詩乃は剣丞の嫁、異論は認める。
この日、雫は混乱していた。
播磨小寺家家中随一の……あるいは日ノ本全体で見てもトップクラスの知恵者である小寺官兵衛が混乱をしていた。
10年後の彼女であれば、慈母のような笑みを浮かべながら『あらあら、まあまあ……』と軽~く流せたかもしれない。
しかし数え年で15歳、大江戸学園で言えば子住唯、八辺由佳里と同年代の彼女に、そんな余裕ある対応は不可能であった。
恐るべき事に、銭方真留や大江戸探偵団よりも下である。
それは彼女の人生の中で初めての体験で、こんな時どんな事をして、どんな事を言えば良いのか、今までに読んだどんな書物にも、今までに聞いたどんな話にも無かったからだ。
そう……
「一万年と二千年前から愛してましたあああぁぁぁ~~~っ!!」
マッチョなブ男……つまりは斎藤九十郎が目の前で雫に対し、愛を叫んでいるのだ。
「え……求婚? これ求婚なんですか? え、だって……私、まだ未婚ですけれど……」
初対面の男にいきなり求婚されるなんて経験、雫には無かった。
小寺政職の近習となってから、約1年……正直な話、周りは敵だらけであった。
薬屋の娘、成り上がりだのと陰口を叩かれ、手柄を立てる機会すら与えられなかった。
なにくそと勉学に励み、主君に献策をしても、まともに取り合ってくれた事も皆無だった。
まだ幼い故に仕方が無い事だと理解しているが、それでも混迷を極める世の中で、明日をも知れぬ世の中で、鬱屈した思いが自分に広がっているのが分かった。
そして同時に、彼女は過去に誰からも求愛された事が無かった。
今現在の状況のような熱烈な求愛は、想像した事すら無かった。
それ故にこの日、雫は混乱していた。
……
…………
………………
三条館の惨状……もとい戦いが終わり、しばしの時間が経った。
将軍足利義輝の救助に成功した久遠は、手始めに小谷周辺の鬼を討伐すべく、三河の松平葵元康、近江の浅井眞琴長政と合流し、京を発……発っていなかった。
大体の世界では三条館の戦いから数日後には京を発っているのだが、この世界では少し準備に時間をかけていた。
理由は2つ。
犬子が織田から長尾に移籍したせいかどうかは不明だが、久遠の想定よりも戦いで生じた損害が大きくなった事。
これから鬼の巣窟となっているであろう、小谷に向かわなければならないため、怪我人を大勢連れたまま移動はできないのだ。
そしてもう1つの理由は……連発できる銃を戦国時代にブチこんだ馬鹿をどうするか、決めかねていたからだ。
「結婚しました……か……」
少し前に越後から送られてきた犬子からの手紙を眺めながら、織田久遠信長は少し物憂げに息を漏らす。
同封されていた妙に精密な結婚式の絵には、とても幸せそうに微笑みながら、マッチョに寄り添う犬子と柘榴の姿があった。
手紙は結婚を報告するだけであったが……たぶんもう、犬子が越後の長尾景虎の元から離れる事は無いだろうと久遠は思った。
「次に会う時は敵同士かもしれんが……幸せになれよ、犬子……」
そして久遠は犬子への……幼い頃の遊び仲間、前田犬千代への想いを振り払う。
今の久遠には、やるべき事、やらなければならない事が多い。
いつまでも幼い頃の記憶に浸って居られる程、暇ではない……暇であってはならないのだ。
「ま、間違いない……写真だ……」
一方剣丞は戦慄していた。
戦国時代なのに写真があるという事実に、そしてそれを結婚報告でほいっと外部に流出させる事に驚き戸惑っていた。
「ほぅ……それはつまり、剣丞様はこの異様に精巧な絵を見た事があるのですね」
詩乃が剣丞に対し、じと~とした不信感溢れる視線を向ける。
結局、剣丞は未だに天の知識……つまり現代日本の知識を出し渋っているのだ。
「この、しゃしんという物は天の……いえ、未来の世界ではありふれた物なのですか?
