戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と九十郎第2話『竹千代』

……朝日が眩しい。

 

目がしばしばして、頭はズキズキする。

足元はふらつき、小鳥の鳴き声さえも煩わしい。

たぶん原因は寝不足だ。

 

「……犬子、大丈夫か?」

 

「すごく痛かったよ、九十郎。

 それにお股の所、何か挟まってる感じがする……」

 

俺に手を引かれ、歩く少女は内股だ。

 

昨晩は夜遅くまで、男と女の情欲をぶつけ合い……まあ端的に言ってエロい事をしていた訳だ。

 

結局、俺は欲望と衝動に負けてしまった。

歴史を変える選択、俺にとってのルビコン川を渡ってしまった。

 

一度初めてしまえば、前の生でも今生でも童貞であった俺に、自重だの抑えだの効く筈も無く、一晩中……一生分の精をブチ撒けるかのような交合を演じてしまった訳だ。

 

おまけに俺が未来の知識を持っている事とか、前の人生でどんな事をしていたのかとか、洗いざらいブチ撒けてしまった。

 

「歩けそうか?」

 

犬子の唇にむしゃぶりつきたい、乳首を吸い、乳房を揉みしだきたいという欲求を必死に抑え、俺は最低限文化的な対応を捻り出す。

これ以上時間を浪費したら追手に捕捉される、ハッキリ言って自殺行為だ。

 

「ど、どうにか……どうにか歩けるけど……ちょっと辛いかも……」

 

ハジメテの痛みに、ゴツゴツしてジメジメしていた洞窟で一晩中激しくシタ負担、逃走劇による疲労、負傷、寝不足、そして関節痛……案の定と言うべきか、残念ながら当然と言うべきか、犬子のコンディションはかなり悪い。

 

「日が出ている間に少しでも距離を稼ぐぞ。

 今は一日でも早く三河から……松平元康の勢力圏から離れる」

 

「そうだね」

 

犬子が何度もよろめきながら、服や手荷物、刀を拾い集める。

万一に備えて用意していた路銀も保存食も残り少ない。

 

ここまでの逃避行で、俺も犬子も疲労困憊、身体中が傷だらけ、泥だらけ、汗まみれだ。

今の状態ではどう頑張ってもあの本多忠勝には勝てやしない……いや、仮に万全であったとしても、万に一つの勝ち目も無い。

つまり、追手に追いつかれれば本気で拙い事になるという事だ。

 

捕まれば犬子が人質に取られて半強制的に元康に仕える羽目になるか、あるいは2人纏めて幽閉……最悪、殺されるだろう。

 

「周囲に人の気配は……無いな。 犬子、急ぐぞ」

 

「う、うん……」

 

犬子は不安そうな表情で付いて来る。

不安そうに俺の腕をぎゅっと掴み……少しだけ頬が緩んだ。

 

「えへへ、くじゅ~ろぉ~」

 

いや、少しどころか盛大に、これ以上無い程に緩みきっていた。

決死の逃避行をしているとは思えない、幸せいっぱい、希望でいっぱいといった顔だった。

そんな顔で犬子は、俺の名前を呼んでいた。

 

「……あまり引っ付くな、歩き辛い」

 

そんな事を言いながら、俺は犬子を振り解けなかった。

頬が緩み、口角が上がり、顔が熱くなるのを抑えられなかった。

どうしようもなく追い詰められているというのに、今が幸せだと感じていた。

 

「だってさ、九十郎に好きって言えたんだよ。

 だってさ、九十郎に好きって言って貰えたんだよ。

 嬉しすぎてニヤけちゃうし、幸せすぎて引っ付きたくなるよ」

 

同感だと言いたくなるのを、必死の思いで堪える。

今、俺が感じている幸福感をまた味わうため、2人の安寧な生活を確保するため、一刻も早く逃げなくてはいけない。

 

全く、まさか自分が前田利家と恋仲になろうとは思ってもみなかった。

 

「今は我慢しろ」

 

「ええ~」

 

不満そうに頬を膨らませる少女の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫で回す。

たったそれだけで、犬子は本物の犬のように気持ち良さそうに息を漏らす。

そんなちょっとした仕草を可愛らしいと感じてしまう俺は、相当駄目な男なのだろう。

 

「日が落ちるまで我慢しろ、野営の支度までしたら……また、な……」

 

