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ご不便をおかけして申し訳ございません。
あの時……俺が犬子の胸に触り、唇を奪ったあの時、監視者の存在に気づけて本当に良かったと思っている。
そのおかげで女の色気に熱に上げてしまっていた自分を落ち着かせる事ができた。
あれがなければ、たぶん俺はそのまま犬子を押し倒し、最後の一線を越えていたと思う。
あのまま勢いのままに犬子を犯してしまっていたと思う。
取り返しのつかない事をしてしまったのだと思う。
冷静になって考えてみれば、あの前田利家が俺のような屑を好きになる筈が無い。
犬子の言葉はきっと、心にもない嘘で俺をからかっているだけだ。
そうでなきゃあ一時の気の迷い、吊り橋効果か何かで感じた胸の高鳴りを、本物の恋心と勘違いをしているだけだ。
時々忘れそうになるが、犬子は前田利家だ。
俺を好きになるなんて、絶対にありえない。
だって考えても見ろよ、前田利家だぞ。
槍の又左衛門なんて呼ばれる程の剛の者で、加賀100万石とかいう広い領地を任せられる程に天下人たる豊臣秀吉から信任が厚くて、歴史に名が残るような偉大な人間だ。
それに比べて俺は非モテ……女にモテた事なんて前の生でも今の生でも一度も無い、超の付く非モテ野郎だ。
全身に筋肉がついて、顔も体もゴツゴツして正直言ってブサメン、体臭もキツい、性格だってかなり利己的で自己中心的、その上巨乳好きのスケベ野郎だ。
たった一つ、取り柄として自慢できるものと言えば、神道無念流だけ。
あれだけは俺の自慢で、あれだけは心の底から楽しめて、あれだけは誰にも負けないと胸を張れて、あれだけは信念を持って取り組めた……だが女にモテるような取り柄では無い。
剣道着って正直臭いしな。
そんな俺があの前田利家に好かれる筈が無い、愛される訳が無い。
価値の無い男が、価値のある女を得られる筈が無い。
だからこれ以上踏み込んじゃいけない。
犬子はきっとそのうち、前田利家を愛するに足る立派な男と出会うだろう。
俺なんぞよりもずっと良い男がだ。
唇を奪った事は悪いと思うが……まあ、事故にでも遭ったと思って我慢してもらおう。
俺も良い夢を見させてもらったとでも思って、スッパリと諦めよう。
あのビックおっぱいを堪能できないというのはかなり残念だが……まあ、良い。
それが一番良い事なんだ……俺にとっても、犬子にとっても……
……
…………
………………
2人は手を繋ぎ……しかも恋人繋ぎで道を行く。
犬子はこの世の幸せが全部いっぺんに押し寄せてきたかのような顔で、九十郎は奥歯に魚の骨でも引っかかっているのを我慢させられているかのような顔で。
犬子は魅力的な少女だ。
九十郎もそこは疑いなく認めている。
魅力的な少女と唇を重ね、手を繋ぎ歩いているというのに……好意を告げられたというのに、九十郎の心中に喜びは無かった。
あるのは罪悪感だ。
心の中、奥深くにへばりつくヘドロのような罪悪感だ。
魅力ある少女を、魅力の無い自分が汚してしまったのだと、価値のある女を、価値の無い自分が乏してしまったのという……無根拠な思い込みだ。
いや、根拠はあるかもしれない、だってコイツ屑だし。
「さあて、周囲に人影無し、人の気配も無し……悪くない条件だ、ここでやるか」
九十郎が辺りを見回しながら、指をポキポキと鳴らす。
「え!? ここでするの?」
「ああ、ここが良い。 そのためにここに来たんだ。
さっきからずっと、そのための場所を探していたんだ」
人里からやや離れ、視界の開けた原野……狐とか狸とかがひょっこりと顔を出しそうな場所である。
「ひ、人に見られたら流石に恥ずかしいし……その、犬子初めてで……
で、でも外でするのもそれはそれで興奮するかも……」
九十郎の言う『やる』と、犬子の考えている『する』とは、かなり根本的な食い違いがあるのだが、2人は気づいていなかった。
なんとも察しの悪い、デリカシーの無い男である。
「うん、九十郎が犬子としたいんなら……犬子としても、その……」