剣丞様は作り方を知っているのですか?」
「い、いや……それは……」
言うべきか、言わざるべきか……剣丞は迷った。
少なくとも剣丞は、九十郎と違って写真の作り方を知らない。
生まれた時からあって当然の物であって、作り方に興味を持ち、調べ、自らの手で再現しようなんて考えない。
武田光璃の幼馴染として生きた斎藤九十郎とは違うのだ。
「まるで見た光景をそのまま絵にしたかのような技術……
はっきり言いましょう、異常です。
無論、これ1枚にかかる費用や手間、時間にもよるのでしょうが、
使い方によっては、これ1枚でどれ程多くの情報を伝達できるかわかりません。
地形や、城塞の構造、密書の写し取り、どれだけの事ができるか……」
「なんと、そのような事もできるのか!?」
「いや、昔の写真って1枚撮るのに時間がかかるから、そこまで便利じゃ……」
久遠が身を乗り出し、咄嗟に剣丞が訂正する。
久遠と詩乃の視線が同時に剣丞に向き……剣丞はしまったと言いたげな顔になって額をおさえた。
「……ちなみに、黙秘権は?」
「知らんな」
「いい加減に諦めて話してください」
久遠と詩乃が剣丞に詰め寄る。
ちょっとやそっとじゃ退いてはくれそうもない様子であった。
「剣丞、歴史を不用意に変えたくないというお前の考えは実に立派だ。 しかしだ……」
「おそらく、この先の歴史は私達にとって不都合なものもあるのでしょう。
しかしです……」
「向こうは使う気だ、歴史がどうだのと言っていられる状況ではない」
「知らなければ対策がとれません」
「千年巨人(ミレニアム)とやらもまるでわからん。
剣丞、これについても何か心当たりがあるのではないか?」
なお、千年巨人とはかつてロンドンを無駄に震撼させたバネ足ジャックが、ノリと勢いに身を任せてでっち上げた組織の名……といっても某所の聖杯戦争スレの話だ。
聖杯戦争スレなんて全然見ない剣丞には、当然のように何の心当たりも無い。
「い、いや……それに関しては本当に心当たりが……」
「本当か?」
「本当なんですか?」
しかし、今の久遠や詩乃は納得しない。
「だいぶ昔、この男を見た事がある。
我や壬月の胸を凝視する不快な男……あの時の印象はその程度であったな」
写真の男……斎藤九十郎を指差しながら、久遠がそう呟く。
「不快なって……」
「まず間違いなく、頭の中で我を犯して穢している視線であったよ。
いっそ切り捨ててしまうたい程に不快だったが、
我にそういう視線を向ける男は何人もおったからな、
いちいち怒っていられる程暇では無かったが故、捨て置いた」
そこで切り殺しておけば、世界は平和だったのではなかろうか。
犬子は……当時犬千代は泣くだろうが、コラテラル・ダメージの範疇であろう。
「……何か腹が立ってきたな」
剣丞がむす~っとした表情になっていた。
所詮想像の中での事とはいえ、自分の嫁さんがオナネタにされているというのは面白い話ではない。
「……ふふっ、妬くなよ剣丞、身が持たんぞ。
お前はこれから、日ノ本中の大名達を嫁にする……かもしれんのだからな」
珍しい剣丞の子供っぽい表情を見て、久遠はちょっと嬉しそうだ。
「しかし、話を聞く限り、九十郎という人はどうやら巨乳好きのようですね」
ロリ巨乳とボイン美女を侍らせ、鼻の下を盛大に伸ばしているマッチョの写真をジト~っと睨みながら、詩乃(貧乳)が状況分析する。
彼女は今、巨乳美人を餌にすれば色々聞き出せるのではなかろうかとか考えていた。
「では、その辺も含めて諸々聞いてみようじゃないか……なあ、葵」
さっきからず~っと、隅っこで正座していた葵がビクンと震えた。
「詩乃と剣丞から話は聞いた。 目と目が合う瞬間、確保ーっと叫んだそうじゃないか」
「ええ、見事な叫びっぷりでした。 すぐにピンときましたよ、あの銃を知っている……と」
現場にいた詩乃が久遠を言葉を補足する。
「我が知る限り、お前と九十郎に面識は無い筈なのだがな」
「どこで、どうやって知ったのでしょうね」
「……うぐぅ」
久遠と詩乃の追及に対し、葵は何も言い返せない。
こうなるのが嫌だったから、葵は今まで九十郎の事を一度も話題に出さなかったのだ。
「そういえば昔、犬子が織田から出奔したと聞いた時の反応がおかしかったな。
我の知る限り、犬子と葵……竹千代の接点等無かった。
どうしてあんな妙な反応をしたのかと思っていたが……
そうかそうか、反応していたのは九十郎の方か」
「……ぎくり」
葵の視線が露骨に泳いだ。
それを見逃す程、詩乃も久遠も抜けてはいない。
「さあ吐け、キリキリ吐け、アレは一歩間違えれば日ノ本を沈没させかねん劇薬だ」
「戦うかどうかはまだ分りませんが、あの危険すぎる技術と知識……
知らずに挑めば全滅は必至です。 手をこまねいて漫然と進む事は自殺と同じ」
「「さぁ、さぁ、さぁ、さぁっ!!」」
「う……その……それは……」
詩乃と久遠が葵に詰め寄る。
目と目が遭う瞬間確保と叫んだ手前、何も知りませんとは言えない。
「あのぅ……お取込み中の所すみませんが……」
困り果てた葵の前に救いの声がもたらされる。
「ああ、雫殿ではありませんか。 火急の用ですか? 火急の用ですよね?
