天分23年(西暦換算で1554年)、尾張に激震が走る。
武田晴信、北条氏康、そして今川義元が同盟関係になったのだ。
四六時中殺し殺され、謀り謀られていた3人が手を握る等、だれが予想しようか。
この盟により、武田晴信は宿敵長尾景虎との戦いに、北条氏康は関東一円の切り取りに、そして今川義元は上洛に、それぞれ背後を脅かされる事無く集中できる。
武田晴信は内心、目の前の問題が片付いたら裏切ってやろうと考えており、氏康と義元は、どうせ晴信は後で裏切るつもりだろうなと考えていたが、戦国時代の……いや、武田晴信の信義や同盟などその程度である。
実の母親を追放して頭首の座に就き、妹婿であった諏訪頼重を東光寺に幽閉、自刃させ、挙句の果てに志賀城に3000人分の生首を並べた少女は、いつか絶対に裏切るという意味で呂奉先と同レベルの信頼があった。
いずれにせよ確かな事は、今川義元は一刻も早く……具体的には景虎がぷちっと潰されるよりも早く、上洛を完遂させねばならなくなった。
それはつまり、今川家上洛ルート上に存在する織田家は、近い内に今川と戦うか土下座するかしなければならなくなったという事でもある。
跡継ぎ問題でグダグダになっている織田家では、正攻法で戦えばぷちっと潰されるのが関の山。
織田久遠信長は隣国の斎藤利政と手を結び、共同して今川の上洛を妨害する作戦を立てる。
天分18年に利政の娘帰蝶(通称結菜)を娶ったり、天分22年に正徳寺で会談をしたり、前々から色々やってるのではあるが……いずれにせよ、時間は織田の味方、今川の敵。
しばし時間を稼げば景虎をぷちっと潰した武田晴信が今川に牙を剥くだろう、そうすれば義元は上洛どころではなくなるだろう。
故に時間を稼ぎ、家内を纏め、国を富ませ、兵を養うのだ……久遠はそう考えていた。
例え景虎が潰される前に今川義元が動いたとしても、遠征が長引けば同盟国(笑)の武田に背後を脅かされる関係上、織田と斎藤がガッチリと手を結び、ただひたすらに遅延戦術を繰り返せば、今川を撃退する事は十分可能と計算していた。
弘治2年(西暦換算で1556年)4月、尾張に再度激震が走る。
斎藤利政改め斎藤道三死亡。
上司の寝首を掻く事にかけては天下に並ぶ者がいなかった女は、実の娘に寝首を掻かれてあっけなく死んだ。
跡継ぎ問題で親子仲が拗れに拗れたのだ。
これにより織田斎藤同盟は自然消滅、共同して今川に対抗するプランは早くも瓦解した。
しかも長尾景虎はぷちっと潰されるどころか、戦略、政略の両面において晴信相手に互角以上の戦いを演じ続けていた。
晴信はありとあらゆる手段……およそ人間が考えつくであろうありとあらゆる外道で非道な手段をもって景虎を攻撃した。
しかし景虎は耐え続け、耐え抜き、時に晴信に痛撃を与えてすらいた。
長尾景虎は率直に言って超頑張っていた、自らの寿命をも削らんばかりに頑張っていたが、久遠にとっては良い迷惑だ。
景虎の飲酒量は日を追う度に増え、厠で吐いた回数は数知れず、零した涙も、守り切れなかった命も数知れず、睡眠時間はガリガリと削られ、過労と寝不足とストレスと深酒で早死にするんじゃないかと、部下達から本気で心配される程に頑張っていたが、久遠にとっては良い迷惑だ。
晴信は暗殺者をダース単位で送り付けていたが、暗殺者達は1人残らず加藤段蔵の御家流・呑牛の術の餌食になっていた。
人知れず活躍する段蔵を景虎は全く評価していなかったが、久遠にとっては良い迷惑だ。
その後晴信は古典的だが有効な手……段蔵に対し離間と引き抜き工作に走る。
歩き巫女と呼ばれる間者達をダース単位で越後に送り付け、段蔵の悪い噂を流させ、同時に段蔵に対しては長尾よりも好待遇で迎え入れるから武田に付けと囁くのである。
それは確かに有効な手であったが、一朝一夕で効果が出る類の手では無かった。
いずれにせよ、長尾と武田の泥仕合めいた戦は延々と続き、武田が今川に襲い掛かる気配……というか余裕は全く無い。
