戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と九十郎第14話『縁談』

 

九十郎が歌夜の看護状況に対し理不尽にブチ切れた日から一週間が過ぎた……

 

「これがウィンチェスター・ライフル……なのですね?」

 

岡崎城の一室で、城主松平葵元康が、腹心の部下である本多悠季正信に声をかける。

その手の中には、歌夜から借り受けたウィンチェスター・ライフルがあった。

 

「駿河で初めて種子島を見た時、腰を抜かしてしまいましたよ。

 あの音、あの衝撃、そして火薬の臭い、世の中にこれ程怖い存在があるものかと。

 しかし、その種子島もコレに比べれば玩具も同然」

 

かつて悠季は鷹匠として、今川の人質となっていた葵と自由に接触できる立場にあり、良く言えば愚直で律儀、悪く言えば脳筋な三河侍達の中では珍しく、機転が利き、先見性を有する若侍である。

そして行動の自由や三河の松平家家臣団達との連絡が制限されていた葵にとって、ほぼ唯一の相談役、ほぼ唯一の味方となっていた。

 

そのため、葵が久遠や九十郎との会話では常に心掛けていた敬語が無い……悠季は葵にとって、肩の力を抜ける数少ない例外的存在なのだ。

 

「正直に言って、怖くてたまらない、恐ろしくてたまらないわ。

 もしも敵がこれを持ち、我が方にこれが無いとすれば……」

 

「数にもよりますでしょうが、まず負けるでしょうな。

 知らずに見た目通りの存在と……一般的な種子島と誤認して戦えば間違い無く全滅。

 であれば我等がいち早くこの銃の存在を知る事ができたというだけでも、

 望外の幸運というもの」

 

「量産の目途がつけば、さらに幸運なのだけど?」

 

「現状では難しい……と、言わざるを得ません」

 

……葵はウィンチェスターの量産を目論み、秘密裏に動いていた。

 

独立のため、そして御家の存続のため、面従腹背を貫き通し、義元を殺した葵だ。

ウィンチェスターの……前代未聞の連発可能な銃の量産を思いつかない筈は無く、思いつけば実行に移さない筈も無い。

 

良心は痛むが……それで止まる葵であれば、今川を裏切ったりはしない。

既に立ち止まれない所にまで来てしまっているのだ、葵は。

 

「その理由は?」

 

冷たい……氷のように冷たい視線を悠季に向ける。

冷徹になれ、冷酷になれと何度も何度も心の中で繰り返しながら。

 

「弾を交換する機構の構造は概ね掴めました。

 部品の多さ故に種子島の2倍か3倍の手間と費用を要するでしょうが、複製は可能です」

 

「種子島の2倍か、3倍……」

 

それで種子島の10倍の速度で14発の銃弾を連射できる銃が手に入るのならば安い……むしろ安すぎるとすら葵は思った。

安すぎるからこそ、恐ろしいと葵は思った。

 

「しかし……雷管がどうしても再現できません。

 そしてこの銃は、雷管を使った弾以外は発射できないようです。

 火縄も火打石も使われておりませんので」

 

「それでどうやって火薬を破裂させるのよ?」

 

「聞く所によればハンマー……

 銃の後に付いている小さな金槌で叩く事で着火しているようです。

 雷管は言うなれば、火打石の代わりに火薬に着火する仕組みのようで」

 

「それが再現できないの?」

 

「はい……どうしても……無論、八方手を尽くせば可能性はありますが、

 ウィンチェスターの存在が漏れる危険性を鑑みますと、どうしても手筋は限られます」

 

「そう……当面は秘匿性を優先させ、研究を続けて」

 

なお、葵はまだウィンチェスターが森小夜叉長可の手に渡っている事を知らない。

いくらなんでもこんな危険物をそうホイホイ他人に渡しはしないだろう……と、葵は考えていた。

 

ただし九十郎はウィンチェスターを危険物だとは思っていないし、小夜叉を危険人物だとも思っていない。

 

「では薬莢は?」

 

「筒状に丸めた金属板です、量産は簡単ですよ。

 九十郎殿が回収を求めたのは、単に作り直すのが面倒だっただけでしょう」

 

「なら……弾の入れ替えができる構造はそのままに、

 火縄か火打石を使って点火する銃に改造はできないかしら?」

 

