「ああ……美味しくない……」
その日、加藤段蔵は鬼の肉片をぺっと地面に吐き捨てながらそう呟いた。
「お腹は膨れるんですよ、お腹は。 そして栄養が身体に巡る感覚もあります……
あの吉野とか何とかっていう超能力者は、人の死骸を材料に鬼を造っているが故に、
人の死体しか身体が受け付けない私のお腹は膨れます。
でも美味しくない! 全くもって美味しくありません!
どうやったらこんなに不味く加工できるんだって思う位に!」
段蔵が……新戸をして『純然たる怪異』あるいは『放置すれば無害』と評する怪物が、人肉以外のあらゆる食物を身体が受け付けない怪異生物がそんな事を言いながら、山積みになった鬼の肉片を周囲にバラまいた。
段蔵の怪異としての能力で消滅を免れていた鬼の肉片が、地面につくと同時に煙のように消えていった。
「はぁ……人攫いなんてしなくても、戦争のお手伝いなんてしなくても、
安定して食べ物が手に入るって言ったが故に手伝ったのに……
こんなんじゃあ某、やる気が起きませんよ。
報酬が不味いが故に、とてもとても不味いが故に」
見ただけでSAN値が減りそうな肉塊が人間の……それも年頃の美女の姿に変わる。
そして近くに畳んで置いていた愛用の忍び装束を身に纏った。
「ああ、これからどうしましょうか……
長尾は駄目でしょうねぇ、 桶狭間の時に思い切り武田に寝返ったが故に。
それに武田も駄目でしょうね、
今川さんの所を襲った時からず~っと音信不通にしているが故に。
そうなるとまた死体漁りか、人攫いですか……はぁっ、こんな事になるのなら、
もう少し晴信さんのお世話になっていた方が良かったですよ、本当に」
段蔵のお腹がぐうぅっと鳴った。
鬼の死体を食えば多少はマシになるだろうが、あまりにも不味いので口にする気が起きなかった。
「吉野さんって、美味しいんですかねぇ……」
お腹をさすりながら、段蔵がそう呟く。
「いや、絶対に美味しいですよねえ、200年モノのお肉でしょう、きっと身も円熟して……
どれだけの旨味を蓄えてるか……ああ! 想像するだけで涎が出ますねぇ!
某は空腹が故に! とてもとても空腹であるが故にっ!!
とてもとても不味いモノを食わされたが故にぃっ!!」
段蔵が吉野の御方……今現在日ノ本に鬼をバラ撒いている張本人の味を想像する。
そして狂気に満ちた笑みを浮かべる。
今の彼女には、吉野の御方すらもただの食べ物……それも極上の食べ物のように見えた。
駿府館を襲った時に食べた朝比奈泰能は美味かった。
きっと吉野とかいう超能力者はその何倍も、何十枚も美味いに違いないと想像し、涎を流し、腹を鳴らした。
「ああでも、駿河で会った鞠って娘……あれも美味しそうでしたねえ。
きっと血統書つきですよアレ、きっと身も柔らかくて、良い匂いがしますよきっと。
もうちょっと熟成してればもっともっと好みですけど、
お腹が減っているが故に、もう待てませんよねえ」
今度は鞠の味を想像して涎を流し、腹を鳴らした。
そして決断した……
「良し、越後に行きましょう、そうしましょう。
吉野さんも、鞠って娘も、今は越後に行っているが故に。
2人共美味しく美味しく頂きましょう、とてもとてもお腹が減っているが故に」
段蔵のお腹がくうぅっと鳴った。
……
…………
………………
世の中には、何が何でも勝たなければならない戦いがある。
