仮に、貴方の目の前に諸葛孔明がいたとしよう。
あくまで仮定の話である。
子供が遊びで話す『スタローンとジャン・クロード・バンダムはどっちが強い?』そのレベルの話である。
仮に貴方の目の前に諸葛孔明がいたとして、貴方は諸葛孔明を口説く事はできるだろうか?
無論、三顧の礼を示し、力を貸してほしいと懇願するという意味ではなく、ただの女の子、ただの朱里として口説けるだろうか?
貴方は諸葛孔明をただの女の子と認識できるであろうか?
北郷一刀なら『YES』と言う。
というか言った。
新田剣丞も『YES』と言う。
たぶん秋月八雲も『YES』と言うだろう。
そして斎藤九十郎は『NO』と言う。
諸葛孔明の名の大きさに気圧されて、口説くどころではなくなる。
そもそも口説くという発想自体が浮かばない。
『朱里』とは呼ばず、いや呼べずに、『孔明』と呼び続けるだろう。
万が一、いや億が一にでも諸葛孔明から好意を示されたとしても、孔明のような価値のある女は、秋月八雲のような価値のある女と結ばれるべきと思い、全力で逃げ出そうとするだろう。
よっぽどの事が無い限り、九十郎はそんな態度を崩さないだろう。
それこそ、自らの魂すら歪める程の強い意志を込めて『大好き』と叫ばない限り。
だから貴様は九十郎なのだ。
……
…………
………………
ある日の夜、美空と九十郎は2人で酒を飲んでいた。
美空の趣味は1人酒だが、九十郎に対する自分の気持ちを自覚してからは、時々寝所に呼び、晩酌の相手をさせるようになった。
心のどこかで、先に酔った勢いで九十郎に口説かれたりしないだろうかと期待しながら。
一夜だけでも九十郎の女として扱われないかと期待しながら。
万が一にも抱かれて、孕まされでもしたら、ポン刀片手に責任を取って嫁にしろと詰め寄ってやろうとか考えながら……当然、九十郎はそんな美空の期待に全く気づかない。
美空の顔が赤いのは、飲酒のせいだけではない事にも。
美空が普段より薄着で、身体のラインを出やすくしている事にも、下着はいつもより念入りに洗濯してある事にも気づかない。
だから貴様は九十郎なのだ。
「ぶっちゃけた話しな、抗生物質は前々から用意していたんだ」
「抗生物質? 何それ?」
「万病に効く万能薬……ってのは流石に言い過ぎだが、
細菌やウィルスの類で起きる病気にはだいたい効く薬の事だ」
「何よそれ!? え、本気で言っているの!?
さいきんとか、うぃるすとか、良く分からないけど……
下手したらハーバー・ボッシュよりもヤバいわよそれっ!!」
「残念ながら今用意できるのは、青カビをろ過したなんちゃって抗生物質だよ。
仁っていうドラマ見ながら担庵と一緒に作った奴だ」
「担庵?」
「俺のセカンド幼馴染、前の生での腐れ縁だよ。
悪い奴じゃなかったが、俺が弟で、ファースト幼馴染を妹だと言い張る変な女。
今になって思えば、あいつ本気で俺達を弟と妹だと思っていたんじゃないかな」
「ふぅ~ん」
美空がちょっと頬を膨らませ、目を細くしているのに、九十郎は全く気づかない。
だから貴様は九十郎なのだ。
「ちゃんとした抗生物質さえあれば、官兵衛の梅毒は完治する。
完治するんだが……あのなんちゃって抗生物質を官兵衛に飲ませるのは抵抗がある」
「人体実験がしたいなら、私がどうにかするわよ」
「いや……」
九十郎がしばし考え込む。
死因・舐めプなんて真っ平御免だというのが九十郎の持論だ。
しかしそれでもなお、なんちゃって抗生物質を人体に投与する事には抵抗を覚えた。
きっと前の生での友人の刀舟斎かなうなら、『てめぇら人間じゃねぇ!!』とか何とか言いながら怒鳴りこんでくるだろうなと思った。
「当面はネズミで試そうと思っている。
ネズミなら放っておいても増えるし、どれだけ残虐な実験をしても心が痛まないからな。
幸いと言って良いか悪いか分らんが、黒田官兵衛は関ケ原が始まるまで……
つまり犬子とひよ子が寿命でくたばるまで死んでなかった筈だ。
入念に準備をするだけの時間はある」
「そう……」
美空は少し、本当に少しだけ悲しそうな顔をした。
