になって自分に言い聞かせているのだ……剣丞に渡した方が上手くいくと。
「俺が……俺が怖いのか? 九十郎」
九十郎は言葉も無くガタガタと震えていた。
これ以上無い程に情けない姿を剣丞に晒していた。
それが答えであった。
だから貴様は九十郎なのだ。
柘榴が自分を奮い立たせようとしているのは分かっていた。
美空も、粉雪も、貞子も、黒田官兵衛すらも自分を立ち直らせようとしているのも分かっていた。
剣丞への嫁入りという大きすぎる代償を受け入れてすら……
だがしかし、だがそれでも、九十郎は剣丞を殴れない。
だから貴様は九十郎なのだ。
もう一度書こう、何度でも書こう、書き続けよう、だから貴様は九十郎なのだ。
だから貴様は九十郎なのだ。
「俺は化け物じゃないよ、九十郎。 俺はあんたと同じ人間だ」
九十郎はガタガタと震え続ける。
その言葉は確かに九十郎の耳に届いていたが、心には全く届いていなかった。
「俺が……俺がお前に勝てる訳がないだろ……しゅ、主人公によ……」
そう告げる九十郎の声もまた、震えていた。
九十郎の目に人間は映っていなかった。
その目に映るものは災厄、怪物、あるいは絶望……九十郎から全てを奪い尽くす恐ろしいナニカが映っていた。
「……ああ、分かったよ」
剣丞は一瞬だけ『勝てる』と言おうとした。
言おうとしたが、やめた、
わざと負けてやる事が九十郎の助けになるんじゃないかと思ったし、それが犬子と関係を持ってしまった償いになるんじゃないかとも思った、そうすれば全てが丸く収まるんじゃないかとも思った。
だけどそれは、九十郎を子供扱いするも同然だと思った。
こんな情けない男に美空のような素晴らしく魅力的な女性を幸せにできるのかとも思った。
自分を信じて、自分に力を貸して、自分の勝利を信じている詩乃や一葉への裏切りのような気もした。
それに何より……剣丞には鬼と戦う使命があった。
何よりも大事な久遠の祈りがあった、願いがあった。
こんな所で足踏みをしている時間は無かった。
だから……
「悪いけど、勝って奪わせてもらう。
九十郎を踏みにじって、踏み越えて、九十郎が持っているものを全部余さず持って行く。
俺はこんな所で止まってはいられないんだ」
良心の呵責による吐き気を堪えながら、剣丞はそう告げた。
そして決意した……勝とうと。
勝って九十郎の全てを奪おうと。
……
…………
………………
「まず、君は自分が途轍もなく危ない橋を渡っている事を自覚しようか」
粉雪が『何故ここに来た?』と尋ねると、一二三はそう答えた。
「うん……うん?」
粉雪は怪訝な顔つきで固まる。
一二三の返答は粉雪が想像したようなものでは無かったし、唐突に『危ない橋』と言われても特に心当たりが無かったからだ。
「自覚してない、か……君が霧雨魔理沙とか名乗って越軍の戦に参陣してるって聞いて、
拙いと思ってすっ飛んで来たんだよ、私はね」
「ま、拙いのか!?」
「むしろ何故拙くないと思ったのかな?
君が今非常に拙い事になっている理由は4つある」
「よ、4つもあんのかよ……」
粉雪にはその理由が1つも思いつかず、想像すらもできていない。
そんな粉雪の様子に、一二三はふぅっとため息をついた。
「まず1つ、先代様の様子を見に行くって話、御屋形様には伝わってない」
「え?」
「つまり典厩様の独断だって事だよ」
「ま、マジかよ……」
いきなり超大型の爆弾が投げ込まれ、粉雪は絶句した。
夕霧が命じて、粉雪は甲斐を離れ、越後へ来た。
当然、主君武田晴信にこの任務の事は報告されていると思っていた。
その前提が崩れ去ってしまった。
「マジだよ、残念ながらね。
2つ目、君は越軍の戦に参陣した、霧雨魔理沙なんてバレバレの偽名を使ってね」
「そ、それはなりゆきで……だな……」
「要は御屋形様の目から見れば、君は無断で甲斐を抜け出して、
無断で越軍の戦の手助けしてるって事、拙いだろう」
「ああ、そりゃ拙いな……」
粉雪が今更ながら自分がしでかした事の重大さを自覚し、蒼褪める。
だがしかし、真の意味で粉雪が蒼褪めるのはこれからだ。
粉雪はまだ、今すぐ躑躅ヶ崎館に戻って光璃に土下座すれば許してもらえると思っている。