頬を真っ赤にして、いそいそと上着をはだけさせ……次の瞬間、冷や水を浴びせられたかのように硬直した。
九十郎が刀を抜いたのだ。
「え……?」
そして浴びせられる明確な害意、鋭い刺すような殺意……九十郎のような他人の殺意に敏感なタイプで無くとも感じ取れ、震えあがり、腰を抜かしてしまうような強烈な殺気であった。
槍の左衛門の異名を持つ、一流の武人であるが故に、犬子は耐えられたが……常人ならば数秒と耐えられない程の気迫であった。
「く、九十郎……」
自分は九十郎に斬られるのかと、犬子は思った。
何の説明も無しに人気の無い場所へ連れ出され、いきなり剣を抜き、強烈な殺気を浴びせられたのだ……犬子が殺されると思うのも当然の話だ。
ついさっきまで抱いていた幸福感は一瞬にして吹き飛んでいた。。
しかし……心は不思議と平静であった。
幾度となく修羅場を潜り抜けてきたが故の慣れもあったが、九十郎に対する想いも大きかった。
「うん、良いよ……九十郎に斬られるなら、犬子はそれでも良いや……
元々、九十郎が居なかったら何度も死んでいる命だもの」
九十郎になら斬られても構わない、九十郎になら殺されても構わない……狂気の領域に片足を突っ込んでいるような愛情が、全幅の信頼が、犬子の心を鎮めていた。
「少し黙っていろ、気が散る」
九十郎はそんな犬子の想いを全く気にせず、しかもこの期に及んで何の説明も無かった。
犬子はこの男を斬っても良いのではなかろうか。
犬子は静かに瞳を閉じ、最後の瞬間を待つ。
九十郎は肩に力を籠め、両目が血走らせ、気を高め、気を高め、気を高め……
「……喝っ!!」
……その瞬間、地面が揺らぎ、鳥が一斉に飛び立つ程の気勢が放たれた。
周囲はしぃんと静まり返り、犬子と九十郎の呼吸音だけが……否……
「……居るな、やはり」
僅かに漏れ出た自分以外の殺気を、九十郎は直感的に感じ取った。
「うん、居るね」
犬子もまた見逃さなかった。
ここにきてようやく、犬子は九十郎が刀を抜いた理由をはっきりと理解した。
自分達からは死角になっている場所から、気配を殺しながらこちらの様子を窺っている者がいたのだと。
そいつは突然殺気が放たれた事に驚き、戸惑い、咄嗟に身構えてしまったのだと。
「昔、伊賀の影丸を読んで覚えた追跡者の察知方法。
実際に使うのは3回目だが……初見の相手には効くな」
そんなものを本気で実行に移そうとするのはこの男位である。
そんなものが成功したのは、ひとえに小波が不在だったからだ。
仮に服部半蔵正成・通称小波が九十郎の監視の任に就いていたのだとすれば、このような子供騙しに引っかかるような事は無かった。
葵も葵で伊賀衆との交渉が終わり次第、小波を九十郎の監視に充てるつもりであった……もう遅いが。
「九十郎、何時から気づいてたの」
「さっきお前の胸を揉んだ時」
「あの時かあ……もっと早く教えてほしかったよ、期待するだけさせといて……」
「すまんな、この埋め合わせはいずれするよ」
そんな事を言ってはいるが、犬子が期待するような埋め合わせをする気は0である。
何か適当な小物を作るか買うかしてお茶を濁そうと考えていた。
「気配の位置からすると、2人……3人か? かなりの手練れが居る様子だな」
「誰が送ってきたんだろ?」
「たぶん葵だろう。
今になって思えば、歌夜が生活の面倒を見るとか言い出した事からして怪しかった。
どうやら葵にとって、前田利家の存在はかなり魅力的に写ったらしい」
「九十郎の方じゃないの? 犬子、正直そこまで取り柄無いよ」
「ははは、俺の取り柄なんて神道無念流位だよ」
なお、この時の葵は神道無念流を刺身の上に乗ったタンポポ程度の価値しか感じていない。
それを知った時、九十郎は『解せぬ』と呟くのだが……それは後の話である。
「犬子も、歌夜も彩那もぐぐ~んと強くなったからさ、
他の三河侍達にも神道無念流を教えさせたかったんじゃないの?」
「……む、その発想は無かったな。
松平家武術指南役……中々良い響きじゃあないか。 ただ……」