その事に九十郎は気づかなかった。
少しだけ、ほんの少しだけ、九十郎に心配されて、助けようとされている雫が羨ましくて、妬ましかったのだ。
少しだけ、ほんの少しだけ、自分が九十郎の役に立てない事が悔しかったのだ。
良くない恋の仕方をしているなと、美空は思った。
そうは思ったが、美空にはどうする事もできなかった。
本当はキスして、抱きしめてほしいと思っていた。
そうは思ってはいたが、美空はそれを口にする事ができなかった。
結局、この日も九十郎は美空を口説こうとはしなかったし、美空に手を出す事もしなかった。
……
…………
………………
「物凄く物凄く物凄ぉ~っく呑み込みが速いです」
慌ただしく物々しい出陣前夜の空気の中で、美空の側近である直江景綱、通称秋子がそう告げた。
美空はそんな秋子の言葉を、少し上の空で聞いていた。
昨晩、2人きりでおビール様を飲みながらした、九十郎との会話を思い出していたのだ。
「そう、それは良かったわ……と、言いたいところだけれど、
ごめんなさい、何の話だったかしら?」
美空はその台詞が出てくるまでの話が思い出せず、仕方なしにそう聞き返した。
「雫さんの事ですよ! 正直に言って、いきなり小寺政職の近習を拉致してきて、
1万石の知行を与えるって言い出した時は乱心したかと思いましたけど……
あんなに優秀な娘だとは思いもしませんでしたよ」
「ああ、雫か。 凄いでしょう彼女、何せ智略99、政治91なのだから」
「なんの話ですか?」
「信長の野望の話」
「意味が分かりません」
信長の野望の意味が分かるのは現代人だけである。
「安心しなさい、私も意味は分かっていないから。
確かな事は、雫は超優秀な軍師になりうるって事よ。
何せ太閤殿下が重用したって話なのだから」
「太閤……殿下……? あの誰の事でしょうか?」
「信長の所にいる娘よ。 犬子曰く、とっても良い娘だって」
秋子はまたもや話についていけず、頭の上に何個も?マークを並べる。
早い話がひよ子の事であるが、今のひよ子を後の関白と言って信じられる者は皆無であろう。
「えっと、良く分かりませんが雫さんの話に戻しても良いですか?」
「ええ構わないわ。
確か領地管理ができるよう色々と教えてあげてって頼んだのだったわよね」
「はい、それが本当に優秀で……一を聞いて十を知るとはまさにあの人を指す言葉です。
まだ教え始めて数日ですけれど、呑み込みが速くて……
1年もしたら教える事が何も無くなるんじゃないかって思う程です」
「そう、流石は黒田……じゃなかった小寺官兵衛といったところね」
「ええ、本当に凄い娘です、本当に……
ところで……九十郎さんがその雫さんに求婚したって話、本当なんですか?」
「……は?」
瞬間、美空の声色が変わった。
目が座り、声に重苦しい殺意にも似た色が混ざった。
「誰が? 誰に求婚をしたって?」
嫉妬をしてる……美空にはそれが良く分かった。
美空は今、彼女自身も驚く程に黒く濁った思考をしていた。
悔しい、羨ましい、妬ましい……そんな気持ちが美空の胸を包んでいた。
「いえ、ですから、九十郎さんが雫さんにです。 私も噂を聞いただけですけど……」
「黒田官兵衛なのに?」
「黒田? 小寺ですよ」
ある意味では予想外すぎる報告を耳にし、美空が目を白黒させている。
何故九十郎が雫に……そんな疑問が美空の頭を駆け巡る。
「ええ、ですから、雫さんに会うなり、
一万年と二千年前から愛してましたぁっ! と男らしく叫ばれたとか」
「九十郎が!?」
事実である。
但し九十郎は雫に求婚したつもりは全く無い。
「あと……夫婦和合の印っていう兜を雫さんに渡してて、
雫さんが凄く嬉しそうに眺めたり磨いてたり……
ええ、雫さんも満更でもない様子だって噂ですよ」
「九十郎がぁっ!?」
全くの事実である。
そして九十郎は雫に求婚したつもりは全く無い。
「あの……美空様、先ほどから声が上ずっておられるような……」
「べっ!? べべべ、別に好きでも何でもないわよあんな筋肉達磨はぁっ!!