「雷管を作るよりは簡単にできるかもしれませんな。

 しかしご存じの通り、火縄は引き金を引いてから発射されるまで時間が開きます。

 元のウィンチェスター程の連射はできないでしょう」

 

「それでも、手作業で弾込めをするよりも何倍も早い筈よ」

 

「ですな、やってみましょう」

 

悠季の瞳が妖しく輝く……今、彼女の頭の中で正道、非道、外道を問わない様々な打ち手が超高速で交差している。

松平の謀臣は、本多悠季正信は、こういう裏向きの謀を考えている瞬間、本当に生き生きする。

 

それとは対称的に、葵の心は暗く沈んでいる。

『我等は皆、邪なる風に迷う者』……かつて見た武田光璃晴信の言葉が胸に突き刺さる。

 

九十郎の異常な知識、化外の技術を吸収する……そのために竹千代は九十郎に近づいた。

そのために歌夜に命じ、九十郎を岡崎に招いた。

それだけだ、ただそれだけだと……葵は自分に言い聞かせた。

 

「やはり、九十郎様を他国に渡す訳にはいきませんね」

 

「特に織田には」

 

「ええ、久遠様は誰よりも早く鉄砲の有用性に目を付けた方。

 九十郎様の知識と技術を知れば、誰よりも貪欲に求める筈よ……

 いくら近いうちに同盟する予定とはいえ、

 力関係の隔たりが大きくなれば、必ず臣従を求められる」

 

「逆らえば撃つ……と……」

 

「それが戦国の習いというものよ、悲しい事に……

 故に織田にウィンチェスターは渡せない、武田にも今川にも長尾にも渡せない、

 仮に渡ったとしても松平はより多くのウィンチェスターを有していなければならない。

 そのために……」

 

「信用のおける者を厳選し、九十郎殿の監視と包囲をさせております。

 とはいえ防諜の事も考えますと、やはり本職の手を借りた方が良いかと」

 

「そうね、ならば伊賀忍軍との交渉を急ぎましょう。 それと縁談の方も……」

 

葵は奥歯をぎりぃっと噛み締めた。

 

「……情の面から九十郎様を松平に近づける策も、進めておくわ」

 

これは策だ、生き延びるための手段に過ぎないと、葵は自分に言い聞かせた。

 

「本当、きっと私はロクな死に方ができないわね」

 

「なに、死に様はどうあれ、死後は極楽へ逝けるでしょうさ。

 こう見えて私、朝晩の念仏と写経は欠かしておりませんので」

 

「念仏を唱えれば何をしても良いって考え方、やっぱり好きになれないわ」

 

「葵様は一向宗を誤解されておられますな、あれは何も進んで血を求めている訳では……」

 

……

 

…………

 

………………

 

葵と悠季が密談を交わしている頃……歌夜は少しずつ、しかし確実に快方に向かいつつあった。

 

犬子と綾那と九十郎は交代しながら歌夜の身の回りの面倒を見ていく事にし、この日は九十郎が当番の日であった。

 

「前々から博識だとは思っておりましたが、

 九十郎さんが医学の知識を修めていたとは思いませんでした」

 

今にも土砂降りの雨が降りそうな、どんよりとした黒雲を見上げながら、歌夜はぽつりと呟いた。

 

「こんなもん医学でもなんでもない、ただの一般常識だよ。

 これを医学と言い張ったら高野に笑われて、刀舟斎にはドツかれるだろうさ」

 

「一般常識では無いと思います、断じて」

 

「そうかねえ? できれば抗生物質も用意してやりかったんだが、

 残念な事に抽出方法を忘れてしまってな……

 結局、用意できるのは民間療法極まりない熱止めと痛み止めだけだ、情けない」

 

歌夜は思う……もしこれが一般常識であるのなら、もし九十郎がこれを一般常識と思うような環境で生まれ育ったのだとすれば……今自分の目の前に居る人物は何者なのだろうかと。

日の本よりも遥かに文明が進んだ異国の生まれか、下界に降りてきた神仏の類か、あるいは……と。

 

「何故……こうまでして助けるのですか?」

 