この状況下でまた犬子とシたい、犬子を貪り、愛し合いたい等と考え、それを口にする俺は……口にするどころか、濃厚で熱烈なキスまでしてしまう俺は、相当な駄目男かもしれない。

 

「ん……んちゅ……うんっ! 約束だよ九十郎!」

 

つい先程まで顔色が悪く、ヨロヨロとした動きになっていた犬子が途端に元気になる。

現金な女だと嘆くべきなのだろうが……嬉しいと感じてしまう俺は、かなりの重傷だ。

 

「しかし……あの竹千代が領主になるとは、誤算だったな……」

 

もしも元康が、日本史に疎い俺でも知っている位に将来性のある大名であったなら、こちらから土下座をしてでも家来にしてもらい、歴史知識と剣道で磨いた技をフル活用して仕えるのにな……等と、ありえない妄想に浸ってしまう。

 

(作者注)松平元康は、後の徳川家康です。

 

「あれ? そう言えば本多忠勝って、徳川家康の家来だったような……

 何で元康なんかに仕えているんだ? 歴史が変わったか?

 それとも後で何かあって主替えをするのか?」

 

「そんな事、犬子に言われたって分からないよ」

 

(作者注)松平元康は、後の徳川家康です。

 

様々な考察や妄想を振り払い、深く深く溜め息をつく……まあ、良い。

いまさら後悔をしても始まらない、考えていたって分からない。

 

「何にせよ、もうじき沈むと分かり切っている船に乗せられてたまるかってんだ」

 

(作者注)沈みません。

 

「目指せ! 犬子と一緒に安寧な生活ぅっ!!」

 

「目指せ! 九十郎と一緒に幸せな生活ぅっ!!」

 

2人で気合いを入れ直す。

天下国家なんて論じる気は無い、松平の行く末は……歴史に名が残っていない以上、おそらく悲惨な末路を辿るだろうが、興味も無い。

 

(作者注)天下人として歴史に名前を残します。

 

「好きだぞ、犬子」

 

抱いた勢いとか、成り行きとか、吊り橋効果とか、そういうのはどうでも良い。

俺は心の底から犬子を愛している、その一点だけは誰に対しても断言できる。

 

「大好きだよ、九十郎」

 

朗らかに笑う犬子を見て、俺は心の底から嬉しくなる、幸せを感じる。

 

俺はただ、惚れた女と一緒に安寧な生活がしたいだけだ。

そのためには松平元康ではない、将来性のある主君に仕えるべきだ。

 

(作者注)自ら将来性のある就職先を蹴り、自ら安寧な生活を放り投げています。

 

俺は少し先を歩く犬子を追い、歩き始める。

竹千代……松平葵元康と初めて出会った日、元康に目を付けられる原因、元康の部下達に追いかけられる原因を自ら作ってしまった日を思い出しながら……

 

……

 

…………

 

………………

 

天文18年、西暦換算で1549年の事である。

 

「……さて、今日は火砲の発展について話そうと思う」

 

今日も今日とて襲撃してきた犬千代を軽く叩きのめし、無理矢理近くに座らせて歴史談義を始める。

 

犬千代は現在11歳、この時代の武家の娘は早ければ12歳、遅くとも16歳位で初陣に出る事を考えれば、犬千代を鍛えるために使える時間は残り少ない。

 

しかし、九十郎に焦りは無い。

九十郎から見れば、犬千代はまだまだ未熟だ。

もう何年かすれば九十郎を遥かに上回るのではと感じる程、光る剣才が見えてはいたが、今はまだまだ未熟者だ。

 

しかし、犬千代は日々進化成長を続けている。

自分が関与しなかった時の犬千代よりも強くなっているのだから、史実よりも悪い状況にはなるまい。

そんな根拠希薄な楽観論があるが故に、九十郎は焦っていなかった。

危機感が無かった、全く無かった。

 

自らの安寧な生活を確保するために、もう少し犬千代と仲良くなっておこう……今この時点では、それだけのために。

九十郎の意識が変化するのは、もう少し後の話である。

 

「ぜっ……ぜぇ……はぁぅ……ちょ、ちょっと待って……」

 

犬千代は乱れ切った息で、3間半の長棒を杖代わりにして立ち上がる。

犬千代が長期戦に耐えられるかを試そうと、九十郎はあえて決定的な一撃を入れずに長々と打ち合いを継続したため、いつも以上に気力体力の消耗が著しかった。

 