結婚したいとか、キスしたいとか、そんな事全然考えちゃいないわ!」
美空が慌てて否定する。
しかし、声は裏返り、頬はリンゴのように赤くなり、視線は盛大に泳いでいて、聞かれてもいないのに唐突に結婚やキスの話が出てきていた。
少なくとも秋子には、とても平静な状態ではないなと思った。
「ま、まぁ、そうね……あいつが土下座しながら、どうか俺の妻になってください、
お願いします美空様とでも言ってきたら、嫁になってあげなくも無いけど……
そ、そんな事まずあり得ないからね!
要は私があいつの嫁になる可能性は全く無いという事よっ!!」
「え? 土下座してきたらお嫁さんになるおつもりなんですか?」
秋子が思わず聞き返す。
越後の龍、長尾美空景虎の勇名は既に日ノ本中に轟いており、美空を嫁にしたいと言ってきた男なんて、10人でも20人でも秋子には挙げられる。
その中には当然土下座して頼み込んできた男だっていた。
そしてその時に美空が発した言葉を、秋子は覚えている。
『丁重にお引き取り願いなさい』である。
そんな美空が、今まで見た事が無い表情で……
とても愛らしい表情で、結婚の事を話題に出してた。
相手が九十郎でさえ無ければ、万歳三唱したい気分だったろうにと秋子は思った。
「あの……畏れながら申し上げますが、私は九十郎さんが好きになれません。
あの人が凄い知識と技術をお持ちだという事は理解しますが……」
「だからならないって言ってるでしょうが!
あいつが私に求婚してくるなんてあり得ないわ!」
美空は言っていて悲しくなってきた。
「何故そう言い切れるのですか?」
「それは……それは私が……う、上杉謙信だからで……」
「あの、時々話題に出てくる上杉謙信さんってどなたですか?
美空様また改名なさるおつもりですか?」
「またって何よまたって!?