そこにはルールの範疇で正々堂々と……しかし、持てる力の全てを使って戦う戦いもある。
一方、一切のルールも禁止事項も無く、裏切り、無法、残虐、非道、どんな汚い手を使ってでも貪欲に勝利を求める戦いもある。
しかし逆に、うっかり勝ちでもしたらアカン事になる戦いもまた存在する。
「つまり……勝ったら俺は美空と犬子と柘榴と貞子さんと粉雪さんと雫を嫁にすると……」
美空から渡された書状……いわゆる交戦規定を読みながら剣丞は思った、勝ったらアカン事になると。
剣丞が上手く波風を立たせずに負ける方法を考えていると、隣の部屋がにわかに騒がしくなった。
「復ッ活ッ!」←綾那
「竹中半兵衛復活ッッ!!」←歌夜
「竹中半兵衛復活ッッ!!」←小夜叉
「竹中半兵衛復活ッッ!!」←鞠
「竹中半兵衛復活ッッ!!」←一葉
「竹中半兵衛復活ッッ!!」←雫
「「「「「「竹中半兵衛復活ッッ!!」」」」」」←全員
「すいません何の儀式ですかコレ」←詩乃
ただの悪ノリである。
「……何やってるんだ、あれ」
範馬刃牙を読んでいない新田剣丞が、のそのそと隣の部屋に顔を出す。
そこには蘭丸にヤられた(誤字に非ず)影響で幼児退行状態になっていた詩乃が、しっかりと2本の足で立っていた。
快復した直後に訳の分からない儀式をされて若干困惑気味ではあったが、とにかく詩乃は完全に復調したのだ。
なお、幼児退行現象中の詩乃の言動については、彼女の名誉のためにバッサリとカットする。
読みたい方は感想欄に『わっふるわっふる』とでも書き込んでほしい。
「あ、剣丞様。 これは一体何事ですか? まさか剣丞様の差し金ですか!?」
「いや、俺は何も……」
「快復祝いのお作法なのです!」
訳も分からず詩乃と剣丞が戸惑う中で、綾那が胸を張りながらそう答える。
「か、快復祝い……これが?」
「そうなの、皆で詩乃ちゃんが元気になったお祝いをしてたの」
「歌夜が元気になった時にやったのです」
「ちょっと恥ずかしかったけど……やる側に回ると、何だか楽しいですね」
「それと、母が目覚めた時もやったぜ。 まあその時はオレ一人だったけどな」
剣丞の脳裏にさっきの無駄に騒がしい快気祝い(笑)を前に苦笑する桐琴の姿が浮かんだ。
「剣丞様、この謎儀式を追及するのは後にして、
私が寝ている間に起きた事を聞かせてください」
「ああ……そうだな、そうしよう」
詩乃と剣丞の見解が一致する。
多分九十郎が何か吹き込んだのだろうな~という所までは辿り着いていたが、それ以上追及するのは面倒臭かった。
「じゃあ、綾那達はちょっと特訓してくるのです」
「鞠も特訓なの!」
難しい話が始まりそうな所で、綾那と歌夜、鞠と小夜叉の4人が退散しようとする。
こういう難しい話が始まると、自分達が足手まといになる事を彼女達は理解していた。
「分かった、俺達はちょっと今後の事を話し合うから」
「難しい事はお任せするのです!」
「それはそれでどうかと思うけど……
新戸殿がえすぱぁとの戦い方を教えてくださるとの事ですから」
「あの娘が?」
予想外の言葉を聞き、剣丞が思わず聞き返す。
かつて三河侍達を相手に鬼の姿になって大暴れしたかと思えば、金ヶ崎では桐琴を助けに行ってくれたり、蘭丸に全員纏めてヤラれそうになった所を助けてくれたり、元の世界の姉達が三国志の英雄だと言ってきたり……剣丞にとって新戸という名の少女は、敵か味方かも分からない謎の少女なのだ。
「そうなのです!
