中学三年生の瑠奈は幼い頃に両親が離婚し、父に育てられてきた。その父が、半年ほど前に再婚した。
再婚相手の女性を受け入れることができず、家に居場所がない。何をするわけでもなく公園にいた彼女に、妙に惹かれる声を持った男が現れる。彼は、瑠奈を誘拐するのだという。
本人曰く、彼の目的は、釣りへ行くことらしい。

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空を飛ばない青い鳥

 家に帰っても居場所がない。自分の居場所がどこにあるかなんて、本人の勝手な感覚で決める物だから。だから、誰も悪くない。強いて言えば悪いのは本人だけ。

「急におしかけて、お母さんだと思ってなんて言えないけど。わたしは瑠奈ちゃんと仲良くなりたいな」

 名前を呼ばれたことが気に食わなかった。ちゃん付けとはいえ初対面で名前呼びなんて、急におしかけてなんて自嘲していても、心の底では私のことを取るに足らない物だと思っているんだ。

 いや、ちゃんとわかってる。名字で呼べば紛らわしいし、いつまでも「あなた」とか「きみ」とか、そんな呼び方をしてもらうわけにはいかない。そんなことはわかっている。

 要するに当てつけだ。第一印象がなんとなく気に入らなくて、気に入らないことに最もらしい理由をつけようとしている。初めが気に入らなかったから、そのあとに起こること全てが憎く映る。

 スマホで時間を確認すると十七時過ぎだった。夜と大差なく暗くなった公園には私以外の人がいない。日が沈むのは早くなったのに、夕方のチャイムは六時のままだ。

 ブランコに座って地面を蹴る。キィ、と軋むような音を立てて揺れた。振り子のように前へ後ろへと往復する度に、キィキィと耳障りな音が鳴る。その音さえかき消すような爆音で、やかましいエンジンを轟かせながら通りすぎていく車の音が遠くから聞こえた。

「瑠奈、お父さん再婚しようと思うんだ」

「再婚?」

「あぁ、でももし瑠奈が嫌なら」

「嫌なんかじゃないよ。だってお父さんが再婚したいって思ったってことは、その相手の人が好きなんでしょう?」

 大型のトラックがバックする時に鳴らすピーッピーッという音が微かに聞こえた。そういえばどこかで工事をしていた気もする。

 大きな道路から少し離れた、森のような公園。この時間、ここにいると町の音が全て遠くから聞こえるようになる。時々通路として公園を歩いて行く人がいるけれど、そういう人たちは木々を移り飛ぶ鳥と大して変わらない。進んでこちらへ関わることはなく、誰かに迷惑をかけるわけでもなく、ただ独立した存在としてそこにいる。私と交わることはない。

 何も騒音が過度に嫌いなわけではない。ただ、必要以上に関わって来られることが嫌になっている。誰にも相手にされない時間が自分には必要だと、私は直感的に理解している。

 自分が理解している程度のことが、本当に真実なのかなんてわからないけれど。それでも私は関わりを断ちたくなる衝動に逆らえない。

 ガサッ、と枝が揺れる音がした。鳥が飛び去ったのだろう。葉っぱ同士がぶつかり合う音は風を感じさせる。果たしてこのあたりに住んでいる鳥は風に乗って飛んでいるのか、自分の羽根の力だけで飛んでいるのか。興味もないのにそんなことを考える。興味もなければ答えも必要としていないので、思考が着地することはない。

 よく歌詞や詩なんかで鳥になりたいと言うけれど、なんて陳腐な表現なのだろう。どこへでも飛んでいけたとして、ただ空から見降ろすだけで、自分の居場所が見つかるとでもいうのだろうか。そんなことだからダメなのだ。

 いつの間にかそんなことを考えながら、もう一度スマホで時間を確認していた。十七時を三十分過ぎている。

 キィと、ブランコの軋む音がした。私の足は私の意思に従って、地面にぴったりとくっついたまま少しも動いていない。もちろんブランコは動かなければ音を発しない。

「ルールっていうのは自分でその意味を考えるものだ」

 私の座っているブランコの、その隣。もう一台のブランコにいつの間にか若い男が座っていた。

「門限っていうのは、親を怒らせないように守るものじゃない。親が門限を夕方のチャイムと決めるのは、それを破った子供を叱るためじゃない。暗くなってから子供が外にいると危ないから、門限というのは各家庭で決められているんだ」

 高くもなく、低くもなく。男の声は非常に聞きやすく心地よい質感だった。思わず聞き入ってしまうような、人を惹きつける声。

 人たらし。もしくは、もっと悪い存在。咄嗟に頭の中に浮かんだのは、甘い言葉で誘惑する悪魔だった。悪魔は見ただけでは人間の姿形と変わらない。

 そして悪魔は、言葉だけを武器とするほど甘くも優しくもない。

「君の家にも、門限はあるよね?」

 身構える私を射竦めるように、ジッと目の中を覗いてくる。それで足が石になるほど私はか弱くない。……けれども、多少心臓の動きが速まったりはした。

「ありますよ、門限くらい。それがなんですか」

 立ち上がらなければ。地面を蹴るようにして、今度はこのブランコから離れて走らなければ。頭ではそう思っても、何かがそれを拒否していた。立ち上がった時が猶予の終わりであると、何かがそう告げている。

 けれども、このままでいたって結末は同じこと。行方不明になった中学生が無事に帰ってきたというニュースはあまり聞かない。死体で見つかったという内容の方が、よほど多く聞いてきた。

「そう。それで君は、今日も門限を守っているの?」

「あなたになんの関係が」

「答えてくれてもいいじゃない。なにも取って食おうってわけじゃないんだから」

 呪いのような言葉だった。取って食う……その言葉が私に想像させた光景が、そのまま私の未来だなんて、そんなことになってたまるか。

「門限は破ってません。でも私帰るので」

 走ることに自信があるわけではない。でも、走って逃げる以外の方法でこの場を切り抜けることには、もっと自信がない。こちらを覗きこんでくるかのような男の目に背を向けて、私はありったけの力で地面を蹴った。

 腕が何かに引っかかったのかと思った。

左手首を掴まれ、ガクンという衝撃と共に、私の体は半回転しながらその場に留まる。男と向かい合う形になって、思わず私は彼の顔を見上げた。

「そうか、君の家の門限は、少なくとも今よりは遅いわけか。ということは、君の親御さんは無能だね。これだけ暗くなっても幼い娘を外に出したままだなんて、実に無能だ」

 男は私の手首から手を離した。そしてまた私の目を見て、物分かりの悪い子供へ言い聞かせるようにして言った。

「いいかい? 門限というのは、時間で決めるべきじゃない。日がいつ沈むかで決めるんだ。日が沈んだと思ったら、君が自分から家に帰らなきゃいけない」

 ついに私の足は動かなくなってしまった。口も、首も動かず、「わかった」と言うこともできなければ、頷くこともできない。大声を上げることもできなければ、解放されたはずの腕は未だ握られているかのように動かない。

「でないと……」

 男は再び私の手を握った。手首を掴んだのではない。フォークダンスを踊る時のように、彼の右手は私の左手を、彼の左手は私の右手を、ふわりと包み込むように優しく握った。

「でないと、悪い人に誘拐されたりしちゃうかもしれない」

 にこりと、男は微笑んだ。私は言うべき言葉を失っていた。いや、失うどころか元から持ってもいなかったのだ。

 お決まりの音で、六時のチャイムが空に響き始める。そのほんの数秒のチャイムが鳴り終わるまでの時間が、永遠のように感じた。

 

 男に逆らうことができなかった。私は言われるがまま、彼の車に乗ってしまった。手や足を拘束されることなどなく、目隠しも猿ぐつわも当然のようにされなかった。一切拘束されることなく、父の車に乗る時とまったく同じようにして、私は助手席に座ったのだ。

 ナイフをちらつかせ脅されたわけではない。弱みを握られているわけでもない。私は私の意思で、自らその座席へ座ってしまった。脅されてはいないが、あの男の存在はそのものが脅しのようだったから。

「ちょっと今日一日付き合ってくれないかな。誘拐されるよりは、よほどマシだと思うけど。親御さんには友達の家にお泊りするとでも言ってさ」

 優しく微笑んで、全ての不安を取り除くかのような声で、男は言った。それらが私に与える印象は全てまやかしだとわかっていても、それだけではなんの力も持たない。幻を幻と見破っても、私には現実に立ち向かう勇気も力もなかった。

 目の前の悪魔的な男は、私を懐柔しようとあの手この手で働きかけてくるが、結局最後には己の欲望に従って暴力を振りかざすのだ。それがわかっていて、彼が纏っている仮面を外そうとすることは、私にはできなかった。

 最後には現実を見せられるのならば、せめてその時まで夢を見ていたい。そう考えてしまうことは、彼に魅せられてしまったということになるのだろうか?