「待てんよ。 時間はいつだって有限で、

 有事は何時何処でどのように起こるか分からないからな」

 

そう言いながら九十郎は昨晩完成したばかりの木工細工を犬千代に投げ渡し、自らは犬千代の襲撃によって中断された巻割りを再開する。

もっともらしい事を言ってはいるが、本心は昨晩完成したばかりの模型を見せたくてたまらないのだ。

 

いくら犬千代を鍛えたいとはいっても、今の九十郎は極貧農家の息子、あくせくと働かなければ普通に飢え死にする身の上だ。

それを理解しているからこそ、犬千代は1日1回以上、九十郎に対する不意打ちを行おうとしなかった。

 

「何……これ……? 竹筒?」

 

車輪の付いた竹筒……少なくとも犬千代にはそのように見えた。

 

「そう言いたくなる気持ちは分かるが、竹筒ではない。

 それはカルバリン砲だ、模型だがな」

 

「かる……かるい……」

 

「カルバリン砲、砲身3m、口径13~16cm、有効射程は1800m。

 かのフランシス・ドレイクがスペイン艦隊を打ち破った、

 アルマダの海戦で使われた事で有名な砲だな。

 カノン砲よりも口径が小さく威力が低いが、射程が長く弾道が安定していた」

 

なお、九十郎は気づいていないが、アルマダの海戦は1588年、未来の出来事である。

この男、日本史はうろ覚えであったために、今が西暦換算で何年なのか分かっていないのだ。

 

「可能砲……?」

 

「カノン砲な。 可能砲なんて妙ちくりんな名前の砲、ナポレオンだって使わないぞ」

 

「ナポレオンって誰?」

 

「ナポレオン・ボナパルト、1769年にコルシカ島で生まれた偉大な将軍、

 一時期はフランス皇帝にまで上り詰めた歴史上の偉人だよ」

 

なお、九十郎は気づいていないが、ナポレオンも未来の人物である。

 

「強かったの?」

 

「フランス革命直後で国中がぐしゃぐしゃだった状況で連戦連勝する程度には強い。

 全盛期のフランスとその同盟国、衛星国の広さは凄まじいぞ。

 まあ、ロシアの冬将軍には惜しくも敗れたがな。

 砲兵・騎兵・歩兵の連携によって敵を打ち破る三兵戦術を確立した」

 

「おぉ~!」

 

「しかしまあ、火砲の発展や役割について解説してからじゃないと、

 ナポレオンの活躍について語るのは難しいので、火砲の話に戻すぞ」

 

犬千代はコクコクと頷き、その場に正座する。

少女の興味を引けた様子を見て、九十郎は心の中でガッツポーズをした。

 

「カルバリン砲では威力不足でな、後の時代ではカノン砲が海戦の主流になる。

 そしてこっちはナポレオン砲、アメリカ南北戦争で最も使われた事で有名な火砲だ。

 砲身167.6cm、口径12cm、実体弾、榴弾、榴散弾、ぶどう弾を発射可能な事が特徴、

 射程は砲弾によって変わるが、実体弾で1480m、榴弾で1188m」

 

なお、九十郎は気づいていないが、南北戦争の開始は1861年、未来の出来事である。

 

「犬千代、分かるか?」

 

「だいたいわかった」

 

「その顔は分かってない顔だなぁ……」

 

実際の所、九十郎は自分の語る西洋歴史談義や技術談義の持つ価値を見誤っていた、早い話が過小評価していた。

ちょっとした無駄知識、無駄話の類……図書館か何かで少し調べれば、すぐに集められる情報だと思っていた。

 

前田利家は将来武将になるのだから、聞いた事の無い戦争話を聞かせれば気を引けるかもしれないというのが半分、単純に九十郎がこの手の無駄知識、無駄話を語るのが好きだったというのが半分、たったその2つだけの理由で語って聞かせていた。

 

この時犬千代は、早く話が終わってもう一回チャンバラができたら良いなと考えていたし、九十郎は一目でそれが分かるのだが……だ。

 

「火砲の発展は戦争を大きく変えた。

 城の形は射線を通すために五芒星、六芒星に似たものになり、時代が進めば廃れていった。

 歩兵は密集させての運用ができなくなり、数名の小隊を分散させて運用させる事になる。

 木材の軍船は消え、鉄張りの軍船が浮かぶようになり、

 帆船は消え外輪船、船尾スクリュー船が戦場の花形となっていく。

 この辺りの話は調べだすと中々面白いんだよ」

 

