戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

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犬子と九十郎第10話『練兵館』

 

三河国・御油……尾張織田領から東端から約50km離れた地であり、今川の勢力範囲内でもある小さな村にて、犬子と九十郎は2通の書状を目にしていた。

配達人は後の関白……現織田久遠信長のパシリ1号こと、木下藤吉郎ひよ子秀吉である。

 

「勘当ねえ……」

「勘当かぁ……」

 

その内片方、織田久遠信長からの書状を要約すると『知行全没収、無期限出仕停止』、早い話がクビである。

 

カッとなって拾阿弥を斬った犬子、切腹を恐れて逃げ出した九十郎に非があるとはいえ、それでもなお、これまでの苦労が一気に無に帰すその処分に、2人は少なからず衝撃を受けていた。

 

「はい……久遠様、カンカンに怒っておられました。

 いきなり怒って拾阿弥を斬った挙句、挨拶も無く逃げだすとは何事かーって」

 

「馬鹿野郎、俎板の上の魚が料理人に挨拶なんてするものかよ……って、

 信長に伝えておいてくれ、ひよ子」

 

「殺されちゃいますよっ!!」

 

「馬鹿野郎の部分も含めて伝えてくれ」

 

「だから殺されちゃいますってぇ!!」

 

この男、ゲスで失礼な上に、しれっとひよ子を闇に葬ろうとしていた。

怒った信長が軍勢を差し向けてくる可能性、その後の歴史が修正不可能なまでに捻じ曲がる可能性を考慮しない辺り、この男は全くもって考え足らずである。

 

そしてこの時の発言を、後に九十郎は死ぬ程後悔する事になる。

人を呪わば穴二つ……良い気味である。

 

「九十郎、わざわざ敵地にまで処分を伝えに来てくれたひよ子に無茶言っちゃ駄目だよ」

 

「分かってる分かっている、ほんの冗談だ」

 

ひよ子は思った、冗談だと言う割には目が本気だったと。

 

「それともう一通は荒子城の前田縫殿助利昌様からです、

 犬子さんにだけ見せるようにって」

 

「母様から? 何だろ……」

 

九十郎がその手紙の中身を知るのは大分後……前田犬子利家と九十郎が祝言を挙げる日の前日になるが、概ね以下のような内容が書かれていた。

 

『荒子前田家はお家を挙げて久遠様に味方をするつもりです。

 しかし知っての通り今川は強大、根切りにされる事も覚悟しなくてはなりません。

 万一の際、前田の血筋が絶えぬよう、犬子はしかと励むように。

 最早贅沢を言える状況でもないので、この際夫が誰でも構いません。

 親としてロクに面倒も見れませんでしたが、いつでも貴女の幸せを願っています』

 

励むというのは、早い話が子作りの事である。

親兄弟というだけあって、前田家の者達の大半は犬子が九十郎に本気で惹かれつつあるのを気づいていたらしい。

 

「おいひよ子、こいつ手紙見ながらニヤニヤしてるぞ。

 熱中症か何かでおかしくなったのか?」

 

「いや、私はお手紙の中を見ていませんので何とも……まあ大体は想像がつきますけれど」

 

「と言うと?」

 

「……私からは何とも申し上げられません」

 

「ケチ臭い奴め、あんまりケチケチ言っていると二宮になるぞ」

 

「ほっといてください、あと二宮って誰ですか?」

 

「ザ・農村マン」

 

「全然分かりません」

 

分かったらそいつはキン肉マン二世の読者である。

この男はその説明が戦国時代の人間に理解されるとでも思っているのだろうか。

 

「夏茄子と秋茄子の味の違いが分かる」

 

「ケチなんですか?」

 

「すげーケチだ、毎朝本読みながら通学するし、

 文句を言うとおもむろに断食を始める面倒臭い奴だ。

 うちのダブル幼馴染のお気に入りだが、俺は正直苦手だったね」

 

なお、後日犬子はひよ子の千倍ケチ臭くなる。

それにより九十郎は二宮が増えたと頭を抱える羽目になるのだが、良い気味である。

 