東京武道館並みに巨大な道場を思い浮かべ、一瞬だけ乗り気になりかけるが、九十郎はすぐにその考えを改める。
「ただ、松平はなぁ……」
九十郎が尻込みする理由は2つ。
葵とは何度か会って話した事があるが、流石にそこまで神道無念流を買っている様子はなかった事。
そして九十郎は松平家や松平元康についての知識が全然無いという事だ。
それはつまり、松平葵元康が歴史に名を残せなかったという事であり、戦国時代のどこかで悲惨な末路を辿った可能性が非常に高いという事でもある。
松平に仕えれば、その悲惨な最期に巻き込まれる危険があり、いつどんな形で松平が滅びるのかを知らない九十郎は、それを回避する術が無い。
沈むと分かり切っている船に乗りたくない……つまりはそういう事だ。
「……やっぱ逃げるぞ犬子」
それ故にこうなる。
この男、逃げると決めたら躊躇をしない性格である。
「歌夜と綾那には……」
「当然、黙って逃げる」
「だよね……はあ、せっかく仲良くなれたのにな」
「綾那は放っておいても死にはしないだろう。
歌夜はちと心配だが、本格的にヤバそうになったら助け舟を出す事にしよう。
葵は……謹んで冥福を祈る」
「死ぬ事前提なの!?」
なお、九十郎は未だに松平元康が後の徳川家康だと気づいていないし、榊原康政が徳川四天王だという事にも気づかない。
気づいていたならば逃げるなんて選択をする筈がない。
「とにかく、今夜逃げ出すぞ。 すぐに戻って夜逃げの準備だ」
「うん、わかったよ」
……
…………
………………
草木も眠る丑三つ時、背中に大きな風呂敷包みを背負った2人の男女が、そろりそろりと榊原家の廊下を歩いていた。
泥棒……ではなく、夜逃げを決意した犬子と九十郎である。
「忘れ物は無いな? 犬子」
「うん、大丈夫だよ。 大丈夫だけど……ねぇ九十郎、やっぱり歌夜には一言……」
「駄目だ、駄目だ。 むしろ歌夜が怪我で寝込んでいる今が絶好の好機だぞ。
一つ屋根の下で暮らしている歌夜の目を誤魔化しながら逃げ支度をするのは骨だからな」
「これからどうするの? この前桐琴さんが、
行くところが無くなったら頼って良いって言ってたから、また森一家のお世話になる?」
「それもアリって言えばアリなんだが……
正直な話、1日2日ならともかく、長期間戦国DQNの元で暮らしたくはないな」
「じゃあ、前みたいに2人で自活する?」
「それが無難だろうな。 もう少ししたらひよ子が墨俣で城造りをする筈だから、
今度はそれにしれっと参加して手柄を立てて、もう一度織田家帰参を目指すとしよう。
名付けてパートタイム蜂須賀党大作戦」
こんな奴らが転がり込んで来たら、蜂須賀小六・通称転子の胃は三日と保たずに粉砕! 玉砕! 大喝采! であろう。
「九十郎、墨俣って斎藤の勢力圏内だよね?
何がどうなったらひよ子がそんな所で城造りする事になるのか分からないんだけど」
「その辺の事情は全く覚えていないから何とも言えんが、
まあ色々あったんだろ、たぶん、きっと、メイビー」
もう何度も書いた事だが、この男の日本史の知識はうろ覚え極まりない。
「犬子、時々九十郎が分からなくなるよ……」
そして2人が草鞋を履き、息を潜めながら玄関門を開き……
「どこに行くおつもりで?」
……屋敷をずらっと取り囲む集団と目が合った。
20人程の屈強な三河侍達、葵の腹心の部下本多悠季正信……そして本多綾那忠勝が居た。
2人の逃亡を防ぐために、円形に武装した侍達が取り囲んでいたのだ。
「げぇっ!? 本多忠勝っ!?」
九十郎は横山光輝の漫画の如く叫んだ。
九十郎にとって重要な事は、本多忠勝が……犬子と九十郎が全力で斬りかかっても、カスリ傷一つ付けられずに瞬殺されるレベルの剣鬼が眼前に立ちはだかっている事だ。
九十郎にとっては赤壁の戦いに大敗し、張翼徳とか趙子龍とかに追われながら敗走に敗走を重ね、疲弊し切った状況下で関雲長に出会ったのと同じ位絶望的な光景であった。
「お師匠、犬子……本当に彩那と歌夜を捨ててどこかに行っちゃうですか?」
