犬になった犬子を連れて、柘榴と新戸と九十郎は練兵館に戻ってきた。
首輪もリードも着けていないが、犬子は九十郎の傍から離れようとしない。
なお美空曰く、首輪をつけたら不機嫌になって近づく人全員を噛みまくり、しかも事情を知っている美空と柘榴が真っ先に犬にされ、事態を収拾させられる者がいなったせいで、越後崩壊一歩手前になったらしい。
それ故に、九十郎が首輪やリードをつけようとしたら全力で止められた。
「ただいま~っと、ここに戻ってくるのも久々だな」
「ワゥン!」
練兵館はしん……と静まり返っていた。
いつもなら、犬子が九十郎を出迎え、お帰りなさいと言ってくれた。
しかし今、犬子は犬になっていた。
「てか、なんか散らかってないか、微妙に埃とかも……」
「柘榴達をほっぽいてふらぁ~っとどっかに行った誰かさんのせいで大変だったっすよ。
捜索隊組んだり、風魔忍軍とやりあったり、犬になっちまった犬子を見張ったり、
犬にされた御大将を追いかけて町中を駆けまわって……
流石に道場の掃除にまで手が回らねーっす」
「うぐっ、す、すまん……」
すまんで済むなら火盗も北町奉行もいらない。
「でも……戻ってきてくれて嬉しいっす。
一時は本当に死んだか誘拐されたかって思ったっすから」
「お、お~……」
割とストレートに安堵の表情を見せられ、九十郎が照れる。
今までずっと非モテだったので、こういうシチュエーションに耐性が無いのだ。
「それよりこいつ……本当に犬子なんだろうな?
後でやっぱり別の犬でした~なんて……クロマティじゃあるまいしそれは無いか」
照れ隠し半分に、そんなこの話の前提を真っ向から否定するような事を言い出す。
だから貴様は九十郎なのだ。
「九十郎、柘榴を信用しないっすか」
「そうは言わんが、現実逃避の一つもしたい気分なんだよ。
昔っから犬っぽいとは思ってたけど、まさか本当に犬になるとはなあ……」
九十郎はエルドランに土下座したら元に戻してくれねえかなあ……とか考えている。
元気爆発ガンバルガーの見すぎである。
「新戸、何か分からないか、戻し方とか」
九十郎は珍しく井伊の糞女とも、クソガキとも、糞ニートとも呼ばず、新戸を新戸と呼んだ。
都合の良い時だけ友達呼ばわりするのは、人間としていかがなものだろうか。
「そうだな……」
新戸が過去にした他の世界の虎松との交信で得た情報を、走馬灯のように超高速で再生していく。
しかし……過去に交信したどの世界の虎松も、犬子が自分自身の魂を歪めるほどの強い願望を抱き、自分自身を犬に変えてしまうような異常事態に遭遇はしていない。
別の世界の虎松と交信し、本来知りえない筈の情報を得る能力も、限界は存在する。
100分の1、1000分の1以下の確立で起きるレアケースや、この世界とあまりにも状況が違い過ぎる世界の情報は、それを知る虎松に辿りつく前に気力と体力と集中力が尽きてしまうため、知る事ができないのだ。
「サンドスターを当てれば治るかも……」
……と、けものフレンズにドハマりした虎松から、布教と称して何度も何度も何度も何度も本編映像やら、舞台版やら、アプリ版やら、漫画版やら、オーイシお兄さんの仮歌やらを強制的に見せられた新戸が呟く。
なお、サンドスターなんて不思議物質は世界のどこにも存在しないし、あったとしても犬から犬のフレンズに変わるだけで何の解決にもなりはしない。
「もっと現実的な案を頼む」
「それなら……」
新戸は少しの間、黙り込む……犬子を元の人間に戻す方法はある、しかしそれを言うべきか、言わない方が良いか……それを考えたのだ。
「記憶を閉ざしてしまえば、たぶん元の犬子に戻せると思う」
迷った末にそう告げた。
新戸は少し、辛そうに告げた。
「催眠術か?」
「ああ、そうだ……蘭丸程上手くはないが、オレも催眠術は使える。
屑郎の事を思い出せないようにすれば、たぶん犬子は人の姿に戻せる……たぶんな」
「そう……か……」
以前の九十郎なら、二つ返事でやってくれと答えただろう。
そして鞠と同じように犬子を剣丞に押し付けて、二度と関わらないようにしただろう。
いや、今でも九十郎はこう考えている、犬子は……前田利家のような価値のある女は、新田剣丞のような価値のある男と結ばれるべきだと。
だが今は……
「それをやって、犬子は大丈夫なのか?」
「……屑郎との思い出は、犬子の人格形成に大きな影響を及ぼしている。
屑郎の記憶を封じたら、以前とは性格が変わる。
神道無念流のように、屑郎から教わった技術も使えなくなる」
「性格がか……」
九十郎は以前、新田剣丞が犬子と粉雪と愛し合う夢を見た。
夢の中の犬子は、少し性格が違っていたような気がした。