「遅ればせながら自己紹介をすると、僕はナズナっていうんだ。君の名前は?」

 運転席から赤信号を眺めて、そのまま前方から目をそらさない男は名乗った。あまり男性らしくはないその名は、私の名前を聞くために名乗られたように聞こえた。

 繰り返すが、脅されているわけではない。けれども状況的に見ても、私は彼の支配下にあると言ってもいい。普通に考えて、彼の機嫌を損ねたくないと思ったところで、そこになんらおかしな点はないだろう。

 青信号に合わせて彼がアクセルを踏む。私は、なんとなく目のやり場に困った。

「瑠奈です」

「ルナちゃんか」

 男は一瞬だけチラリと私の方を見て、すぐに顔を前に向けた。

「一応僕は、今自分が相当リスキーな行為をしていると自覚しているつもりでいる。だから念の為に偽名で名乗ったけれど、ルナちゃんはその点大丈夫?」

 あまりに何でもないことのように言われたので、初め何を言っているのか理解できなかった。聞き心地の良い声ははっきりと聞こえているのに、内容が頭に入ってこなかった。

 少ししてから、私は今一方的に名前を教えたのだということを理解した。理解して、周囲の音が遠ざかっていく感覚に襲われた。

「ルナちゃん?」

 すぐ隣で男の声が聞こえる。呼ばれている。それは認識できているのに、返事をすることができない。

 周囲の音が遠ざかっていって、自分以外の全てが切り離されたような感覚。孤立してしまったかのような感覚。この感覚は、友達との待ち合わせを忘れてすっぽかした日の夜なんかにも味わった。罪悪感とはまた別の、自分が過ちを犯したことに気づく感覚。

「……ぎ、偽名、ですよ。私も」

 やっとのことで喉から声を絞り出す。無理に絞りだすものだから、その声はペラペラに薄かった。

「そっか。ま、名前も個人情報だもんね。守るのは大事だ」

 私への疑いなど微塵も感じさせない声で平然と言う。また、何かを掴みとってやったという狡猾さも、その声からは感じ取れなかった。彼の感情を探ろうとすることは、私程度では到底できないことらしい。

 それどころか、私は彼に関わることの何物をも探れていないのだ。例えばこの車が、一体どこへ向かっているのかさえ知らない。知らないというより、知ろうとしていないわけだが。

 何が彼の不都合になるのかがわからない。何が彼の機嫌を損ねるのかがわからない。不用意に言葉を発せば、次の瞬間には二度と話せないようにされるかもしれない。そう考えると、一体これはどこへ向かっているのかと問いかけることさえ、私には割りに合わない賭けに見えた。

 だが、それでも伝えなければならないことがある。これだけは言っておかなければ、引き延ばせば引き延ばすほどに悪い結果を招いてしまうはずだ。

「あの、……ナズナさん」

「なに?」

 実際に会ったことさえないのに、カウンセリングを行う誰かを思い起こした気になる。返事をされただけなのに、この人ならどんな話でも聞いてくれそうだと、根拠のない安心感が湧いて出てくる。

 楽な方へ逃げた時が私の最期だ。自分が素性も知らない男の車に乗っていることを忘れてはならない。

「さっき、友達の家に泊まるとでも言って親には誤魔化せって、言いましたよね……?」

「うん。それがどうかしたの?」

「その……、無理なんです」

 無理。そう口にした瞬間、車内から音が消えた。両者とも黙った空間には、なぜだか一切の環境音が入り込まなかった。おそらくは私が感じ取れなかっただけであろうが。

 今までと何ら変わりない柔らかな声で、男は言った。

「無理っていうのはルナちゃんが、私にはできないからやりたくありませんって、そういう意味で言ってるの?」

 見えない手に心臓を掴まれる感覚。そのまま握りつぶされてしまいそうな感覚。言葉を選ばなければならない。私の心臓を握った男の握力は、それで決まる。

「無理って、違うんです。できないとか、そういうのじゃなくて……。絶対に信じてもらえないんですよ。仮に私が本気で友達の家に泊まろうとしていても」

 何かが凍りつく。走馬灯は見なかった。

 声は変わらないのに、男の表情がまったく動かないことが、単純に怖かった。

「どうして?」

「泊りなんて、したことないからです。なのに事前に何も言わずに、それに着替えも持ってないし、相手の家の許可もそう簡単に出るはずないのに。そのあたりにつっこまれたら、どう答えればいいのか私には……」

 もし本当に友達の家に泊まりたいのであれば、事前にそのことを父に話し、相手の親からも許可をもらい、着替えやその他を完全装備して家を出なくてはならない。でなければおかしい。今まで一度もお泊り会なんてしたことのない娘が、今日友達の家に泊まるからなんて言いだしたらどう考えてもおかしい。

 しかし、だからといって代替案はないのだ。男が、ナズナがそれで納得してくれるかは、まったく別問題であって。

「……なるほどね。そう考えるとお泊りも大変だ。ちょっと軽く考えてたよ」

 いやー反省反省、とでも言いたげな表情で男が言う。誰かが今の光景を見て、誘拐現場そのものだと思うだろうか?

「なにかの事件で親には泊りだと言って誤魔化していたなんて話があった気がするけど、気のせいだったのかな。もしくは時代か?」

 独り言を言う男に、私がかけられる言葉はなかった。なにかの事件というのは、おそらく職業的には一般人であろう彼が知っているということは、それなりに話題になったものなのだろう。

 その彼は今、後に「なにかの事件」なんて言われるようになるかもしれない行為を試みている。私はその被害者だ。薄ら寒さを覚える。

「まぁ、いいや。それなら親御さんには黙って行こう。申し訳ないとは思うけど、僕からすれば所詮は他人。致命的なことじゃない」

「えっ、でも」

 反射的に言葉が喉を通り越していた。当然男は訊き返してくる。

「でも?」

「え、……その、でも。そうしたら、うちの親は、たぶん捜索願を出しますよね?」

 一度口にしてしまった言葉を引っ込めることはできない。言うのも怖いが、無理に黙るのはもっと恐ろしい。

「だろうね。もうとっくに門限は過ぎているし、あと言ってなかったから今言うけど、明日の朝まで帰す気ないから。そのつもりでよろしく」

 犯罪者へと堕ちていこうとしている男はあっけらかんとしていた。そんな義理はないのになぜか、私の方が彼のことを心配しているような口ぶりになる。

「そのつもりで、って。それじゃあナズナさんが犯罪者になってしまいます」

「今の時点でそうだよ。それともルナちゃんは、バレなければ犯罪じゃない論を支持する派だったかな」

「そうじゃなくて……!」

 車が大きな通りから逸れて裏道に入っていく。近道なのか、目的地が近いのか。その目的地というのは、一体どこなのか。私は私自身のことを心配しようと思えば、いくらでもそうすることはできた。その材料はたんまり転がっている。

 けれど私は、それらの材料に見向きもしない。心配することが何の役にも立たないからだろうか。……そのはずだ、それが理由のはず。

「友達の家に泊まれと言えなんて指示したのは、できればバレずに済ませたかったからじゃないんですか」

「そうだよ? でも、無理なら無理で仕方ない。僕だって悪いことをしている自覚はあるんだから、腹くくってるよ。絶対にバレたくないなんて考えるなら、そもそも悪いことしなければいいんだからね」

 多大な自信? 自暴自棄? それとも悪行がバレて、裁かれることを望んでいる?

 私にはそれら全てのもの以外の何かに見えた。彼の言うこと成すことには、なにか凡人では理解できないものがある。もしかすると彼の人を惹きつけるような力はそこからも湧いているのかもしれない。そうだったとして何かという話ではないのだが。

「さて、そろそろ到着だよ」

 言われて窓から外を見まわすと、視界に映る物は家、家、家。一軒家やアパートはもちろん、今は空き家となっている荒れ果てた建物も遠くに見える。他には空き地もあったが、ただ広いだけの空き地だ。周囲からの視界を遮る物は無い。

 車は数あるアパートの内の一つ、その駐車場に停まった。至って普通の住居といった感じで、わざわざ誘拐した子供を運んでくるに相応しい場所とは思えない。

「あの、ここって」

 不用心なことに、質問することへの恐怖が薄れてきていた私は自然に訊いてしまった。それも、訊くまでもなく答えはわかっていたのに。

「僕の住んでる家。賃貸だけどね」

 男はさっさと車を降りる。どうしていいのかわからず固まっていた私をガラス越しに見ては、早く降りろと当然のように手を使ったジェスチャーで示してきた。

 それでいいのだろうか。そんなもので、いいのだろうか。私は物理的には、一瞬自由の身になれるのだ。そこで走って逃げようとしたところあっさりで捕まるかもしれない。悲鳴を上げても、誰かが駆け付ける前に家の中へと引きずり込まれるかもしれない。けれど、本当にそれでいいの?

 助けてと悲鳴を上げ走る私を、捕まえて引きずろうとしているところをもし、もし近隣の何者かに見られたら? その時点で彼の人生は終了するはずだ。もちろん自暴自棄になった彼が私の命を道連れにしないとは言いきれないけれど、私はそれを恐れて何もしないのだろうけど、しかしそれでも本当にそれでいいのだろうか?

 ナズナという偽名を名乗った男が何を考えているのか、私には到底わからなかった。理解できなかった。被害者が加害者の考えを理解しようというのが無茶な話なのかもしれないが、それでもおかしなものはおかしい。

「……いいんですか」

 車を降りて、すぐそばにいる男に目は合わせずに言う。恐怖心を好奇心が上回っていた。

「なにが?」

「私が走って逃げようとしたりだとか、叫んだりだとか、そういう心配は」

「ルナちゃんはそういうことするの?」

 信用しているんだけどな、と。実際には言われていない言葉が、彼の声音から浮き出ていた。

 私は彼の顔を見ることもできず、うつむきがちになっていた顔を上げることさえできず、ただ首を横に振るしかなかった。

 視界の外で、彼が満足気に微笑んだ気がした。

 

 二階建てアパートの一階。その一番奥の部屋が、彼の住んでいる場所らしい。十八時をとうに過ぎ日も沈んだ中で、明るさは並んだライトだけが頼りの廊下を歩いて行く。ライトの一つはチカチカと点滅していた。

 家の主である男が鍵を取りだして、きっといつもそうしているようにガチャリと扉を開けた。その行為には何も特別な意味などないはずなのに、鍵の開く音はひどく重たい意味を持っているように思えた。

「さぁ、どうぞ入って」

「お、お邪魔します……?」

 大きめの段差がある玄関に足を踏み入れる。玄関に靴は一つも置かれていなかった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

 背中にかけられた言葉が、強制力という意味で私を押してきた。早く入れと、そういう言外からの圧力。

 靴を脱いで、恐る恐る中へ入っていく。途中、戸が開きっぱなしになっている物置のような部屋を見たが、あからさまに注目することもなく通りすぎた。私が今やるべきことは、家の中に入ることだから。余計なことはしない方がいい。

 根拠のない不気味さを持った家も結局はただのアパート。一度立ち入れば大体の間取りはわかる。そのくらいの広さだった。不気味さとは家自体ではなく、ここがあの男の家なのだと、その事実自体が持っている物なのだ。

「そんなにキョロキョロして、どこを探しても死体なんかは出てこないよ」

 男の声が思ったよりも近くで聞こえて驚いた。若干肩も跳ねてしまった。玄関のドアが閉まる音なんて聞こえなかった。私が部屋を見ることに神経をすり減らしすぎて、聴覚の方までキャパシティが回らなかったのだろう。

