「犬子、もう大丈夫っすか?」
長い夜が明け、東の空が白み始めた頃、柘榴は犬子にそっと尋ねた。
「全然、大丈夫じゃないよ……大丈夫じゃないけど、
一晩中泣いたらちょっとは落ち着いたよ。 ありがとう、柘榴」
目を覚ましてから犬子は泣いた。
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も何度も懺悔の言葉を呟きながら、ぼろぼろと涙を零し続けた。
自分の心の中にある九十郎が好きだという気持ちが信じられなくなった。
九十郎の事を忘れて剣丞に抱かれただけでもショックだというのに、蘭丸の催眠能力にはまるで抵抗できず、あっという間に発情して柘榴の足を引っ張った……その事が犬子の心を苛んでいた。
「ごめんね柘榴、本当にごめんなさい。 何度も何度も迷惑かけてるよね。
犬子と九十郎が越後に来てから、本当に迷惑しかかけてないよね」
「気にしなくても良いっすよ。 家族っすから。
それに犬子には色々助けられてるっす、お互い様っすよ」
そして夜が明けるまでずっと泣き続けている犬子に、柘榴は何も言わずに胸を貸し続けた。
どんな情けない泣き言も黙って聞き続けた。
犬子にとって何よりも有難かった。
有難くて、それに比べて自分が情けなくて涙が漏れてきたが、それすらも柘榴は受け止めた。
「もう、出ていくなんて言ったら嫌っすよ」
「もう言わないよ……ううん、言えないよ。
犬子のためにここまでしてくれる人を置いてどっかに行くなんて、絶対にできないよ」
それを聞くと柘榴は感極まって、ちょっと目を潤ませながら犬子をぎゅうっと抱きしめた。
「ごめんね……ごめんなさい、柘榴……」
一晩中泣いたというのに、涙が枯れる程に泣き尽したというのに、犬子は目尻に熱いものが溜まっていくのが分かった。
自分が情けなくて、そんな自分を家族と呼んでくれる事が有難くて、頭がどうにかなりそうだった。
「謝るんじゃねーっすよ、もう家族なんっすから」
「うん、そうだね。 そうだったね」
「絶対に忘れるんじゃねーっすよ、犬子」
「うん、絶対に忘れないよ。 もう二度と……絶対に……」
それでも……と、犬子は思う、思ってしまう。
あれだけ好きだった九十郎を、一時とはいえ忘れてしまった自分なのだから……と。
そして犬子がどんな事を考えているのか、柘榴には分かった。
「(昨日出た鬼に何かされた……そう考えるのが自然っすよね?
犬子が九十郎の事を忘れるなんて、何度考えてもありえねーっすから)」
一度体験したからこそ、柘榴には分かる。
蘭丸の精神操作は気合や根性で耐えられるようなものじゃないと。
そしてたぶん、襲われたという記憶を失わせる事もできるだろうと。
「(柘榴の家族を泣かせた事、必ず後悔させてやるっすよ)」
柘榴はそう決意した。
「(それと……剣丞は冤罪だったかもっすね、後で謝っとくっすか)」
それと同時に、理不尽に怒りを向けてしまった剣丞に対して、少し申し訳なく思っていた。
柘榴がそんな事を考えていると……
「ふっざけんなあああぁぁぁーーーっ!!」
渦中の人物……九十郎の叫び声が2人の元に届いた。
「行くっすか、柘榴達の愛する旦那様の所に」
柘榴はふっと笑ってそう言った。
美空か九十郎が何か騒動を起こして、それに翻弄されるのは柘榴にとっての日常そのものだ。
柘榴はそんな下らない事が何よりも愛しく思っていた。
「そうだね。 犬子が泣いてる間に、色々あったみたいだし」
「昨日の時点では、舐めた真似した剣丞をとっちめるんだ~って、
御大将カンカンに怒ってたっすけど……あの後どうなったんっすかね?」
「……なんでだろ、何か嫌な予感がするよ」
「奇遇っすね犬子、柘榴もっす」
そして2人が声のした方へと駆けていくと……そこでは怒りや混乱、驚愕、何とも言い難い複雑な表情をした九十郎が美空に掴みかかっていた。
「ちょっと!? 九十郎何やったの!?」
「御大将、今度は何やらかしたっすか!?」
犬子と柘榴が止めに入る。
犬子は九十郎が原因と思い、柘榴は美空が原因だと思う辺りに2人の信頼の程が現れている。
九十郎はこの時代における常識が無いし、美空は美空で時々頭を空っぽにして突っ走る悪癖があるのだ。
「……美空がな、空と名月を戦わせるって言ってるんだよ。
勝った方に美空の跡継ぎをやらせるってな」
「ああ、そうだったんだ。 何で今……とは思うけど、それは悪い話って訳じゃないよね」
「んで、俺は空に、剣丞には名月に加勢しろって話になってる」
「……御大将、あの人達部外者っすよね。
他所から手を借りて跡継ぎになりでもしたら、後々厄介な事にならねーっすか?