子供っぽいと言うか、能天気と言うか、無邪気と言うか……九十郎が知る今の犬子よりもむしろ、犬千代と呼ばれていた子供の頃の犬子に似ていたような気がした。
もしかしたら、あれが本来の犬子の性格なんじゃないかと思った。
自分の存在が犬子を歪めてしまったのではないかと……
「どう変わるのかは、分かるか?」
「分からない、人の心は複雑だ。
何がどう影響するのかは、やってみなければ分からない。 だから……」
「俺に関する記憶を消したら、その後犬子がどんな性格になるかも分からないか」
「……ああ」
「考えさせてくれ……少し、少しで良い……」
九十郎は今、迷っていた。
九十郎は犬子に一言も相談せず、犬子を置いて駿河に向かった。
駿河から逃げ去った後も越後に真っすぐ戻らず、甲斐で温泉に入り、そして尾張に剣丞に会いに行った。
心のどこかで、九十郎は犬子を避けていた。
だから何かと理由をつけて、越後に戻る日を遅らせていた……その事を、九十郎はたった今自覚した。
「全く……酷い奴だよな、俺は……」
物憂げな表情で、九十郎は呟いた。
自分の身勝手さに吐き気がした。
そして思った……犬子はいっそ、自分と出会わなかった方が幸せだったんじゃないかと。
そして思った……犬子はきっと、自分と出会わなかった方が幸せだったと。
たとえ性格が変わるとしても、たとえ自分の事を忘れてしまうとしても……と……
「屑郎……」
そんな九十郎の思考を、新戸は察した。
超能力で思考を読む必要は無かった、顔を見ればすぐに分かった。
九十郎は今、犬子の記憶を消してくれと言おうとしていると。
「九十郎、諦めるのはまだ早いっすよ」
しかし、九十郎はそれを口に出すより早く。
新戸と同じように九十郎の考えを察した柘榴が口を挟んだ。
「だがな、これが一番……」
「言いたい事、色々あるっすけどとりあえず3つくらい伝えるっす」
九十郎の言葉を遮り、柘榴はコホンッと少し気恥ずかしそうに咳をする。
「何があっても、柘榴は九十郎の味方っすよ」
そして柘榴はそう言いながら、九十郎の背中をドーンッと叩く。
「……俺が美空を騙したり裏切ったりしてもか?」
「九十郎はそんな事をしないって信じてるっすから、そんな事を想定する必要は無いっす」
「ははは、逃げやがったなコンニャロウ」
「何言ってるっすか、真面目に答えてるっすよ。
九十郎は意味も無く御大将に弓を引いたりしない、万が一弓退く事があっても、
きっと九十郎なりの考えがあってやるんだって心の底から信じられるっす。
だから御大将への忠義と九十郎への愛は両立するっす、たぶん、きっと、
良ぉし! 自己弁護は完璧っす!」
割と無理がある理論である。
その証拠に柘榴の言葉の端々に自信の無さが現れている。
「で、本音は?」
「その時の状況次第っすけど、基本九十郎に味方するっす」
「ははは、こいつ5分と経たずに前言撤回しやがった」
「もう、九十郎は時々意地悪っすよ」
柘榴がぷんすかと頬を膨らませる。
九十郎は少し、肩の力が抜けていた。
「で、2つ目に言いたい事……この先どんな事があっても、柘榴は九十郎を支えるっす」
「その時の状況次第で、だろ?」
「違うっす、今度は本気の本気っすよ」
「じゃあ俺が美空を殺しに行ったらどうする気だよ?」
「九十郎が正しいって思ったら、一緒になって暴れるっす。
九十郎が間違った事をしてるって思ったら、引っぱたいてでも止めるっす」
「それが支える内に入るのかよ?」
「何があっても、柘榴は知らない、関係無いって言って放り出す事だけはしないっす。
一緒になって暴れる時も、引っぱたいて止める時も、柘榴は本気の本気でやるっす。
何があっても柘榴は九十郎と本気で向き合うっす」
柘榴そう言うとニカッと朗らかに笑っていた。
「そか……」
眩しいな……そう、九十郎は思った。
「柘榴は凄いな……前田利家でも、上杉謙信でも、山県昌景でもないのに。
ただの柘榴なのに、どうしてそんなに眩しいんだか」
「愛の力っす!」
「何だそりゃ?」
「じゃあ、雑草魂っす。 偉人ばかりが歴史じゃねえっす。
柘榴みたいな無名の誰かが頑張って、偉人を支えてるっすよ」
「そうか……うん、そうかもな……」
そして九十郎はすっくと立ちあがる。
腹を括ったのだ……犬子ともう一度向き合う覚悟を決めたのだ。
「なあ柘榴、さっき言ってた伝えたい事、3つ目は何だったんだ?」
「へ……そりゃあ……」
急にそう聞かれ、柘榴はう~んとか、え~ととか、何やら曖昧な言葉を繰り返し……
「やっぱ伝えたい事、2つでしたじゃ駄目っすかね?」
「ははは、こいつ数も数えられないのかよ」
ノリと勢いで発言しているだけである。
「つまり柘榴が言いたい事は……そう、つまり……えっと……そうっす!