 しかし、驚いた理由はそれだけではない。単に男がいつの間にか背後に立っていたから、だけではない。もう一つの理由はこの状況で、死体という単語を出されたからだ。

「……死体って?」

「ルナちゃんすごく警戒してるみたいだから。僕がまだ世に存在していることさえ明かされていないシリアルキラーで、今までに攫って殺してきた子の死体が家のどこかにあるんじゃないか、とか考えてるのかなと。そう思って」

 ハハハ、と男は笑う。私もつられて笑った。唇の端が引きつっているのが自分でもわかる。それでも笑うしかなかった。

 今までにも笑えない冗談を聞いたことはある。笑いどころのわからない、冗談と言われなければ冗談とも捉えられなかった話も聞いたことがある。しかし私は今初めて、冗談であってほしいと願う感覚を覚えた。彼がどういう意図を持って言ったのか、私にはやはり理解できなかったから。

「どうしても心配なら家中見て回ってもいいけど。まぁ、言うほどの広さはないけれども」

 返す言葉が思いつかなかった。男も私がそうなることを予想していたのか、この話はここで終わりだと言うようにその場に腰を下ろした。そういえばこの家には椅子がない。

「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。ルナちゃんさっきから、気遣ってるでしょう」

 そのままだと私が男を見降ろす形になってしまうので、居心地の悪さを回避するために男と同じようにその場に座った。すると思いだしたかのように座布団を差し出されたが、私はそれを断ることができなかった。

 座布団は一つしかないわけではない。二つどころか、それ以上にもっとある。なのに男は使わない。私だけが座布団の上に座っている。結果だけで言えば目線を低くしたところで、居心地の悪さは大して変わらなかった。

「これからどこへ行くのとか、それくらい訊いてもいいんだよ?」

 また男は妙な安心感を渡そうとしてくる。それは麻薬のような物だ。安易にそこへ救いを求めれば、その時点で私は死んだも同然となってしまう。

 見ると、自宅だというのに男はなぜか正座をしていた。完全な無意識だったが、今確認すると私も同じだった。私の場合緊張感から無意識で正座をしていたが、彼の方は何も改まることはないはずなのに。

「えっと、じゃあ……これからどこへ行くんですか?」

「釣りへ行くよ」

 一瞬頭の中で、「ツリ」という名前の場所を探していた。少しの間をおいてそれが場所の名前ではないことに気がついたが、それだけでは謎は何一つ解けなかった。

「釣り……?」

「あぁ、地名で言った方がよかったかな」

「いや、そういうわけでは」

 地名で言われればそれは確かに、なるほどこの程度の距離まで私は車で運ばれるのだな、ということは理解できる。それがいつ家に帰るかという答えに結びつくことはないが、わからないよりは随分安心できる。

 けれども、釣りへ行くという言葉の方がよほど気になる。とんでもない距離を移動しない限り、地名なんてどこへ行ったところで大差はない。どこへ行ったところで、釣りをしに行くということに変わりはない。

 ……釣りって、魚を捕るあれだろうか。女子中学生を攫った目的が釣りに連れて行くためって、それはいくらなんでもおかしい。では「釣り」とは何かの隠語か。そうだったとしても、私にはそれが何を意味しているのかわからない。

 そして釣りの意味を訊く勇気も、私にはなかったのだ。勇気と同じ効果を発揮する好奇心は、男の家へ入った瞬間からなぜだか消えてしまった。

「そう? まぁ、カーナビ使って行くから地名なんて後々わかるね。……それでだけど、ルナちゃんに一つ頼みたいことがあるんだ」

 頼みとは言いつつ、その声は私に本来あるはずの拒否権を認めない。恐怖心ではない、心の奥深くにあるどこかに語りかけるような、そんな声だった。

 そうでなくても、こんな状況では元々私に拒否権なんてないのだが。

「なんですか……?」

「今から寝てほしい」

 男の声に、表情に、今までと変わった部分は一つもなかった。優し気で、そして余裕に満ち溢れたそれらは、絶えず私に妙な感覚を与えてくる。

「……寝る、というのは。睡眠という意味……ですよね?」

「え?」

 男の表情が見たことないものへと変わった。道行く人から突然道を尋ねられた時のような、警戒も恐怖も含まれない驚きの表情。彼と過ごした時間は六十分あるかないか程度だというのに、彼の顔から余裕が消えた様を拝めたことが非常に貴重なことに思えた。

 まるで私が、目の前の男のことを少し理解したつもりになっているかのようだ。一切彼のことを理解していないと正しく自覚していれば、表情がどうなったところで思うことなどないはずなのに。

 今までに私が嫌ってきた、より正確に言えばうっとうしく思ってきた、私のことを理解したかのような口ぶりで話しかけてくる人物を思いだす。自分がそんな人々と同じような方へと寄っていたのではないかと思えば、当然不快感が湧いてくる。

「睡眠という意味かと言われれば答えはイエスだけど、それ以外に何かある……?」

「いえ、すみませんなんでもないです」

 今すぐ眠れと言うなら、可能な限りは指示に従えるように努力する気はある。得体の知れない男の前で眠るリスクと、指示に逆らうリスクに大差はないように思えるから。もうどうしようもないところまで来てしまったのなら、行き着く先が同じなら、私は流れに身を任せたい。

「あっ」

 男が突然声を上げた。同時に心なしか後ずさった気がする。

「違う違う! 違うよ。変な意味とか無しに、単純に仮眠を取ってほしい。そういう意味で言ったんだ。……こういう風に言い訳した方が余計に信じられないかな」

 ブンブンと手の平を顔の前で振りながら発言に他意はなかったと弁明する男を見て、初めて彼の感情を見た気がした。

「わかってますから、大丈夫です」

「助かるよ。僕は君ルナちゃんに危害を加えるつもりはないからね」

 今以上には、という意味だろうか。それとも彼にとっては、今の状態を危害を加えているとは言わないのだろうか。どちらにしたって、今言ったことが真実なら安心できるのだから構わない。……本当に真実なら、だけれど。

 誘拐犯の発言を信じるかなんて考えても仕方がない。それよりも、私は「仮眠」という単語の方が気になっていた。

「あ、ありがとうございます。あの、それで仮眠っていうのは」

「あぁ、釣りには夜遅く行くから。その時眠くなったら、ね?」

 今日の夜、私が眠る権利は奪われるらしい。釣りというのが魚釣りだったとしてもそうでなかったとしてもだ。そんなことに文句を言うつもりはないけれど。

「なるほど。……じゃあ、寝ますね」

「うん。隣の部屋に布団敷いてあるから。……他人の布団を使わなければいけない、という危害については目を瞑ってもらうしかないかな。ごめんね」

「いえ、別に」

 その程度のことに文句を言う根性や勇気があったのなら、きっと私はここにいない。だから今だって言わないなんて、そんな風に自分の行動を決めるつもりはないけれど、事実として私は何も言わない。内心文句がないかと言われれば、実は私にもよくわかっていない。

 だって、普段他人の使っている布団で寝る経験なんて、今まで一度もしたことがないのだもの。修学旅行などで泊まった場所なんかを含めれば別だが、ああいう施設での布団を「普段他人の使っている物」とは普通言わないだろう。

「それじゃあ、僕は車にいるから。これ家の鍵。時間になったらインターホンを鳴らすよ」

 標準的な形の家の鍵を差しだしながら男は言う。耳と目に入ってきた情報が多すぎて私は固まってしまった。

「……えっと?」

「どうしたの。はいこれ、鍵」

 押しだすようにより強く差し出され、思わずそれを受け取ってしまう。この家の鍵を受け取って、それでどうすればいいのかまったく分からずにまた体が固まる。

「十一時に来るから」

 そう言って男は私に背を向け玄関へと歩いて行く。自然な流れで靴を履いて、玄関の明かりを消して外へ出ていった。自分で閉まっていったドアを見つめてしばらく茫然とする。

「えっ」

 自らの手の中にある鍵を見て、微妙に閉まりきってない玄関ドアを見て、もう一度鍵に視線を戻す。気を遣ってくれたのかと、やっとのことで彼の行動の意図を理解できた。

 こんなことになってしまった原因は私にもあると、大部分が私の責任であると思っていたから、寝ろと言われて不服に思うことはなかった。知らない男の前で眠らされるなんて信じられないと、そう言えた立場ではないと思っていたから。そんなことを言えば、知らない男の車に自ら乗った自分は何なのかという話になってしまう。

 どうして自分は彼の言うままに車に乗ってしまったのだろう。脅されたのかと言われれば、せいぜい柔らかく手を握られただけで。怖かったなんて言い訳は、私自身から見ても明らかにおかしい。車に乗るほうがよほど怖いじゃないかと言われれば反論の言葉はないのだ。

 けれど、あの時の私はそう思わなかったらしい。彼の手を振り払って走ることの方が怖くて怖くて、仕方がなかったらしい。ほんの少し前の自分がわからない。

「……寝よう、もう」

 疲れてしまった。実は鍵にスペアがあって、ここで眠ることは罠にかかることと同じかもしれない、とか。そんなことを考えるのにも疲れてしまった。まるで薬でも盛られたかのように、普段ならまだ眠るような時間ではないのに眠気が襲ってくる。

 襲うと言っても、眠気は強烈なものではなかった。むしろ穏やかで心地よく、反抗することをやめたくなるような甘さがあった。

 言われた通り隣の部屋には布団が敷いてあったので、私はそこに潜りこんで目を閉じる。それですぐに意識が遠のくことはなくとも、あっさりと瞼を上げる気力は奪われた。

 

「大丈夫か? 何かつらいことがあれば、いつでも先生に言ってくれ」

「ねぇ瑠奈。その、……平気?」

「瑠奈ちゃん、無理はしなくていいのよ。わたしに気に入らないところがあったら遠慮なく言って。直す努力は必ずするから。……それでもダメなら、謝ることしかできないけれど」

 誰もが私を被害者として見る。哀れな被害者。大人の都合に振り回される、弱者。かわいそう、守ってあげないと、相談に乗ってあげよう。俺が、わたしが。

 全ての人に対して例外なく、反吐が出る。私は何もつらくないのに。両親が離婚したって、それで私が困ることはなかった。もちろんお母さんのことは大好きだったけれど、お父さんのことも大好きだったから。