森のお母さんも助けに来てくれたし、きっと新戸は鬼は鬼でも良い鬼なのです!」
しかし一方、綾那は既に全面的に新戸を信用している様子である。
「それは違う綾那。 良い鬼子なんてものはこの世のどこにも存在しない」
そこに、話題の人物……もとい鬼子である井伊直政・通称新戸が音も無く現れた。
「新戸さん、どうしてこちらに?」
「遅いから迎えに来た」
「ああ、すみませんお待たせして」
「もう少し危機感を持ってくれ。 蘭丸は危険だ、危険なんだ。
一歩対応を間違えればオレ達全員が洗脳されて手籠めにされる程、危険なんだ」
無数に存在する他の世界の虎松達と対話ができるが故に、何十人分、いや何百人分もの敗北の記憶を受け継いでいるが故に、非常に実感の籠った言葉を告げる。
「それは、長尾の御家騒動をしている場合ではないという趣旨ですか?」
少しでも情報を引き出そうと、詩乃がやや強引に話に割って入る。
彼女の頭の中では、新戸を良い鬼子とは思っていない。
謎の能力を持ち、謎の知識を備えた、敵か味方かも微妙な鬼だ。
少なくとも、警戒を怠って良い存在ではない。
「人間同士の戦いには参加しないし、助言もしない」
「私が聞いている事は、鬼との戦いの話ですよ。 井伊直政殿」
「詩乃らしい屁理屈だな、だが答えてやる。
必要な事なら今すぐ始めて1日でも早く終わらせてくれ。
一昨日の晩、蘭丸に深手を負わせた。 傷が癒えるまで時間の猶予ができた……
その代わりオレはとんでもないものを盗まれたがな!」
新戸の処女膜(プライスレス)である。
「深手ですか?」
「当分は動けん。 だがオレも消耗した。 しばらくはお互いに静かにしかいられん」
「分かりました。
鬼の事が無かったとしても、長引かせるのは悪手である事には同意します。
戦において拙速は遅巧に勝るという言葉もある事ですし」
「助かる、詩乃は剣丞と違って物分かりが良い」
「それはどうも。
ですけど、剣丞様がそういう性分だったからこそ私は剣丞様と出会いました。
そして私は剣丞様を愛して、全てを捧げる覚悟を決めました」
詩乃は真っすぐに新戸の目を見ながらそう告げた。
力強く、何の迷いも無く剣丞を愛していると宣言していた。
「オレはやはり、剣丞が嫌いだよ」
「私はそれでも、剣丞様を支えます」
詩乃と新戸がじろぉ~っと互いに睨み合う。
剣丞は頑固者で、無鉄砲で、どこか現実離れして、常識外れな所がある。
それを新戸は困った性分だと思い、それを詩乃は魅力的だと感じている。
ある種の価値観の違いが、2人を見事に隔てていた。
「良い鬼子なんてものはこの世のどこにも存在しない……とは?」
どうせ分かり合えないのだからと、詩乃はさっさとこの話を切り上げる。
「オレ達鬼子は人間の醜い所、汚い所をドロドロになるまで煮詰めた存在だ。
良いか悪いかを言うなら、間違いなく悪いの方に属するさ」
「でも君は、俺達の味方をしてくれているように見えるよ」
「それは勘違いだ、お前の味方はしていないぞ新田剣丞。
良い鬼子がいるだなんて幻想、早めに捨てた方が良い。
変な希望を抱いて裏切られるのは、辛いからな」
それだけ告げると、新戸はまるで煙のように姿を消した。
テレポーテーション……ではなく、単に念動力の応用で自分の身体を飛ばしただけだ。
その一瞬の出来事を目で終えた者は、本多忠勝ただ一人だけだ。
「あっ!? き、消え……た……?」
「跳んだだけですよ、歌夜」
綾那には新戸の言葉が、照れ隠しのように思えた。
他の鬼子の事は知らないが、綾那には新戸が良い鬼子のように思えて仕方が無かった。
「じゃあ剣丞様、綾那達はえすぱぁとの戦い方を勉強してくるのです」
「分かった、頑張ってきてくれ」
色々と新戸に聞きたい事はあったが……剣丞はそれを飲み込んだ。
「私達の力が必要になりましたら、すぐに言ってくださいね」
「頑張ってくるの!」
「……行ってくる」
綾那、歌夜、鞠、小夜叉の脳筋カルテット……もとい、腕っぷし担当組がどたどたと新戸の後を追って駆けだした。
剣丞も、詩乃も、綾那も歌夜も、ついこの間蘭丸という新手の鬼子に為す術もなくヤラれかけたばかりだ。
自然と肩や腕に力が入る。
後に残ったのは剣丞、詩乃、一葉……剣丞隊の中枢ともいえる3人と、かつて剣丞隊と共に戦った小寺雫官兵衛である。
「さて……ようやく静かに話せるといった所かの」
「そうですね。 まずは雫、代役の任、務めてくれてありがとうございました」
「いえ、私は何も……」
「普通の状態ではなかったとはいえ、
既に長尾に仕えていた貴女に剣丞様の手助けをしろと言ってしまい、
申し訳ありませんでした……本当に助かりました」
「あの、本当に私は何もしていませんよ」
「いえ、長尾の真っただ中に飛び込んで、大きな軋轢無くここまで過ごせた事自体、
そうそう簡単な事ではありません。
分かっています、貴女が陰ながら力を貸してくれていた事は」
「……あんまり褒めないでください、照れますから」
「ありがとう雫、本当に助かったよ」
「うむ、我等は右も左も分からん状態だったからな」
「あうぅ……」
剣丞と一葉が追撃し、雫の頬が真っ赤になった。
元よりあまり褒められ慣れていないのだ、彼女は。
「それに、私は諦めませんですからね……でしたっけ?