九十郎は細かい事は考えずに、九十郎らしい言葉をどーんとぶつけるっす!
要はそれを言いたかったっす!
あ、この言葉を柘榴が言いたかった事の3つ目にしても良いっすか?」
そして柘榴はノリと勢いで自らの綻びを誤魔化した。
九十郎にも、柘榴は誤魔化してるだけだと思ったが……それでもなお、柘榴が自分を助けよう、支えようとしてくれている事だけは理解できた。
嬉しくて、嬉しくて、有り難い……そう思った。
「ありがとな、柘榴。 愛してる」
だから九十郎は去り際に柘榴を抱き寄せ、耳元でそう囁いた。
「柘榴も九十郎の事、愛してるっすよ。 犬子の事も愛してるっす。
だから……だから信じるっす、九十郎ならどうにかするって。
記憶を消しておしまいなんて悲しい結末にはならねーって」
「ありがとな、柘榴。 じゃあ行ってくる、犬子と向き合いにな」
そして九十郎は一歩踏み出し、歩き出す。
九十郎への想い故に犬にまでなってしまった少女の下と……
……
…………
………………
「しかし……こうやって向き合ったのは良いか、何もしたら良いか全然分からねえな……
どーんと言えって言われても、何をどう言えば良いのか……」
1分後、土間に正座してじぃ~っと犬を見つめるマッチョがいた。
率直に言って意味不明の情況である。
柘榴に背中を押され、ここまでやって来たのは良いが、九十郎は全くのノープランだったのだ。
「愚痴があるなら聞くぞ、犬子」
とりあえずそう伝えてみるも……
「ワンッ!」
犬子は耳をピンッと立てて、元気良く返事をしたが、特に愚痴を言い出す事は無かったし、人の姿に戻るような事も無かった。
犬になっている犬子に『愚痴』という言葉の意味が分かっているのかも不明だった。
「犬子、おいで」
九十郎が犬子に対して手招きをすると、犬子は即座に立ち上がり、九十郎の隣へ駆け寄ってきた。
「ワゥン……クゥ~ン……」
まるで頬ずりをするかのように身体を押しつけてきた。
「肉球があるし、全身モフモフしてるし、胸はぺったんこになって、
乳首がひーふーみー……おお、10個もある。
凄えな、本当に身体の構造が変わってるぞ」
九十郎はかつて自分好みのナイスでっぱいがあった場所に指を這わせ、お腹を撫でながら、犬子の惨状……もとい現状を再確認する。
見れば見る程、触れば触る程、今の犬子は犬だった。
「さあて、どうするかな……かえるの王子だの、眠り姫だの、マジシャインだのだったら、
口づけをかわせば元に戻るんだろうが、まあそんなに都合は良くないか」
犬とマッチョなブ男がキスをする……放送禁止一歩手前の光景である。
「まあ、何だ……正直に言って、お前をナメてたよ。 お前の言う『好き』を軽く見ていた」
九十郎は犬子を抱きしめながら、そう呟いた。
「自分の魂すら歪めちまうくらい、好かれてたとは思わなかったよ……
そもそも、俺が他人に好かれてるって事自体が、あまり信じられていなかった」
九十郎はぽつり、ぽつりと……自分の心を発露していた。
「お前の気持ちを知っておきながらさ……何度も何度も好きだって言わせておいて、
俺はついさっき、俺に関する記憶を消せば全部解決するんじゃないかって思ったよ。
それが一番手っ取り早いし、お前も幸せになれるって、
俺みたいな屑を前田利家が好きになるなんて間違ってるって……本当に屑だよな」
屑そのものの台詞である。
犬子の想いを丸っきり無視して、否定する屑そのものの台詞であるが……それでも、九十郎は犬子の幸せを願っていた。
九十郎は……
「好きだよ、犬子。 今更かもしれんが、俺はお前が好きなんだ」
そしてそこで、九十郎の言葉が止まる。
何かを言おうとして、何も言えなくて……それを何度も何度も繰り返した。
何かが足りない、このままでは犬子は救われない、救えない。
それでもなお、九十郎は次の言葉が言えない……どうしても……
犬子の気持ちに向き合えない、自分の心に向き合えない……
『何があっても、柘榴は九十郎の味方っすよ』