「3つ目、君は柿崎景家殿の……宿敵長尾景虎の腹心にして、
越後の切り込み隊長の夫である、斎藤九十郎という男に惚れている。
しかも君はそれを隠そうとしていた上、隠しきれずに周りにバレバレだった」
「あ、あたいが誰を好きになっても一二三には関係無いだろっ!!」
「関係無いと言えればどれ程幸せか!!」
「うっ……」
掴みかかってくるかのような勢いで反論する一二三に、粉雪が思わず後ずさる。
彼女自身、敵と言っても良い立場である九十郎に恋慕している事に、決して小さくない後ろめたさを感じていたのだ。
「最後に4つ目、ある意味これは君のせいではないが、
ある意味ではこれが一番君を危うい立場に追い詰めている」
「ど、どういう事なんだぜ?」
「当然、君のお姉さんが裏切り者、謀反人だという事さ」
「姉ちゃんが……そ、そりゃあ姉ちゃんは昔、御屋形様を殺そうとしたけど……
でもあたいはそれを御屋形様に知らせて、それで……」
「功と忠義を認められ、君は山県の性を賜った。
知っているよそれくらい、甲斐では子供でも知っている事だからね。
しかしそれでも、君は謀反人の妹だ。
何かきっかけがあれば、君もまた姉と同じように裏切るんじゃないか……
そう思っている者は決して少なくないんだよ」
「あたいが御屋形様を裏切るなんて! そんな事は絶対にありえないんだぜ!」
「君がどう思っているかは関係無い、周りがどう思うかが問題なんだ。
君が九十郎の事を話す時、顔が綻んでいた事に気づいていたかい?
君が九十郎の事を話した時、周りの者の口数が急に減ってる事には気づいていたかい?」
「う……そ、それは……」
心当たりがあった。
九十郎の話題が出して、親友の心の顔が僅かに曇っていた時が何度かあった。
特に九十郎が越後の柿崎景家の夫になったという報があって以降は……
「で、でも……御屋形様なら分かってくれるんだぜ。
御屋形様だけは……あたいの忠義を……」
「へえ、そんなに優しい人かい? 御屋形様が? 武田晴信様が?」
「うぅ……」
粉雪は無言になる。
脳裏に浮かぶのは志賀城での惨劇だ。
志賀城に並んだ3000の首を冷徹な目で見つめる武田光璃晴信の姿。
そして光璃を裏切り、思い出すだけでも吐き気を催す程残虐に殺された姉の姿だ。
それは屑のオリンピックがあったら金メダルでオセロができそうな姿である。
「次は君がそうなる。 そう言われて、反論はできるかい?」
粉雪は咄嗟に何かを言おうとして……
その言葉があまりにも説得力が無い事に気がつき、黙り込んだ。
粉雪は絶望のあまり目の前が真っ暗になった。
自分の認識の甘さ、考えの浅さが情けなくて泣きそうになった。
「現状を認識してもらったようで何よりだよ。
さて、そうなると君が辿るであろう末路は3つ考えられる」
一方、一二三は平常運転である。
最初に暗ぁ~い現実を突きつけ、絶望させ、そこから救いの蜘蛛の糸を垂らす。
一二三の……真田昌幸お得意の人心掌握術である。
それは屑のオリンピックがあったら、あの劉玄徳やあの武田晴信とも互角に戦えそうな程の手腕である。
もしこの場に呂奉先がいれば、『騙されるな粉雪! そいつこそが食わせ物だぁ!』と叫んだ事であろう。
「み、3つ……?」
「1つ目、甲斐に戻って御屋形様に斬首される。
良くて君1人、一歩間違えれば一族郎党巻き込んで志賀城再びだね」
「そ、それは勘弁してほしいんだぜ」
「君ね、私が越後に来てなかったら十中八、九そうなっていたんだよ」
「す、すまないんだぜ……」
「2つ目、本当に裏切って越後に永住する。
たぶん長尾景虎殿は喜んで君を迎え入れるだろう、先代様もね。
君は助かるだろうけど、甲斐に残っている君の一族は皆殺しだろうね。
ちなみに私はこれを一番お勧めする」
「御屋形様を裏切るなんてできないんだぜっ!!」
「そうだね、君はそうだ。 君は私と違って他人を裏切れるような性格をしていない。
君のその性格を理解している人は、君が裏切るかもしれないとは思わない。
だけど問題なのは?」
「ま、周りがどう思うかだぜ……」
「そうその通り、君は九十郎を好きなり、それを周りに示してしまった。