九十郎は犬千代以外の者にこの手の話は滅多にしない。

別に秘匿しようと思っていた訳では無い、単に手間と労力をかけてまで仲良くしたいと思った人が居なかっただけだ。

 

もっとも、今までは1度も無かったが、乞われれば九十郎は喜んで無駄話をし始める。

それが未来知識、未来技術の話であると気づきもせずに……だ。

その意味で九十郎は、非常に危うい状態ともいえた。

 

「かるばりん……? 五芒星の城……? すくりゅー……?」

 

そんな時、九十郎はどこかからぼそぼそと小さな声が聞こえたような気がした。

聞き耳をたて、良く目を凝らし……近くの茂みの奥に、犬千代上に小さな女の子が居る事に気がついた。

 

「そこに隠れている子供、怒らない、追い払わないから出てきなさい」

 

九十郎がそう告げると、犬子の背後にあった茂みがガサリと揺れ動く。

7歳か8歳か……その位の年齢らしき、小さな小さな女の子がそこに隠れていた。

少女の目尻には、涙の痕があった。

 

「あ、あれ……この子……竹千代?」

 

犬千代が首を傾げながらその少女の名前を呼ぶと、少女の肩がビクンと震え、顔が一気に蒼褪めた。

 

「犬千代の知り合いか?」

 

九十郎の日本史知識の中に『竹千代』という名前は存在しない。

やむなく竹千代を知っていそうな犬千代にそう尋ねた。

 

「お隣の三河の領主さんの娘だよ。

 人質として織田家が預かってるって聞いてるけど……

 ちょっと前に久遠様のお屋敷にお呼ばれした時に、そういう話があって……」

 

「人質……ね……」

 

後で匿ったとか脱走の手引きをしたとか、そういう因縁をつけられりゃしないかと九十郎は考える。

この男、豪胆そうに見えて案外ビビリである。

 

「外出の許可なら頂いております。

 屋敷に籠ってばかりでは気が滅入るだろうと、久遠様から」

 

「そうなのか?」

 

そう言われても九十郎は信長と面識がない。

目の前の少女が言った事が真実かどうか、判別ができず……やむなく九十郎は信長と何度か会った事がある犬千代に助けを求める。

 

なお、久遠というのは織田信長の通称である。

諱を軽々しく口にするのは縁起が悪いという事で、元服する時に付けられるのだ。

 

「竹千代さん、久遠様のお気に入りだからね。

 名目上は人質って事になってるけど、事実上は放し飼い同然だって」

 

「放し飼い? 犬猫じゃあるまいに……」

 

「い、犬千代が言ってる訳じゃ無いって!

 ただ……久遠様の事、うつけだって言う人が多くて……竹千代さんの事も色々と……」

 

3人の少年少女達は微妙な沈黙に包まれる。

織田久遠信長の素行の悪さは有名で、織田家の次期頭領として不適格ではないかと公然と言い放つ者は後を絶たない。

 

「まあ、良いか……」

 

九十郎が沈黙を破る。

 

織田信長が天下統一手前にまで行きつく事は、日本史に疎い九十郎でも知っている。

それ故に、家督相続問題がどれ程荒れようとも、なんやかんやでどうにかなるだろうと、九十郎は楽観していた。

この男、慎重そうに見えて案外考え足らずである。

 

もっとも実際の所、久遠は……この世界の織田信長は、なんやかんやでどうにかするのだが。

 

「さっきの話の続きを聞きたいなら、茂みの中からじゃなくても良い、

 その辺で座って聞いていろ。 貧乏なんで茶は出せんが、追い払う気はねえよ」

 

何故涙を流していたのかは知らないが、自分の話が気晴らしになれば良い、どうせ趣味のTRPGの合間に友人達から教えてもらった無駄知識だ。

この少女が放し飼い同然であるならば、日が暮れる前に織田信長の屋敷に帰せば大きな問題にはなるまいと考え、九十郎は警戒を解き、薪割りを再開した。

 

「大丈夫……なのかな? 後で母様か久遠様から叱られたら、九十郎も一緒に謝ってよ」

 

「わかったわかった。 それよりもさっきの話の続きをするぞ。

 竹千代、何か分からない事があったら質問しても良いからな」

 

竹千代はコクコクと頷いた。

 