歌夜はそう問わずにはいられなかった。

聡明な九十郎が、自分の持つ知識や技術の価値を知らない筈がない。

それなのに九十郎はウィンチェスター・ライフルを、乾パンやベーコンといった保存食に、ウィスキーなる新しい酒、複式簿記、神道無念流……そして今、命を救われた。

たった1年間衣食住の世話をして、道場として使える建物を提供した程度で受け取って良い見返りとはとても思えなかった。

 

「こうまでって、大した事はしてねえよ。

 俺の愛弟子にくだらない理由で死なれてたまるか……だから手当をしただけだ」

 

九十郎はそう答えた。

そもそも愛弟子を刺して重傷を負わせたのは九十郎である。

基本屑な男ではあるが、多少はその事を気にしているのだ。

 

ちなみにこの男、ウィンチェスターにも複式簿記にも保存食にも、大した価値は無いと思っている。

どれもこれも当然この時代にも存在する物だと思い込んでいる。

未来に技術、未来の知識だとは欠片も思っていない。

だからポイポイと他人に渡せるのだ。

 

歌夜に渡したものの中でこの男が価値を認めているのは……ただ一つ、神道無念流だけだ。

 

「私は我が身可愛さに大恩ある師に剣を振るったというのに……」

 

「俺も我が身可愛さにナイフぶっ刺したからおあいこだな」

 

歌夜は主君のため、御家の存続のためだが、九十郎は完全なる我が身可愛さである。

しかも2人が遭遇した理由は九十郎の判断ミス……間違ってもおあいことは言えまい。

しかし、九十郎は本気であおいこだと思っていた。

 

「私は……この御恩にどうやって返せば良いのですか……?」

 

「くだらない事を考えてないで怪我治せ」

 

決意と覚悟、矜持と信念の込められた声を、九十郎は意にも介さない。

 

「それでは私の気が済みません」

 

「阿保な事を考えてる暇があったら怪我治せ」

 

再び九十郎は歌夜の言葉をバッサリと斬って捨てた。

 

ただ……

 

「こんな糞みてぇな時代だ……死ぬなとは言わんし、言えんよ」

 

九十郎がそんな言葉を呟いた。

 

「だが……くだらない理由で死ぬな、くだらない理由で命を賭けるな、剣を振るうな。

 剣を振るうなら神様にだって胸を張れる理由で振るえ、

 死ぬ時は地獄の閻魔にだって胸を張れるような理由で死ね」

 

その言葉はいつもの軽口では無く、適当でいい加減な生返事でも無く、九十郎の本心からの言葉であった。

 

九十郎が歌夜に……自分の愛弟子に求めている、唯一のものであった。

見返りを要求できると聞いて思い浮かんだ、たった一つのものであった。

 

歌夜が巨乳だったら生おっぱいを揉ませてくれと要求していたかもしれない所が、この男の限界であるが。

 

「歌夜を……松平元康が臣、榊原康政を娶る気はございませんか」

 

「……は?」

 

思わぬ言葉に……決意と覚悟を秘めた言葉に、九十郎は一瞬、呆けていた。

 

「おいちょっと待て、誰が誰を娶るって?」

 

「九十郎さんが、私をです」

 

「何のためにっ!?」

 

「私にはもう、他に差し出すものがございません……源義康を祖先とする、三河榊原家。

 それを九十郎さんに……」

 

「馬鹿野郎、俺は貧農の子だぞ、家格が全く釣り合わん」

 

「しかし私は……いえ、榊原はそれだけのものを受け取っているのです。

 これだけ大きなものを受け取り、恩義を受け、

 何も返せないとなれば祖先の名を穢してしまいます」

 

「んな大した物を贈った覚えは無いんだがな……」

 

2人の表情が暗い、空気が異様に重たい……まるで葬式だと、九十郎は感じた。

まるで言いたくもない事を無理矢理言わされているかのようだと……

 

「葵に……お前の主君にそう言えと言われたのか?」

 

……瞬間、歌夜が息を呑んだ。

息を呑んだ事を、九十郎は見逃さなかった。

 

一瞬でも喜びそうになった自分が馬鹿だったと、九十郎は陰鬱そうに頭を抱える。

前の生でも今の生でも全くモテなかった自分が、ここにきて急にモテ始める訳が無い……犬子の愛の告白を忘却の彼方に追いやっている九十郎はそう考えた。

 

「あんにゃろう、松平元康の分際で一丁前に他人の嫁の心配か?