九十郎の頭の中で、柘榴の言葉がリフレインする。
『この先どんな事があっても、柘榴は九十郎を支えるっす』
九十郎の頭の中で、再び柘榴の言葉がリフレインする。
『つまり柘榴が言いたい事は、
九十郎は細かい事は考えずに、九十郎らしい言葉をどーんとぶつけるっす!』
柘榴の言葉が……柘榴の真心が、九十郎の背を押した。
柘榴にとってはノリと勢いで言っただけの言葉であったが、その言葉に嘘偽りは一切無かった。
九十郎は奥歯をぎゅうっと噛みしめ、拳を握り、そして……
「ええいくそっ!! 好きだよ犬子! 好きに決まってんだろ!
好きだから辛いんだよ! 好きだから幸せになってほしくて!
好きだから俺よりもふさわしい奴がいるんじゃないかって……
何でお前は前田利家なんだよ! どうして惚れた女がよりにもよって前田利家なんだ!
理不尽だろうがコンニャロウ!」
九十郎が叫ぶ。
訳も分からずに叫ぶ。
自分が何を口走っているかなんて全く考えずに……その代わり、自分の心を素直に言葉にしていた。
「ワゥン……」
九十郎の感情の発露を前に、犬子が戸惑い一鳴きする。
御家流の暴走により犬になり、知能の犬並みになった犬子には、九十郎はいきなり訳も無く怒鳴り始めた変な人……その筈だった。
「俺は……俺が犬子が好きなんだ……どうしようもなく好きで……
でも俺は……長谷河みたいに、秋月に……秋月八雲に……
犬子が剣丞の元に行ってしまうんじゃないかって思って、怖くて、怖くて……
怖いんだよっ!! 怖いから逃げたんだよ! 悪いかコンチキショウッ!!」
九十郎は泣いていた。
大の大人が、マッチョな大男が泣いていた、号泣していた。
情けない男である、情けない姿である、だから貴様は九十郎なのだ。
だが……
「ウゥ……」
犬子の心が熱くなっていた。
次第次第に心臓の鼓動が早くなり、脳に血液が渦巻くような感覚がした。
「分かってる、お前が長谷河じゃない事は分かってる。
遠山とも違うって分かっている。 剣丞も秋月じゃない事も分かってる。
それでも怖いんだよっ! 怖くてたまらないっ!!
前田利家みたいな歴史に名を残すような女が俺なんかに惚れる訳が無いって!
俺が……俺が前田利家と一緒にいれるはずが無いって……」
そして九十郎は慟哭した。
嗚咽を漏らし、これでもかって位に情けない姿を晒した。
「頼む……頼む、犬子……俺を……俺に信じさせてくれ。
犬子が本当に俺を好きだって事を……信じさせて、安心させてくれ……頼むから……」
そして九十郎は犬になった犬子に懇願し始めた。
情けなく、本当に情けなく泣きながらそう懇願していた。
「九十……郎ぉ……」
犬になった犬子の口から、人の言葉が漏れていた。
犬子が九十郎の名を呼んでいた。
自分の魂を歪めてしまう程の好きになった男の名を……
「教えてくれ、犬子……お前は……お前は俺が好きなのか……?」
そして九十郎は犬子にそう尋ねた。
「好き、好きだよ九十郎。 犬子は本当に本当に九十郎が好きだよ。
好きで好きで仕方がなくて、頭がどうにかなりそうな程に好きなんだよ」
犬子が人の言葉を喋り、九十郎に自らの想いを吐き出した。
犬子の頬に涙が伝っていた。
そして犬子の身体が徐々に大きくなり、骨格の形が変わり、体毛が抜け落ち……人の姿に変わり始めた。
「犬子、俺は……俺は情けない奴で、女々しい奴で、ハッキリ言って駄目人間だ。
それでも……それでも犬子は、俺を好きでいてくれるのか……?」
「九十郎に駄目な所があるなんて、とっくの昔に知ってるよ。
それでも私は九十郎が好きなんだよ、もうどうしようもない位に九十郎が好きなんだよ」
気がつけば犬子は、完全に人の姿に戻っていた。
九十郎と同じように……いや、九十郎以上に涙を流し、九十郎に抱きついていた。
自分の想いが10分の1でも、100分の1でも伝わるようにと。
伝わってほしいと心の底から願いながら、祈りながら、犬子は止めどなく涙を流していた。
「信じるぞその言葉! 信じて良いんだなその言葉!