「火砲の製法は時代によって変わる。 犬千代、さっき渡した模型を一旦返してくれ。

 良いか2人とも……さっき渡したカルバリン砲だが……」

 

九十郎は竹千代の目の前で、砲身に付けられた竹筒の節のような物体を取り外す。

すると2人の少女達の眼前で、カルバリン砲がバラバラになる。

 

「このように、タガを外すとバラバラになる……この模型は木製だが、実物は鉄だ。

 鋳造砲が主流になる以前では、このように鉄の板を組み合わせて筒状にして、

 それをタガで束ねて砲身にする。

 どうしても砲身に隙間が出来て威力が削がれ、弾道が安定せず、

 しかも強度の面でも劣るから、鋳造砲が世に出回ると廃れていった製法だな」

 

九十郎の解説を、犬千代は退屈そうに、竹千代は鬼気迫る表情で見つめている。

 

「ナポレオン砲は青銅製の鋳造砲……

 製銅砲の時代から鋼鉄砲の時代に移り変わる時期に作られた火砲だ。

 鋳造砲は高熱の炉で金属をドロドロに溶かし、型に流し込む方法で作成する。

 昔は大砲を作れるだけの鉄を溶かす熱量を生み出す事ができなくてな、

 反射炉が実用化されるまで、火砲は青銅で作られていた」

 

この程度の話は他の大人に聞けばすぐに分かるだろうに……等と九十郎は考えている。

反射炉が工業用の鉄鋼の溶解に用いられるようになったのは1690年代、早い話が未来の技術である。

 

「カルバリン砲……ナポレオン砲……反射炉……」

 

犬千代は気づいていないし、九十郎も気づいていない。

だがしかし、竹千代は気づいた。

九十郎とは逆に、少女の心中は不安で一杯、危機感で一杯であったからだ。

 

犬千代は知らないし、九十郎も知らない。

つい先日竹千代の母にして松崎城主、松平広忠が家臣に刺されて死んだ事、主無き松崎城が今川勢に占拠され、城も領地も残らず召し上げられた事、つまり……竹千代は、松平家はこれ以上無い程に詰んでしまったのだ。

 

竹千代は現在、織田の人質の身……どうにかしなければならない事は分かっていても、どうする事もできない、どうしようもない。

織田久遠信長の厚意により、遠乗りをする程度の自由は認められているが……それだけだ。

 

そんな焦りが、不安が、危機感が……ある意味で竹千代の視野を狭め、九十郎の骨董無形な無駄話が、確かな拠り所のある実利の話であると気づかせたのだ。

 

「これは……これはもしかして、本当に……」

 

竹千代は小さくそう呟いた。

無我夢中になって馬を走らせ、悲観と絶望の涙を流し続けていた彼女であったが、九十郎の話が聞こえてきた瞬間、涙は一気に引っ込んだ。

 

今川に臣従する弱小豪族を束ねなければならない身の上、織田の人質としていつ殺されるか分からない身の上でなお心が折れず、毎日命懸けで鍛え、毎日命懸けで学び、毎日命懸けで考え続けている少女は気づいた。

 

 

 

 

 

九十郎は今現在の日ノ本では実用化されていない技術について語っているのだと。

 

 

 

 

 

それ故に竹千代は、命懸けで隠れ、命懸けで聴き取り、命懸けで覚えようとした。

故郷三河で自分の帰りを待つ家臣達のために、松平家の未来のために……

 

「あの……先程何度か仰っていた、めぇとるとは……?」

 

だから知らなくてはならない、少しでも多く。

理解し無ければならない、少しでも深く。

奇跡でも起きない限り今川に擦り潰されるであろう松平の未来を変えるために、故郷で自分の帰りを待つ三河侍達を守るために。

 

竹千代は必死であった。

 

そんな竹千代の必死さを気づきもせず、九十郎は手元にあった比較的真っすぐな一本の木の枝を鉈で寸断する。

 

「目算で悪いが、大体この棒の長さが1mだ」

 

「いえ、十分です……2めぇとるが、1間……いえ、1間よりも少し短い位でしょうか?」

 

「カルバリン砲の有効射程は1800m、二分の一で換算して900間。

 最大射程は6300m、二分の一で3150間になるか。

 ナポレオン砲が1480mで、740間になるな」

 

それを聞いた瞬間、竹千代は絶句した。

九十郎の話が真実なのだとすれば、弓矢や鉄砲の10倍以上の距離から一方的に攻撃を加えられるという事になる。

 

