戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と九十郎第6話『稲生の戦い(後編)』

 

「そこをどけ小童共おぉっ!!」

 

「てめぇこそどけよ勝家えぇっ!!」

 

「み、壬月様……お覚悟ぉっ!!」

 

壬月が、九十郎が、そして犬子が戦場で相対……激突した。

 

こんな雑魚共に構っている暇は無い。

一刻も早く久遠の下へ辿りつき、一刻も早くこの馬鹿げた殺し合いを終わらせるため……初撃で2人纏めてあの世に送る。

 

そんな壬月の思惑を、九十郎は踏み越えた。

全力で駆ける勢いと、裂帛の気勢、必殺の信念を籠めた一撃を、九十郎は見事に受け止めて見せたのだ。

 

「こ……孺子、こいつ!?」

 

「技は千葉、位は桃井なら、力は俺だぁっ!! パワー比べなら負けやしねぇぞぉっ!!」

 

まるでフリーザと戦っている時のピッコロのような台詞であるが、九十郎と壬月の腕力は確かに拮抗していた。

 

一瞬の驚愕……しかし、九十郎の剣がミシリと嫌な音を立てたのを壬月は聞き逃さなかった。

このまま腕力で押し切れると、壬月は即座に判断する。

 

「九十郎大丈夫っ!?」

 

「ぶっ刺せ犬子ぉっ!! 戦場に卑怯もラッキョウもねぇっ!」

 

まるでウルトラマンタロウと戦っている時のメフィラス星人二代目のような台詞であるが、犬子はその言葉に素直に従った。

 

「う……うんっ!」

 

繰り出された槍の一突きを、壬月はギリギリの所で躱す……本当にギリギリの所であった。

 

「くっ!」

 

今この瞬間だけは敵味方に分かれているとはいえ、共に織田に仕える者同士で争う事への忌避感、上司に槍を向ける事への遠慮、2人で1人に対し襲い掛かる事への気後れ……武家の娘として生まれ、武人として育てられてきた犬子の一瞬の迷い、それが無ければ壬月は死んでいた。

 

「勝家ぇっ!!」

「離れろ糞餓鬼ぃっ!!」

 

次は避けられない、このままの体勢では危うい、そう壬月が判断した次の瞬間……壬月の蹴りと九十郎の蹴りが同時に胸倉、腹に当たり、鍔迫り合いになっていた2人の身体が離れる。

 

「……名乗りは要らんよな?」

 

胸倉に付いた泥を払いながら、九十郎が剣を構える。

 

「お互いそんな暇ではあるまい」

 

ぷっと地面に唾を吐き、壬月が戦斧を構える。

今この瞬間にも織田家の将兵達が摩耗し続けている。

それに森一家のヒャッハーヒャッハー煩い声がすぐ近くにまで迫っていた。

呑気に自己紹介をしている時間は、お互いに無い。

 

九十郎の構えを改めて観察し……壬月は2人を雑魚と侮った自分を恥じた。

この男も、前田犬子利家も、年は若くとも一角の武士であると悟ったのだ。

 

鬼柴田の御家流は溜めの時間が必要であるため、接近戦では使えない。

それに既に敵味方入り乱れての乱戦になってしまっているため、仮に使えば味方も多数巻き込んでしまう。

そして今更逃げ出す事もできない……実力で押し通る以外の選択肢は、既に無いのだ。

 

「かかれ柴田に引き佐久間、米五郎左に木綿藤吉……

 槍の又左と退くも進むも滝川……全く、しょっぱなからビッグネームが出てきやがって」

 

九十郎はこの戦いで柴田勝家を殺したら歴史変わるんじゃねえかな、できればなぁなぁで済ませたいけど殺す気マンマンじゃねーかどうしよう、なんて事を考えていたが、とりあえず神道無念流の剣の冴えは本物である。

 

なお、この男は丹羽長秀が何故『米五郎左』と呼ばれているかは知らないし、佐々成政の名前はそもそもインプットされていない。

 

「九十郎、犬子と……犬子と一緒に戦って」

 

胸の内から湧き上がる不安と恐怖を必死に噛み殺しながら、犬子は九十郎にそう頼んだ。

槍には僅かな震えが見えた。

 

「何を今更、俺達は最後の最後まで一蓮托生だよ」

 

九十郎はさっきからヒャッハーヒャッハー煩い連中に、勝家を押し付けて逃げれねーかなと考えていたが、とりあえず犬子を見捨てて逃げる気は一切無い所だけは本気である。

そんな事をすれば今迄の苦労が水の泡になり、安寧な生活の確保が遠のくからだ。

 