 どうせ俺は非モテでございますよコンチクショウめ……」

 

怒りと憎しみと八つ当たりの意思を込めた声で呟く。

しかしこの男は松平元康を何だと思っているのだろうか。

 

「い、いえ! 確かに葵様に勧められましたが、それを受け入れたのは私の意思です!」

 

「はいはい、ワロスワロス」

 

九十郎は盛大に不貞腐れながら歌夜に背を向ける。

もう話を聞く姿勢では全くなくなっていた。

 

「あ……」

 

歌夜の瞳から涙が零れ落ちていた。

 

想いが受け入れられなかったから、本気にされなかったから……ではない。

歌夜は九十郎を好いてはいないし、男性としても愛していない。

全く、全然、一切、欠片も、これっぽっちも愛していない。

ゴツゴツとした筋骨逞しい見た目も、割とナチュラルに他人を見下す性格も、胸が豊かな女性を見ると露骨に視線で追うスケベさも、歌夜の好みに合わなかった。

 

そんな男を本気で好きになる女は、よっぽどのゲテモノ好きか人格破綻者なのではなかろうか。

 

今、歌夜の心を覆う感情は恐怖と絶望。

脳裏に浮かぶ光景は、自分と九十郎との幸せな結婚生活では断じて無く、ウィンチェスターの斉射を受けて散っていく戦友達、焼け落ちる岡崎城、数多の銃弾を全身に受けて死ぬ主君……九十郎が他国に渡った場合に起こりうる可能性だ。

歌夜がウィンチェスターを初めて使った瞬間に怖気と共に思い浮かんだ光景だ。

 

九十郎を松平から離れさせる訳にはいかない、例え内心ではどう思おうとも……自分は九十郎を好いていると思わせなければならない。

自ら望んで九十郎と結ばれるのだ……そんな思惑が早くも崩れてしまった。

 

武家の娘として生まれた以上、個人の好悪で結婚相手を選ぶ事はできない。

それでも……いや、だからこそ、どんな男に嫁ぐ事になろうとも笑っていなければならない。

そんな幼い頃から受け続けてきた教えを、覚悟を、信念を、こんなにも簡単にしくじって、裏切ってしまった。

 

あるいは、自分も犬子のように純粋に男性として……ただの九十郎を愛していたのであれば、

今この場で真心を込め『お慕いしています』告げる事ができればと思ったが……歌夜にはその言葉がどうしても出せなかった。

 

……歌夜は涙が止まらなかった。

 

「ぅう……ぐっ……ぅあぁ……」

 

泣き止め、泣き止め、早く泣き止め、これ以上無様を晒すな、御先祖様に申し訳が立たないぞと、何度も何度も自らを叱咤するが、歌夜の瞳から涙が次から次へと溢れていた。

視界がぐにゃりと歪み、頭が揺さぶられているかのような感覚も覚えた。

 

「歌夜……俺はお前を泣かすために弟子にした訳じゃない。

 お前を嫁にするために神道無念流を教えた訳でもない」

 

「は、はい……分かって……ぅぐ、分かっています……」

 

怖かった、恐ろしかった。

歌夜には目の前に座る男が、腕の一薙ぎで三河全土を焦土に変えられる怪物に見えた。

 

九十郎はふぅ……と、深く深く溜め息をついた。

 

「……とりあえず、今は余計な事を考えずに怪我を治せ」

 

襖を開け、九十郎は廊下に出る。

後ろは振り向かない……いや、振り向けない。

九十郎自身、自分が何を考えているのか、何を望んでいるのか分かっていないのだ。

それ故に、歌夜に何を言えば良いのかもまるで分からない。

 

「お前を娶る娶らないの話は、怪我が治った頃にもう一度しよう。

 その時までに……その時までに俺も考えを纏めておく」

 

……そう言うのが精一杯であった。

そう言うのが精一杯で、それだけ言うと九十郎は逃げ出すかのように屋敷を後にした。

 

なんというヘタレ男であろうか。

 

「囲い込みか? 囲い込みだよなぁ……葵の奴、西洋白磁を完成させて幽閉された、

 ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーみたいにしようってのか?」

 