 お母さんが遠く離れたどこかへと行ってしまったのはもちろん悲しい。けれど、言ってしまえばそれだけだ。人生で一度も泣きたくなるような悲しみを味わわないなんて、そんな人がどれだけいるのだろうか。そして泣きたくなるような悲しみに出会った時に、実際に泣きはしない人なんて、探せば腐るほど出てくるんじゃないだろうか。

 世の中には「悲しい」では済まない出来事に遭っている人がきっとたくさんいる。それなのにどうして私が、まるで世界で一番かわいそうな子みたいな扱いを受けているのだろう。

「あの子の親、離婚したんだって。子供の方も大変だよね」

 顔の見えない誰かが言った。女の声だった。

「うるさい!!」

 ピンポーン……ピンポーン……。インターホンの音が聞こえる。暖かくてふかふかしていて、大げさに言えば天国のような環境に包まれ眠っていた私は、天さえ切り裂きそうな甲高い声で地上に引きずり降ろされた。

 叫んだのは自分だったのかと自覚した時、この家の防音性が気になった。アパートは当然隣の部屋と壁一枚隔てた構成になっているだろうし、私のせいであの男に迷惑をかけてしまっては悪い。

 ……どうして私はそんなことを考えているのだろう。迷惑どころか、自分が助かる前提なら、さっさと警察に捕まってほしいと考えるのが通常ではないのか。

 余計な思考ばかりが頭に雪崩れ込んで来て、もう一度インターホンが鳴るまで、鳴ったのなら玄関を開けなければならないという至極当然な結論まで辿り着けなかった。彼は本当に鍵を、唯一の鍵を私に渡していたのだ。

「すみません、今開けます!」

 慌てて布団を出て玄関へ向かうと、自分でさえ耳障りに思うほどドタドタという足音を立ててしまった。なにが気に障るかって、さも急いでいますよと主張したいかのような不必要に大きな音が、ぶりっ子の人が取る態度を彷彿とさせたから。

 慌て取り乱したあまりに、私は初めポケットに入れてあった渡された鍵を取りだしていた。内側から開けるのに鍵を指し込まなければならないわけがないだろうと気づいて、ようやっとドアを開けられたのだ。その間が何秒あったかだなんてわからない。

「ごめんね、寝足りなかったかな」

「いえ、そんな。全然」

 車の中で寝ていたと思われる男は少し眠そうな目をしていた。私も同じようなものだったのかもしれない。

 今思えば申し訳ないことをしたと思う。私を車へ乗せ放置する方が危険と判断したのかもしれないが、それでも彼が、眠るには悪い環境を選ばなければならなかったことに申し訳なく思う。

 私が客であったのなら妥当なことだったのかもしれないが、実際のところはそんな関係ではない。彼が私に気を遣わなければいけない義理なんてないのに、悪いことをした。

 またそんなことを言いだせば、私だって彼に申し訳なさを感じる義理だってない、という話になるのだが。

「そう、じゃあよく眠れた?」

「はい」

「だとすると、単純にインターホンの音が気に入らなかったのかな?」

 そう言って彼は家の中へと入ってきた。身長差のせいでギリギリ顔が見えない。私はほとんど反射的に、

「ご、ごめんなさい……。気に入らなかったとか、決してそんなことは……」

 謝っていた。その様は無意識に、許しを請う犬のような無様なものになっていた。

 相変わらず感情の読めない、しかし優し気な彼の声が私に不安感を与えたから。からかうように言う彼が、実は気を悪くしているのかもしれない。私は彼を怒らせてしまったかもしれない。直感的にそんな思考が脳を支配して、謝ること以外の選択肢を奪っていた。

「謝らなくてもいいよ。むしろ、インターホン鳴らしただけで起きられるか若干不安に思っていたんだ。褒めてあげたいくらいだよ」

 その言葉を聞いて、心の底から安堵している自分がみじめだった。自分の生殺与奪権を握っている男の機嫌を損ねずに済んだから安堵した、そのはずだけれど。素直にそれだけだと捉えることができなかった。

 まるで主人の顔色を窺う犬か、もしくは奴隷じゃないか。いつから私はそうなってしまったのだろうか。いや、初めからそうだったのか。まさか眠って起きれば性格が変わっているなんて、そんなことはあるはずないのだから。

 言われるがまま車に乗り、簡単な質問でさえそれがきっかけとなって何かが豹変してしまうことを恐れ沈黙し、そして今に至る私は。私は、すでに彼の手の平の上なのか。

「ごめん、これ車の方に持って行ってくれないかな。パシリみたいにして本当に悪いと思うけど、できればお願いしたい」

 物置のようになっている部屋から、男はギターケースかゴルフバッグのような大きな袋を担いできた。箱ではなく袋で、ゴルフバッグにしては小さすぎる。ギターケースは実物を見たことがないので何とも言えないが、まぁ違うだろう。

「車まで運べばいいんですね」

 それくらいならお安い御用。大きさが自分の身長に似ているそれは運ぶには少し不便なサイズだが、だからといって無理でもなければ特別つらいわけでもない。

 持ちあげると、袋の中から軽い物がぶつかり合うような音がした。少なくとも金属音ではない。さすがに死体や危険物や何かが入っているとまでは思っていなかったが、その音に安堵したのも事実だった。

 歩く度に中身が振られて音がする。なんとなく中身がわかってきたが、その頃には私はアパート外の廊下を半分くらい進んでいた。月の光もロクに届かず、等間隔に設置されている電灯だけが光源の廊下を、半分も進んでいたのだ。

 ハッと我に帰る。またあの男は、何の警戒も無しに私を外へと出したのだ。まるで自分の娘に荷物運びを手伝わせるかのように平然と。

 足を止める。段々と私もわかってきたし、自分が正しいと確信していた。なぜだか知らないがあの男は私を信用しているのだ。外に出しても逃げやしないと、自分の困るようなことはしないと信じ切っている。彼から見れば違うのかもしれないが、私からすればそれは根拠のない信頼だった。

 逃げようか。道を憶える余裕などその時の私にはなかったが、それでも窓の外は見ていた。なんとなくできっとわかるだろう。後ろを振り返っても誰もいない。今駆けだせばそのまま家まで、そうでなくても彼の手が届かない場所まで行くことができる。

 一階の廊下に大した高さの壁はない。外に目を向けると暗闇が見える。夜だ。すっかり夜中になっている。眠っていたので当然のことだけれど。

 父は今頃私の身を案じてくれているだろうか。警察に届け出て、もしかして捜索も始まっていたりしてしまうのだろうか。きっとそうだろう。私が逃げ帰れば、父は私を抱きしめてくれるだろう。

 そうして日常の中に私は戻るのだ。男のポリシーか良心か、何物かはわからないが確かに存在したソレによってこれといった危害を加えられなかった私は、心の傷を負うこともないまま日常の流れに再び乗っかるだろう。

「…………」

 夜の風が少し冷たい。公園にいた時だってほとんど太陽は沈んでいたのに、それでも寒さは増していくらしい。夏ももう終わり、門限のチャイムは五時に鳴るようになるだろう。

 私は再び歩き始めた。廊下を抜けて駐車場に出たら、あの男の車がある場所に運んできた袋を置く。

「ごめん、ありがとうね」

 置いた袋を見降ろす私に、背後から近づいてきた男が声をかけた。我ながら殺した仇を見降ろすような暗い雰囲気を出していた気がするが、彼はそこには触れなかった。そこに気づいていなかった説もある。

 振り返ると、クーラーボックスを肩にかけた彼がいた。

「それじゃあ行こうか」

「はい」

 使わない後部座席へと荷物を放り込んで、彼は運転席へ私は助手席へ座る。

「あ、鍵」

「あぁそうでした、すみません」

 慌てて彼に鍵を渡す。小走りで飛び出して行った彼は、一分と経たないうちに家の鍵を閉めて帰ってきた。

「明日の朝には帰る予定だけれど、疲れちゃうだろうし、学校を休める程度には遅く帰ろうか」

 エンジンをかけながら彼が言う。私はおかしくて少しだけ笑ってしまった。

「誘拐された子が帰ってきたからって、その日のうちに登校させようとする人なんていませんよ」

「そうか。それもそうだね。いやー僕も自覚が足りないね。反省だ」

 反省だなんて、本気でそう思っているのかな。彼の口調からはいまいち感情が読み取れない。冗談なのか本気なのかもわかりづらい。そこが怖くて、そこが全ての原因なのかもしれない。

 車が走りだした時にシートベルトをしていないことに気づいて、すぐに締めた。手で掴んだ部分が冷たかった。

「コンビニ寄るね」

「はい」

 車はすぐに大きな通りに出る。初めに乗った時よりも、たった一度の違いとはいえ二度目の方が落ち着いていられた。落ち着きを取り戻すと、運転している男の顔を見る余裕も生まれる。

「……なに?」

「あ、いえ。なんでもないです。……すみません」

 意味もなく顔を見ていただなんておかしいと思われたかもしれない。しかし彼はそれ以上何も言わなかった。

 なにも今気づいたわけではないし、何度も見てはいた。そしてその度に、ほんの少しでもそう思ってなどいなかったと言えば嘘になる。けれど今改めて、彼は顔立ちも整っている方だと覚えた。人を惹きつけるような声を持っていて顔も良いとくれば、普通に生活していれば普通にモテているのではないか。

 そんな彼もなぜだか私を攫ってしまい、れっきとした犯罪者になってしまった。抑えられない欲望があるというわけでもなさそうなのに、一般的に考えて彼は、なんて惜しいことをしているのだろうか。

 夜の道を走る車は、コンビニの駐車場へと逸れた。寄ると言われていたので特に思うことはないが、しかしよく考えれば何を買うのだろう?