九十郎の頭の中はどこまでも自分本位であったが、九十郎の言葉は誰よりも真剣であった。

故に犬子の槍の震えが、膝の震えが、冷や汗が……止まった。

 

「うおおおぉぉぉっ!!」

「どぉりゃああぁぁっ!!」

「ていりゃあぁっ!!」

 

……再度激突。

 

壬月の戦斧が、犬子の槍が、九十郎の剣が唸りを上げ、鎬を削る。

 

「……って、何で戦国時代で柴田勝家とチャンバラしてんだ俺はぁっ!!」

 

久遠の居る場所に向かう最短距離に2人が居たからである。

尻尾巻いて逃げりゃ良かったかと九十郎は心の中で後悔したが、それをした場合高確率で犬子が死ぬので、九十郎は逃げるに逃げられない。

 

「そもそも何で柴田勝家が敵に回ってるんだ!?

 織田信長の右腕的存在じゃなかったのかよ!?」

 

九十郎は勘違いをしているが、この時点における柴田勝家は、織田信行の家老である。

織田の家に仕える者ではあるが、信長と直接の主従関係がある訳ではないのだ。

 

「久遠様では織田が保たん!!」

 

「わかるわー」

 

「分かっちゃ駄目だよ九十郎!!」

 

三者三様の武芸が、意地と誇りがぶつかり合う戦い……約一名なぁなぁで済ませたいなと心の底から願っていたし、いっそ勝家と一緒に信長を斬りに行ってやろうかと本気で検討していたが、とにかく戦いが続く。

 

「2人とも退けい! 久遠様への義理立ては十分であろうが!」

 

いや……壬月もまた、なぁなぁで済ませたいと思っていた。

前途ある若武者達を1人でも多く生き残らせたいと願っていた。

 

「犬子は……犬子は久遠様を信じる! 久遠様を守る!」

 

「違うな勝家、信長はお前が思うより強かでしぶといぞ。

 少なくとも今川義元よりはな」

 

しかし、2人は退かない。

2人は織田久遠信長こそが尾張の正当なる主であると、織田久遠信長ならば今川にも斎藤にも負けない……いや、勝てると信じていた。

 

まあ、同時に九十郎は犬子と一緒に逃げ出してしまいたいとも考えていたが。

 

「この……分からずや共がっ!!」

 

だがしかし、悲しいかな九十郎は極貧農家の倅である。

磨き上げられた技術においては壬月に匹敵するも、この男には一流の武芸者同士の戦いに耐えられるような剣を用意する金は無かった。

3人の中で唯一、強度も切れ味も心許無い、質の悪い数打ち刀しか用意できなかった。

 

ものの数分もしない内に……九十郎の剣には無数の亀裂が奔り、刃は零れ落ち、今にも折れそうな程にボロボロになっていった。

 

「……くそが」

 

九十郎は静かに悪態を吐いた。

 

刀の強度に気遣いながら戦える程、刀が折れる前に決着を付けられる程、壬月は弱くない。

刀の状態に気づかない程、壬月は抜けていない。

 

その証拠に壬月は、その剛腕に任せた重い一撃を、何度も何度も九十郎に叩きつけるようになっていた。

 

もうじき刀が折れる……そうと分かっていながら、九十郎にはどうする事もできなかった。

こんな事になるのなら、笄ではなく刀を買っておくべきだったと後悔した。

 

そして九十郎の予想通り、壬月の思惑通り……刀は無残にも砕け散った。

 

「……まずっ!?」

 

予備は無い、そんな物を用意する金は無かった。

神道無念流は剣を振るう技術、素手では実力の半分も発揮できない。

九十郎は即座にその辺に転がっている死体から刀を奪おうとしたが、それを素直に許す程、壬月は優しくはない。

 

「ならば織田のために……ここで死ね孺子ぉっ!」

 

振るわれる戦斧……素手の九十郎ではとても防げない、回避もできない明確な死……それが九十郎に迫る……

 

「九十郎ぉっ!!」

 

振るわれる殺意を、犬子が寸前の所で妨害する。

だがしかし、今の犬子は壬月より、九十郎よりも数段弱い。

2人がかりでどうにか均衡を保っていられた相手に1人で戦って無事で済む筈も無い。

 

2撃目、3撃目……みるみるうちに犬子は劣勢になっていく。

九十郎は新しい剣を拾うべく周囲を見渡すが……一番近い死体まで5m程度の距離がある。

行って戻って来るまで犬子1人で大丈夫なのか? そう九十郎が思った瞬間……

 

「ぎゃわんっ!?」

 

犬子の身体が血で染まった。

壬月と九十郎の身体に、返り血がべっとりと付着する。

 