前田利家が俺みたいな屑を好きになるなんてありえない台詞、
本当に信じても良いんだな!?」
「信じてよ! お願いだから信じてよ! 私は九十郎の事が大好きなんだよ!
時々屑だけど、そこも含めて大好きになったんだよ!!」
そして……犬子と九十郎は笑いあっていた。
素っ裸の少女を全力で抱きしめながらにやけるマッチョ……通報案件である。
「なんか……叫んでたら少しスカッとしたな」
「落ち着いたら色々思い出してきたよ……
犬子、もしかして美空様や柘榴に物凄い迷惑をかけてたような……」
「その辺の野良犬に処女捧げかけたって言ってたな」
「い……言ってたね……犬子、土下座何回やったら許してもらえるかな……?」
犬子は蒼褪め、ガタガタと震えていた。
犬子には自分が犬になって、本能の赴くまま好き勝手やってた頃の記憶がしっかりと残っていた。
「切腹を申し付けられたらまた一緒に逃げようぜ」
「えぇ~、また……」
「信長から戻ってくれって言われてるんだろ」
「柘榴はどうするの?」
「海賊らしく頂いていく」
「いつ海賊になったのさ?」
「男の子ってのはいつでも心に海賊を抱えてるんだよ。
いつだって一繋ぎの大秘宝的アトモスフィアを求めて、
大海原を漕ぎ出したいってどっかで思ってるんだ」
どんなアトモスフィア(雰囲気)だ。
「2人で美空に土下座しに行く前に……一発ヤらねえか、犬子」
「ええ、今? ここで?」
「長旅で溜まってるんだ、良いだろ?」
「う、うん……」
犬子と九十郎の唇が重なる……九十郎の手が犬子の全身を余す事無く撫でまわす……
「……で、どこに行こうとしてるんだ、柘榴」
そろ~り、そろ~りとその場から立ち去ろうとしていた柘榴が、九十郎に声をかけられてピタリと歩みを止める。
「い、いや……何か良い感じの雰囲気だったっすし、柘榴はお邪魔かなと……」
「邪魔な訳ねえだろ、むしろこの場に柘榴がいない事の方が問題だね」
「そ、そっすか……?」
「犬子も同じ気持ちだよ、柘榴」
「いや、でも……」
「ハッキリ言葉にしないと分からないかな……」
九十郎は面倒くさそうに……いや、恥ずかしそうに頭を掻き、視線を泳がせ、しばし口ごもり……そして告げた。
「俺には柘榴が必要なんだ、傍にいてくれ」
今まさに犬子を抱こうとしていた男が言って良い台詞なのかどうかはともかく。
九十郎は本気でそう思っていた。
「も、もう……しょうがないっすねぇ……」
柘榴がちょっと照れながら、いそいそと服を脱ぎ、足元に畳む。
あんなありきたりな台詞で嬉しいと感じてしまう自分をチョロいと思ったが、そういう理屈がどうでも良くなるくらい、柘榴は柘榴で九十郎に惚れていた。
その後始まるのは、この世界ではありきたりな光景……夫婦の営みだ。
九十郎はこの日、一歩前に踏み出した。
無論、かつて秋月八雲によって受けたトラウマが1日や2日で完全に癒える事は無い。
決意の1つや2つで、九十郎が犬子を前田利家ではなく、ただの犬子と思えるようにはならない。
ただし九十郎は、この日犬子の想いに向き合う事にした。
犬子の言う『好き』の言葉を、信じようと思った。
ただそれだけの事だが……九十郎にとっては大きな前進である。
大きな大きな……本当に大きな一歩前進であった。