当てもなく岡崎城の城下町を歩きながら……いや、全力で走りながら、九十郎は今まで歌夜と綾那に渡した物、見せた物を思い浮かべる。

九十郎にとっては、どれもこれもが西洋白磁と同レベルの高級品には見えなかった。

どれもこれもがありふれた物……いや、価値の無い物に見えていた。

 

走って、走って、走って……走り疲れて、九十郎は止まった。

ペース配分もあったもんじゃない、吐き気がする程にめちゃくちゃに走っていた。

目の前には乙川が流れていた。

石投げに興じる子供達、水汲みをする女達、そして……

 

「あ、犬……子……? お前、どうしてこんな所に?」

 

背後にある小屋の方から頭だけをちょこんと出して、犬子が自分を覗き見ているのに気がついた。

 

「え、えぇと……その……」

 

犬を模した耳飾りと尻尾飾りをゆらゆらと揺らしながら、犬子は盛大に視線を逸らす。

九十郎はそんな犬子の様子に苦笑して……傍へ行き、手を繋いだ。

 

「帰って……いや、少しその辺を2人で歩こうか。

 流石に今から戻るとなると、少し気まずいからな」

 

「う、うん……」

 

犬子は俯きながらも、九十郎の後について歩く。

右に曲がり、左に曲がり、右に曲がり、左に曲がり……ふらふらと歩きまわった。

 

2人は無言のまま歩き、歩き、歩き……

 

「犬子はさ……別に、側室でも、妾でも構わないよ」

 

ある時、犬子はそう呟いた。

 

「誰が? 誰の?」

 

九十郎はいきなり何を言っているんだコイツは、とでも言いたげな表情で犬子を見返す。

 

「犬子が、九十郎の」

 

「いきなり何言っているんだお前?」

 

九十郎は犬子が何を言っているのか全く理解できなかった。

 

「犬子は傍に居られるだけで幸せだから」

 

「誰が? 誰の?」

 

「犬子が九十郎の傍にだよ」

 

「いやちょっと待て! 俺が何時お前を妾にしたいって言った!?」

 

「さっき……」

 

「いや言ってねぇよっ!! チラリとも考えてねぇよっ!!」

 

それはそれで酷いのではなかろうか。

 

「さっき歌夜が言ってた事だよ」

 

「う……」

 

そう言われて、ようやく犬子が何を言わんとしているのかを理解した。

歌夜は松平譜代の臣で、今の犬子はただの素浪人……常識的に考えれば、歌夜を娶るという事は、歌夜を正妻に据えるのと同義である。

歌夜と犬子を同時に娶るのであれば、犬子の立場は妾か側室だ。

そこまでは理解できた。

 

しかし……何故犬子がそんな事を言いだしたのかは全く分からなかった。

だから貴様は九十郎なのだ。

 

「さっきの話を聞いていたのか? 俺が歌夜を娶る娶らないの、くだらない世迷言を」

 

「うん……ごめんね、何か盗み聞きしたみたいで……

 洗濯物を渡しに行こうとしたらさ、たまたま聞こえてきて……

 九十郎がお屋敷を出て走り出したら、思わず追いかけちゃって……」

 

犬子と九十郎が同時に頬を掻く。

気まずい……本当に気まずい……犬子と九十郎の心は一致していた。

 

「なぁ、さっき……誰が誰の側室になるって?」

 

沈黙に耐えかね、混乱する頭で、九十郎は先程言ったのと同じ事を質問する。

 

「犬子が、九十郎のだよ」

 

当然、返答も先程と同じだ。

しかし、九十郎の脳内の混乱具合はさっきの2倍……いや、10倍以上であった。

 

「何がどうなったら犬子が俺の側室になる話になるんだ?」

 

「犬子が九十郎の事が好きだからだよ」

 

……瞬間、九十郎の頭が真っ白になった。

 

「だ……だだだだっ! 誰がぁっ!!? 誰をぉっ!?」

 

そしてまた同じ質問……学習しない男である。

 

「犬子が九十郎をだよっ!! ねぇ九十郎、犬子前にも好きって言ってたと思うんだけど」

 

「言ってねぇよっ!! 聞いてねぇよっ!!」

 

言っているし聞いている。

九十郎が忘却の彼方に追いやっただけだ。

 

犬子が黙り、九十郎も黙って向き合うと……九十郎の顔がみるみる内に赤くなっていく。

汗がダラダラと流れ落ち、呼吸は荒くなる。

 

犬子が……あの前田利家が俺を好きだと? そんな事がありえるのか?