今でさえ名月は北条の紐付きなんすよ」
「相対的に北条の影響力を減らせるでしょ」
「ああ、成る程。 今後織田と組んで動く気なら、悪くねー選択肢かもっすね」
「それと、名月が勝ったら私は新田剣丞の妻になる事にしたから」
「おお、御大将もついに人生の墓場行きっすか、謹んで御冥福を……て、え?」
「ああ、ご結婚おめでとうござい……て、え?」
犬子と柘榴がその唐突な爆弾発言を理解するまでたっぷり10秒はかかった。
犬子が祝辞を、柘榴が弔辞を述べる辺りに、2人の信頼の程が現れている。
「ええーーっ!? 御大将気でも狂ったっすか!?
何でよりにもよって新田剣丞に嫁ぐっすかぁっ!?」
「鬼と戦うなら誰でも嫁になれるって言ってたでしょ。
私も鬼をどうにかしないといけないって点は一致してるからね」
「嫁ぐ嫁がないはともかく、理由を言うっす!」
「柘榴……今までずっと黙っていたけど。 私は九十郎の事が好きだったのよ」
美空はちょっと指をもじもじさせながら、彼女にとっての秘中の秘を告げる。
「知ってたっす」
……だがしかし、それを柘榴はバッサリと切り捨てた。
「え、知ってたの!? 何で!? どうやって!?」
「見てりゃ普通に分かるっすよ、御大将分かり易いっすから」
「……本当?」
「大まじっす」
「すとれすだわ……ええ、本当にすとれすって奴ね」
意訳『酒飲んで泣きたい』。
「飲み過ぎは身体に悪いっすよ、御大将。
それより何で御大将が剣丞に嫁ぐなんて事になるっすか?」
「私が九十郎を世界一の男だと信じるからよ」
「九十郎なら剣丞に負けないって?」
「そう! その通り! 九十郎なら絶対に剣丞に勝つわ! 絶対に!」
「だから負けたら剣丞の嫁になるって?」
「そうそう」
「率直に言って頭おかしーっすね、御大将」
「おかしくないわよっ!!」
そこまで話を聞いて、柘榴は美空の最大の長所であり最大の悪癖……頭を空っぽにして突っ走っている状態だと察した。
そして美空がこういう状態になった時、柘榴がやる事は決まっていた。
「なら逆に空が勝ったら、御大将は九十郎の嫁になるっすか?」
「その通り……と、言えたら良かったんだけどね」
「俺は嫌だぞ。 何が悲しくて上杉謙信を嫁にせにゃならんのだ。
犬子だけでもヒーヒー言ってるってのに」
「まあ、私だけが嫁になったら、貞子達に悪いしね……」
「貞子達?」
「ああ、言ってなかったかしら? 貞子と、山県……いえ、粉雪と信虎、
それと雫も九十郎が好きだって剣丞の前で叫んでたのよ」
「柘榴の旦那様はモテモテっすね」
「柘榴の旦那様は天下一でしょ? 天下一の旦那様は放ってはおかれないものよ」
「いっそ全員嫁にってのはどうっすか。 柘榴は問題ねーっすけど」
「断固拒否する」
九十郎は即答する。
そこで柘榴がしばし考え込む。
九十郎は正直気乗りしていない様子だ。
九十郎の性格から……時々妙に卑屈になって、妙に新田剣丞を持ち上げようとする性格上、上杉謙信は新田剣丞の妻になるべきだとか考えているような気がした。
柘榴としても、美空には幸せになって欲しいし、できる事ならば九十郎と結ばれて欲しいと思っている。
そして同時に、美空が剣丞の嫁になるなんて絶対に拒否したいとも思っている。
九十郎が乗り気でない現状、名月が勝つ可能性はかなり高いと感じていた。
それに何よりも美空が頭を空っぽにして突っ走っている時、柘榴がやるべき事は決まっている。
それは……
「……なら、空が負けた時は柘榴も剣丞の嫁になるっす」
……それは突っ走る美空の背中を追って、どこまでもどこまでも突っ走る事である。
それ故に柘榴は掛け金を上乗せ(レイズ)した。
頭を空っぽにして、たぶん今の自分が用意できる一番価値のある物を上乗せ(レイズ)した。
「柘榴っ!?」
「お、おい!?」