周りの者はこう思う……九十郎のために甲斐を、武田を裏切るかもしれない、
姉と同じように謀反を起こすかもしれないと」
「う……そ、それは……」
いっそ武田を出奔して、九十郎の元に身を寄せてしまおうかと思った事はある。
それも一度や二度ではない。
粉雪は、粉雪自身ですら、山形昌景は裏切らないと断言できなかった。
「よろしい。 それでは3つ目の予想される末路は……」
「ま、末路は……」
粉雪がごくりと唾を飲み込む。
ここまでもったいぶったのだ、きっと前の2つよりもずっと恐ろしくて悲惨な末路に違いないと思った。
だが……
「君は甲斐に戻って、御屋形様にも斬首されない……そういう良いとこ取りの未来だよ」
「そ、そんな事が出来るのかぜ!?」
地獄の底で天へと繋がる蜘蛛の糸を見たかの如く、粉雪が身を乗り出して食いついてくる。
これも真田昌幸流の人心掌握術である。
「具体的な方法はこれから考える。 先に言っておくけれど、相当か細い道だよ。
私が2番目の道が一番お勧めだと言ったのはそのためだからね」
なお、そのための方策は一二三にも見えていない。
早い話がハッタリである。
「だ、大丈夫なのかよ……?」
「要は越後に来たのも、霧雨魔理沙を名乗って越軍の手助けをしたのも、
全部憎き長尾景虎を討つための策でしたと言い張るのさ」
「な、成る程、それならどうにかできそうなんだぜ」
「へえ、できるのかい?」
「そりゃあ、もちろん……」
そう言われて、自分が光璃の前で弁明をする姿を想像してみる。
越後に来たのも、霧雨魔理沙を名乗って越軍の手助けをしたのも、全部長尾を討つための策ですと言ったは良いが……ぶっちゃけその論理には説得力というものがカケラ程も存在しなかった。
「……何をどう言えば、納得してもらえるんだぜ?」
「うんうん、自分にできない事を理解してくれてるでも有難いよ」
一二三が自分に任せなさいとでも言いいたげな自信に満ちた顔で胸をどんと叩く。
もっとも、彼女自身も光璃を巧く誤魔化す架空の策なんて思いついていないのであるが。
「とりあえず、こっちに来てから見た事、聞いた事を教えてもらえるかな。
色々考えてみるからさ」
正直な所、粉雪は絶体絶命の窮地に立たされていたし、状況も分からないままに空と名月の後継者争いに関与し、負けたら剣丞の嫁になるなんて馬鹿げた賭けに相乗りした一二三もまた、粉雪よりマシとはいえ、それなりに危うい立場になっている、
だが一二三は、そんな断頭台一歩手前の状況を楽しんでいた。
……
…………
………………
「ひー、ふー、みー、っと……ぱっと数えられただけでも3人か。
こんなか弱い乙女相手に大げさな事だよ全く」
軒猿と呼ばれる長尾の密偵達が自分を尾行している事を確認し、一二三(歴史に名が残るレベルの屑)がげんなりとした表情で肩を落とす。
急いで越後に来たために、親友にして凄腕の密偵でもある湖衣(凄い善人)は着ていない。
それ故に監視している軒猿が何人なのかは正確には分からないし、襲い掛かってこられたら成す術も無く殺されるだろう。
体調が万全なら1人で100人以上は惨殺できる粉雪には全く監視がついていないのに、どう頑張っても2~3人が限界な一二三にはがっつりと監視がつくのは、何をしでかすか分かったもんじゃないというマイナス方向での信頼があるが故だ。
正直な話、粉雪が内部からの攪乱などという器用な真似ができない事は、美空にも、光璃にも、当然一二三にも分かっている。
それ故に一二三は危険を覚悟で、自ら空と名月の後継者争うに飛び込んだのだ。
「さて……ここしばらく、御屋形様は織田の天人殿にご執心の様子。
生き残りの鍵は新田剣丞様になるかな? 上手く甲斐まで連れて来られれば、
多少怪しい部分があってもお目こぼし頂けると思うけど……」
そこまで考えた所で、一二三は前方に新田剣丞と斎藤九十郎がいる事に気がついた。
2人を探していた……という訳ではない。
光璃を巧く誤魔化すプランを練りながら、適当に歩いていただけだ。
そしてそんな一二三の目の前で、剣丞が九十郎に殴り掛かり、胸倉を掴んで掴み上げ……剣丞が肩を強張らせながらその場を立ち去っていった。
「おや、喧嘩かな?