「え? い、いや……いや違うぞ彩那、俺はただちょっと夜風に当たりにだな……」
九十郎は露骨に動揺している。
「その割には随分と大きな荷物を抱えておられるようですが?」
「き、筋トレだよ筋トレ! 重い物を背負って走ると効率が良いんだよ!」
「九十郎、その言い訳は流石に苦しいんじゃないかな……」
「犬子てめぇどっちの味方だ!?」
犬子が気まずそうに視線を逸らす。
「今ならばこちらも手荒い真似はいたしません。 戻って……頂けませんか?」
悠季がにこやかに……少なくとも表面上はにこやかにそう告げる。
周囲を固める三河侍達が威圧的に鯉口を抜く。
逆らえば斬る、つまりはそういう事だ。
「何故逃げると思った?」
「昼間の殺気……あれで監視を気取られたかと思いまして。
今夜あたり何かするのではと、普段よりも厳重に張っていたのですよ」
「……少し迂闊だったかな、確認なんかせずに黙って逃げていれば良かったよ」
そうそう漫画のように上手くいくものか。
この男、基本考え足らずである。
「ではやはり、三河から去るおつもりでしたか?」」
「まあな、松平の家臣扱いされちゃ困る」
三河侍達の視線に殺気が帯びる。
頑固一徹を地でいく三河の気風が、主君に対する侮辱ともとれる九十郎の言葉を聞き逃せなかったのだ。
「そ、それは……どうしても、ですか……?」
屋敷の奥から、歌夜が現れる。
肌の色、ふらつく足元、掠れる声……誰の目からも、無理をして立ち上がっている事は明らかであった。
「無理をするな歌夜、お前は怪我人で、ほんの少し前まで半死半生だったんだぞ」
「答えてください、九十郎さん。
どうしても三河に留まる事はできないと……そう、仰るんですか?」
愛弟子の問いに、九十郎はしばし無言で佇み……
「……ああそうだ」
「私では貴方の妻として不足ですか?」
その言葉に、事情を知っている犬子と悠季、そして九十郎以外の全員がざわめく。
何代にも渡って松平に仕えてきた榊原家の娘が貧農の子に嫁ぐ等、ありえない話なのだ。
「悪いな歌夜、お前は良い女だ、その一点に関してはお世辞でなく断言できる。
お前を嫁にした男は幸せ者だろうし、お前を嫁にすれば、
俺が欲してやまなかった安寧な生活が手にできたかもしれないと思う。 だがな……」
そう言って九十郎は傍らに佇む犬子を見る……不安そうに己の指先を握る少女を、何を血迷ったのか、自分のような価値の無い男を好きだと言いだした歴史上の偉人を。
九十郎は一瞬……1秒にも満たない短い時間、瞑目する。
自分と歌夜との結婚生活が浮かび……すぐに消えた。
その光景はどうもしっくり来なかったのだ。
故に心を固めた。
「だがな歌夜、俺は前田利家を側室か妾にして、お前を……
どこの馬の骨とも知れん榊原康政を正室に添えるなんてできん。
後はまあ……単純に好みの問題だな」
そう言って九十郎は誤魔化した。
その言葉自体は嘘ではない。
生来の巨乳好きである九十郎にとって、貧相……とまでは言い切れないものの、やや痩せ型である歌夜よりも、青少年の何かが危ない豊満ボディの犬子の方が好みのタイプだ。
だがしかし、この男にとってより重要な事は、松平がそのうち滅ぶ泡沫勢力であると思い込んでいる事だ。
それは単なる思い込み、単なる知識不足に過ぎないのであるが、九十郎がそれに気づくのは大分先の話である。
「く、九十郎……さ……」
歌夜の声が震えていた。
今にも倒れそうな程にふらつき、今にも気を失いそうな程に蒼褪めていた。
傷が治りきっていないのに無理をして立ち歩いているからではない、絶望的な未来予想図が……松平の将兵達が、次々とウィンチェスターにより射殺されていく光景が脳裏に浮かんであるが故に、歌夜は蒼褪めていた。
何か言わなければいけない、何としても引き止めなければいけない。
それが分かっていながら……歌夜は何も言えなくなっていた。
自分の想いが、感情が、ただただ純粋に、1人の女として九十郎を愛する犬子と比較して、酷く醜く見えてしまったのだ。
「そこをっ!! そこをどうか……伏してお願い申し上げます!