「ルナちゃんも降りて」

「あ、はい」

 私も一緒に降りるべきなのか少し判断に困っていたので、彼の方から言ってくれたのはありがたかった。

 車を降りて、軽く放り投げるようにドアを閉める。車の走行する音につられて道路の方を見ると、次々と走り去る車のライトがイルミネーションのようだった。夜中外に出たことなんてそうそうなかったなと、ぼんやり考える。

「ルナちゃん?」

「あ、はい。すみませんボーっとしてました」

 先を歩く彼の方へ駆け寄る。我ながら親子か、そうでなければ兄弟のように他人からは見えそうだと思う。しかしそれでいいのだ。誰にも怪しまれないのならば、それで。

「そんなにすぐ謝らなくてもいいんだよ」

「あ、え、はい。ごめんなさい……?」

「言ってるそばから」

 いつものように微笑むのではなく、その時の彼は確かに笑った。たぶん怒ってはいない。そう、気を悪くはしていないはず。

 押すとも引くとも書いていないドアを彼が押して開けると、いらっしゃいませと店員が挨拶をした。夜のコンビニでも私が知る昼のそれと同じく、店員の声にはそれなりに気力がこもっていた。

「ルナちゃん欲しい物持ってきていいよ」

「えっ」

 突然そう言われたので純粋に驚いた。まさか私の欲しい物を買いに来たのかと、思い上がりも甚だしいことさえ考えた。

「今日の為に新しく布団を買えるような余裕は正直なくてね。お詫びに食べ物くらいならと思って」

「そんな、全然大丈夫なのでお構いなく」

「まぁそう言わずに。僕だって道中食べるお菓子を買いに来たんだから」

 言いながら彼はお菓子コーナーへと入って行き、ハード食感と書かれたグミをカゴに入れた。その後はチョコレートも入れている。

 なんだか過剰に遠慮していると悪い気がしてくる。ここはお言葉に甘えさせてもらって、ありがとうございますと言った方が円満なのではないか。遠慮だけが正解じゃないのかもしれないと、私は人生で初めてそんなことを考えた。

 乾き物を手に取る彼の横から、私はラムネ菓子をカゴに放り込む。ちらりと見ただけで、彼はさほど反応を示さなかった。

「飲み物もどうぞ」

「あ、はい」

 飲み物には特に好みがないので、一番早く目に入ったオレンジジュースを選んで掴む。

 彼も隣へ来て、コーヒーを一つ選んでカゴに入れた。私も続くように掴んだ物を入れる。

「他に欲しい物はある?」

「あ、いえ、大丈夫です」

 相変わらず彼の声は優しくて、その気になってあれもこれもと言えば、その全てを買ってくれそうだった。しかし私の受けるそのイメージはあくまでイメージで、彼の意思と同じである確証なんてない。それを忘れてはならない。

 ささっと会計を済ませた彼は、いろいろな物が詰められたビニール袋を持って出入り口へと歩いていく。振り返って確認される前に、私はそのあとを付いて行った。店から出る時でも、やはり彼はドアを押して開けた。

 彼が買った物を持って車に乗り込む。私は何も持たずに助手席に戻る。この席が、もう馴染んできた気がする。

「さて、物資補給も済んだし、改めて出発だね」

 ガサゴソと袋を漁って、彼はオレンジジュースを私に差しだしてきた。

「あ、ありがとうございます」

「ルナちゃんはいい子だね」

「えっ?」

「ちゃんとお礼が言える子、今時珍しいんじゃない?」

 はぁ、と間の抜けた返事しか返せなかった。思えば今までの人生一度も、身内以外から何かを奢ってもらったことはなかった。お礼が言えるかどうかなんて、考える機会もなかったのだ。同年代の子は大体そうだと思っていたが、実はそうでもないのかもしれない。

 駐車場から大きな通りに戻り、そのうち車は高速道路に乗った。帰ってくる頃には朝になると言っていたし、どこか遠くへ行くのだと言うことくらい想像はついていたので、特に思うことはない。

 ふと、カーナビを使うのだから地名はそこでわかる、と彼が言っていたことを思いだした。目的地に設定されている地名を見てみると、社会科の授業で見た覚えのある文字が並んでいた。記憶が正しければたぶん他県までは行かないはずだ。

「ごめんルナちゃん、袋の中からグミ取ってくれる?」

「あ、はい」

 彼の言葉には強制力がある。けれど、私はそれに恐怖を感じることがなくなりつつあった。慣れてしまったのだろうか。だとすれば、それは良いことなのだろうか。そうでないのなら、いや、そうでなかったところでどうしようもないのだが。

 グミの袋を取りだして、運転中の彼は両手が塞がっているから私が封を切る。すると彼の方から手の平を受け皿のようにしてきた。

 慣れてきたとはいえ、彼と一緒に居ることに完全に馴染んだわけではない。グミを一つ摘まんで恐る恐る手の平に乗せる。

「ありがとう」

 彼は錠剤を飲む時のようにグミを口に放り込んだ。

「ルナちゃんも食べていいよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 食べていいよという発言には、食べろという意味が含まれている。けれどそれは何も、彼の言葉に限ったことではない。

 グミを口の中に入れて噛むと、心していたよりも数段階は上の硬さだった。歯を押し返してくるようだ。ハード食感と書いてはあったが、それにしたってハードすぎないか。

「あ、ところで」

「はい?」

 前を向いたままで彼が話す。声のボリュームがもう少し小さければ独り言と勘違いしたかもしれない。

「ルナちゃんは釣りしたことある?」

「いえ、一度もないです」

「へぇ、そうなんだ。まぁ何事も経験だよ」

 釣りというのにザリガニ釣りを含むのなら別だが、私に釣りの経験はない。彼に連れられて行くのにそれが問題とはならないだろうと思っていたが、改めて考えてみるとどうなのだろう。勝手な思いこみかもしれない。

 そもそも、彼はなぜ私を釣りに連れて行くのだろう。釣りは一人で出来ないことではないだろうし、それでも寂しいというのなら、誰か知り合いを誘えばいい。最悪親でも兄弟でも、なにかしら声をかける相手くらいいるだろう。仮にいなかったとしても、話し相手を攫ってこなければならないと判断するにはいくらなんでも早すぎる。

 私が果たすべきこととは、彼から期待されていることとは何なのだろう。まさか車内でお菓子を渡す役ではないだろうし。釣りの、例えば戦力のようなものとして期待されていたりしてしまったら、私はまったく期待に応えることができないことになる。

 彼の期待に答えられないことは、きっと彼の機嫌を損ねることになるだろう。その場合私はどうなるのだろう。……初めにこの車に乗った時からずっとそんなことを考えている。もうやめよう。考え疲れて眠ってしまったら仮眠の意味がなくなる。

「……何事も経験だ、なんて言ってくるのは、いつも経験を押し付けてくる側の人なんだけどね」

「どういうことですか……?」

「深い意味はないよ」

 深い意味どころか浅い意味の説明さえせずに、彼は手の平を受け皿にする。それはもう、命令の意味がこめられたある種のジェスチャーだ。

 私はまたグミを一つ取りだして彼の手の平に乗せる。ドラマで見た手術室で「メス」と言われたら持ってくる助手のようなポジションの人を思いだした。

「目的地まで二時間くらいあるから、もしアレなら第二の仮眠に入ってもいいよ」

「いえ、大丈夫です」

 空が暗くなったら問答無用で眠たくなるほど、私の体は健全にはできていないらしい。仮眠が効果を成しているのかも知れないが、それにしたって強烈すぎるほどに目が冴えている。極度の緊張状態で眠れないとか、そんな風でもないと自分では認識している。

「それじゃあ、どうしようか。残念ながら僕は最近の中学生にウケるような話を持っていなくてね」

「あぁ、……どうしましょうね?」

 また私に気を遣って無理に喋ろうとしてくれているのなら、どうかお構いなくと言うのだが。単純に彼が沈黙を嫌っているとしたら、そんなことを言っても何も解決しない。かといって私も、大人と上手く話せる話題なんて一つも知らない。

 釣りの戦力にもならなければ、まともな話し相手にもなれない。やはり私は彼の期待には応えられない気がしてくる。それと共に自分の無力さを実感する。

「力不足で申し訳ない」

「そんな、こちらこそ何も話題がなくて……」

 車の走行する音だけが車内に響く。派手な音を立てながら、一際早いバイクが隣を通り過ぎていった。

「よし、こうなればアレしかない」

「アレ?」

「しりとり」

 なんと返していいかわからず硬直していた私をよそに、彼は若干嫌そうな顔をして付け足した。

「ちなみに、どこで聞いたかは忘れたけど、しりとりは通称会話の墓場と言うらしい」

「そうなんですか。初耳です」

 初耳なのはいいが、今教えられても困る知識だった。さらに困ることといえば、おそらくその通称を他人に紹介する機会はないだろうということ。言ってはなんだが無駄知識というやつだ。

「いっそ通称の話なんて黙っておいて、しりとりを始めればよかったかな」

「そんなことないですよ」

 どちらにせよ、やっていることは変わらないのだから。何を話そうが話さなかろうが、しりとりはしりとりであって、それ以上でもそれ以下でもない。墓を建てればそこが墓場だ。

「じゃあ、とりあえずしりとりの「り」からね。りんご」

「えーと、ゴーヤ」

「山芋」

 たった一言交わしただけでわかる。あぁ、これは思っている以上に生産性がない。

「もずく」

「鎖鎌」

「枕」

「……ルナちゃん」

「なんですか?」

 彼がちらっとだけ私の目を見て、すぐに正面に目線を戻す。その表情から、なんとなく心が通じているような気がした。

「墓場と言われる由縁を理解した気がするよ」

「私も、ちょっとわかってきました」

 そして再びの沈黙。

 しりとりは私の言った「枕」を最後に続くことはなかった。目的地まで二時間近くあるらしいが、その間ずっとしりとりを続けていたら、私も正直少しだけ正気を失いそうな気がする。

「ルナちゃん、勉強得意?」

 しばらくあった間は彼が必死に話題を探してくれている間だったのだろう。私も探してはいたが全く見つからず、さすが大人は雑談や世間話に慣れているのだなと尊敬する。

「得意ではないです。なんとか赤点は回避できるくらいで」

「好きな教科とかある?」

「うーん、特にはないです。嫌いというより苦手なのは体育ですけど」

「運動苦手?」

 会話は続いている。彼が訊いて、私が答える。その形で問題なく続いている。……本当に問題ないのかは、ちょっと自信がないけれど。これといった根拠はないが、なにか着々と墓場へ向かっている気がしてしまう。

「苦手です。運動もダメで勉強もダメで、何が得意なのかって話ですよね」

 学校の進路対策の授業で、自分の長所と短所を書きだしてみようと言われて困り果てたものだ。自分に特別優れていると思う部分はないし、短所は何かと言われれば長所がないこと自体が短所のように思えてくる。それをそのまま書いても許されないことはわかっているのに。