毎回毎回思い付きで改名してる訳じゃないわよ! やむにやまれぬ事情があるのよ!」
「はぁ……まあ、改名はともかく、あの人を夫に迎え入れるお話は反対させてもらいます」
「分かったわよ、分かってるわよ。 心配しなくてもそんな事はあり得ないわよ」
そう、そんな事はあり得ないのだ。
美空が上杉謙信である限り、九十郎が美空に求婚してくる事はありえない。
自分は屑で、上杉謙信のような価値のある女は、新田剣丞のような価値のある男と結ばれるべきだと考えている限り……絶対にありえない。
そして美空には犬子のように、魂すら歪める勢いで上杉謙信をやめると宣言する事もできないのだ。
だから……そう、だからあり得ないのだ、九十郎が美空に求婚するなんて事は絶対に。
「なのに……なのに何で黒田官兵衛には求婚するのよ。
何で黒田官兵衛には求婚できるのよ。
私の方がおっぱいも大きいし、九十郎の事を理解してるし、おっぱいも大きいし、
九十郎の事が好きだし、おっぱいも大きいし……不公平じゃない」
おっぱいおっぱい言い過ぎである。
「そういうおっぱい大好きな所も私は嫌いなのですが」
「おっぱいおっぱい言わない九十郎なんて九十郎じゃないわ」
「はいはいそうですね、美空様はおっぱい大好きな九十郎殿が大好きですものね」
「大好きじゃないわよ! 嫌い……嫌いじゃ、ないけど……」
美空が顔を赤くしながら、もじもじと指と指を絡ませ合う。
秋子はちょっとイラっとした。
「分かりました、分かりましたから話を雫さんに戻しますよ。
それと……それともう一つ、あの娘、たぶんこちらから情報を抜き出す気ですよ」
「それは確証があっての話?」
「いえ、今はまだ当て推量の域を出ません。
ですが、あんなに芯のしっかりとしている娘が、1万石で転ぶだろうかって思うんです」
「そう……」
それは美空も考えた事ではある。
それ故に美空は、雫を拉致した。
織田や小寺に九十郎が持つ未来知識や技術を渡す下準備をさせないために……本当にヤバイ技術は念入りに秘匿しているとはいえ、雫が密書か何かを使って外部に情報を流す可能性は当然のように想定している。
「武田は潰す、織田は恐怖で縛った後、手を握る」
「はい?」
だがしかし……進んだ技術はどう隠そうとしてもいずれ外部に漏れ、広まる。
全く無防備になるのは生き過ぎだが、気にし過ぎて自らの手足を縛るのも良くないと美空は思っている。
ぶっちゃけた話、武田晴信を殺す日まで秘匿できれば上出来だとすら思っていた。
「今はまだ獲らぬ狸のなんとやらに過ぎないけど、私はそういう絵図面を描いているわ。
一葉様に妙な真似したり、比叡山を焼き討ちしたりしないのであれば、
天下布武大いに結構、織田の天人様を柱にした大同盟も大いに結構。
私は日ノ本から戦争を無くしたいのであって、信長を殺したい訳じゃないわ。
もっとも、私は新田剣丞の嫁になるなんて御免だけど、土下座されたって嫌よ」
「そんなに上手くいきますかねえ?」
「連中の脳天にドライゼを突きつけてやるのよ。
そしてこう言うの……無体を働けば撃つと。
そのためには、ドライゼが怖ぁ~い物だって分からせなければいけない。
そのために……武田晴信を殺すわ、できるだけ無慈悲に、できるだけ残虐非道なやり方で、
晴信とその血縁は1人も逃がさず、血の一滴すらも残さずに滅び尽くすわ。
そして分からせてやるの、日ノ本全土にドライゼの恐ろしさを」
「成程……武田以外にならドライゼの存在が割れても問題は無いと」
「その後は適当に信長の尻を叩いて天下布武を完遂させて天下泰平、簡単でしょ?
ドライゼの存在も製法も、どう隠していてもそのうち他にも出回るわ。
優位性だってそう長持ちはしないでしょうから、
武田を根絶やしにする時だけドライゼを使う、
後は基本的に脅しに使うってのが私の構想になるわね」
まあ本当にヤバい技術はドライゼでは無いし、そう簡単には流出させるつもりも無いのだけど……そう美空は呟いた。
秋子にも聞こえないような声量で、小さく小さく呟いた。
「それはそうと、本当に求婚をしたの? 九十郎が?」
勘の鋭い秋子の意識を逸らすため、美空は話題を強引に変えた。
好きじゃないならどうしてそこまで気にするんですか……そういう言葉が喉まで出かかりながら、秋子は抑えた。
「そういう噂は流れていますよ」
美空がう~んと考え込む。
今の心境としては、半信半疑といった感じだ……
「ちょっと練兵館に行ってくるわ」
そう言うと美空はガバッと立ち上がる。
こういう時、美空は即断即決するタイプだ。
美空が武田晴信と戦って今日まで生き延びてこれたのは、この判断の速さが武器となったからだ。
「ええ!? ちょっと美空様!?