聞いているこっちまで恥ずかしくなるような告白でしたよ、雫」
「へ……? き、聞いていたのですか!?」
「そりゃあ聞こえますよ、あの時既に例の不調はだいたい治っていたのですから」
「むしろ聞くなと言う方が無理な話であろう。 あれだけ大きな声で叫ばれてはな」
「えっと……お幸せにって言えば良いのかな?
今回の騒ぎの元凶になった俺にそれを言う権利があるかどうか分からないけど」
あの恥ずかし過ぎる告白が目の前の3人に思い切り聞かれてしまった事を知って、雫の顔がさっき以上に真っ赤になって、額や頬がかぁ~っと熱くなっていくのを感じた。
「……で、何でその雫が俺の嫁になるなんて話になったんだ?」
「え? なりませんよ」
雫の顔が一瞬にして真顔に戻る。
「え、でもこの手紙では、空ちゃんが負けた時は美空と一緒に君もって……」
剣丞の手の中にある書状には、美空と柘榴と犬子と粉雪と貞子と雫と一二三が、全員纏めて新田剣丞の嫁になるなんて非現実的極まりない文面がある。
一二三って誰だよってツッコミを入れたい気分だが、そんな事は些細な事だ。
重要な事は、ほんの数日前に剣丞の目の前で斎藤九十郎が好きだと叫んだ女達が、揃いも揃って剣丞の嫁になると宣言している事だ。
何かの冗談なんじゃないかと、何かの間違いなんじゃないかと、そう思いたくて仕方が無かった。
「負けませんから、九十郎さんは」
「ええ~……」
しかし雫の返答は、剣丞の微かな希望を完膚無きまでの打ち砕いた。
剣丞は思った……うっかり勝ったりでもしたらエラい事になると。
「へぇ……」
「ほほぅ……」
一方、自信に満ちた表情で九十郎が勝つと……新田剣丞が負けると断言したのに対し、詩乃と一葉は興味深そうに、あるいは面白そうにその眼を見開いた。
「では聞きましょうか、何故勝てるのかと?」
「私が勝たせます」
雫はもう一度力強く断言した。
雫が九十郎への想いを叫んだ日と同じ、強い意志が籠った目であった。
「その意気や良し。 しかし勝つのは剣丞様です」
「え、勝つの?」
そんな雫に対し、詩乃がそう告げる。
もっとも、その発言に一番驚いたのは肝心の新田剣丞であるが。
「どのように勝つのですか?」
「私が勝たせます。 まあ、具体的な話は当日まで内緒としますが」
詩乃が先程の雫と同じ……いや、それ以上の決意と覚悟と共に雫に告げる。
雫は斎藤九十郎の方が新田剣丞よりも良い男だと思っているかもしれないが、それは違う。
新田剣丞こそが天下一の男で、新田剣丞が斎藤九十郎に劣る筈が無い……前髪の奥に隠れた詩乃の目には、そんな意思が宿っていた。
そんな意思が雫にも、一葉にも伝わってきていた。
「いや勝たせないでくれよ、うっかり勝ったら明らかにヤバいだろコレ」
なお、肝心の新田剣丞は思わずそんなツッコミを入れてしまっていた。
少なくとも剣丞にとって結婚とは男女が互いに愛し合ってするものであって、断じて戦の勝ち負けで決めるような事ではない。
それが九十郎が好きだと叫んだ娘達ならば猶更だ。
「……ズレておるの」
「そこが剣丞様の良い所ですけれどね」
「痘痕もえくぼというヤツか?」
「かもしれません。 ですがそれはお互い様でしょう」
「違いないの」
詩乃と一葉がそっと目を伏せる。
彼女達が再認識したように、新田剣丞はズレている。
そもそもこの時代では、当人同士が納得する結婚は稀であるし、当人同士が愛し合う結婚はもっと希少なのだから。
「まあ、向こうの狙いは明白よ。
賭金を思い切り釣り上げてこちらを降ろそうとしておるのであろうて。
アレが昔から良く使う手だ」
「せっかく目の前に甘美な果実をぶら下げて貰ったのです、遠慮無く頂戴しましょう」
「違いないな。 全く昔から、一度でも懐に入れた相手には甘い甘い……
いや、その点は余も久遠も偉そうには言えんか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ2人共、まさかとは思うが勝つ気なのか!?」
「主様、まさかとは思うが負けてやる気だったのか?」
「当たり前だろう!