「それにしてもひよ子、良く犬子達が三河に来てるって分かったね。

 変装して移動したり、わざわざ関所や街道を避けて獣道を使ったりしてたのに」

 

「久遠様にお仕えする前は、行商をしながら諸国を巡っていましたからね。

 知り合いの商人さんから、自分の事を犬子って呼んでる女の子を見たって聞きまして」

 

「あっ!?」

「やっべ……」

 

それは盲点だったと言いたそうな顔で、2人は顔を見あ合わせる。

この2人、肝心な所でポンコツである。

 

「あの……もしかしてうっかり……」

 

「も、もちろん全部計算づくだよっ!!」

「全部計算づくでござるでしょう!!」

 

何がござるでしょうだ。

 

この2人、ある意味似た者同士である。

空気を読んでひよ子は追及しなかったが、2人ともどんな計算をしたのかは絶対に答えられない。

 

「それにしても、凄いな商人ネットワーク」

 

「そ、そうだね九十郎、凄いねぇ商人ねっとわぁく」

 

咄嗟に追従したが、犬子はネットワークの意味を分かっていない。

 

「ネットワークって何の事ですか?」

 

「商人同士の横の繋がりだよ。 正直に言ってひよ子の顔の広さを甘く見ていた」

 

「あはは、私ってそれ位しか取り柄がありませんから」

 

本人はそう言っているが、豊臣秀吉の取り柄は顔の広さだけではない、断じてない。

そうでなければ後日、毛利元就、御子柴……ではなく長曾我部元親、そして島津チート四姉妹を纏めて捻り潰す何て真似ができる筈が無い、できよう筈が無い。

黒田孝高・通称雫を過労死寸前にまでコキ使った事を考慮に入れても……西方の3巨頭は顔の広さだけが取り柄の少女に縊り殺される程甘くはない、断じてない。

 

「時にひよ子、お前の顔の広さを見込んでちょ~っとした頼みがあるんだが」

 

「お金なら貸せませんよ」

 

「違う、紹介状を書いてほしいんだ。 自活のためのネタは前々から用意していたんだが、

 この辺で商売するには座長とかいう奴の許可が必要らしくてな」

 

「誰でも自由に商売できる市は、まだまだ少数派ですからね……」

 

「一回手土産を持って挨拶しに行ったんだが、よそ者……

 特に今川様と敵対している尾張から来た者にそう簡単には許可は出せんと言われた。

 そこで……」

 

「そこで紹介状ですね」

 

「その通りだ、ひよ子。 お前のような勘のいい娘は大好きだぞ。

 さっきの台詞から察するに、この辺で商売をしている商人に知り合いがいるんだろう?

 その伝手を利用してもう一度説得してみようと思っている」

 

「ご心配無く、御油の座長さんとも知り合いです」

 

「マジかよ!? 手間が省けるなそりゃあ」

 

「その代わり、自活のネタって何があるのか教えてくださいよ。

 ハンバーグでも作って売るんですか?」

 

「いや、原状この国では食肉の為の家畜がほぼいない上に、肉ってのは基本足が速い。

 ハンバーグを主力商品にするのは難しいだろうな」

 

この時代に肉が食えるのは、農耕用の馬や牛が怪我をしたり年老いたりで働けなくなった時だけである。

 

「じゃあ何を売るんですか?」

 

「とりあえず燻製台とパン焼き窯を組んで、魚肉の燻製とパンでも売ろうと思っている。

 運良く牛や豚の肉が調達できた時はジャーキーかベーコンを作る。

 保存性があるからハンバーグを商品にするよりは売り易いだろう。

 さらに灰と油で石鹸も作るつもりだ」

 

「燻製? パン? 石鹸?」

 

「肉や魚、あと卵なんかを煙で燻した物だと思ってくれ。

 木材を細かく砕いて火を着け、煙を密封した容器に充満させる。

 食材に煙の滅菌成分が浸透して、水分が減るから保存性が大きく向上するし、

 香りづけにもなる。 うちのファースト幼馴染の好物で、何度も作らされたよ」

 