「別に得意なことがなくてもいいんじゃない。世の中自分の長所を仕事に活かせてる人なんてそうそういないし」

 ありきたりな雑談をするかのように、テンプレートな発言で会話を回すかのように、彼は大したことは言っていないと主張するかのように言った。

 それが私にとっては衝撃だった。就職どころか高校受験もまだ経験していない私には、長所を活かしている人なんていないということが、具体的にどういうことなのかよくわからなかった。

「そうなんですか……?」

「そうだよ」

 彼が何の仕事をしているかなんて当然知らない。知ろうとも思わない。知ったところで、犯罪者となってしまった彼をそのまま受け入れてくれる職場なんて、そんなものはさすがにこ存在しないだろうから。

「でも、例えば人と話すことが得意な人は仕事をする時のコミュニケーションも上手くいったり、手先が器用な人や機械に強い人はそれぞれ向いている作業があるはずですし、それでも活かせないんですか?」

「まぁ、大体はね」

 彼の声が悲しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。表情は一切変わっていなかった。

「上には上がいるって言ってね。自分の長所の、さらに上をいく人が社会にはいるんだよ。上位互換って言ってわかるかな」

「なんとなく」

「大体の人が自分の長所をアピールするけれど、結局は自分と似たような、そして自分より優れたような長所を持っている人に立場を奪われるんだ。誰にも負けないほど強い長所があるならもちろんそんなことないけど、そんな人はそうそういないからね」

 絵で考えてみる。例えば学校で提出したコンクールで優勝するくらい絵の上手い人が、それなら絵描きとして仕事をしていけるようになるのかというと、確かにそんな気はしない。世の中にはもっともっと上手く描く人が溢れているはずだから。

 でも、それが全てのことに言えるというのだろうか。才能の類ではなく、ただシンプルに長所や短所という程度のものでさえ、社会ではそんなことになっているのだろうか。

「……それだと、必要としてもらえる人なんてほんの一握りしかいなさそうですね」

「そんなことはないよ。ルナちゃんだって、お肉を食べる時には最高級の物しか食べませんってことはないでしょう? そこそこの長所を持った人には、身の程に合ったそこそこの人が必要としてくれるよ」

 そこそこ。話の流れからして、あまりいい意味には感じられない。身の程に合ったというのはこちらから見た場合でもあり、向こうから見た場合でもあるということだろう。

 ブラック企業が過労死がと騒がれていたことを思いだすと、「身の程」という言葉が重く聞こえる。

「けどまぁ、長所を自分で言う場合は、実際に人から受ける評価とはまた違った角度でアピールする必要があるから何とも言えないね。面接の結果採用理由が「美人だから」とは絶対にならないなんて確証はないけど、自分で長所は美人なことですとは言えないし」

 美人だから。そんな理由で高校に入れたり就職ができたりしたら大変なことだけれど、だからって百パーセントあり得ないとも言えないのはわかる。成績も同じくらい性格も大体一緒、となってくると最後は不細工と美人どちらが受け入れられるかといえば、後者の方が選ばれそうだ。

 結局見た目なんてじゃんけんのあいこを勝ちにするくらいの物だから、実力で勝敗の決まるじゃんけんではあまり役に立たない気がする。気がするけれど、私は彼の顔をもう一度見つめて、一体今の話は何を元にして話されていたのだろうと妄想する。

「要するに自分の長所が思いつかないからって気にする必要はないってことだよ。ちなみに僕の短所は慰めるのが下手なこと」

「ふふっ。ありがとうございます」

 また私は気を遣わせていたのだと気づいて反省……しなければらないのだが思わず笑ってしまった。声もそうだが、私は彼のする話が段々気に入ってきたのだ。

 

 あれからいろいろな話をした。さっき例え話で肉を食べる時のことを例に出したけど、ルナちゃんは肉と魚ならどっち派? とか。今から釣りに行こうっていうのに今の質問は意地が悪かったかもね、ごめんごめん。とか。他愛もない会話を繰り返した。

 他愛のなさは底無しで、彼はプライベートに踏み入ることは一切訊かなかったし、話さなかった。普段学校ではどうしているのかとか、そういう質問はなかった。

だから私も、どうして偽名はナズナと名乗ったんですかと、例えばそんな質問でさえ踏み込んではいけない領域に入ってしまうのではないかと憚られ、結局訊かなかった。

 終始私たちは、好きな食べ物や最近の流行りやニュースなど、当たり障りのないことばかりを話した。そして芸人についての話は、初めて会った大人の人とも共通の話題にできることを学習した。

「あれ」

 高速道路から降りた車は、一番初めに目に入ったコンビニへと立ち寄った。何を買うのだろうと思ったら、彼の飲んでいたコーヒーがほとんど空になっていることに気づいた。

「飲み物ですか」

「ついでにトイレも」

 なるほど。そういえば二時間の間お手洗いに行きたいと一度も思わなかった。釣り場の近くにコンビニや公衆トイレがあるかはわからないし、私もここで一度行っておくことにする。

「……っ!?」

 出入り口のドアを開く前から透明のガラスの向こうに、同じ服装をした二人組を見た。仲が良くてお揃いにしているわけでもなければ、そもそもそれはただの服ではない。

警察官が二名、コンビニの中を巡回していた。

「あっ」

 気づいていないのか。それとも、もう引き下がれないと判断したのか。まさか自暴自棄になったのか。何を思ったのか、私の前を行く彼はなんの躊躇いもなくドアを押し開けた。

 そのまま彼はトイレの方へと真っ直ぐ歩いていく。トイレを利用する際は一声かけてくださいとある注意書きも当然のように無視。親とはぐれないように必死になってついていく子供のように、私は彼を追った。それこそ縋るような思いだった。

 トイレは男性用と女性用に別れていて、どちらにも人は入っていなかったのですんなりと二手に別れた。個室の中で、私はなんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。吸い込む空気としてはかなり悪い部類に入るが、もはやそんなことはどうでもよかった。

 幸い過呼吸になったりはしていない。過呼吸になんて今まで一度もなったことないが、仮にそんなあからさまに異常な様を警察官へ見せてしまえば、それで一巻の終わりだ。なんとか落ち着かなくてはならない。不審に映らないようにしなければ。

 そもそも、なぜこんなところ、こんな時間帯に警察官がいるのだろう。もう夜中の零時を過ぎて日付は変わっているのに、そんな時間に一体彼らは何をしているのだろう。パトロールって本当にあって、それもこんな時間にコンビニなんかに来るの?

 もしも、もしもだ。父が私の帰らないことを心配するあまり捜索願を出していたら、警察官たちは妙な時間に出歩いている私に注目するだろう。そして私が捜索対象の子供だと判明してしまえば、そのまま家まで連れ戻される。その際に、高速道路で二時間かかる距離を短時間に一人で移動したとは考えづらいという話になり、誘拐犯としてナズナと名乗った彼も捕まってしまう。

 冗談じゃない。そんなこと御免だ。私は私の意思でここにいるのに、それを他人の意思で連れ帰られてたまるか。何も私に危害を加えていない彼を犯罪者に仕立て上げるのはもっと御免だ。冗談じゃない。

 考えろ、考えろ。どうすればいい。どうすれば自然に、わざわざ声をかけるまでもないと警官に思わせることができる。深夜のコンビニに女子中学生がいてもおかしくない理由はなんだ……。

 ……なんだ、それは。そんな理由ないじゃないか。いくら考えたって、私のような娘がこんな時間にこんな場所にいるのはおかしい。挙句に歳の離れた男と一緒だったところも見られているのだ。これでは言い逃れのしようがない。

「……いや」

 いや、待とう。冷静に考えるんだ。冷静に考えれば、そもそも仮に捜索願が出ていたとして、家出か誘拐かもわからない「行方不明」を警察が全力で探すだろうか? 小さな子供がいなくなったのならまだしも、中学三年生の子供が家に帰らないなんて、本人の意思である可能性が大いにあると、普通なら考えるのでは?

 さらに仮の考えで、警察が本気で私を探していたとしよう。しかしいくら本気と言えども、高速道路を二時間走る距離にまで捜索範囲を広げているだろうか? 考えにくいのではないか。警察に関する知識はほぼゼロなので断言はできないが、彼らはなにも私を探しに来たのではない気がする。私という家出少女もしくは誘拐被害者の存在すら知らない気がする。

 考えれば考えるほど、事態はそこまで悪くないように思えてきた。向こうが何も知らないのなら、こちらからだって何もすることはない。

 用を足して個室から出た時には、すっかり数分前の落ち着きを取り戻せていた。本来私よりも気が気じゃないはずの彼の方は、コーヒーを入れたカゴを片手にこちらに気づき次第手招きしている。

「もう一本くらい買っておいた方がいいんじゃないの? もう飲み干しそうだったじゃん」

 彼の言葉の調子が少しキツかった。今までの割れ物を扱うような柔らかい声が、少しだけ尖った気がする。やはりこの状況に内心取り乱しているのかもしれない。

 車内にあるオレンジジュースはまだ半分ほど残っていたが、一秒でも早く店をあとにするために即行で今度はレモンティーをカゴに入れる。

 会計に向かう彼の背中について行こうと体の向きを変えた時、偶然にも正面を歩いていた警察官と目が合った。

「……っ」

 咄嗟に目をそらしてしまう。不自然なほどに、視線が逃げるように首ごと動いた。

「行くぞ」

 どきりとするほど投げやりな声で言われて、思わず私は駆け足で背中を追いかける。公園で初めて彼に会った時のような恐怖が、今の瞬間ほんの少しだけ帰ってきたのだ。

 コンビニから出て車に乗り込む。早く離れたいけど、露骨に焦っていたら不審に思われる。私が誘拐されていると知らない相手でも、不審と思えば目の前の子供が物騒なことに巻き込まれていることを考えても不思議ではない。