まだ確認していただきたい事が沢山残ってるんですよ!?」
そしてこういう時、振り回されて尻拭いに奔走する羽目になるのは、いつも秋子であった。
……
…………
………………
一方その頃、噂の雫と九十郎は練兵館の縁側で茶を飲んでいた。
九十郎が試行錯誤の末に完成させた、良い感じに発酵させた紅茶である。
「いやな、美空から金になりそうな技術や知識があったら教えてくれって言われてたんだ。
だから暇な時に色々試してた。 そして今日、試作品第一号が無事完成した」
九十郎は雫に何かキラキラした小さな装飾品を渡す。
「これが試作品ですか……?」
雫が自らの指に……よりにもよって左手の薬指に嵌められた輪っかをまじまじと見つめる。
先端に取り付けられた小さな宝石が、太陽の下でキラキラと光り輝いていた。
「指輪だ、先端にカットした宝石を付けて売る。 そのための試作品。
今付いてるのは、アクアマリン……たぶんアクアマリンだと思う、たぶんな。
流石に宝石の見分け方までは知らないから、
もしかしたら色とかが似てる違う石かもしれん。
しかしまあ、何度かの失敗と試行錯誤をしたおかげで、良い感じにカットできた」
「綺麗……」
今まで見た事が無い輝きに、思わず目を奪われていた。
間近で見る雫も……物陰からこっそりと覗き込んでいた美空と貞子も。
「指輪の試作品……ねえ……全く、私が頼んだのよ、私が石を調達させたのよ。
真っ先に私に知らせて、私に渡しなさいよ……」
そう、春日山城からチャリをかっ飛ばして来た美空と、途中でたまたますれ違った貞子の2人は、雫と九十郎の熱愛疑惑を確かめるべく、こっそりと練兵館に忍び込んでいたのだ。
「美空様、良く聞こえますねこの距離で」
九十郎のお手製の双眼鏡を覗き込みながら、貞子が小さな声で質問する。
「三昧耶曼荼羅のちょっとした応用よ」
貞子が感覚を研ぎ澄ませてじぃ~っと周囲を観察すると、親指姫サイズの毘沙門天が軒下で聞き耳を立てている事に気づいた。
罰当たりな御家流の使い方だと貞子は思ったが、いつもの美空であったので特にツッコミは入れなかった。
「でも……綺麗ですねえ、指輪。 ここからでも分かりますよ」
貞子がほぅっとため息をつく。
思わずため息が出る位、きらきらと煌めいていた。
「本当に綺麗よね、ええ本当に……あいつ、手先が器用だから」
美空は九十郎を自慢に思い……同時に、美空は物凄く不快な気分になった。
相変わらず自分に何の相談も無く勝手に動く九十郎と、雫が羨ましいと感じてしまう自分自身に憤っていた。
「こんなにキラキラ輝く石なんて、初めて見ました。 一体どうやったのですか?」
雫は自分に課せられた任務を忘れて、純粋な興味と好奇心からそう尋ねた。
「カットに秘密がある。 その石の屈折率に合わせた適切な角度で磨くと、
石の内部で光が反射して、まるで石自体が光ってるかのように見えるんだ。
良い感じの角度を見つけるのは意外と大変でな、
越後に来てから100回以上チャレンジしてたんだが、今朝ようやく上手くいったよ」
九十郎がウキウキとした顔と仕草で喋りまくる。
大々的に売り出せば遅かれ早かれ知れ渡る事であろうが……
今周囲に知れ渡ったら真似をされて大儲けのチャンスがパアになりかねない。
「ああもうっ! ホイホイ教えてんじゃないわよあの馬鹿っ!