九十郎は『保存食を出来た傍から食っていくなぁっ!』とか叫びながら、ファースト幼馴染と将軍Yとうっかりの頭を一発ずつひっぱたいた時の事を思い出す。

自分や将軍E、副将軍の分まで残らず平らげられた直後の事とはいえ、女に対して躊躇無く手を上げるとは見下げ果てた男である。

 

「美味しいんですか?」

 

「美味いぞ、しかも食うのに手間がかからん。

 そしてパンは西洋の主食で、小麦粉をこねて発酵させて焼く。

 バターやチーズを乗せて食うと美味いし、硬めに焼けば握り飯よりも保存がきく。

 大航海時代における船上食と言えば乾パンにビール、

 バター、チーズと塩漬け肉と相場が決まっている」

 

あっという間に太りそうなラインナップであるが、この時代の人々は現代人よりも遥かに運動量があるため、デブはほぼ居ない。

 

ちなみにこの男、金が溜まり次第乳牛を調達し、チーズやバターの生産も始めるつもりである。

まるで牧場物語、そうでなければTOKIOだ。

 

「大航海時代……ですか……?」

 

「ずっと昔、ポルトガルやスペイン、フランスやイギリスといった西洋諸国が新たな航路、

 新たな交易品や新たな植民地を求めて世界中に船を出していた時代があったんだよ」

 

なお、九十郎は気づいていないが大航海時代は15世紀中ばから17世紀中ばまで、今は西暦換算で1558年なので、大航海時代は昔の話でもなんでもない。

 

「パン祖なんて不名誉なあだ名で呼ばれているセカンド幼馴染程、

 俺は上手く焼けないんだが……いざとなったらパン屋を開ける程度にはいける。

 幸いな事に、ここいらでも原料の小麦粉は調達可能だし、最悪米粉でも作れんでもない」

 

なお、パン祖を不名誉なあだ名と思っている脳筋剣術馬鹿は九十郎だけである。

 

「んで石鹸は、頑固な汚れを綺麗に落とす素敵アイテムだな。

 風呂にも洗濯にも皿洗いにも便利だ。 後思いついたのは……こいつだな」

 

九十郎は懐から小さな竹細工を取り出す。

 

「何ですかそれ? 竹串……じゃあないですよね? 扇子の一種ですか?」

 

「こいつは竹トンボと呼ばれる……まあ、子供の玩具だな。

 作るのも飛ばすのも比良賀が一番上手いんだが……よっ!!」

 

九十郎が勢い良く扇子モドキ……竹トンボを回すと、クルクルと2枚の羽を回転させながら宙を舞う。

 

「わぁ……」

 

初めて見る光景にひよ子は瞳を輝かせるも、九十郎は少し不満そうだ。

 

「うぅむ、やはり飛ばんな……」

 

「えっ? もっと飛ぶんですかあれ!?」

 

「犬子も何回かやってみたけど、九十郎みたいに上手く飛ばせなかったよ」

 

「何回か? 何百回かの間違いだろうに」

 

「細かい事は気にしちゃ駄目だよ、九十郎」

 

「ははは、不器用さんめ。 肩に力を籠め過ぎなんだよお前は」

 

九十郎が無駄に器用なだけである。

 

「あの、私も一回やってみても良いですか?」

 

「構わんぞ、一回と言わずに何度でも。 何なら1本持って帰るか?」

 

そう言いながら九十郎はさっき飛ばしたのとは別の竹トンボをひよ子に渡す。

ひよ子は瞳を輝かせ、興味深々といった様子で手の中の竹細工を見つめる。

 

「あの……本当に良いんですか? こんな凄い物を」

 

「凄いかこれ? 見りゃ分かると思うが単純な構造だぞ、

 少し観察すればすぐに真似できる」

 

「思いつくのが凄いんですよ、こういうのは」

 

「なるほど、コロンブスの卵か」

 

「何の話ですか?」

 

「ゆで卵は下を潰せば立たせやすいという話だよ、ひよ子」

 

犬子がドヤ顔で説明をするが、ひよ子は『コロンブス』が誰なのか全く知らないので、何の説明にもなっていなかった。

まあ、犬子もインドの人達を大勢殺した人程度の知識しか無いのであるが。

 

