たった6ヶ月……九十郎と竹千代の交流は、たったの6ヶ月で終わってしまった。
竹千代は時間の許す限り、馬術の訓練と称して織田の屋敷を抜け出し、九十郎の歴史談義、技術談義を聞き続けた。
時折木刀を持ち、犬千代と共に九十郎に挑んでいった。
竹千代はそんな毎日を一生忘れる事は無いだろうと確信していた。
「実在した……仙人様は実在した……九十郎様こそ、仙人様……」
今川領、駿府屋敷に向かう輿の中で、竹千代はそう呟いた。
織田家と今川家との抗争の中織田信秀の子、織田信広が今川方の捕虜となった。
そして交渉の結果、竹千代は信広の身柄と引き換えに、駿府に送られる事となったのだ。
つまりは人質交換である。
竹千代は織田の人質から、今川の人質になる……彼女にとって、状況は全くもって好転していない。
だがしかし、彼女の顔は明るかった、希望に満ちていた。
彼女の母・松平広忠の訃報を聞いた時、松崎城が今川勢に占拠され、城も領地も残らず召し上げられたと聞いた時の何十倍……いや、何百倍も明るかった。
「あの御方さえ……九十郎様さえ得られれば、松平家は蘇る。 必ず、きっと……」
九十郎は竹千代や犬千代に比べれば強かったし、九十郎の知識は竹千代にとって未知のもので、やりようによっては有益なものだ。
だがしかし……それだけだ。
九十郎の剣に、知識に、織田や今川を全滅させ、戦国の世を制するだけの力は無い。
九十郎を知る者が竹千代の抱く過度な期待を聞けば、腹を抱えて笑い出すであろうし、後日光璃に笑われる。
しかし、竹千代はまだ数え年で8歳の童女なのだ。
8歳の童女が、人質という形で故郷を離れ、いつ殺されるかも分からない立場となり、親の訃報を聞き、御家存亡の危機を知り……あらゆる意味で孤独だったのだ。
そんな時にひょっこり現れた希望に対し、仙人様と呼び、信仰にも近い想いを抱いたとしても、誰が責められようか。
既に彼女の頭の中は、どうやって独立するかで一杯になっていた。
今川にどう仕えるか、どうやって役に立つか、どうやって忠誠を示すかではなく……今川をどう裏切るか、どうやって足を引っ張るか、どうやって忠臣と誤認させるかで一杯になっていた。
「とにかく1日でも早く独立する事。
1日でも早く独立して、九十郎様を迎え入れる事ね。
織田よりも早く、今川よりも早く、私以外の者が九十郎様の知見に気がつく前に」
桶狭間の戦い……今川義元の死まで、あと11年。
……
…………
………………
天文20年、西暦換算で1551年。
前田犬千代は織田久遠信長の小姓となった。
特に面白味も無く、何の波乱も無く。
犬千代は那古野城下に移り住み、九十郎と会う事はほぼなくなった。
九十郎は未来知識を他人に語らなくなった、木工細工の模型を作る事もなくなった。
元々、犬千代に興味を持ってもらうためにしていた話であり、犬千代と会わなくなった以上、話す必要性を感じなかったというのが理由の半分、竹千代に懇願されたというのが残りの半分だ。
九十郎様の身に危険を招きかねないので、軽々しく他人に語らないでくださいと、真剣な眼差しで……聞き入れなければ割腹自殺でもするのではと心配になる位、真剣な真剣な真剣な眼差しで、竹千代は懇願したのだ
結構語りたがりの九十郎が、地味ぃ~にフラストレーションを溜めながらもその助言を聞き入れたのは、竹千代のドン引きする位真剣な眼差しがあったからだ。
実際の所、犬千代以外に語ってドン引きされたり、可愛そうな人を見る目になられた事も数回あった。
天文21年、西暦換算で1552年。