 エンジンをかけた時だった。二人組の警察官がコンビニから出てきて、間違いなくこちらを見た。そして運転席の彼は目が合ってしまったらしい。いや、合わせさせられたのだ

 こうなってしまえば、少し待ってくれのジェスチャーを繰りだす警察官を無視するわけにはいかなかった。運転席の窓が下がっていく。

「あー、すみません」

 警察官の声が耳から入って、そのまま心臓を握った。初めてこの助手席に座った時にも似たような感覚を受けた記憶がある。

「はい?」

「一応確認なんですけど、そちらは?」

 そちらというのが何を指しているのかくらいわかるだろうと言うように、警察官は私を指差しもしなければ見もしなかった。

 死刑台に送られた気分。今目の前に、私の首へ、私たちの首へ落ちようとしているギロチンの刃が見える。何を思ったかその時私は、

「ふふっ……」

 笑ってしまった。これから自分が保護された時、何を話すのか見当もつかない。父に会ってなんと言うのかも、隣に座る彼になんと言うかも、もう私にはなにも……。

「あぁ、妹です」

 真実を語るように彼は嘘を吐いた。聞き惚れそうになるその声は私に向けていた柔らかなものとはまた違った、透き通るような爽やかさを纏っていた。

「あぁ、そうですよね。どうもありがとうございます」

「いえいえ」

 それだけのやりとりで、警察官はその場をあとにした。窓を上げて、車は駐車場から出ていく。

「いやー終わったかと思った!」

 今までに聞いたことのない若干子供らしさがある声で、窓が閉まっているのをいいことに彼は大声で叫んだ。

「わ、私も……。もうどうしようかと……」

「いやいや、ルナちゃんは素晴らしい働きをしてくれたよ。あの「誘拐事件か何かと間違われててウケるー」みたいな笑い絶妙だった」

「え、そんな笑い方してましたか」

「え? 名演技だと思ったんだけど、もしかして素?」

 素だったらなおさらすごいよなんで笑えたの、と。彼は楽し気に笑いながら言う。極度の緊張で収縮してしまったような心が和らいでいくのがわかって心地良い。

「なんとかなるものだね。日本の警察もザルだ」

「そのおかげで助かりましたよ」

「まぁね」

 深夜で交通量が少ないことも相まって、舞い上がったような彼は気持ち速度を飛ばしているように見えた。

 長所には自分でアピールできないものもある。彼の言っていたそれが、今まさに目の前で発揮されたものなのだと確かに確認した。誰も彼を見て、声を聞いて、彼が犯罪者だなんて思いもしないだろう。もちろん公園で会った時のようにシチュエーションがあからさまな場合は除くが、さっきのような場合は、彼の人たらしぶりが遺憾なく発揮される。

 コンビニを出てからはそれほど走らなかった。すぐに漁港のような場所に出たのだ。殺風景に広がる海と、少し離れた場所には大きな船が見えた。

 隅っこの方に「釣り禁止」と書かれた看板がある。しかしすでに釣りをしている人が何人かいて、彼もその仲間に加わることへ一切の迷いがないようだった。

「さあ、到着だ」

 適当な場所に車を停めた彼は運転席から降りて、後部座席に積んである荷物を下ろし始めた。私も手伝いにいく。

 私が運んだあの大きな袋の中身は、やはり釣り竿だった。実際に触ったことがないので今まで知らなかったが、釣り竿というのは存外軽い物らしい。

 持ち運び式のライトを点け、彼はしゃがみこんで手際よく準備を進めていく。いや、見ていても私には何をしているのかさっぱりわからないのだが、準備をしているのだろう。針の付いた糸をせっせといじっている。

 私は私にできることを、と折り畳み式の椅子を開いておく。すると手元に集中して糸とにらめっこしているようだった彼がこちらを振り向いて、微笑みながら「ありがとう」なんて言ってきた。

 公園で出会った時と何ら変わらない感想を抱く。彼は悪魔だ。言葉巧みに人を取り込む悪魔。そして、人間程度では悪魔に抗うことはできない。

「よし、まず一本目」

 準備の整ったらしい彼は、あらかじめ用意しておいたエサを針に付け竿を持ちあげた。持ち運べるように短くなって袋に入っていた竿は、役割を果たすために伸ばすと相当長くなるようで、テレビなどで見た物と同じような長さを誇っていた。

 勢い良くそれを振り遠くへと糸を飛ばす様を見ていると、釣り竿が武器のように見えた。針やエサは空へ溶けるように見えなくなり、代わりに夜でも見やすいようペンライトのように光る物を付けられたウキが空を飛ぶ様がよく見えた。ぼちゃん、と着水した音がついでのように聞こえる。

 何かを調整するように少しだけ糸を巻いた彼は、それだけでその竿を放置して二本目の準備へと取りかかった。

「あ、あの。私にも、何かできることはないですか……?」

 ただ彼を眺めているだけでは、サボっているようで居心地がよくなかった。けれど、私はあまり手先が器用な方ではない。何かを任せられて、それができなくても嫌だ。突発的に口にしてしまった言葉を、言ったあとから後悔し始める。

「じゃあ、次はルナちゃんが投げてみる?」

「え?」

 投げるというのは、遠くへ針やウキを飛ばすあれだろう。大きな剣のような竿を振って、魚のいる場所まで糸を飛ばす。そんなことが私にできるとは思えなかった。

「そんな、無理です。……ごめんなさい」

「そう。じゃあ、仕掛けを作り終えるまでもう少しだけ待っていてもらえるかな。退屈させちゃってごめんね」

「いえ、そんな……」

 退屈していると捉えられたのか。手持ち無沙汰という意味では同じなのかもしれないが、決して私は退屈していて、それを彼に解消してもらおうだなんて、そんなことは思っていないのに。

 彼の言葉が脳裏をよぎる。彼は必ずと言ったが、そうでなくてもいい、そうじゃない場合もあると、私は示したくなった。退屈していると捉えられたことを見返してやろうなんてことを、少しくらい考えていたかもしれない。

「……何事も、経験ですよね?」

「うん?」

「あの、やっぱりやらせてください。投げるの」

 場違いな覚悟が語気に漏れていた。しかし彼はそれを特に気にする素振りも見せず、仕掛けを作り終えたらしい竿と糸を持って立ちあがった。

「いいよ。やり方教えてあげるね」

 糸と竿を差しだしてくる彼を見て、正直者に金銀の斧を渡した女神を想像した。彼は男だが、性別うんぬん以前に、彼から神にも近いような存在感を覚えたのだ。もちろんそれの正体は神などではなく悪魔だとわかってはいるが、もはや私にはどうでもいいことだった。

 わざわざ初心者にいろいろと教えるのは面倒だろうに、なぜ彼は私を連れてきたのだろう。それを考えれば連れられた理由はともかく、言われた通りおとなしく待っていた方が迷惑をかけないで済んだのだろうか。またあれこれと言ったあとで考えるのは、今度はそれほど後悔しているというわけでもない。どちらかというと、気を紛らわしている部分が大きい。

 啖呵を切ったはいいが私は、小さな小さなその針ですら、針の付いた糸ですら、手に取るのが少し恐ろしかったのだ。

 それだけではない。ここには海への落下防止のために柵などが設置されているわけでもなく、正直に言えば際の方まで行くのは怖い。私が特に釣りに興味を持ったことがなかった理由を察した気がしたし、もしかすると父も同じかもしれない。

「もしかして、ルナちゃん海が怖い?」

 竿を持った途端に湧いてきた恐れはわかりやすく表へ出ていたらしい。恥ずかしくなり、慌てて言い繕う。

「近づくと落ちそうで怖いだけです。海自体は全然怖くなんて、ないですよ」

「そうだね。こんな真っ暗な海に落っこちたら、さぞかし怖いだろうね」

 言われて、改めて見てみると、夜の海は闇その物であるかのように暗かった。黒く見えた。波の打ちつける音が、何か恐ろしい意味を持っているような気さえした。

「どうしてそんなこと言うんですか……」

「ごめんね。でも、怖いなら無理しなくてもいいよ。落ちるのが怖いなら、ずっと後ろで座っていてくれてもいいんだから」

 まるで小さな子供を扱うかのよう。私は彼の言い草に、らしくもない熱を向けた。

「いいえ、やります」

「そう?」

 竿を持って、背後に彼を従えるようにしながら海面へと近づく。

 人生で一度も泳ぐという体験をしたことがないが、それは私に技術がなかったからであって、機会がなかったわけではない。だから足が底に着かない深さの水は怖くて仕方がないのだが、目の前の海が怖いのはそれが原因ではないようだった。浮輪をもらっても落ちるなんて御免である。

「いい? まずはね、リールのここをこうして、糸が出るようにする」

 彼は子供向け番組の工作をするコーナーのように、ゆっくりとわかりやすいように手を動かした。

リールというのは糸を巻く部分のことのようで、巻いた際にグルグルと回って動くアーチ状の部分を倒すようにしていた。仕組みはよくわからないが、その部分は糸を固定するための物らしい。

「そうしたら、人差し指に糸を引っ掛ける」

 そう言って彼が私の指に糸をかける。釣り糸は思っているよりもずっと硬く強靭そうだった。

「あとはさっき僕がやっていたように振るだけだよ。振るのと同時に指を離せば飛んで行くから」

 やっていたようにと、さも簡単に言われるがまったく成功するイメージがつかなかった。

 本来の長さとなった竿はその分重く、これを振るだけで精一杯だというのに、タイミング良く指を離すだなんて出来る気がしない。大体振ると同時にと言うが、振ったことさえない者にタイミングがわかるものなのだろうか。

「あ、あの、指を離すタイミングの、その、コツとかって」

「あぁ、慣れだよ」

 数学の教師が、しかるべき問いにしかるべき公式を当てはめることができるようになるためのコツと言って、同じことを言っていた気がする。とにかく問題を解け数をこなせ、と。正直言ってそれはコツでもなんでもないと思ったが、その時も今もそれを声に出すことはできない。

「……し、失敗とかしても、壊れたりしませんよね……?」

「しないよ。今日は人も少ないし誰にも迷惑かけないから、とりあえず思いきりやってみな」

 絶対に失敗は許されないとなるとプレッシャーは凄まじいことになるが、だからといって何度でも失敗していいよと言われたから楽になれるかというと、案外そういうわけでもない。

 いいよいいよ、もう一度挑戦してみようか。それとも、もうやめる? したい方を選んでいいよ、好きな風にしていいよ。いくらそう言われたとしても、それで全てが救われるわけではないのだ。そう、相手が私と友好的になろうとしているからといって、必ずしも仲良くなれるとは限らないように。