「まぁ良いや……追求していったらキリが無さそうだし……よっと!」

 

ひよ子が見よう見まねで竹トンボを回す……竹トンボはくるくると回転しながら宙を舞い、近くの塀にぶつかってあえなく墜落した。

 

「ありゃ、残念」

 

「練習すればもっと上手く飛ぶよ」

 

「犬子ですら10回やれば3回は飛ぶようになったからな」

 

「九十郎っ!!」

 

九十郎はにやにやと笑いながら先程飛ばした竹トンボを拾い上げ、もう一度勢いをつけて回転させる。

天高く舞う竹トンボを見上げながら、ひよ子は小さく呟いた……

 

「あの2人、絶対にもの凄い掘り出し物だと思うんだけどなぁ……

 久遠様、どうして勘当なんてしちゃったんだろ?」

 

犬子が拾阿弥を斬ったからだ。

正直な話、切腹を申しつけられなかっただけでも温情である。

 

そんなひよ子の呟きに、犬子も九十郎も気がつく事は無かった。

 

……

 

…………

 

………………

 

それから1ヶ月、率直に言って九十郎の生存戦略は見事に当たった。

 

市場で李を5つジャグリングしながら玉乗りをして、そのまま李を犬子に投擲、犬子は得意の槍捌きで空中で串刺しにするというパフォーマンスで人を集め、そのまま燻製肉や魚、卵、それにパンと石鹸を売りまくった。

それにしても無駄に器用な男である、無駄に。

 

残念ながら竹トンボはあっという間にパクられて売れ行きが低下したが、それ以外の商品は珍しさと実用性から飛ぶように売れた。

特にヤキソバパンの売れ行きは好調であった。

 

燻製もパンも石鹸も、犬子とひよ子以外には誰にも製法を教えていないし、商品を観察した程度ではコピー品を作れるようになる訳でもないため、九十郎の商売は実に安定していた。

 

前田利家に養ってもらうために今迄必死こいて犬子に媚びていたのに、気がつけば自分が前田利家を養う羽目になっていた事とか、前田利家を出世させるために今迄必死こいて犬子の護衛をしていたのに、

前田利家がクビにされた直後に収入が安定した事に対し、思う所はないでもないが……九十郎が望んでいた安寧な生活がそこにあった。

 

そんなある日の朝……

 

「おぉい犬子ぉ~! もうすぐメシ出来るぞぉ~! 手と顔洗って来ぉ~い!」

 

いつものように朝食を用意した九十郎が、まだ寝ているであろう犬子に声を掛ける。

この男、すっかり主夫業が板につき、自作のピンクのエプロンが似合うようになってしまっていた。

 

いつもならばまるで飼い主の帰宅を喜ぶ座敷犬の如くすっ飛んでくる犬子の声が、足音が、いつまで待っても聞こえてこなかった。

 

「……おい、犬子?」

 

現在2人が住んでいる家は、ハッキリ言ってプレハブ一歩手前のボロ家である。

声が聞こえていないなんてありえない。

 

九十郎はふぅと溜め息をつき、すぐ隣の部屋……犬子と九十郎が寝起きをしている部屋に入る。

 

普段は掛け布団を蹴っ飛ばし、時に上下反対になるまで寝返りをうってガースカ眠っている犬子は、今日は起きていた。

布団を片付け、髪や衣服を正し、静かに正座をしていた。

 

「何だ、もう起きていたのか。 スープが冷めるから早く来い」

 

そう声をかけるが、犬子はピクリとも動かない、動こうとしない。

 

「九十郎」

 

普段の気安さ、能天気さは欠片も感じられない声であった。

九十郎はスープが吹き零れる前に終わるかなぁと考えながらも、犬子の前にどっかと座る。

 

「犬子さ……前は商売を始める前の大道芸、手伝ってたよね?」

 

「ああ、そうだったな。 いや、流石は槍の又左衛門と感心したものだ」

 

「でも最近は、大道芸やるまでもなくお客さん、沢山来るよね」

 

「楽で良いよな」

 

「犬子、何か役に立ってる?」

 

「うん……?」

 