火急の用と言ってください! 300文あげますからっ!!」
ドケチで有名な徳川家康にしては大盤振る舞いである。
そしてここで都合良く助けが来る辺りが、徳川家康の徳川家康たる由縁である。
「来てます、その……話題の斎藤九十郎殿が……」
「え……?」
全員の視線が集まる。
まず来訪者に向き、次に久遠の持つ写真に向き、再度来訪者に向く……
「九十……郎……?」
「それに……犬子……?」
全員が呆然としていた。
雫が連れて来た来訪者は、確かに写真の人物、犬子と九十郎であったのだ。
「はろはろ~」
「やっほ~」
「「犬子と九十郎で~す!」」
マッチョとロリ巨乳(新婚)が突然現れて能天気で意味不明気味な挨拶をしてきた。
さっきまでのシリアスな空気がブチ壊しである。
「千年巨人って何の事だとか、この間の赤鬼は何だったんだとか、
色々聞きたい事はあるけど、とりあえず……何しに来た、九十郎」
剣丞が恐る恐るそう尋ねる。
現状、犬子と九十郎は明確な敵ではない。
明確な敵ではないが……ちょっと前に葵が唐突に襲い掛かったり、少し前に久遠と美空が剣呑な雰囲気になったりで、ちょっと味方とは言い難い関係だと思っていたのだ。
「「小寺官兵衛を出せ!!」」
犬子と九十郎がハモった。
謎のポージング……いわゆるジョジョ立ちをしながら同時に官兵衛を要求する。
ハッキリ言って意味不明な出来事である。
「え……わ、私……?」
全員が全員、多かれ少なかれ混乱していたが、急に自分の名前が力いっぱい告げられた雫が困惑は、誰よりも大きい。
雫には自分と九十郎達との接点が全く思い浮かばないのだ。
「すまん、意味が分からないんだが」
「とぼけんじゃねえよ剣丞、長尾の優秀なスパイ網は既に掴んでるんだ。
お前の剣丞隊に小寺官兵衛が仲間入りしたってよ」
「それ聞いて、犬子の御家流まで使って全速力で駆けつけてきたんだよ」
「夜を徹して走り続けたぞ。
最短距離を進むために、街道とか全部無視して獣道を突っ走ってきたぞ」
「いや、確かにいるけど……そこまでして来るって事は、何か恨みでもあるのか?」
犬子と九十郎の背後で、雫が『心当たりがありません』とジャスチャーをしていた。
「大ファンなんだ!」
「大ファンなんです! 九十郎が」
犬子と九十郎が再度ハモる。
謎のポージングがビシッと決まる。
意味不明な光景パート2である。
「そうかそうか、大ファンか……
何で俺達はこんな奴の対策を糞真面目に考えていたんだろうな……」
剣丞は何か色々と馬鹿馬鹿しくなった。
千年巨人(ミレニアム)の事とか、紅い鬼の事とか、その辺も含めて全部馬鹿馬鹿しくなってきた。
「その……何だ……結婚おめでとう、犬子」
「ありがとうございます久遠様。
でも……久遠様は良いんですか? 鬼と戦う人は全員剣丞様の嫁だなんて……」
「賭けではある、無理無茶無謀と笑われるような賭けだ。 だが我は剣丞に賭けた。
剣丞に日ノ本全てを包み込むような大きな器があると信じ、賭けた……ただそれだけだ」
「えっと……だから、聞いてるんですけど……」
「四の五の言ってられる状況ではないという事だ。
鬼の浸食は我の想定よりもずっと早く、広い。
貴様こそどうなのだ犬子、あの男は助兵衛だぞ」
「それも含めて好きなんです」
犬子は少しも迷わず、胸を張りながらそう答えた。
「全く、お互い良い男に惚れたようだな」
「そうかも、ですね」
久遠と犬子が笑い合う。
だがしかし、九十郎は基本屑である。
「何か……どんどん空気がほんわかしてきているような……」
「この間襲い掛かった事、恨んでいない様子ですね……なら今からでも……」
「葵様、流石に笑えませんし見過ごせません」
妙な感じになりつつある中で詩乃と葵が各々頭を抱える。
この2人は九十郎の知識の危険さを全く忘れていないし、いっそ今ここで殺すか、拉致して座敷牢か何かに監禁した方が世の為なんじゃないかとすら思っていた。
「それで剣丞、小寺官兵衛はどこにいるんだ?」
「会ってどうする気だ?」
微妙に身構えながら剣丞は聞き返す。
雫は絶体絶命のピンチに駆けつけてくれた恩人で、今は剣丞隊の仲間でもある。
もし不埒な真似をしようとしてるなら……と。
「とりあえず顔が見たい! できれば握手とかしたい!