そんな疑問が、疑念が、浮かんでは消え、浮かんでは消え……何度も何度も繰り返す。

九十郎はこの期に及んでもなお、犬子の言葉がとても信じられなかった……いや、とても信じられない言葉を信じざるを得ない状況に追い込まれ、混乱していた。

 

本気なのか……そう告げようとして、やめた。

九十郎を見上げる犬子の瞳が、本気で言っているのだと何よりも雄弁に物語っていた。

 

犬子の頬が真っ赤になっていくのを見て、自分の心臓が破裂しそうな程に膨らんでいるのを感じ、九十郎は反射的に犬子を人通りのない裏路地へと引っ張っていた。

 

小柄な少女を裏路地に引っ張り込む筋骨隆々の大男……通報モノである。

 

九十郎はトマトか何かのように真っ赤な顔で、同じ位真っ赤な顔をした犬子の両肩を掴み、向き合う。

 

本当に俺を好きなのか? 嘘じゃないのか? 冗談じゃないのか?

何かの間違いじゃないのか? 犬子を口説いた覚えなんて無いぞ。

今までずっと非モテ男だったんだぞ……そんな考えが次から次へと沸き上がっていた。

 

そして気がつけば、九十郎は犬子の胸を揉みしだいていた。

混乱の余り自分でも何をしているのか分からなくなっていた。

 

「あ……ん……」

 

犬子の口から艶やかな声が漏れる。

 

自分が何をしているのか気がついた瞬間、九十郎はブン殴られるかと身構えた……しかし犬子は殴らない、それどころか無抵抗で自分の胸を差し出していた。

 

「犬子……その……」

 

「犬子の胸、変じゃないかな? ほら……九十郎さ、

 時々じぃ~って犬子の胸の辺りを凝視するから、ちょっと不安だったんだよ」

 

「いや……柔らかくて、暖かくて、なんだか安心するよ」

 

世が世ならセクハラで即逮捕される台詞である。

 

「あ、あはは……良かった……」

 

犬子の耳飾りが、犬子の尻尾飾りがピクンと跳ね、のたうつように上下する。

まるで少女の歓喜の叫びを代弁しているかのようだった。

 

今度は服の裾を捲り、そこから内部に手を入れる……

 

「ん……」

 

犬子は恥ずかしそうに俯き、尻尾飾りをピョコピョコと振り……やはり九十郎の手を振りほどかなかった。

 

九十郎が夢見た……過去に何度も何度も妄想したが実行には移せなかった生乳の感触があった。

双丘の張りが、しっとりと汗ばんだ肌の感触が、犬子の息遣いが、九十郎をさらなる行為に誘っているかのようだった。

 

……現行犯逮捕モノである。

 

「……犬子、良いか?」

 

「九十郎……うん、良いよ。 九十郎になら、何をされても良いよ」

 

九十郎が恐る恐る犬子に顔を近づけていく……この男はこの期に及んでもなお、犬子に拒絶されるのではないかと、本当は自分なんか好きでも何でもないんじゃないかと怖がっていた。

 

顔が近づく……犬子は拒まない。

顔が近づく……犬子は離れない。

顔が近づく……犬子は嫌悪しない。

 

犬子は瞳を閉じ、そっと背伸びをして、唇をつき出す……2人の唇が重なる。

2人の心臓が過去に無い程に高鳴っていた、2人の体温が過去に無い程に熱くなっていた。

 

 

 

 

 

2人が口づけを交わす中、犬子は蕩けそうになる程の幸福感に包まれ、恍惚とし……逆に九十郎は急速に冷静さを取り戻していった。

 

「(どうやら……後をつけていた奴は犬子だけではなかったようだな。

  葵の奴、本気で俺と犬子を囲い込むつもりらしい)」

 

九十郎は基本能天気で考え足らずな九十郎だが、自分に向けられた敵意には敏感だ。

そして九十郎の監視をしていた者は、本職の密偵……忍者ではなかった。

 

故に気づけた、監視者の存在に、二重三重に構成されている包囲網に。

 

 


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