壬月の戦斧で……ではない。

戦場を飛び交う流れ矢の一本が、運悪く犬子の右目やや下の所に突き刺さったのだ。

 

不運と言えば、明らかな不運……だがしかし、壬月はそれを見逃す程優しくはない。

 

「く……おおおおっ!!」

 

ほんの僅かな良心の呵責……才気溢れる若武者を殺す事への忌避感を瞬時に噛み殺し、壬月は戦斧を振り下ろす。

 

「九十郎……」

 

飛び散った血で、犬子は前が見えなくなっていた。

見えなくなっていたが、自分の死がすぐそこまで迫っているのが理解できた。

どう足掻いても避けられない一撃が、すぐそこまで迫ってきているのが……

 

「……逃げてぇっ!!」

 

……そう叫んでいた。

 

本当は助けてと叫びたかった。

助けてと叫ばなかったのは、生まれてからずっと教え込まれてきた、戦場に立つ武家の矜持であろうか……だがしかし……

 

「さ・せ・る・かあああぁぁぁーーーっ!!」

 

……だがしかし、九十郎は犬子を助けに行った。

 

その手に握るのは犬子の太刀……数年前に犬子が壬月から贈られた太刀、九十郎が今日持っていた刀よりも何倍も何十倍も質の良い太刀であった。

 

咄嗟に、無我夢中に、間に合うかどうかなんて全く考えずに、九十郎は2人の間に割って入り、犬子の腰に履く太刀を引き抜いたのだ。

 

「九十……郎……?」

 

「……さっきも言っただろう、一蓮託正だ」

 

……そして間に合った。

 

この男、自分1人ならば尻尾を巻いて逃げる事を躊躇しないチキン野郎であったが、犬子を見捨てて逃げる気は一切無い。

今まで必死こいて育ててきた金の卵を産むガチョウを失う羽目になるからだ。

この男、どこまでも自分本位である。

 

そんな九十郎の極めて欲深い内心には気づけなかったが、犬子は目の前の男が、命懸けで自分を守ろうとしている事だけは理解した。

 

「立て犬子ぉっ! 大丈夫だ、その場所は致命傷じゃない、何時間でも守り続ける!

 それとさっき犬子に矢を射た奴! てめぇのツラ覚えたからなぁ!

 後で後悔させてやるから覚えてろよぉコンチクショウがぁっ!!」

 

再び振り下ろされる戦斧を受け止めながら、九十郎は叫ぶ。

犬子は必死になってふらつく両脚に活を入れ、槍を杖代わりにして懸命に生き足掻く。

 

「矢はまだ抜くなっ! 素人が力任せに抜いたらかえって悪化する!」

 

5度、6度、7度……幾度となく振り下ろされる致命の一撃を前にしながら、九十郎は崩れない、太刀も折れない。

ここで退けば犬子が死ぬ、ここで敗れれば犬子が殺される……九十郎の吐き気や悪寒は引っ込んでいた。

 

そしてまともな剣を持ちさえすれば、まともな精神状態であれば、九十郎は鬼柴田とすら互角に戦える程の優れた剣士なのだ。

このレベルの使い手がゴロゴロ居る辺り、大江戸学園は魔境である。

 

「……何者だ貴様? ただの農民が何故これ程までに戦える?」

 

壬月は驚愕し、思わずそう尋ねていた。

武技も、気迫も、その辺に居る雑兵とは一線を隔していた。

大江戸学園は本当に魔境である。

 

「神道無念流剣士、斎と……じゃねーや、ただの九十郎だ」

 

「おいちょっと待て孺子、今斎藤と言わなかったか?」

 

「い、言ってねーよ、ただの九十郎だよ。 極貧農家の倅の九十郎だよ」

 

それに対して九十郎は、うっかり前の生での苗字を言いそうになり、慌てて口を噤んだ。

 

「何故目を逸した!? 孺子本当にただの農家の倅なのか?

 神道無念流なんて聞いたの事の無い流派を何処で修めた?