今川義元はニンマリと笑い、久遠と晴信はどうしてこうなったと頭を抱えていた。
正直な所全部景虎が悪いのだが、景虎は景虎で『好きで戦ってる訳じゃないわよっ!!』と反論するだろう。
こうして織田久遠信長は前門に今川、後門に斎藤という名の敵に囲まれ、武田晴信という名の時限爆弾は長尾景虎に抑え込まれ、しけた不発弾と化した。
絶体絶命の窮地に立たされる事になったのだ。
そして同年8月、尾張にまたもや激震走る。
何度走れば気が済むんだと久遠は涙目になって頭を抱えていたが、とにかく激震走る
「前門の壬月様、後門の森一家……終わった、犬子の人生終わった……」
「織田最強の武闘派が敵に回り、織田最狂の戦バカが味方と……
ははは、うちの御主人様の御主人様は相当人望が無いらしいな」
織田信長軍700人、織田信行軍1700人、これがそのまま2人の人望の差を表していた。
九十郎は『ダブルスコアつけられてるじゃねーかっ!』とでも叫びたい気分であった。
「どうしてこうなった」
どうしてこうなったと一番叫びたい者は久遠である。
「信長と信行の姉妹仲が拗れに拗れた結果だろうに。
実の母親の葬儀に半裸で出て来て、焼香の灰ブン投げたんだろ?
織田の知恵袋としていろんな人から慕われていた平手のお婆様はショックで寝込んで、
その後割腹自殺……そしてこうなったと」
半裸の信長、見てみたかったな~と九十郎は考えている。
生来巨乳好きの九十郎は、生おっぱいを見るチャンスがあれば目の色を変え、チャンスを逃せば本気で悔しがる。
久遠のスタイルは九十郎にとって十分過ぎる程にストライクゾーンに入るし、妄想の中でパイズリをさせた事も何度かある。
ゲスな男である。
「久遠様……前々から思ってたけど人望無さすぎだよぉ……」
九十郎も犬子も、平手政秀が残した遺書に直接目を通した訳では無いが、その内容はいくらか漏れ伝わってきている。
一言で要約すると『いい加減にしろよお転婆小娘』だったそうだ。
その噂もまた織田家の姉妹仲を拗れさせ、重臣達が信行待望論を語る理由になっていた。
唯一の救いと言うべき事は、丹羽麦穂長秀……通称織田家の癒し枠が信長を見捨てなかった事であろうか。
もし彼女まで久遠を見限っていたとすれば、ダブルスコアどころかトリプルスコアをつけられていたであろう。
跡継ぎ問題で親子仲が拗れ、娘と殺し合う羽目になった道三、跡継ぎ問題で姉妹仲が拗れ、妹と殺し合う羽目になった久遠……ある意味では似た者義母娘であった。
「しかしあれが森可成か……予想通りと言うべきか、予想以上と言うべきか……」
九十郎は森一家の先頭に立つ、半裸の……半裸としか表現できない、戦場に立つ者としては軽装過ぎる女性に視線を移す。
『たびびとのふく』よりも防御力低そうじゃねえか、せめて『かわのよろい』位は着て来いよとか考えながら、九十郎は溜め息をつく。
見るからに危うい……まるで破裂寸前の核弾頭のような危うさを感じていた。
その胸はかなり豊満であったが、流石の九十郎も揉みたいとか吸い付きたいとか挟まれたいとか考える気になれなかった。
確か戦国DQN四天王の1人で、人間シューティングゲームをやったり、死んだ時に味方が祝杯をあげるような危険人物で、森蘭丸のお兄ちゃんだったか……良し、なるたけ近づかないようにしよう……なんてスゴイ・シツレイな事を九十郎は考えていた。
「あれで子持ちだって言うんだから恐ろしいよな」
「会った事ないけど、その娘も物騒な性格に育ってるって噂だよ」
胸も育っているのか……と、言いそうになるのを九十郎は寸前で抑えた。
流石の九十郎も多少は世間体を考えているのだ。
ちなみに森勝蔵の胸は九十郎が憐れみを覚える程に貧相だ。
「母娘二代でヒャッハーか……あんま想像したくない図面だよな」
「犬子もそう思うよ」