そう言われて、九十郎は犬子の過去の所業を思い返す……

 

炊事……暗黒物質大量生産。

皿洗い……割る。

洗濯……破く。

掃除……壁に穴を空ける。

家計簿……全部九十郎がやっている。

槍……戦にならないと役に立たない。

『邪魔だから座ってろ』と言った回数……100回以上。

 

「まあ、ぶっちゃけ役立たずだよな」

 

だから貴様は九十郎なのだ。

 

犬子は奥歯を噛み締めた。

自分が情けない、不甲斐ない、悔しい、悲しい……そんな感情を渦巻かせながら、ぎりぃと顎に力が籠められる。

 

「九十郎はどうしてそうまでして犬子を助けてくれるの?」

 

「そりゃあ……」

 

加賀百万石の大名、前田利家に取り入って安寧な生活を得るため……それが九十郎の偽らざる気持ちだ。

そのために九十郎は前田犬千代……前田犬子利家に近づいた。

 

だがそれを馬鹿正直に伝えたらドン引きされるであろう事は、流石の九十郎でも理解できる。

 

「そりゃあ、お前が前田利家だからだよ」

 

結局そうやって九十郎は言葉を濁した。

嘘は言っていないが、真実は述べていない。

九十郎にとって重要な事は、犬子が前田利家である事ではなく、前田利家が将来的に加賀百万石の大名になる事である。

 

だがしかし、九十郎は嘘が苦手な方だ。

注意深く表情を観察していれば、割と簡単に嘘や隠し事をしていると判断できる。

だからこそ……犬子は悲しかった、犬子は悔しかった。

 

「九十郎は……九十郎はさ、犬子を捨てて一人で生きた方が、楽だったんじゃないの?」

 

「まあ、確かにその方が楽なんだが……」

 

実を言えばこの男、犬子を放り出して一人で自活するという事も何度か検討した。

既に犬子……前田利家が織田信長の下で出世をし、加賀百万石の大名となり可能性はかぎりなく0に近いと九十郎は考えている。

純粋な損得勘定で考えれば、犬子を養うメリットは既に消失している。

 

だが……

 

「放っておくとどっかで野垂れ死にしそうなんだよなぁ……今のこいつ……」

 

もしも犬子が放置しても逞しく生き抜きそうなバイタリティがあったなら、九十郎は間違い無く犬子を放り捨てて一人で生きていた。

だがしかし、放置したら死にそうな知り合いを見殺しにできる程、九十郎は腐っていない。

知らん間に野垂れ死にをしたら心が痛むだろうと思う程度には、九十郎は犬子を気に入っているのだ。

 

しかし、九十郎の言葉をしっかりと聞いていた犬子は、静かに両手を握り締める。

 

「いいから黙って養われてろ。 俺がそうしたいからそうしているだけだ」

 

それは九十郎の紛れも無い本心であったが、犬子を納得させるには余りにも言葉足らずであった。

 

「こんなに九十郎に助けて貰ったのにさ、犬子は九十郎に何も返せていないよ。

 犬子……犬子は、何もできなくて……」

 

犬子の心の中には『役立たず』という言葉が……他ならぬ九十郎からの言葉が何度も何度も反芻されている。

役に立たない、役に立てない……それが悔しかった、何よりも悔しかった。

 

そしてこの時点になってようやく、九十郎は先程『役立たず』と言った事を後悔した。

この男、実に考え足らずである。

 

「犬子なんでもするよ。 九十郎がしてほしい事、何だってやるよ」

 

一瞬、じゃあそのデカ乳でパイズリしてくれと言いそうになるのを、九十郎は必死こいて我慢した。

言えば普通にやってくれそうだという事は基本鈍感な九十郎にも分かったが、

流石にこの空気の中でギャグは挟めない。

いや、この状況下でそんな事を言ったら洒落にならない事になりそうであった。

 

「いらん」

 

九十郎は一言で斬って捨てた。

それは九十郎の内心を率直に言ったものであったが、隠し事をした時以上に犬子の心を蝕んだ。

 

犬子にとっては、お前は何の役にも立たないんだと言われたも同然……今の犬子にとっては、パイズリをしろだとか、俺の子を産めだとか、そういう事を言われた方がよっぽど有難かった。

 

「それだと犬子の気が済まないんだよ。 やりたい事とかないの?