 まさか……まさかとは思うが、斎藤家所縁の……」

 

「ち、違うからなっ!! 一応念のために言っておくが、

 美濃を治めている斎藤家とは全然関係ねーからなぁっ!!」

 

「九十郎、斎藤の人だったの!?」

 

「だから違うつってんだろ!!」

 

九十郎は真実を述べている。

前の生でも今生でも、九十郎は美濃の斎藤家とは縁も所縁も無い。

ただし、壬月も犬子もその言葉を思い切り疑っていた。

 

「なら、神道無念流を何処で学んだ」

 

「ええっと……撃剣館の、岡田師匠から……ですよ、うん……」

 

撃剣館も岡田師匠もこの時代には無いだろうなぁ……とか考えながら、九十郎は答えた。

 

珍しく九十郎の読みは正しかったが、その発言態度が拙かった。

視線を逸らし、盛大に冷や汗をかきながら答えたのでは、いくら真実を述べていたとしても誰も信じない。

撃剣館も岡田師匠も、壬月や犬子にとっては聞いた事の無い名であるなら尚更だ。

 

「九十郎、荒子にそんな場所無かったと思うんだけど、どこにあるの?」

 

「ど……どこだったかなぁ……」

 

案の定犬子にツッコまれ、九十郎は盛大に視線を逸らす。

この男は戦闘中である事を覚えているのであろうか。

 

「こ、此奴は……何者……なんだ……?」

 

「ク、クジュウロウダヨー……」

 

壬月も九十郎も手が止まっていた。

壬月は得体の知れない剣士の正体を必死に探ろうとして、九十郎はどうやって壬月を誤魔化そうか必死に考えて、互いに冷や汗を流しながら頭をフル回転させていた。

 

微妙な膠着、微妙な沈黙が3人を包みつつあったそんな時……

 

「壬いぃ月いいいぃぃぃーーーっ!!」

 

ヒャッハーヒャッハー煩い森一家の頭領、森桐琴可成が雪崩れ込んできた。

 

「……ちぃっ、桐琴か!?」

 

「とうとう来たか戦国DQN!! 待っていたよ戦国DQN!! ありがとう戦国DQN!!」

 

九十郎は後で上物の酒を桐琴にプレゼントしようと決意した。

 

壬月にとっても、犬子と九十郎にとっても、できれば会わずに済ませたい戦バカの乱入により、瞬時に膠着状態が解消される。

 

微妙な空気が流れていようが関係無い。

森桐琴可成にとって、森一家にとって、重要な事はヒャッハヒャッハー叫びながら暴れる事だけだ。

 

なお、九十郎は気づいていないが、本物の戦国DQNは森桐琴可成ではなく、娘の森長可の方である。

この時期はまだ生まれてすら……いや、一体何が歴史の歯車を歪めたのかは不明だが、生まれてはいる。

とはいえ、実戦に参加するにはまだ若すぎるのでお留守番中である。

 

……

 

…………

 

………………

 

結局、この日の戦い……後に稲生の戦いと呼ばれる戦いは、佐々成政(通称和奏)の姉・佐々孫介が討ち死にし、総大将織田久遠信長が最前線で刀を振るう羽目になる程の接戦になった。

 

「敵将林美作! 織田久遠信長が討ち取ったりぃーーーっ!!」

 

織田信行軍の将が、久遠の手によってその首を落とされた。

泥に塗れ、汗に塗れ、返り血も浴び、槍が刺さり矢が刺さり傷だらけになって、腕があげられない程、膝が震えて止まらない程の疲労もあったが、久遠は最後の最後まで戦った、戦い抜いたのだ。

 

戦場全体に響き渡る程に大きく、そして猛々しい声が聞こえた瞬間、信行軍の勢いは目に見えて衰える。

いや……信行軍の雑兵達は敗北を悟り、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めていた。

 

勝負あり……である。

 

この時代において、戦いに参加している者は大部分が名も無き農民である。

主君のために命を投げ出そうとする者は殆ど無く、戦況が劣勢になればあっという間に逃げ始める。

 

後に久遠は農兵から常備兵への転換を目指し、四苦八苦する羽目になるのだが……少なくとも今この段階では、大半がただの農民である。

 

主の為に命懸けで剣を振るい、どれだけ劣勢になろうとも、どれだけ強敵が現れようとも、どれだけ卑怯で見苦しい真似をしてでも、最後の最後まで主を護って生き延びようと本気で考えている九十郎は例外的存在なのだ。

 

「……それじゃあ、矢を抜くぞ。

 痛みと出血が激しくなるから、できるだけ力まないようにしてくれ」

 

「うん」

 

戦場の片隅で、九十郎がぺたんと座り込む少女の頬に突き刺さる矢を握る。

既に勝敗は決し、掃討戦に入った今、2人に襲い掛かろうとする者は無かった。

 

矢は九十郎が心配するよりも簡単に抜け、犬子が心配したよりも傷や出血は小さかった。

九十郎は手際良く水筒の水で傷口を軽く洗い、傷口を手拭いで縛り、止血をする。

 

念のために作っておいたドクダミや弟切草の葉で作った化膿止めも塗っておいた。

現代人である九十郎にとって、こんな民間療法に頼るのは気が引けたが……極貧農家の倅に過ぎない九十郎には、他の手段は用意できなかった。

 