あんなにも一生懸命に九十郎の事が好きだと言ってる娘を、俺の嫁にするなんて……」
「言っておきますが剣丞様、断る事はできませんよ」
「え……?」
「勝負の如何に関わらず、自分は新田剣丞の妻になると言ってきた場合、
剣丞様はそれを拒む事ができません。
早い話、美空さんが勝負など知らん、剣丞の嫁になると叫んだ場合……」
「美空は主様の嫁になる……我らや主様が何を言おうが。
鬼と戦う者であれば誰でも良いというのが、
誑し免状の唯一にして絶対の条件であるからな。
そして現状、美空は間違い無く鬼と戦う意思を持っておる」
「ええ~……」
剣丞は血の気が引いた。
純朴な現代人である剣丞には、愛の全く無い婚姻がありうる事に考えが至っていなかった。
そういう婚姻がある事は知っていたが、それは知識として知っていただけで、自分の身に降りかかるとは全く想像できていなかった。
「犬子さんを抱かれたのですから、その責任を取られてはどうですか」
「いや、あれは……信じてもらえるか分からないけど、
気がついたら抱いてたと言うか……えと、どう言えば良いか分からないけど……」
「まあ分かっておる、主様は人妻を強姦できる性分では無い」
「可能性としてありうるのは、九頭竜川で遭遇した鬼子のように、
他人の精神に働きかける能力を持った者でしょうか」
「そのものズバリ、九頭竜川の鬼子かもな」
「まあ、いずれにしましても……」
「ああ、いずれにしても……」
「勝ちましょう、剣丞様」
「勝つぞ主様」
詩乃と一葉が当然の事、既定路線であるかのようにそう告げる。
剣丞は泣きたくなった。
「……何でそうなるんだ?
負けても尾張に送り返されて、今後越後に入国禁止になるだけなんだぞ」
そう告げると詩乃と雫がちょっとがっかりした様子で目を見合わせる。
「お言葉ですが剣丞様、決して『だけ』とは言い難いかと。
今の日ノ本の状況を理解されてますか?」
「剣丞様、誑し免状が出された理由をお忘れですか?」
「え、いや……つまり……鬼が各地で暴れてて、朝倉さんが……」
「その様子ではイマイチ理解しとらんようだな……」
詩乃が、雫が、そして一葉が口を揃えて剣丞を追及する。
分かっているのか……と。
「まず、我々に残された時間は少ない……これが前提です」
「諸国を侵食する鬼の猛威は、主様が思っているよりも早い」
「つまり、常識的な手段で、常識的な速さで日ノ本を纏める時間は無く、
かと言って散発的に対抗していては、いずれ日ノ本は鬼に呑まれます」
「でなければ、我も久遠もあんな笑える免状を出しはしない」
「つまり……剣丞様に拒否権はありません」
「同時に、剣丞の妻である我等にも拒否権は無い」
「そこに愛があろうが、無かろうが……まあ、私に言えた義理は無いかもしれませんが……」
「う……だけど……そんな……」
現代人の道徳では、それは許されない事だ。
現代人である新田剣丞にとって、彼女達の言葉は理解はできても、納得はしちゃいけない事だ。
だがしかし……自分に拒否権が無い事だけは理解できた。
「だけど、勝負に勝って美空を無理矢理嫁にしたりなんかしたら、
越後に人達から恨まれるだろう、美空だって……」
「そこは主様の誑力(たらしちから)に賭ける」
一葉が力強くそう断言する。
酷い理屈だと思いながらも、詩乃も、雫も、一定の説得力があると感じた。
「俺にそんな力は無いよ」
「あるとも、余が保証する」
「ええ、ありますね。 私もその証人です。
それに剣丞様、ここで負けて、越後から叩き出されたとしたら……
どうやって貴方の地に落ちた信頼を回復させるおつもりですか?」
「うぐっ」
剣丞は反応に窮する。