 犬子が九十郎のためにできる事、何もないの?」

 

ヤリたい事はないでもないが……と、九十郎は心の中で呟いた。

 

九十郎も健全な男で、奉公のために屋敷を空けていた事も多かった頃と違い、ここ1ヶ月は四六時中犬子が傍にいるために自慰行為すらできていない。

思考が多少エロスに向くのもやむを得ない事である。

 

「……と、言われてもな。 特に何も思い浮かばんぞ」

 

……が、流石の九十郎も空気を読んだ。

何の意味も無く空気を読んだ。

だから貴様は九十郎なのだ。

 

九十郎は過去の記憶、前の生で得た知識や経験を漁り、何か犬子にできそうな事は無いだろうかと考え込む。

 

そして……突如として、天啓のような閃きが九十郎の脳裏に奔る。

 

「あぁ……いや、待てよ」

 

やりたい事があった、確かにあった。

自分1人ではできない事、犬子と2人ならできる事……神道無念流を他人に伝授する事。

戦国時代に来てまでやる事ではないが、この男にとっては安寧な生活を確保する事と同じ位重要な事なのだ。

 

「竹刀は……全部尾張に置いてきたけど、また作れば良いよな。

 防具……面以外は鎧で代用できるか、面だけ自作。

 後は場所だ、場所さえ確保できれば……最悪青空教室……いやそれはなぁ……」

 

九十郎は頭脳をフル回転させながら、ぶつぶつと何かを呟く。

ハッキリ言って変質者一歩手前である。

 

「九十郎……?」

 

「なあ犬子、ここ最近伸び悩んでいないか?」

 

「し、身長の事?」

 

「違う、槍の腕だ」

 

「ぅ……」

 

犬子は数秒固まって……やがて観念したかのように頷いた。

 

「良し、ならば犬子お前には……」

 

その先を言おうとした時、家中に響き渡る声で……めっさ狭い家なので、普通に喋っても家中に聞こえかねないのであるが、とにかく声が聞こえてきた。

 

「頼もう!」

 

……来客だ。

 

九十郎は念のために刀を佩き、玄関へと向かう。

信長が暗殺者を送り着けてきた可能性や、商売敵による妨害の可能性も考慮しての事だ。

この男、地味にビビリである。

 

「こんな朝っぱらから誰だ?」

 

九十郎がオンボロ長屋から顔を出すと、黒髪長髪の女性がペコリと頭を下げる。

珍しい日本的な女性だなと九十郎は思った……こいつが居るのは一応戦国時代なのだが。

 

「はい、私は松平家に仕える者で、名を榊原康政、通称を歌夜と申します」

 

……松平。

それはかつてここ三河を支配していた豪族であり……今は今川に従属する弱小勢力の名だ。

かつては織田に、今は今川の人質となっている松平葵元康が属する家だ。

 

「失礼ですが、前田利家様と、九十郎様でいらっしゃいますでしょうか?」

 

「あ……ああ俺が九十郎だ。 んでこっちが犬子、前田犬子利家だ」

 

「は、初めまして、前田利家です、通称は犬子です」

 

犬子と歌夜がペコペコと何度も何度も頭を下げあう。

 

「榊原康政……ねぇ……」

 

九十郎は思った、誰こいつと。

この男は、後の徳川四天王の内、本多忠勝と井伊直政は辛うじて名前だけ知っているものの、酒井忠次と榊原康政は全く記憶に無い。

 

さらに九十郎は松平家の現当主・松平葵元康が、かつて尾張に人質として来ていた竹千代である事は知っていたが、それが後に徳川家康と改名し、天下人となる事は知らない。

 

つまり九十郎にとって、松平家はその内潰れる泡沫勢力と同義なのだ。

 

「九十郎、松平元康って今川方の武将だよね」

 

「ああ、つまり敵って事か」

 