なお、九十郎は気づいていないが、本物の戦国DQN四天王は森長可、森可成ではなく森可成の子供の方である。
この男、日本史は基本うろ覚えなのだ。
丹羽長秀と聞いて『あ~っと行った~! 五郎左が行った~!』程度の事しか思い浮かばず、木下藤吉郎秀吉と聞いて『天下人になるが、晩年は孫仲謀と同レベル』、滝川一益と聞いて『進むのも退くのも得意な人』、佐々成政と聞いて『誰そいつ?』、竹千代と聞いて『誰そいつ?』としか感じないない辺り、ハッキリ言って筋金入りと言えよう。
前田犬千代と聞いて『加賀百万石の大名になる人』とピンと来たのは奇跡的といえよう。
ただしこの男、加賀がどこの事なのかは全く理解していないし、百万石がどの位凄いのかも全く理解していない。
もっとも……
「犬子、槍構えろ。 始まるぞ……」
「う、うん……」
もっともこの男、日本史はうろ覚えであっても殺意には敏感だ。
戦場に渦巻く殺意……それが弾ける瞬間を、九十郎は確かに察知していた。
案外ヘタレでビビリなのだ。
「第一陣……かかれぇいぃっ!!」
直後……織田久遠信長の号令と同時に、信長軍は一斉に駆けだす。
信行軍の何倍もの勢いと必死さで、一直線に突撃する。
信長軍が信行軍よりも勇猛だから……ではない。
少しの時間差を空けて後ろから駆けてくる森一家に追いつかれると死ぬからだ。
「……ってコレ督戦隊じゃねーかぁっ!!
こんな真似ばっかりしてるから人望無くなるんだよっ!!」
九十郎は叫びたい気分であった……と言うか叫んでいた、感情の赴くままに叫んでいた。
「九十郎! 喋ってる暇あったら走って走って!!
森一家もうそこまで来てるからぁ!!」
「早ぁっ!? あいつらめっちゃ足早ぁっ!?」
不幸中の幸いと言うべきか、周りは今を生きる事に必死であったため、九十郎の不敬極まりない叫びを聞く者はいなかった。
「弓隊、放てぇいっ!!」
前方の柴田勢から矢が飛んでくる。
自分達を阻もうと、殺そうという意思が籠められた戦国時代のメインウェポンだ。
犬子は槍で、九十郎は太刀で矢を払い除けながら走る、走る、走る……前方からも後方からも迫りくる死の予感を振り払うべく、ただひたすらに前進する。
九十郎の隣や後ろを走る戦友達が次から次へと絶命する。
ある者は足をもつれさせ、森一家に踏みつぶされた。
ある者は柴田勢の放った矢が突き刺さり、倒れ伏した。
「くそがぁっ!! こんな所で死んでたまるかぁっ!!」
それは森一家を除く信長軍全員の共通認識であった。
九十郎が悪態をついた直後、犬子の槍が槍衾を構成する足軽の顔面に突き刺さった。
「九十郎!!」
「分かってる! 足は止めずに……」
「うん、突き進むよっ!!」
犬子の槍が、九十郎の剣が、信行軍を文字通り切り開いていく。
剣を振るう度に人が死に、人が死に、人が死に、人が死に、人が死んだ。
九十郎は……吐き気と怖気を必死に噛み殺しながら戦った。
まだ人殺しに慣れていないのだ。
「死んで……たまるかっ!」
九十郎は叫んだ、吐き気と怖気に耐えながら叫んだ。
それはきっと、人殺しなんて一生考えずに生きられる時代、人を殺さなければ生き残れない状況なんて一生遭遇しない時代……現代ニホンを生きた九十郎の叫び声であった。
九十郎は能天気で楽天的で屑であったが、それでもなお他人の命を虫けらのように踏みにじれる程、ズ太い神経はしていなかった。
いや……死にたくない、生き延びたいと、戦場に立つ誰もが心の中で叫んでいた。
こんなくだらない姉妹喧嘩なんぞで死んでたまるかと。
ただし森一家はヒャッハーしていた。
そんな名も無き雑兵達の声にならぬ叫びを誰よりも理解していた者は……久遠と壬月だ。
2人はどうしてこうなったと心の中で叫びながら、忸怩たる想いで死に逝く将兵達を見つめていた。
「全く……たかが姉妹喧嘩に森一家を投入した上に、
開戦直後に全軍を一直線に突撃させるとは……
何を考えているのだ久遠様も麦穂も! 何人死ぬと思っている!