犬千代15歳、九十郎17歳、竹千代11歳、桶狭間まであと8年の頃……久遠の母・織田弾正忠信秀が急死する。
久遠が毒殺したという噂がどこからともなく流れたが、正秀に死なれて一番驚いたのも、一番悲しんだのも、一番被害を被ったのも久遠である事は明記しておくべきであろう。
家中に不穏な空気が流れる中、織田久遠信長による家督相続が行われ……直後、鳴海城主・山口教継、清州城の実権を握っていた守護代家老・坂井大膳が今川方に寝返った。
久遠は即座に坂井大膳討伐を決断した。
後に『萱津の戦い』と呼ばれる戦いが勃発したのである。
「初陣か……」
戦場に立つ犬千代の脳裏には、九十郎との日々が走馬灯のように蘇っていた。
結局、どんなに力を尽くしても、どんなに知恵を絞っても、九十郎から一本を取る事は叶わなかった。
頭に、喉に、胸に、背中に、わき腹に、肩に、肘に、指に、腰に、膝に、足首に……九十郎の竹刀は、犬千代のあらゆる部分に叩きつけられた。
もし九十郎が竹刀ではなく、真剣で反撃をしていたのなら……既に1000回以上犬千代は死んでいる。
その事実が、犬千代の心に恐怖を呼び起こしていた。
「だ、大丈夫かな……」
この日のために用意した3間半の長槍が嫌に頼りなく見えた。
傷一つ、汚れ一つ無いピカピカの鎧が、嫌に頼りなく見えた。
毎日毎日寝る間も惜しんで鍛えた肉体が、磨いた武技が、嫌に頼りなく思えた。
「鍛えた身体は己を裏切らん、磨いた技も己を裏切らん。
案ずるな、恐れるな、鍛え続け、磨き続けた犬千代は強いぞ」
そんな犬千代の背後から、懐かしい声が……1年前までほぼ毎日聞いていた声、九十郎の声がした。
「く、九十郎っ!? なんで……ここ戦場だよ!?」
「兵役だよ。 うちの村からも何人か割り当てられてた、
俺は良い年齢の男で体格も良い、だから来た」
「あ……そっか……そうだよね」
この時代、平時の農民と有事の雑兵はイコールで結ばれている場合が多い。
極貧農民の子としてこの時代に生まれた九十郎が戦地に立っている事は、当然予想されて然るべき事である。
望外の幸運だ……九十郎は本心からそう思っていた。
犬千代には才能がある。
その才能が十全に開花するのは5年後か、10年後か分からないが……今はまだ自分よりも弱い。
自らの安泰な生活のため、必要に応じて犬千代を助けに行ける場所に居続けたかったのだ。
そこで自分が死ぬ可能性に思い至らない辺り、この男は非常に能天気である。
それにもう一つ、九十郎が自ら望んで戦地に来た理由がある。
「こっちに来た理由はもう一つある。
戦国時代の人間相手に、自分の剣がどこまで通用するのか、少し興味があった。
道場剣法は実戦では通用しないと良く言われるが……本当なのかなと。
早い話が腕試しに来たんだよ、俺は」
それもまた、九十郎の偽らざる本心であった。
前の生では、人生を投げ打つ覚悟で打ち込んだ剣道が、現代では取るに足らない無駄技能である剣道が、戦国時代であっても取るに足らない無駄技能であるのか……それが知りたかったのだ。
命懸けになろうとも、確かめたかった。
自分が投げ捨てた青春時代が、ただの時間の無駄であったのか……と。
数時間後、道場剣法は実戦で通用しないと良く言われる理由を、九十郎は身をもって味わうのだが、基本的に能天気で楽観的なこの男は気づかない。
「あれ、九十郎って道場なんて行ってたの?
この辺に剣を教えてる先生なんて居たっけな……」
「神道無念流だ、昔修業をしていた」
「しんとー……?」
「知らないか……学園じゃ結構有名だったんだが、こっちじゃマイナーなのかな?