「ちょ!? ええっ!? 柘榴何言ってるの!?」
瞬間、柘榴を取り巻く3人が目を丸くした。
特に九十郎の動揺は激しかった。
率直に言って気でも狂ったかと思われるような発言であった。
そして同時に、微妙にやる気が薄い九十郎の逃げ道を全力で塞ぐ発言でもあった。
「ざ、柘榴……ほ、本気で? 俺に……俺が不満なのか!?」
心のどこかで、柘榴はずっと自分の傍にいてくれると信じていた。
前田利家ではなく、山県昌景でもなく、上杉謙信でもない、ただの柘榴だからこそ、九十郎は柘榴の言う『好き』を信じられたのだ。
そんな柘榴が他の男の妻になる……九十郎にとって、その光景は何よりも何よりも見たくない、想像したくない光景である。
「何言ってるっすか。 柘榴は九十郎を心の底から愛してるっす。
世界一の旦那様だって信じてるっすよ」
「だったらどうして!?」
「九十郎は決して剣丞に負けないっす。 絶対に絶対に負けないって信じてるっす。
もっともそれは……本気で戦えばの話っすけど」
その言葉を聞いた時、九十郎はどきりとした。
正直に言って、自分が新田剣丞に勝つ姿が全く想像できなかった。
それどころか適当に戦って適当に負けて、美空を剣丞に押し付けてしまおうかとすら思っていた。
だから貴様は九十郎なのだ。
「……俺に、やる気を出せと?」
「嫌だって言うなら勝負の結果を待つまでもねーっす。
今すぐ離婚して剣丞に股開いてくるっす」
その瞬間、九十郎は想像した……想像してしまった。
柘榴がいやらしく股を開き、新田剣丞を誘っている姿を。
柘榴が九十郎の肉棒を銜え込み、腰を上下に揺さぶる姿を。
そして……そして柘榴のナカに……
それは吐き気がする光景だった。
それは腹の底から怒りが湧く光景であった。
「柘榴は俺の女だ、誰だろうが手出しはさせねえ」
その時、九十郎に芽生えた感情は怒りだった。
譲ろうとか、諦めようとか、傍観しようとか、そういう考えは確かに存在したが、それと同時に怒りが湧いた。
九十郎はこの時、初めて新田剣丞に対する敵愾心が芽生えたのだ。
もっともそれは、まだ小さな火であったが、どこまでも高く燃え上がる可能性を秘めた火であった。
「九十郎……」
……そんな九十郎の感情の動きが、犬子には分かった。
分かったからこそ悔しくて、悲しくて、情けなかった。
九十郎は剣丞に抱かれる犬子を見た時、剣丞を殴れなかったのだから。
「本気なの柘榴? 柘榴まで付き合う必要無いのよ。
正直な話、単に私が意地を張ってるだけなのだから……」
「柘榴にも意地はあるっす。 それに御大将が頭を空っぽにして突っ走ってる時、
柘榴が追従しなかった事、一度でもあったっすか?
柘榴はいつだって、どこまでだって、御大将に一点賭けっすよ」
「無い……無いわね……はぁ……」
美空はため息をついて、柘榴の説得を諦めた。
柘榴は自分と似て、意地っ張りで頑固な所があると知っていた。
「その話ぃ! あたいも乗ったんだぜぇっ!!」
「右に同じぃっ!!」
……直後、襖をがばっと開けて粉雪、貞子、信虎と雫が雪崩のように乱入してきた。
その4人は昨晩、剣丞の目の前で九十郎が好きだと叫んだ4人だ。
「貴女達!? 聞き耳立ててたの!?」
「まぁなっ! だがそんな事はどうでも良いんだぜ!
空が負けたら剣丞の嫁になるって話! あたいも乗るんだぜ!」
「はぁっ!? 粉雪貴女……これは長尾の問題なのよ!
部外者の貴女がそんな真似する必要ないじゃないの!」
「部外者なんかじゃないんだぜ! あたいだって九十郎に惚れた女なんだぜ!
そのあたいがこんな所で尻込みできるかってんだぁっ!!」
「一応言っておきますけど、私も同じ気持ちですよ、美空様。
私は旗揚げの頃から美空様と一緒に戦って来たのですから、部外者じゃないですよね?