織田家が傾き、斉藤や今川に付け込まれるのが分からんのか!?」
信長軍の必死の突撃を……想像を遥かに超える、あまりにも必死過ぎる突撃を目の当たりにして、柴田壬月勝家は人知れず悪態をついた。
こうしなければ勝てないというのは理解したが、ここまでして勝たなければならない戦いだったのかと叫びたかった。
正直な話、壬月は戦闘になるとは思っていなかった。
兵を挙げ、清州城を囲い、自らが織田家当主として認められていない事、望まれていない事を悟らせ、久遠を隠居させるつもりであった。
久遠は世間一般で言われる程愚鈍では無く、乾坤一擲の大博打をしなければ信行に勝てない事は理解すると思っていた。
理解すれば、織田家の将来のため潔く身を引くと思っていた。
だがしかし、壬月の予想、壬月の思惑は見事に外れた。
久遠は乾坤一擲の大博打をしなければ勝てない事を理解した上で、乾坤一擲の大博打をして勝ちに来たのだ。
「そこまでして……勝つ気なのか!?」
壬月は悟った。
久遠は折れないと、折れる気が一切無いと。
久遠を織田家当主の座から引きずり降ろすためには、自ら身を引くのを期待するなんて生ぬるい手では不可能だと。
その首を掻き取り、この世から退場させる以外に無いと……
「いずれにせよ……いずれにせよ短期決戦しかあるまい、迷っている時間も無い。
長引けば長引く程、斉藤や今川に付け入る隙を与えてしまう」
二倍以上の兵力差がある、半包囲をして時間をかけて擦り潰すのが最適手だ。
だがしかし、それは敵味方双方の死人を増やし、勝っても負けても詰みかねない、戦略的には最悪手なのだ。
「突撃する! 織田久遠信長の……首を獲る!!」
気づくのが遅すぎたが……それでもなお、やらなければならない。
躊躇えば殺される、殺さなければ殺される。
空を覆う矢の雨に、信長軍が次々と倒れ伏し……僅かに綻びができた瞬間、壬月の瞳が鋭く細まる。
「柴田隊ぃっ!! つ・づ・けええええぇぇぇぇーーーーっ!!」
壬月が吠え、柴田隊は雄叫びをあげ、駆けだした。
せめて1秒でも早く敵本陣を陥落させる、せめて1秒でも早く久遠の御首を頂戴する。
それ以外の方法は何も思い浮かばなかった。
それは猪と猪が、薩摩示現流の使い手と薩摩示現流の使い手が、あるいはバッファローマンとガンマンが正面衝突しているかのような、凄惨で壮絶な殺し合い、潰し合いであった。
作戦も何もあったものではない、ノーガードの殴り合い、削り合い……どちらが先に敵の総大将を討ち取るかを競う、障害物競争のような戦いであった。
時間と共に数え切れない程の将兵が落命し、それを一刻も早く止めんがために両軍はさらなる全身を続け、勢いを増して殺人を繰り返す……まるで血を吐きながら続ける悲しいマラソンであった。
「く、九十郎! 壬月様が来るよっ!」
「正念場だぁっ! 腹括れ犬子ぉっ!!」
「うんっ!!」
押し寄せる人の波、断末魔の波、殺意の波が犬子と九十郎の眼前にまで迫る。
そのむせ返るような血の臭い、死の臭いに九十郎は吐き気と頭痛を感じていた。
手足が重くなり、目の前が暗くなり、普段通りの動きができなくなっているのを感じていた。
腹を括る必要があるのは、どちらかと言えば九十郎の方であった。
それでもなお……戦わなければ、剣を振るわなければ殺される。
それが純然たる事実であった。
「そこをどけ小童共おぉっ!!」
「てめぇこそどけよ勝家えぇっ!!」
「み、壬月様……お覚悟ぉっ!!」
壬月が、九十郎が、そして犬子が戦場で相対……激突した。