怒りに任せて拳を振り上げるような性格には見えなかったけれど……」
一二三が剣丞と鉢合わせしないよう、物陰に隠れながら様子を伺う。
しばらく様子を見ていたが、剣丞が戻ってくる気配は無く、九十郎は剣丞に殴られた頬をさすりながら、じ~っと座り込んだままだ。
「ふぅむ……」
様々な推論、様々なプランが浮かんでは消える。
頭を高速回転させながら、ゆっくりと一二三が九十郎に近づく。
剣丞が勝つか、九十郎が勝つか……そのいずれかがによって、一二三がするべき立ち回りは大きく変わる。
ここで読み違えると本当に粉雪共々刑場の露と消える羽目になりかねない。
だから一二三は九十郎の様子を見に行った。
「……あ、駄目だこりゃ」
そして九十郎の顔を見た瞬間、一二三は剣丞が勝つと確信した。
九十郎はガタガタを震えて、怯え切っていた。
負け犬の顔であった。
勝ち負けどころか、勝負が成立するかすら危ぶまれる姿であった。
当の本人の戦意が0では、戦いになる筈が無かった。
だから一二三は、越後の後継者争いは剣丞が勝つという前提で策を練り始める。
空達の足を巧妙に引っ張り、名月や剣丞に恩を着せ、その上で織田と長尾の仲は決定的に決裂させる策を……
「あっ……!?」
……拙い、と思った。
自分の病気が出てしまうと思った。
自分自身を滅ぼしかねない大病が出てしまうと思った。
しかし、一二三にはそれが分かっていてもどうしようも無い。
元より抵抗は不可能なのだ。
だがしかし、一二三はその明晰な頭脳と観察力で気づいてしまった。
この状況下で九十郎が勝つ可能性を。
か細いながらも、確かに存在する可能性を。
九十郎の戦意が完全に萎えている理由を。
「や、やあっ! 元気が無いじゃないか、どうしたんだい?」
微妙に声を強張らせながら、一二三が九十郎に話しかける。
九十郎は幽鬼のような目で一瞬だけ一二三を見上げるも、すぐに視線を落としてしまった。
だが一二三は若干興奮した様子でさらに話しかけ続ける。
「や、やだなぁ、今は味方同士なのだから、そんな態度は無いだろう」
「……放っておいてくれ」
九十郎はそう呟くと、また黙り込む。
だが一二三は自分の気づきに、そしてその気づきがもたらした大病に胸を躍らせていた。
一二三は大病を患っていた。
「話、聞かせてくれないかな?」
一二三はそう言うと、九十郎の隣にちょこんと座った。
鶏口と為なるも、牛後と為なる無なかれ……大きな集団や組織の末端にいるより、小さくても良いから長となって重んじられろという言葉はあるが、現実問題としてその言葉を体現できる者は滅多にいない。
負けそうな者を助けるよりも、勝ち馬に乗った方がよっぽど楽だし、実入りも大きいからだ。
だがしかし、一二三は違う。
放っておいても勝てる者を勝たせて何が楽しいのかと思ってしまう。
命も賭けずに評論家の真似事ばかりする者を心の底から軽蔑してしまう。
十中八九で負けると分かっていても、残りの一二に全てを賭けてしまいたくなる。
一二三はそういう病気を患っていた。
正直に言って一二三は、自分はこの病気で死ぬだろうと思っている。
どこかで計算を違えて、見るも無残な死に方をするだろうと思っている。
布団の上で子供に囲まれて……とはいかないだろうと思っている。
だけど一二三には、その病を抑え込む事ができないのだ、どうしても。
それはきっと死に至る病だろうと思っていた。
自らを破滅に導く大病だろうと思っていた。
それでもなお、一二三はその病を抑えられなかった。
だから……
「力になるよ、損得抜きでさ」
だから一二三は、九十郎の肩に手を回し、そう語り掛けた、その言葉に一切の嘘偽りは無かった。
自分が何のために越後までわざわざ出向いたのかを、光璃を巧く誤魔化さなければ粉雪共々殺されかねない事を、今この瞬間だけは忘れていた。
いや、それだけではない。
歴史だけは長いが、吹けば飛ぶようなド貧乏大名であった頃の武田晴信ならばともかく、戦国の巨獣とまで畏れられる今の武田晴信を裏切り、蹴落とし、その首級を前に高笑いをしたら楽しいんじゃないか……そんな背徳的な誘惑が胸をよぎっていた。
「俺は……俺は昔……惚れた女がいたんだよ……」
そして一二三にとって幸運な事に、九十郎にとって一二三は、ただの一二三だった。
前田利家ではなく、上杉謙信でもなく、山県昌景でもない……歴史上の偉人ではない、ただの一二三に過ぎなかった。
後日九十郎は自分の生い立ちや、当時の心境を一二三に……真田昌幸に説明した事を死ぬほど後悔するのであるが、後の祭りである。