昔、福井兵右衛門嘉平って人が開いたらしい剣術だ」
なお、九十郎は気づいていないが、神道無念流が創始されたのは1751年から1764年頃だ。
早い話が未来の剣術であり、犬千代が知らないのも当然の話である。
「でも、九十郎ならきっと手柄を立てられるよ。 正直犬千代より何倍も強いし……」
「今はそうかもしれないな。 だが犬千代は将来、きっと俺よりも強くなるぞ。
向上心がある、剣才もある、だからお互い生き延びよう」
なお、この男は数時間後に死に掛け、犬千代に助けられるのであるが、基本能天気であるためそんな可能性はチラリとも考えない。
「う、うん……そうだね……」
犬千代は笑ってみせた。
その笑みが無理をして作っている事、本当は不安で一杯である事が一目で分かったので……
「大丈夫だ、いざとなったら俺が助けに行く、俺が犬千代を守る」
少しかがみ、年若い少女に視線を合わせ、九十郎は笑った。
必ず助ける、必ず守ると……犬千代は信じた。
ただし数時間後、九十郎はみっともなく逃げ回っている所を犬千代に助けられる。
「そしてもう一つ。
もし将来、犬千代が家来を持つ身になったら……その時は喜んで家来になろう」
「え……?」
犬千代がぽかん……とした表情で固まる。
唐突な提案、完全に予想外で、完璧な不意打ちであった。
今まで考えもしなかった事が、絶対に言いそうにない人物からされたのだ。
それは犬千代の将来性を見込んでの提案であり、九十郎の腹の中はコールタール以上に真っ黒であったが、幼き少女は気づいていなかった。
「家来って……九十郎が犬千代の? 逆じゃなくて?」
「何故逆になる?」
「だって九十郎は年上だし……正直犬千代よりも強いし……」
「年上で、自分よりも強い者を家来にしてはならん法でもあったか?
大事な事は当人同士が納得するかだろう。 犬千代はどう思う、俺を家来にしたいか?」
犬千代はブンブンと大きく、勢い良く首を縦に振った。
尻に着けている犬の尻尾を模した装飾品は、彼女の驚愕と歓喜を示すかのようにピョコピョコと揺れていた。
「よおぉーしぃっ!! 手柄立てるぞぉっ!!」
そんな犬千代の様子を見て、九十郎は心の中でガッツポーズをしていた。
是非とも手柄を立てて俺を家臣にして安寧な生活を提供してくれ……なんて、九十郎は割とゲスな事を考えていた。
……
…………
………………
戦いは、面白味も何もなく推移していた。
結果だけ言えば、戦いの結果は史実における萱津の戦いと同じで、織田信長の勝利に終わる。
敵の総大将坂井甚介は柴田壬月勝家の手で討ち取られ、死亡する。
そして前田犬千代は敵陣に真っ先に突入し、大暴れをして、信長の目に留まる。
ただし……
「ま、拙い……かな……」
ただし九十郎は、戦場の隅っこで人知れず死に掛けていた。
ゲスで楽観的で能天気な男が、人知れず因果応報の理にブチ当たっていた。
傷ついていた、心身共に疲弊していた、手足が鉛の様に重く感じる程に。
この男、自分が死に掛けるなんて全く思っていなかった。
勝ち戦なら敵兵を2~3人斬ってお茶を濁し、負け戦なら犬千代を守りながら逃走するつもりでいた。
前の生で、人生を投げ打つ勢いで剣の腕を磨いていた自分が、そこいらの雑兵に負ける筈がないと思っていた。
だがしかし、現実問題として九十郎は死の危険に晒されていた。
ぐるぐると回る視界、吐き気、怖気……今、この男の体調は最悪であった。
体調は最悪であったが、敵は一切手加減してくれそうにない。
「死ねやぁっ!!」
敵の雑兵が怒声を上げながら襲い掛かってくる。
それは九十郎より、犬千代よりも遥かに弱い敵だ。
武術の心得が欠片もなく、本能の赴くままに槍を突き出す素人戦法……にも関わらず、九十郎は苦戦していた、死に掛けていた。
「死んで……死んで、たまる……かぁっ!」
槍の一突き一突きを、必死になって躱していく。
普段の身体のキレは、洗練された身のこなしは、全くと言って良い程に消え失せていた。
無様に無様に逃げ回っていた。
死にたくない、死にたくない、死にたくない……そう強く念じて、必死になって己を奮い立たせようとするが、九十郎の精神状態は悪化の一途を辿っていた。