もしも火砲を実戦運用する事ができれば、最早槍も弓矢も……馬も鉄砲も……ただの案山子になりかねない。

 

「おおっと、射程が短いからと言ってナポレオン砲が劣るなんて思うなよ、

 鋳造砲はタガで固めている砲よりも頑丈で弾道が安定する上に……

 ここを見ろ2人とも、砲耳が付いている。 ここが画期的なんだ」

 

そう言うと九十郎は砲耳と呼ばれる突起を始点に、ナポレオン砲の模型を上下に振って見せた。

 

「大砲は基本、こういう形の専用の荷車で運ばれる。

 左右に付いた車輪で横方向の向きを変え、砲耳を支点にして上下方向に向きを変える。

 そうしてより素早く、より小さな力で目標に狙いをつける事が可能なんだ」

 

「反射炉があれば、そのナポレオン砲が手に入るのですか?」

 

「さっきも言ったがナポレオン砲は青銅製だ、作るのに反射炉は必要無い。

 ただ……より性能と生産性が高い火砲が欲しいなら反射炉が必須だな。

 個人的にはアームストロング砲がお気に入りだ。

 強度と技術的問題さえ解決できるなら、前装砲より後装砲の方が実践的だからな」

 

「前装……?」

 

「弾と火薬を銃口から詰めるか、銃口の後ろの方から詰めるかの違いだ。

 閉鎖機の完成度が低いと暴発事故が頻発するが、連発がしやすい」

 

九十郎は心の中で、完成度高けーなオイと呟いた。

年下の女の子2名が居る所で下ネタを言うのを避けるだけの分別はある。

ただし1855年完成の未来兵器を話題に出さない分別は無い。

この男、基本的に日本史はうろ覚えで、しかも考え足らずなのだ。

 

「反射炉は内部が高熱になるために普通の建材ではあっという間に倒壊する。

 そこでまずはロウ石を集め、耐火煉瓦を作る。

 ロウ石は岡山県と広島県で算出してた筈だ……確か」

 

「岡……山……? それに広島……?」

 

聞いた事のない地名に、竹千代が首を傾げる。

 

「ああすまん、絵で説明する……日本列島が大体こういう形で……

 岡山県はこの辺り、広島県はこの辺りにある。

 ロウ石が出る場所までは流石に覚えていないな」

 

どちらも三河とは遠く離れている……竹千代は僅かに落胆するも、すぐさま気合を入れ直す。

今迄何をどうすれば良いのかまるで分からない状態だったのだ、不可能が困難になり、奇跡が辛うじて手の届く場所にまで降りてきたのだ、落胆するなんて贅沢が過ぎると。

 

「ロウ石を砕いた物を粘土に混ぜ、直方体にして焼く……

 比率とか混ぜ方とか焼き方とか積み方とかは細かくなるから省くが、

 いずれにせよそれで耐火煉瓦ができる。

 耐火煉瓦を……流石に反射炉の模型は用意していないから絵で説明するが、

 おおよそこういう形状に組んで、炉を作る」

 

反射炉の模型までは用意していなかったため、九十郎は薪の切れ端を使って地面に簡単な図面を描く。

 

それは犬千代にとっても竹千代にとっても未知の建造物……犬千代はそれを見て、これさえ無ければ九十郎もいい人なのになぁと思い、竹千代はそれを見て、九十郎の言葉には確かな裏付けがあるのだと確信した。

 

「作れ……ますか……?」

 

竹千代は震える声でそう尋ねた。

目の前にある希望が画餅であるのか、それとも必死になって手を伸ばせば届くかもしれない未来予想図であるか……彼女にとって最も重要な事を尋ねた。

 

「以前作った事がある……夏休みの自由研究でな。

 ああ、模型ではないぞ、ちゃんとした製鉄ができる本物の反射炉だ。

 その時に内部構造は嫌という程に頭に叩き込まされた。

 耐火煉瓦さえ用意できれば、もう一回作る事は十分可能だろう」

 

九十郎は力強く断言した。

竹千代は地獄に仏を見た気分になった。

どん底であった気分が吹き飛び、暗雲しか無かった未来に光が差し込んだように思えた。

 

「では、火砲も……」

 

「作ったな、内部構造もしっかりと頭に叩き込んでいる。

 ただし榴弾の作成は諦めろ、あれは素人が手を出して良い代物じゃない。

 火薬の調合をミスるか、雷管の誤作動を引き起こして爆死するのが関の山だ」

 