雫が他所に漏らしたらどうする気よっ!!」
物陰の美空がぷんすかと怒っていた。
九十郎は後先考えない性格で、しかも教えたがりな性格なので、
無自覚の技術流出に危険を常に孕んでいる。
これまでは犬子か柘榴のどちらかがそれとな~く話題を誘導したりしていたのだが、今日の練兵館には犬子も柘榴もいなかった。
「かっとに……凄い! 凄いです! 本当に光っているみたいです!」
雫が年相応の少女のように、瞳をキラキラとさせて、同じ位キラキラ光る宝石をのぞき込む。
右に傾け、左に傾け、輝きの変化を楽しんでいる。
「ははは、トパーズっぽい石とか、エメラルドっぽい石とか、美空の伝手で入手してるから、
職人にカットのコツとか原理を教えて、量産して大儲けだ。
石ごとに輝く角度が違うから、最初は失敗作が多く出るかもしれんがな」
尊敬する黒田官兵衛が喜ぶの見て、九十郎はご満悦な様子だ。
「へぇ~、ふぅ~ん、私には何も贈らないのに、雫にはあんなにホイホイ渡すの……
あんなに嬉しそうにして……雫も九十郎も……」
「何か面白く無いですねえ。
いえ、別に九十郎殿なんて全く気にしてませんが、全然好きでも何でもありませんが。
またシましょうねって言ったのに、いつまで経っても手を出さないし、
温泉で良い感じの雰囲気になったのにお預けして、
そのままずぅ~っと放置する人なんて好きになれる訳ないですが……」
「不愉快ね」
「不愉快ですね」
双眼鏡を握る美空の手に、力が籠っていた。
貞子は腰に佩く打ち刀を何度も何度も抜き差しし、カチャンッ、カチャンッと物騒な音を周囲に響かせていた。
「これは独り言ですけど、あの人はじっと待つだけじゃ何もしちゃくれませんよ」
貞子がそう呟く。
「これは独り言だけど、
せっかく収まりの良い所に収まった柘榴達の関係を壊したくないのよ」
「今正妻は誰でしたっけ?」
「柘榴よ」
「それじゃ躊躇もしますねえ……」
「貴女もしばらく手を出すのを控えなさい。
いつまた発作が起きたり、犬子が犬になって越後が崩壊するか分からないわ」
「前田殿が犬になった話ですか。 そういえばいつの間にやら解決してましたねえ」
「柘榴と九十郎が色々頑張ったらしいわよ、聞いた話じゃ。
だからこそ、下手につっつきたくないのよ」
「美空様って、いつもいつも難儀な選択ばかりしますねえ」
「そういう性分なのよ、悲しい事に」
「そしていつもいつもお一人で深酒して、そのうち身体を壊してしまいますよ」
「分かっているわ、それは私が一番良く分かっているから」
そんな事を言い合いながらも、美空と貞子の視線は雫の指輪に釘づけである。
「……指輪、欲しいですねえ」
貞子がはぁ……とため息をつく。
「認めたくないけれど……ええ、認めざるを得ないわね……」
美空もまた深くため息をついた。
物陰に隠れて、双眼鏡で凝視して、手の届かない輝きを求めながらも何も行動を起こさない、起こせない自分達が惨めになった。
「今度、素直に伝えてみますよ。 九十郎殿の作った指輪が欲しいって」
「そう……私は……」
美空は1人静かに、九十郎から指輪を渡される姿を想像する。
たぶん嬉しいだろうと思った、きっと飛びあがる位に嬉しいだろうと思った。
しかし同時に……自分が女として九十郎に愛される事は決して無いだろうと思った。
自分は上杉謙信なのだから。
ただの柘榴ではなく、ただの貞子でもなく、犬子のように自らの名を投げ捨て、自らの魂を歪める程の覚悟がある訳でもないのだから……
「私はやめておくわ。 きっとそれをしたら、余計に惨めな気分になるだけだもの。
余計に羨ましくなって、余計に空しくなるだけだもの」
そう呟いた直後……美空はある事に気がついた。
「ならば何故、九十郎は雫にあんな真似ができるの?