それもその筈……
「人間1人殺すのが……こんなにも重いなんて……」
……九十郎はつい先ほど、人間を1人殺したのだ。
槍衾の中心、比較的良さそうな鎧を着ていた者にアタリをつけ、槍を掻い潜り、足首を切断し、喉に刃を突き立て……殺したのだ。
刃を突き立てた瞬間に気づいた、目の前に居るのが生きた人間である事に。
死んだ瞬間に気づいた、返り血の感触を。
刃を抜いた瞬間に気づいた、背骨を伝うように感じる怖気を。
刀を首にあて、掻き切り、生首を一つ作った瞬間に気づいた……自分が何をしたのかを。
この男、ゲスで能天気で楽観的だが、人殺しをして平気でいられる程、図太い神経をしてはいなかったのだ。
「割り切れよ九十郎! じゃないと死ぬぞ!」
そう自分に言い聞かせたが、効果は全く無かった。
次の瞬間、九十郎は全身の骨という骨が歪み、全身の神経が痺れ、全身の筋肉が硬直したかのように感じ……全く普段通りに動けなくなっていたのだ。
戦場のど真ん中でだ。
甘く見ていた。
剣を振るい、人を斬る事の重さを、人間の命の重さを。
はしゃいでいた。
戦国の世に生まれ、剣の道で身を立てられる事への可能性に。
軽く見ていた。
腰に繋いだ、顔も知らぬ名前も知らぬ人間の首の重みを。
人間の死は九十郎が思う程軽くは無かった。
斬られれば悲鳴を上げ、斬られれば血が出て、斬られれば死にたくないと泣き叫び、そして……物言わぬ屍となる。
それが現実の人間であった。
「馬鹿か俺は!? 簡単に……そんな簡単に斬れる訳がねぇだろうがっ!!
そんな簡単に殺せる筈がねぇだろうがぁっ!!」
自分自身を叱責するが、闘志は萎えたまま、足腰は震え、視界は廻り、吐き気は収まらない。
九十郎は目の前に居る雑兵よりも遥かに強い。
ただしそれは、まともな精神状態ならばであった。
「うおおおあああぁぁぁーーーっ!!」
「くそっ……があぁっ!!」
どちらかと言えば糞は九十郎の方である。
槍の切っ先が徐々に九十郎の身体を捉えるようになってきた。
普段の彼ならば鼻歌交じりにいなせる、技とも呼べぬ素人槍術が九十郎に出血を強いていた。
「死……ぬ……のか……?」
明確の死の予感が、九十郎を取り囲みつつあった。
人殺し……戦国時代に生きる者にとっては軽すぎる、現代人にとっては重すぎるその三文字が、九十郎を縛っていた。
一歩踏み込み、剣を振るう……そうすれば斬れる、それだけで勝てる、生き残れる。
ただしそれは、目の前で槍を振るう人間を殺す事に他ならない。
そこに……
「九十郎に何するんだあああぁぁぁーーーっ!!」
そこに犬千代が飛び込んで来た。
全身を返り血で真っ赤に染め、腰に2つの生首を下げた少女が憤怒の表情でやってきた。
情けも容赦も躊躇も一切無い槍の一撃で、九十郎に槍を突きつけていた雑兵は瞬時に絶命した。
「よぅし! 今日の犬千代絶好調!」
犬千代が穂先を喉に突き立て、トドメを刺すその姿を、九十郎は腰を抜かし、XXXを漏らしながら眺めていた……犬千代は無邪気に笑っていた。
雑兵の首はさして価値の無い物であり、荷物が増えるのを嫌って避ける者も多い。
犬千代は倒れ伏す遺体の首は取らなかった。
九十郎はその程度の相手に殺されかけたのだ。
「九十郎っ! どうしたのこんなのに苦戦して!?」
「い、いや……人殺しは……初めてでな……」
「犬千代も初めてだけど、大丈夫だったよ」
「そ、そうだった……か……」
犬千代に手を引かれ、九十郎は立ち上がる。
声が震え、腰も震え、腕も震えていたし、汚物の匂いもしていた。
自分よりも2歳も若く、自分よりも一回りも二回りも弱く、小柄な少女に助け起こされていた。
全くもって情けない……典型的な新兵の姿であった。
「な、情けねぇ……なぁ……」
道場剣法は実戦では通用しないと良く言われる理由を、九十郎は身をもって味わった。
人殺しの重さ、死の予感に揺るがない精神性を持たなければ、戦場で剣を振るう事ができなくなるだ……と。
九十郎は決意した。
このまま情けないままではいられない、次はこうはいかない。
次の戦まで、磨き直し、鍛え直しだ……と。