この間の美空の怒りようでは、何を言っても全く聞く耳を持ってくれそうも無い。
「いえ、負けて頂いても問題ありませんよ剣丞様。
私が越後に残って、鬼との戦いに関する協力『だけ』はしますので」
雫は『だけ』の部分を力を込めて強調した。
「雫はああ言っているが、心にわだかまりが残ったまま戦っていれば、
後々致命的な隙にもなりかねん。
ならば剣丞には決して惚れんとドヤ顔で言い放ったあいつに、
吠え面をかかせてやるしかあるまい」
「そうですね、勝って思い知らせて差し上げましょう。
新田剣丞こそが天下一の男であると」
「妙なプレッシャーかけないでほしいなあ……」
「雫、勝てば長尾景虎殿は剣丞様の妻になる……もう一度確認します、確かですね?」
「ええ、間違いありません。 もっとも負けませんが」
「それは、私に勝つ……と、解釈しても構いませんね」
そう詩乃に問われ、雫は微かに迷いを見せる。
自分に今孔明と謳われる竹中半兵衛に勝てるのだろうか……と。
「……勝ちます」
少し声が震えていた。
勝つ自信があるのかと問われれば、胸を張ってYESとは言えない気分であった。
だがそれでも……雫は退かない、雫は退けない。
愛する斎藤九十郎が新田剣丞よりも良い男だと証明するために。
「ならいっそこちらも積み増しましょうか。
剣丞様が負けたら竹中半兵衛は斎藤九十郎の妻になるというのは?」
詩乃が唐突に特大の爆弾をブチ込んだ。
「え!?」
「ふむ、それも面白い。 余も乗ろうか」
ほぼ同時に一葉が……現役の征夷大将軍が超特大の爆弾をブチ込んだ。
「ええっ!?」
「無駄ですよ、九十郎さんは鬼と戦うなら誰でも……なんて言っていませんから。
『え? やだよ』の一言で切って捨てられるのがオチです。
もちろん、尻軽女の二つ名が欲しいのでしたら止めませんし、
公方様にそこまでの決意がおありなら、
大々的に尻軽という噂を流してお手伝いというのもやぶさかではありません」
思い切り動揺していた剣丞とは違い、雫は一切の動揺を出さずにそう切り返す。
詩乃も一葉も、本気で言った訳ではない。
新田剣丞が勝つと信じているが……詩乃には愛する剣丞の妻という立場を一片の紙の如く捨て去る事はできないし、一葉が剣丞の妻でなくなれば、久遠達の立てている戦略が根底から覆るが故に、一度の戦の勝ち負けで離婚なんて話は持ち出せない。
先の発言の真意は、雫の反応を見るためだ。
雫が……小寺官兵衛と言う名の軍師が、竹中半兵衛の全能力を持って立ち向かうべき『敵』であるかを確かめるためだ。
「勝つのは剣丞様です。 長尾景虎殿も、貴女も、必ず手に入れます。
手加減はしません、日ノ本のために、日ノ本を鬼の脅威から救うために」
「日ノ本の為に……ええ、私もそこはブレません。
剣丞様はこれからの日ノ本に必要な人です、鬼を討ち滅ぼすために必要な人です。
ですがそれはそれとしてこの勝負は九十郎さんが勝ちます。
私が勝ちます、勝たせます。 小寺官兵衛が……今孔明殿に、竹中半兵衛殿に勝利します。
勝って証明して見せます、斎藤九十郎は日ノ本一の男性であると。
新田剣丞に決して劣らぬ男性であると証明します」
この日……竹中半兵衛は小寺官兵衛を明確に『敵』と認識した。
全能力を持って自分に挑んでくる『敵』だと。
全能力を持って迎え討たねばならない『敵』だと。
「どちらが勝っても、鬼との戦いは継続ですが」
「ええ、その通りです。 ですが今だけは……」
「はい、今だけは……」
「私は、貴女に勝つ」
「私は、貴女に勝つ」
この日、詩乃と雫は互いに宣戦を布告した。
美空は、柘榴は、粉雪は、貞子は、そして雫は叫んだ……『レイズ』と。
それに対し、詩乃と一葉はこう告げた……『コール』と。