何卒三河に留まって頂けないでしょうか! どうかっ!」
悠季が土下座をした。
歌夜を除けば、ただ一人九十郎が他国に渡った時の危険さを理解している悠季は、躊躇なく恥も外聞もプライドも投げ出した。
九十郎が望むのであれば、娼婦のようにこの身を差し出す事になっても構わない……この時、悠季はそれだけの覚悟と決意をもって喋っていた。
歌夜と綾那に、そして三河侍達にどよめきが起きる。
主君・松平葵元康の片腕とも言うべき重臣が、貧農の子を引き留める為に大地に額を擦りつけたのだ。
「……ごめん、誰こいつ?」
……が、初対面の九十郎には響かない、届かない。
「腐れワレメです」
しかも親戚の綾那から腐れワレメ呼ばわりをされた。
ふざけるな、足を引っ張るな、余計な口を挟むな、松平の興廃がこの説得に懸かっているのが分からないのか……悠季は頭の中で松平の脳筋侍共を罵った、何度も何度も罵りながら、血が出る程に強く強く額を地面に押し付けた。
なお、悠季は気づいていないが、九十郎もこれでもかって位に脳筋である。
「そうか……葵に何を言われたのか知らんが、頑張れよ。
生きていればたぶんおそらくきっとメイビー良い事もあるさ」
届かないどころか、変な同情を買っていた。
悠季がこの時、何を思ったのかは不明であるが……この日を境に、悠季と綾那の中はさらに険悪になった。
ただ……滅多に無い怨敵、もとい親戚兼同僚が頭を下げる姿を見て、綾那も少しは思う所もあったようだ。
「お師匠……」
綾那が口を開く……綾那なりの想いを、綾那なりの言葉で。
「綾那も……綾那からもお願いするです。
お師匠からはまだまだ教えて欲しい事がたくさんあるですし、
犬子と一緒に走ったり、剣を振ったりするのは楽しかったです。
歌夜を助けてもらったお礼だって全然できてないし……だから……」
「む……いや、そう言われるとこっちとしてもだな……」
九十郎が怯む、たじろぐ。
ほぼ初対面だった悠季の土下座は全く心に響かなかったものの、愛弟子の頼みはそれなりに響く……九十郎はそういう性格だ。
「だから……だから……綾那は悠季や歌夜みたいに頭が良くないから、
上手く言えねえですけど、こんなお別れは嫌です。
もっと……もっとたくさん楽しい事をして、もっと良い思い出を作って、それで……」
それは悠季にも、歌夜にも言う事ができなかった打算抜きの言葉、純真な言葉だ。
ある意味で我欲に塗れた、犬子と九十郎の気持ちを全く無視した言葉ではあったが、この場にいる誰よりも犬子と九十郎を揺るがせる言葉であった。
「綾那……その……だな……」
九十郎は苦虫を噛み潰したかのような顔で1歩引き、ゆっくりと腰に手を伸ばす……
綾那は……本多忠勝は最強の武人である、武術の天才である。
万人の一人の剣才と、長き時の流れの中で研鑽され続けてきた神道無念流、そして最新スポーツ医学に基づくトレーニングが混じり合い、最早誰にも手が付けられなくなる程の強さを得ている。
桶狭間の戦いの当時、鷲津砦に詰めていた約400人の将兵を、たった1人、しかも全くの無傷で全員斬殺できるレベルの強さである。
味方がドン引きするレベルの強さである。
……そんな事をしていたから歌夜と逸れたのであるが。
今の綾那ならば、関雲長と張翼徳、ついでに劉玄徳が同時に襲い掛かってきたとしても瞬殺できるし、犬子と九十郎が100人ずつ居たとしても軽く皆殺しにできるだろう。
つまり今の状況は、犬子と九十郎にとって限りなく詰みに近い状況だ。
だから……だから九十郎は奇襲に頼る。
「綾那避けてぇっ!!」
九十郎の指先が脇差に触れた瞬間、歌夜が血相を変えて叫んだ。
スペツナズ・ナイフ……内蔵されたバネにより刃先を射出できるよう改造された脇差、
まだ綾那に見せた事が無い九十郎の切り札、限りなく詰みに近いこの状況を打破できるか細い可能性。
「わわっ!?」
直後、綾那は真横に跳んだ。
人間サイズの飛蝗かと思う程の速度と勢いでブッ飛んだ。