俺のセカンド幼馴染は、昔榴弾を作っていたな……と、九十郎は思ったが、残念ながら戦国時代にセカンド幼馴染は居ない、居る筈もない。

 

「後はスクーナーも……

 ああ、17世紀頃北アメリカで広く使われていた輸送船だが、それも昔作ったな。

 最初は学生のやる事じゃねーだろとか、剣教えてる方が楽しいだろとか、

 何しれっと参加してんだ北町奉行、止めろよとか思ったが、凝りだすと楽しいんだよな」

 

ファースト幼馴染が言いだし、セカンド幼馴染が作り方を考え、九十郎が肉体労働を担当させられる……大江戸学園では良くある光景である。

反射炉、刀剣、大砲、台場、榴弾、そしてスクーナー……平和的な物は日本酒とパン焼き窯位しか思い浮かばない辺り、九十郎のダブル幼馴染は頭がイカレていたとしか思えなかった。

 

九十郎がそんな事を考えていると……薪割りが終わった。

 

「ありゃ、思ったより早く終わったな。 早めに戻るか……いや……」

 

九十郎は持ち運びやすくなるよう薪を束ねると、先程犬千代を叩きのめした竹刀を拾い、正眼の構えで向き直る。

 

「その顔を見るに、いい加減に退屈になってきた所だろう?

 少しばかり相手になってやる」

 

その言葉を聞くと、待ってましたとばかりに犬千代は飛び上がり、長棒を水車の如く振り回す。

 

「今日こそ……今日こそ犬千代が、勝ぁつっ!!」

 

そう叫び、九十郎に飛び掛かる。

猟犬のように俊敏に、狼のように獰猛かつ狡猾に、犬千代は同年代の誰よりも洗練された動きで九十郎を追い詰めにかかる。

 

しかし……

 

「小手ぇっ!!」

 

しかし、今はまだ九十郎の方が強い。

 

「多少はフェイントを使えるようになってきたか。

 2手目、払うと見せかけて突きで来たのは悪くなかった。

 もう手筋の少し切り替えを素早くできるようになればなお良しだ」

 

「ふぇ……ふぇにっくす……?」

 

犬千代はとりあえず知っている単語を口にした。

 

「偽の動きで騙して、姿勢を崩した所を攻める事だ。 こういう風になっ!」

 

「あだぁっ!?」

 

右肩狙いの袈裟……と、見せかけた足払いを受け、犬千代がすっ転ぶ。

しかし、1度や2度叩き伏せられた程度で犬千代の闘志は萎えない。

少女は正直興味の無い火砲の話を延々と聞かされていた頃の2倍……いや、10倍は瞳を爛々と輝かせ、再度九十郎に挑んでいった。

 

「仙人……様……?」

 

竹刀と長棒をぶつけ合う2人を食い入るような目で見つめながら、竹千代は小さくそう呟いた。

 

九十郎は強かった。

その技は誰よりも……誰よりも誰よりも研鑽され、洗練されていた。

少なくとも竹千代の目にはそう写った。

 

戦国時代の人間の目から見れば、現代人の……それも人生を投げうたんばかりに鍛錬を重ねた剣術馬鹿の太刀筋は、洗練されて見えるのだ。

 

「間違い……ない……間違いない、あれは仙人様。

 仙人様が降りてきて、私を助けに来て……そうなければ説明がつかない……」

 

全くの見当違い、勘違いである。

だがしかし……そんな見当違いを信じさせる程、竹千代は幼く、追いつめられ、憔悴していた。

九十郎と言う名の藁切れに縋りたくなる程、竹千代は溺れていたのだ。

 

「もし……もしもあの方が私を助けてくれたのなら、今川だって、織田だって、

 いえ……この乱世を糺し、天下泰平の世を築く事すら……」

 

笑える程滑稽な話であったが、竹千代の目は全く笑っていなかった。

竹千代は本心からそう信じ切っていた。

 

九十郎はまだ気づいていない。

竹千代が後の徳川家康である事も、今日の出会いが後々彼と犬子を苦境に立たせる事も。

もしも竹千代の半分……いや、10分の1も危機感や用心深さを抱いていれば、竹千代の目つきがおかしくなっている事に気づけていただろう。

 

だがしかし……九十郎は気づいていなかった。

 

 


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