サインが貰えたら飛びあがって喜ぶぞ俺は!」
しかし、そんな剣丞の考えはすぐさま否定された。
九十郎の顔は能天気そのもので、とても悪事を企んでいそうな雰囲気ではなかった。
「ああ、うん……本当にただのファンかよ……」
剣丞はもう本当に警戒する気が無くなり、そっと九十郎達の背後に立つ少女を指差した。
「君をここまで連れて来た娘が小寺官兵衛さんだよ」
犬子と九十郎の視線が少女に……雫に向く。
雫が緊張した面持ちで九十郎を見上げて、目が遭った。
直後……
「一万年と二千年前から愛してましたあああぁぁぁ~~~っ!!」
九十郎は唐突かつ全力で愛を叫んだ。
「え……求婚? これ求婚なんですか? え、だって……私、まだ未婚ですけれど……」
「落ち着いてくれ雫、たぶんアイドルの追っかけ的な意味で愛してるだけだから」
「あ、あいどる……」
「つまり憧れてるって事だよ」
「憧れ!? 憧れって、私にですか!?」
雫の混乱がさらに加速する。
小寺官兵衛は無名だ。
今孔明と謳われる竹中半兵衛と比類する程の智謀を有する彼女であるが、今はまだ無名だ。
自分が誰かを……例えば竹中半兵衛、例えば織田信長、例えば新田剣丞に憧れる事はあっても、自分が誰かから憧れられるとは思っていなかった。
蔑まれ、疎まれる事はあっても……だ。
「てか普通に可愛いじゃないか、胸は残念だけど」
「女の子を胸で判断するなよ、可愛いのは認めるけど」
「しかも……か、可愛い……」
雫が赤面する。
彼女はまだ、自分の容姿を褒められるのに慣れていないのだ。
「んで剣丞はもう官兵衛に手を出したりしてるのかな~?
ハーレム入りさせたりしてるのかな~?
ズッコンバッコン大騒ぎしてるのかな~?」
「な、なんの話だっ!?」
「鬼と戦う気があったら誰でもウェルカムだったか?
ある意味漢らしい宣言じゃねえか、ウチの総大将もゲラゲラ笑ってたぞ。
てかその定義だと犬子も柘榴も果ては美空までてめぇの嫁にされるじゃねえか。
俺の嫁と美空に手を出したらブチ殺すぞゴミめら!
美空の場合は和姦ならOKだが、強姦だったらブチ殺す!」
とか何とか言ってるが、この男は今でもなお、本当は剣丞の方が前田利家の夫にふさわしいのではなかろうかと考えている。
「あれ? 良く考えたら鬼と戦うと犬子も剣丞様のお嫁さんにされちゃうの?
それだったら鬼と戦うの嫌だな……」
「そういう趣旨で言った訳じゃないから!