それに正直、空様に勝ってほしいですし」
「いや、それは……でも……」
「では決定で。 九十郎殿、私も賭けに乗りますから、頑張ってくださいね」
貞子が粉雪に追従する。
貞子もまた柘榴と同じように、突っ走る美空と共に走り切る覚悟であった。
「信虎、雫、まさかとは思うけど貴女達まで同じ気持ちなんて言わないわよね?」
「我はやらんぞ。 貴様らが誰の嫁になろうが興味が無い」
信虎がきっぱりと美空の想像を否定した。
そもそも信虎は美空や粉雪、貞子と違って普通に既婚者である。
「ああそう、少し安心したわ」
「ところで景虎、早急に探してもらいたい人と調達してもらいたい物がある。
我と背格好が似た者10名と、我の鎧兜に似せた武具と旗印を10名分だ」
「貴女思いっきり参戦する気じゃないの!!」
「我が惚れた男の顔に泥を塗ったのだ、しかるべき報いを与えなければなあ。
血反吐を吐かせ、泥を舐めさせ、その上で惨たらしく斬殺してやらねば気が収まらん」
なお、信虎が求めているものは、信虎がガチで勝ちに行く時に使う必殺の戦法に使うものだ。
御家流を投げ返す程度の能力を最大限に発揮する戦法の為に使うものだ。
「私は……いえ、私は粉雪さん達と同じ気持ちです。
九十郎さんが負けた時は、潔く剣丞様の妻にでもなんでもなりましょう」
そんな中で、雫もまた自らの覚悟を示す。
正直雫は剣丞の方が九十郎よりも良い男だと思っている。
知恵があって、勇気があって、顔も良いと思っている。
思っているが、それでもなお九十郎に恋をしている。
雫は自らの魂が叫ぶ恋を噛みしめ、九十郎と共に戦おうと決意したのだ。
「私も一緒に戦います、剣丞様と……
そして稀代の名軍師、今孔明と謳われる竹中半兵衛と」
敵は強大であると、この中の誰よりも理解していた。
誰よりも理解していたが、それでもなお雫は、戦う決意を示した。
それが心の底から憧れた新田剣丞と、心の底から尊敬する竹中半兵衛との決別を意味するのであったとしても……
そして……
「……犬子も信じるよ、九十郎が勝つって」
……犬子がぽつりと呟いた。
それは小さくか細い声であったが、その場にいた全員の耳に届き、全員の注目を集めた。
「犬子までこんな馬鹿げた賭けに乗る必要無い……って言っても、聞きそうに無い顔ね」
「はい。 柘榴だけ剣丞様に嫁いでお別れなんて、嫌ですから」
「そう……」
犬子の様子を見て、美空は少し危ういと思った。
これで九十郎が負け、柘榴共々剣丞の嫁になる羽目になったら、犬子は壊れてしまうのではないかと思った。
だが……
「じゃあ、勝ちに行きましょうか」
今の美空はブレーキの壊れた暴走車両のような状態だ。
美空はここぞという場面で、意図的に自分の頭の中からブレーキペダルを取り外す。
そして頭を空っぽにして突っ走るのだ。
そんな今の美空に、逃げるとか戻るとか謝るとかいう道は残されていない。
「……その話、私も混ぜてもらおうかな」
そして美空と同じく、ここぞという時に頭を空っぽにして突っ走れる女がそこに現れた。
全員が同時に怪訝な表情になる。
全員が誰この人? とでも言いたげな表情になる。
「お前……何でここに……?」
いや、粉雪だけは唯一、彼女と面識があった。
「粉雪が参加できるなら、私も参加できるという認識で良いかな?」
「貴女……誰だか知らないけど、こっちは遊びでやってる訳じゃ……」
「当然、私も賭ける。 斎藤九十郎は新田剣丞に勝利すると。
賭けに負けた時は、私も一緒の織田の天人殿の嫁になろうじゃないか」
「貴女……何者……?」
美空は直感的に理解した。
目の前にいる人物もまた、自分と同じようにブレーキペダルを取っ払って突っ走っていると。
武田光璃晴信にはそれができない。
武田光璃晴信には、自らの頭にあるブレーキペダルを取り外し、頭を空っぽにして突っ走る事は決してできない。
故に光璃は彼女を重用する。
故に光璃は彼女を『武田晴信の眼である』とまで評し、全幅の信頼を寄せる。
故に光璃は、長尾美空景虎に勝利するためには、彼女の知恵と力が必要不可欠だと思うのだ。
その名は……
「武藤喜兵衛昌幸……通称は一二三。 以後よろしく」
あの有名な真田幸村の母として、あるいは上田城に立て籠もり、徳川秀忠の軍勢を足止めした智将として名を残し……生涯に何度も何度も裏切りを繰り返し、あの屑of屑こと武田晴信に並ぶ屑と名高い真田昌幸の若き日の姿である。