九十郎が腰に佩く刀の鯉口を切る。

相手が松平となれば容赦はしない……短絡的で血の気の多い男である。

 

「いいえ! 私はもちろん、

 我が主、松平葵元康様もお2人方を害するつもりはございません!」

 

「なら何をしに来た?」

 

今川はもうすぐ潰れると知っているため、九十郎は強気である。

なんて小さい男だろうか。

 

「はい、織田から勘当され、苦境に立たされるお2人を見過ごせぬと、

 三河国額田郡にお招きするようにと命じられました」

 

額田郡とはかつての松平の本拠地、岡崎城のある場所だ。

城そのものは松平広忠の死亡に伴い、今川に接収されてしまったものの、今もなお松平家に仕える家臣達の多くが額田郡に居を構えている。

歌夜もその1人である。

 

「苦境って、別に苦労はしてないけどな……」

 

「むしろ収入増えたかも、犬子は全然役に立ててないけど……」

 

正直な話、犬子と共に戦争に行っていた頃の方がよっぽど危険も気苦労も多かった。

 

「しかし、主元康は尾張でお二方に大変世話になり、

 是非とも恩返しがしたいとも仰っていました。

 このまま帰っては私が叱られてしまいます」

 

予想外、想定外、そして身に覚えのない言葉を聞き、思わず犬子と九十郎が顔を見合わせる。

 

「犬子達、何かやってたっけ?」

 

「元康ってたぶん竹千代の事だろ、ええっと……

 竹刀で殴ったり、大砲の発展について教えたり……」

 

「両方とも正直に言って拷問だよね、お礼参りに来たのかな?」

 

九十郎は心の中で『解せぬ』と呟いた。

前者はともかく、後者は割と本気で面白い話だと思っていたのだ。

 

「そうだ犬子、こいつ簀巻きにしてとんずらしようか」

 

「いえ、お礼参りではありません!!

 葵様は貴重で興味深い話を伺えたと、九十郎様や犬子様に大変感謝をしておられました。

 決して、決してお二方に危害を加えるような事は致しません!」

 

九十郎はじぃっと歌夜の表情を観察する。

殺意は無い、害意も無い、嘘を言っている様子も無さそうだ……少なくとも九十郎はそう感じた。

 

「む……まあ正直、住む場所と商売する場所さえ確保できるなら、

 どこに住んでも構いはしないのだが……

 いや待てよ、岡崎城に近い方が今川の情報が得やすいか」

 

「では……」

 

九十郎はチラリと犬子に視線をやる。

犬子は黙って首を縦に振る……全部任せるという意味だ。

 

「なら、そうだな……条件が2つ」

 

身を乗り出してきた歌夜を片手で制し、九十郎は額田郡へ移住する上での条件をつきつける。

今から世話になるというのに、何様のつもりなのだろうか。

 

「勘当されたとはいえ、こちらは心情的には織田寄り、そして松平は今川方。

 状況次第では戦場で敵として会う事になるかもしれんが、それは承知してもらう」

 

「昨日の友が敵になり、昨日の敵が盟友となる、悲しい事ですが戦国の習いです。

 承知いたしました。 後日戦場で相見える事となろうとも一切の遺恨は抱きません、

 恩を着せて何かを要求するような真似もいたしません」

 

「条件2つ目、道場が欲しい」

 

「道場……ですか……? 失礼ですが、僧侶の方でしたか?」

 

なお、道場とは仏道修行の場を意味する言葉だ。

それが屋内稽古場としての意味を持つようになったのは、江戸時代に入ってからである。

 

「道場が分からんのか……俺も犬子も僧侶じゃないし、信心深い方でもないよ。

 要は屋内稽古場だ、剣を振り回せる広さのある建物があれば、こっちで適当に使う」

 

「ああ、それでしたらご用意できます」

 

「よぅし犬子、メシ食ったら引越しするぞ。 歌夜も一緒に食うか?