「九十郎、薬の作り方なんてどうやって知ったの?」

 

「んん? ああ……昔、ちょっとな……」

 

まさかTRPGの合間に友人から聞いた無駄知識だ……とは言えず、九十郎は曖昧に濁した。

 

犬子はそんな九十郎の態度を追求しなかった……いや、追及できなかった。

本当は斎藤所縁の者なのではないかという疑問も、口には出せなかった。

言えば九十郎は自分から離れて行ってしまうのではと思ったからだ。

九十郎が傍に居ない毎日を想像し……犬子は恐怖に震えた。

 

「首級……一個も挙げられなかったね」

 

逃げる信行軍、追う信長軍を遠くに見つめながら、犬子は呟く。

2人とも、追討戦に参加する元気は残っていない。

 

犬子も九十郎も、身を守るので……敵味方を巻き込みながら暴れ回る桐琴と森一家から逃げるので精いっぱいであった。

 

特に犬子は遥か格上の壬月と矛を交え、右頬に矢が突き刺ささり、逃げ回る間に10箇所以上の切り傷、刺し傷を受け……失血と心身の疲労でフラフラになっていた。

九十郎が肩を貸さなければ、立ち歩く事すらできなくなっていた。

 

九十郎も何度か斬られたが、犬子に比べれば軽傷だ。

 

「俺は一つ頂いて来たぞ」

 

「え……い、何時の間に……?」

 

言われて初めて気がついたが、確かに九十郎の腰には人間の生首が一つ、括られていた。

後に分かる事であるが、これは柴田壬月勝家に使える小姓頭・宮井勘兵衛の首であった。

 

「犬子に矢を射った奴の顔、覚えていたからな。

 森一家が乱入してきた時にまだ近くに居たから、ダッシュで追いかけて斬った」

 

人を1人斬り殺したというのに、不思議と九十郎の心は安らかだった。

嫁入り前の女の子の顔に傷をつけるような奴だったからかも……と、九十郎は思った。

 

今はまだ、九十郎は特に恋愛感情を感じた事は無かったが、それでもなお、犬子を大切な存在だとは思っていた。

 

なおこの男、壬月……嫁入り前の女性相手に剣を振るった事を見事に棚に上げている。

それどころか、後で迷惑料とか言って勝家のデカ乳を揉みしだけねえかなとか考えており、はっきり言って屑そのものであった。

どちらかと言えば、迷惑をかけたのは小姓頭を討ち取った九十郎の方である。

 

「ね、ねぇ、九十郎……」

 

「どうした、犬子?」

 

「逃げなかったよね、犬子が壬月様に襲われても、矢が当たって怪我をしても」

 

「ははは、うちの御主人様は俺の事を腰抜けだと思っていたらしいな」

 

軽く笑い飛ばすように言うが、九十郎は例外的存在だ。

下男として最低限の給金しか払っていないのに、九十郎は戦場までついてきた、犬子の隣で剣を振るった、犬子が負傷しても守り続けた、励まし続けた、犬子に矢を射た者を討ち取り、戦いが終われば傷の手当までした。

 

それが犬子にとってどれだけ大きな衝撃を与えたか、どれだけ大きな救いであったか、九十郎は全く気づいていなかった。

 

「うん……ごめん、途中で逃げると思ってた……」

 

「悪いと思っているなら、俺が逃げても問題無い位強くなってくれ」

 

そして俺に安寧な生活をプレゼントしてくれと、九十郎は最低な事を考えた。

この男、逃げても犬子は死なないと思ったら、迷わず逃げるチキン野郎である。

犬子は今すぐこの男をクビにするべきだ、物理的に。

 

「犬子、もっと頑張るからね。 それと……」

 

……今、自分が生きているのは九十郎のおかげだ。

犬子はそう思っていた。

 

だけど今、犬子は自分が抱いている感情が何なのか、判別ができなくなっていた。

無関心ではない、それだけは断言できる。

しかし友情なのか、感謝なのか、親愛なのか、不安なのか、あるいは……愛情なのか。

自分の心中に渦巻く感情の波が、犬子の心臓を圧迫していた。

 

だから……

 

「あり……がとね……」

 

今の犬子には、俯いてそう呟くのが精一杯であった。

 

ただし九十郎は、なんだ案外戦えるじゃないか神道無念流は……なんて極めて楽観的な事を考え、犬子の複雑な心境に全く気付いていなかった、これがこの男の平常運転である。

 

犬子が九十郎への恋心を自覚するのは、もう少し後の事。

九十郎が犬子に対し愛情を抱くようになるのは、かなり後の事である。

 


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