雫は黒田官兵衛で、九十郎が一番好きな戦国武将で、天下人に仕えた知恵者で……
ただの柘榴じゃ無ければ、ただの貞子でも無いのよ」
そして気づいた。
九十郎は雫の事を『雫』と呼んだ事が一度も無い事に。
九十郎は最初からずっと『官兵衛』と呼び続けていた事に。
前田利家は『犬子』と、上杉謙信は『美空』と、山形昌景は『粉雪』と呼んでいるというのに……雫に対してだけはそれすらもしていない事に。
「もしかして……もしかして九十郎は、雫の事を女の子と見ていないのではないの?
いえ、それどころか……人間だとすら思っていないんじゃ……」
いくらなんても考えすぎだ、見当違いだ、そうであってほしいと美空は思った。
「私……猛烈に嫌な予感がしてきたわ……」
……
…………
………………
一月にも満たない僅かな時間であったが、雫は九十郎の性格を掴みつつあった。
「あの人の……九十郎さんの本質は剣士じゃない。
軍師でもなければ、将でも君主でもない、研究者でもなく、職人でもなく……
あの人の本質はきっと、教育者だ。
たぶんあの人は、他人に何かを与える事に喜びを見出す人……」
キラキラと光るアクアマリンの指輪を空にかざしながら、雫はそう呟いた。
短い期間であったが、雫が聞いた事に対し、九十郎はなんでもかんでもペラペラと喋った。
口を開かせるために身体を差し出そうなんて考えたのが馬鹿馬鹿しくなる位だった。
「連発可能な銃、ドライゼ銃を配備した部隊……第七騎兵団……
身を伏せながら何度も撃てるあの銃が戦場に現れれば、どれだけの効果が出るか……」
雫の冷徹な軍師としての思考が、ドライゼの恐るべき性能を割り出していた。
アレを使えば、10倍の数の敵と互角に戦える……いや、圧勝できるとすら思った。
少なくとも、今の剣丞隊が第七騎兵団と戦えば、まず間違いなく一方的に殺されるだろうと思った。
「幸い、今はまだ九十郎さんも美空さんも久遠様や剣丞様に敵意を持っていない……
なら、どうにかしてドライゼの製法を剣丞様に伝えなければ。
それと、ドライゼに対抗する手段を考え付くまで、織田と長尾の衝突を防がないと……」
そこまで言って……雫は思い出す、九十郎の熱烈な求婚の言葉を。
『一万年と二千年前から愛してましたあああぁぁぁ~~~っ!!』という言葉を。
「指輪……確か海の向こうでは、婚姻をする時、夫は妻に指輪を渡すのでしたっけ……」
九十郎から渡されたアクアマリンの指輪が、キラキラと光り輝いていた。
九十郎から渡されたお椀型の兜は、ピカピカに磨かれていた。
どちらも雫にとっては、求愛と求婚のための贈り物に見えた。
「できる事ならば剣丞様の隣で死にたい……一葉様の前でそう誓った筈なのに……」
雫は自分の心臓がどんどん高鳴っていくのを感じていた。
顔は正直好みではないが、真っすぐな好意をこれでもかとぶつけてくる九十郎に、惹かれつつあると思った。
演技だとか、必要やむなくとか、そういうのではなく……雫の中にある女の部分が、九十郎の妻になりたいと思いつつあるのを感じていた。
「私……どうすれば良いのでしょうか……」
雫は1人静かにそう呟いた。
この時、雫は気づいていない。
九十郎は全く雫に求婚しているつもりが無い事に。
九十郎は雫の事を女の子だと思っていない事に。
九十郎は雫の事を、そもそも同じ人間だとすら思っていない事に。