 野菜スープとベーコンエッグ、売れ残った昨日のパンだがな」

 

「べぇこん……何ですか?」

 

歌夜は九十郎達がベーコンやジャーキー、それにパンと言う珍しい食べ物を作って売っている事は知っていた。

しかし、さすがにベーコンエッグにまでは調査が及んでいない。

 

「ベーコンエッグだ、ベーコンの切れっ端と卵を、バターを引いたフライパンで焼く」

 

「凄い美味しいよ」

 

「卵は完全栄養食だ、ビタミンCと食物繊維以外の栄養素が全て採れる」

 

「びた……みんし……?」

 

「ビタミンC、欠乏すると壊血病になる。

 長期航海をする際はザワークラフトをお忘れなくだな」

 

「ざわ……ええと……?」

 

次から次へと聞いた事の無い単語が出てきて、歌夜が混乱していく。

失礼の無いようにと葵から厳命されていなければ、九十郎を可哀想な人認定をしていた事だろう。

 

「……まぁ、百聞は一見に如かずと言う。 まずは一口食ってみると良い、美味いぞ」

 

そう言って九十郎はスープやパンを囲炉裏に並べていき、少し冷め気味の朝食が始まる。

 

「ねぇ九十郎、道場って何に使うの?」

 

「さっきお前、なんでもするって言ったよな?」

 

質問文に対し質問文で答える、会話が成り立たないアホがひとり登場した。

 

「うん、言ったけど……」

 

「本格的にお前に神道無念流を教えようと思う。

 全力で教えるから、全力で覚えろ」

 

「神道無念流を?」

 

「ああそうだ、俺は今までずっとお前に神道無念流を教えなかった。

 たぶんだが……理由は槍の又左衛門のイメージが強すぎたからだと思う。

 生兵法は怪我の元、槍が得意なお前に中途半端に剣を振るう鍛錬をさせたら、

 逆に枷になるんじゃないかと考えていたからだと思う」

 

「九十郎……犬子が槍の又左衛門って呼ばれるようになったの、

 半年位前にあった浮野の戦いからなんだけど」

 

「……細かい事は気にするな」

 

「う、うん……」

 

全然細かくないと思うけどなぁ……そう思いながらも、犬子はそれ以上深く追及できない。

この距離が今の犬子と九十郎の距離だ。

 

「剣術指南役は柳生新陰流に奪られちまったが……

 それでも大江戸学園三大道場って呼ばれる程度には流行っていたんだぜ。

 技は千葉、位は桃井、力は斎藤ってな」

 

「九十郎、大江戸学園って何?」

 

「魔境だ、ニホンの誇るトップエリート共が、

 その有り余る才覚を全力でゴミ箱にダンクシュートして、

 俺はここだぜ一足お先と、光の速さで明後日の方向へダッシュする魔境だ」

 

他人事のように語っているが、九十郎もそんな大江戸学園のノリに染まり切っている一人である。

 

「ごめん九十郎、全然想像できない……」

 

歌夜も口にこそ出さないが、大江戸学園のイメージが全く湧かずに困惑している。

 

「俺や柴田勝家より確実に強いって断言できる奴が3人居る。

 いや、柳生は例のアレがあってから行方知れずだから2人か」

 

犬子と歌夜は思った、もっと想像できなくなったと。

 

渋い表情をする2人の前で、結局輪月殺法一回も見切れなかったなぁとか、あいつら人格と実力が反比例してるからなとか、比較的マシだったのは南町奉行と火盗くらいだったよなあとか、訳の分からない事をぶつぶつと呟き続ける。

 

なお、この男もまた大江戸学園の実力者であり、人格は実力と反比例して屑である。

 

「まあ、細かい事は気にするな」

 

そして結局、こう納める訳だ。

犬子と歌夜は思った、全然細かくないと。

 

「まあ、何にせよ……」

 

九十郎はその辺に落ちていた板切れを拾い、墨と筆で文字を書く……食事中だというのに汚い男である。

 

『練兵館』

 

それは前の生で九十郎が館長をやっていた神道無念流道場の名だ。

 

「やはり俺は『こう』でなくてはいかん、やはり俺は『これ』がなければ始まらん。

 俺は剣術馬鹿、俺は師範であり教育者、俺は神道無念流道場・練兵館の館長だからな」

 

九十郎の表情は、今までに無い程に生き生きとしていた。

 


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