もう相手がいる人を無理矢理娶らせるとか考えてないから!」
「いや待てよ、柘榴はともかく、犬子はむしろ……」
「九十郎、そこから先を言ったら噛むよ」
「犬子も柘榴も俺の嫁じゃあ! 渡すかボケエエエェェェーーーッ!!」
九十郎がわざとらしいヤOザ口調で方向転換をする。
凄んではいるが漢らしさ0である。
「いや、でもやっぱり犬子は……」
「噛むよ。 そして首輪着けて写真撮るよ」
「てめぇなんか怖くねぇ! 野郎・オブ・クラッシャアアアァァァーーーッ!!」
謎の顔芸と共にもう一度凄んだが、漢らしさはマイナス方向に振り切れている。
だから貴様は九十郎なのだ。
「うん、分かったから。 他人の嫁に手は出さないし、雫にも今の所手は出してないから」
「雫……?」
「小寺官兵衛さんの通称だよ」
九十郎が雫に視線を向ける。
「は、はい、小寺官兵衛孝高、通称は雫と申します。 以後お見知りおきを」
「剣丞の嫁になったりは?」
「い、今の所は、まだ……」
「……間に合ったか」
九十郎はぼそりとそう呟き、安堵のため息を漏らした。
「間に合った……とは……?」
「あんたに剣丞ハーレム……要は剣丞の嫁軍団の中にに入られるのは嫌だ。
だから一生懸命突っ走ってここまで来たんだよ」
「え……」
……それはやっぱり、求婚なのではなかろうかと、雫は思った。
男女交際の経験が皆無な雫は、さっき以上に混乱していく。
「とりあえず握手してくれ、そしてサインしてくれ。
そうしてくれると俺は非常に嬉しい。 そして……」
「え、えっと……あ、握手……とは……」
「手を握ってくれ!」
「あ、は、はい……そのくらいなら……」
九十郎の勢いに圧され、おろおろしながら雫が九十郎と握手を交わす。
「俺はもうこの手は二度と洗わねえええぇぇぇーーーっ!!」
九十郎は感激していた。
これ以上ない程に分かりやすく、単純に感激していた。
誰の目にも演技には見えなかった。
「おい、犬子……あれは浮気の範疇には入らんのか……」
「九十郎、前々から黒田……じゃなくて、小寺官兵衛さんが一番好きだって言ってたけど、
まさかここまで好きだったとは……犬子も少し驚いています」
「お前も大変だな、犬子」
「あはは、久遠様程じゃないですよ。 剣丞様って、色んな人から慕われてるんでしょ」
「もう諦めてるよ、我も結菜も」
久遠は乾いた笑いをした。
犬子は思った、この人はいつでもいつまでも苦労性だな~っと。
「それと……」
そんな中で、九十郎が真面目な顔で……基本ふざけているこの男にしては珍しく、真面目な顔で雫に向き合う。
「越後に来てくれないか、官兵衛。
もし来てくれるなら、1万石で迎え入れると美空が言っている」
「いちまっ……!?」
雫が絶句する。
小寺家の所領は約10万石、雫の実家である黒田家は5000石程度、大した実績も無い雫個人をいきなり1万石で迎え入れる事は、破格の待遇と言って良い。
「お、おい犬子!? 本気なのか!?」
「すみません久遠様、犬子達は本気で言っています。
ちょっと事情があって理由は話せませんけど、
本気で官兵衛さんに越後に来てほしいと思っています」
先程までのほんわかとした空気が一瞬にして雲散霧消した。
そして全員の視線が雫に集まる。
雫は……混乱する頭が急速に冷えていくの感じていた。
剣も槍も弓矢も使われていないが、この場は戦地だと理解した瞬間、彼女の脳漿に血が巡り、戦闘モードに入っていた。
お断りします……そうやってきっぱりと断るのは簡単だ。
雫はつい先日、将軍足利義輝に頭を下げさせ、剣丞の元で働けるようになったばかりだ。
義輝のメンツを二度もぶっ潰すなんて恐れ多い事はできないと言うのは簡単だ。
一葉の前で、『剣丞様の下で死にとうございます』と宣言したばかりだ。
その舌の根も乾かぬ内に鞍替えはできないと言うのは簡単だ。
簡単だが……それが最善なのかと……斎藤九十郎の秘密を直で探れる好機を投げ捨てるのが最善かと問われれば……最善だと断言できない自分がいた。
そして何より、目の前で喉も枯れ果てんばかりに自分を愛してると叫ぶ九十郎の姿に、自分に1万石を与えても惜しくないと評価してくれる長尾景虎に、嬉しいと感じてしまう自分もいた。
「私……は……」
どうすれば良い、どう答えれば良い……どうすれば最も新田剣丞の役に立てるのかを考えていた。