歌夜が……幼き頃より苦楽を共にし、練兵館で共に武芸を磨き合い、全幅の信頼をおく親友が叫んだが故に、榊原康政が警告を発したが故に、綾那は跳んだ。
全力で、後先考えずに……九十郎の狙い通りに大ジャンプした。
「馬鹿めぇいっ!?」
九十郎が目標を変え、悠季に刃先を向け、スイッチを押す。
既に歌夜から飛び出す脇差の存在を聞いていた悠季は、咄嗟に身を翻し……飛んできた刃体をギリギリで躱す……そう、躱せたのだ。
武術よりも智謀、武者働きよりも調略を得意とする本田正信にすら、不意を衝かれなければ回避できる代物だ。
本多正信の1000倍は強い本田忠勝に通用する筈がない……歌夜が叫ばなければ。
九十郎は近くの土蔵に頭から激突する綾那を尻目に、思い通りだと心で笑う。
最初から歌夜に警告させる事が目的だったのだ。
「逃げるぞ犬子ぉっ!!」
「う、うんっ!!」
「覚えとけ歌夜っ! これが真のフーリンカザンだ!」
偉そうな事を言っているが、絶対に違う。
そもそもこの男は、忍殺語を理解できる人間がこの時代に1人でも居ると思っているのだろうか。
「いけない、止めなさい!」
犬子と九十郎は綾那が跳んだ方向とは逆方向に脱兎の如く走り出す。
悠季の指示に従い、三河侍達が慌てて2人の前に立ちはだかるが、練兵館での修行により一回りも二回りも強くなっていた犬子を止められる者は居ない。
「九十郎さん! 待って……お願いです! 待ってください! どうかっ!!」
「悪いが断るっ!! 道場は頼んだぜ歌夜!」
「ごめんね歌夜! 綾那! 犬子は九十郎と行くけど……元気でねっ!!」
歌夜の呼び止めにも一切耳を貸さず、2人は包囲網を抜け、そのまま駆け続ける。
綾那や悠季、三河侍達が2人を追い走る。
「お師匠……犬子……」
……いや、綾那は走らなかった、走れなかった。
万一強行突破を図ったのなら、殴り倒してでも止めろと悠季から言われていたが、綾那にはそこまでして2人を三河に留める事が、正しい事とは思えなかったのだ。
「九十郎、追いかけてくるよ!」
「しつこい連中だな……犬子、右の道だ!」
「ええっ!? あっちは川だよ!?」
「それで良いんだよ!」
「飛び込んで逃げるの?」
「良いから黙って足を動かせ!」
犬子と九十郎が逃げる。
悠季と三河侍達がそれを追う。
地の利は松平の側にあり、2人の体力も無限にある訳じゃない。
綾那がサボタージュをしているとはいえ、どこかで追手を撒かなければ捕まるのは時間の問題だ。
「犬子、走りながら上着を脱げ」
追手達に聞こえないよう声量を抑えながら、九十郎はそう犬子に伝えた。
「どうするの?」
「こんな時のために用意をしておいたんだ。 上着を脱いだら俺に貸せ」
「わ、分かったよ」
2人が走り逃げる、三河侍達が追う。
2人が走り逃げる、三河侍達が追う。
2人が走り逃げる、三河侍達が追う……そして辿り着く、岡崎城の近くを流れる矢作川へ。
九十郎が事前に用意していた逃走経路へと。
……ざぶんっ!!
深夜の三河に水音が木霊した。
悠季達の視界に、矢作川を泳いで逃げる犬子と九十郎の姿が写った。
「飛び込んだぞっ!?」
「川下に泳いでいる! 先回りしろっ!!」
2人を追い、三河侍達が川下に走る。
それがこんな事もあろうかと九十郎が用意した人形だと気づきもせずに……
「名付けて、孔明を喪った蜀軍、尻尾を巻いて司馬仲達から逃げ出す作戦……てね」
遠ざかっていく喧噪を耳にしながら、九十郎はにまぁっと笑う。
本物の犬子と九十郎は、木人形に被せておいたギリースーツを身に纏い、ダンゴムシのように丸まって息を潜めていた。
重ねて言うが、服部小波正成が不在だった事は九十郎にとって幸いだった。
小波なら、人形を川に投げ込むなんて古典的な手は誤魔化されないだろうし、犬子と九十郎の体温や呼吸音を見逃すような事も無かった。
それが2人にとって幸運で……ある意味では不幸であった。