「い、いきます」

 背負うようにして竿を持ち、大剣で竜でも切り裂こうとするかの如く思いきり振る。振り降ろすに近い勢いで振る。

 私としては、正しいと思ったタイミングで人差し指から糸を離したのだ。それによってもたらされた結果は、目の前の水面に叩きつけられるように落下したウキと、さっき聞いたよりも随分と近い「ばしゃん」という着水音だった。

「僕も初めはそんな感じだった」

 後ろから手を回した彼が、微妙に伸びてしまった糸をリールを巻いて適切な長さになるまで回収した。彼が私の手に自分の手を被せるようにしてリールを巻いたからどきりとしたが、それはたぶん失敗したことへの恥ずかしさが存分に残っていたからだ。吊り橋効果的な物かもしれない。

「もう一回やってみようよ。……それとも、やっぱりやめておく?」

 なんとなくわかっていた通り、彼は私の選択権を尊重してくれる。私に釣りの投げ方を教えに来たわけではないだろうに、私がやりたいと言えばそれだけで、言い続ければそれだけで受け入れてくれる。そんな気がする。

 そして同時に、もうやめたいと言えば何も言わずにやめさせてくれるだろう。自分を中心に動いてくれそうな気がするなんて、思い上がりも甚だしい話だろうけど、彼が私を思い上がらせるのだ。

「もう一回お願いします」

「どうぞ」

 もう一度竿を持ち上げ、さっきとは違うタイミングで指を離すことを意識する。……が、タイミングの差には一秒もないだろうし、そんなシビアなことを意識するだけで出来れば苦労はしないし、何より具体的にどこで離せばいいかなんてことは意識できなかった。

 結局、二投目も結果は変わらなかった。ばしゃんと鳴る水音が嘲笑する声に聞こえた。

「役に立つかはわからないけれど、僕から一つアドバイスをしてもいいかな」

 糸を巻く私に彼が言った。なんだか私のためを思っていてくれるようで嬉しかった。

「ルナちゃんは、遠くの方まで糸を飛ばそうとしているよね?」

「はい……」

 それは当然そうだ。けれども飛ばない。思った通りにできない。ただ一つの動作を思う通りにできないことが、ここまでつらく感じることは今までそうそうなかった。

「遠くっていうのは、海のことだよね」

「……? はい、そうですけど……」

「僕も初めは上手く投げられなくてね、その時思ったんだ。遠くの水面へ落としたいのに目の前の水面へ落ちてしまうのなら、さらに遠くへ飛ばそうと思って投げれば、結果的には丁度良いところに落ちるんじゃないかって」

 そう言って彼は野球選手がバットでホームランを予告するように、人差し指で空を指した。海と同じように真っ暗な夜空を。

 ……いや、違った。彼は続けて言った。

「だから僕は、月まで投げるつもりでやった」

「月……」

 今日の月は満月とまではいかなくても、それなりに丸に近い形をしていた。あの月まで届けだなんて、言っては悪いが「鳥になりたい」と同じくらいに陳腐だ。

 けれど、私も月まで投げるつもりでやってみようと思った。彼が言うのだからやってみようと、そう思えたのだ。

「やってみます」

 竿を持ち上げ、改めて思えば自分は二回とも無意識に水平線を見ていたことに気がついた。今度はもう少し上を見る。

 あの月まで飛ばすように。実際に届くわけがないことはわかっていても、それでも、気持ちだけでも飛ばすように。私は思いきり竿を振り、糸から指を離した。

 ビュッ、と風を切る音がした。続いてリールに巻かれた糸がすごい速さで回転する音が聞こえる。ハッとして月から目を離し前を見ると、遠く離れた水面にウキが落ちた。

 ぼちゃんと遠くから聞こえた水の音が、私を祝って拍手しているように聞こえた。

「おめでとう!」

 実際、隣で彼が小さく手を打っていた。単純に成功したことも、彼に褒められたような気がしたことも、この時の全てが嬉しかった。

 けれど私は、その感情を上手く表現する方法を知らなかった。湧き上がる喜びがあるのに、それをどう扱っていいのかがわからない。こんな感覚もそうそうないか、もしくは初めてだったかもしれない。

「えへへ……」

 結局抑えきれなかった感情はそのままのニュアンスで笑いとして外へ出てしまい、次の瞬間には、気色の悪い様を見せつけてしまったかもしれないと不安になった。

 しかし彼を見てみると、むしろ向こうの方が嬉しそうなくらいだった。

「いやー、今のアドバイスが本当に役に立ったのかはわからないけど、それでもなんだか嬉しいね。僕と同じ方法で投げられるようになったとなると」

 彼の声は感情がこもって跳ねるようで。私もあれくらい素直に喜びを表現できればいいのに。そうは思っても、実際はただ勝手に笑みが溢れてくるだけだった。

 

 私の投げた物を含め二本の竿を投げたあとは、地面にそれを置いてただ魚が来るのを待つのみだった。

 二つあるうちの椅子の一つに座った彼は、言葉でも仕草でも示しはしなかったが、それでも私に座れと言っている気がした。

「釣りが嫌いな人は待つのが嫌いらしいんだ。退屈だから」

 座って海を見つめたまま、きっとウキを見つめたまま彼が話しだす。運転席で前を見ながら話す姿によく似ていた。

「待ったからこその喜びっていうのはあると思うんだけど、それは結果論なんだよね。釣れたっていう喜びは待った時間を忘れさせるくらい大きいけど、僕は何も忘れるために待っているわけじゃない」

 椅子に座っていると竿を投げた時よりも海からは離れているので、もし落ちてしまったらなんて考えて怖くなることもない。波の音も心地よく聞こえる。我ながら都合の良いものだ。

 二、三人だけいる他の釣り人は、私たちとはかなり離れた位置に陣取っている。少しだけの電灯と月明り、暗闇と波の音だけがある世界で、ほとんど私たちは二人きりだった。

「何が言いたいかというとね、僕はルナちゃんを退屈させたくない」

 今までならそれは、私に気を遣っていてくれているように聞こえていたはず。なぜそんな、本来必要のないことをするのだろうと思っていたが、その答えがわかったかもしれない。

 今の彼は明らかに自分の意思で、私を退屈させることを好ましくないと思っている。気を遣っているのではなく、私を退屈させることを本人の価値観が許さないらしい。

「でも、もうしりとりは御免なんだ」

 笑いながらそう言う彼につられて、私も思わず笑ってしまった。たしかにあれはもう御免だ。あれっきりでいい。

「あの、もし良ければ、訊いてもいいですか……?」

「なに?」

 良ければというのは、ひょっとすると雑談に付き合ってもらっても良いならという意味で受け取られたかもしれない。そうだとしても引き下がることはできないけれど。

「……どうして、私を攫ったんですか」

 はっきりと音が聞こえるくらい大きな風が吹いた。一際強く打ちつけられた波がつられるようにして音を立てる。

 それきり、沈黙が場を制した。目に見える物ではないのに、静かなことと暗いことは似ている気がした。夜空も海も、静かだと言える程度の音しか発さない。

「話し相手が欲しかった」

 ぽつりと、糸を垂らすように彼が言った。

「いつも釣りには一人で来るんだけど、その度に寂しくなる。だからルナちゃんを連れてきた」

「いつもってことは、今まではそれでも一人で来ていたんですよね。どうして急に……?」

 海面に浮かぶ二つのウキは波に揺られてゆらゆらと動いて、たまに倒れては達磨のように起き上がるのを繰り返している。私はまだ、魚が釣れた時あれがどう動くのかを知らない。

「好きな人が死んだ」

 言葉に現実味がないと、すぐには意味を飲み込むことができない。

「だからもう、どうにでもなればいいと思った」

「……なにがあったんですか」

 ふぅー、と彼は大きく長く息を吐く。そろそろ秋が近いこともあり真夜中の海は寒いけれど、彼の吐く息が白くなるほどではい。

「面白い話じゃないよ」

 と前置きした彼は、それで話すことをやめる気はなさそうだった。

「僕の勤めているところは中々にブラックなところでね。これから社会に出ていくルナちゃんに言っておくと、そういう会社に入ってしまったらさっさと逃げることをおすすめするよ」

 相槌に困っている私をよそに。いや、わかっていてなお気にせずに。彼は話を続ける。

「同僚に好きな女性がいたんだ。恋愛としての意味で好きだったよ。告白なんてする勇気はなかったから愛していたとは言えないだろうし、少なくとも愛し合っていたなんてことはあり得ないけどね。

 ……つい先週、彼女は過労で死んだ。あとを追って死のうと思うほど、僕は彼女を好いていなかったらしい。けれども、すぐに立ち直れるほどでもなかった。中途半端だね」

 彼は一度もこちらを向かない、私の顔を見ない。だから私も彼の顔を見ることができない。表情が見えない。ただ波に揺れるウキを見つめているだけだ。

「だから、そういう意味での寂しさもあったかもね。自暴自棄もあった」

「な、ナズナさんは」

 呼び慣れない名前を、本人さえ慣れることがないであろう偽名を、私は迷いなく呼んだ。

どうしても訊きたかった。言葉は詰まったが、それをそのまま飲み込む気は一切なかった。私は、落ちてしまえば死の世界まで落下し続けるであろう海が、突然怖くなったのだ。

「ナズナさんは大丈夫なんですか。あなたまで、過労で死んでしまったら」

 死んでしまったら、なんだろう……? 悲しむ人がいる? それは誰のことだろう。私は彼が死ねば悲しむのだろうか。私は、自分の目に見えぬ間所で彼が死ねばそのことに気づくのだろうか。

「大丈夫だよ」

 常にそうであったように、優し気な柔らかい声で彼は答えた。けれど、そこにいつもの微笑みはなかった。

「僕はなぜだか上司に気に入られてね。一応死にはしない程度の立場になっているよ。地位という意味ではなくてね」

 ホッと胸をなで下ろしはしなかった。そうすることはできなかった。なぜだかはわからないが、私は彼を心配したのに、それを上手く認めることができない。なぜ心配したのだろう、なぜ今そんなことを訊いたのだろう、そういった思いが巡るばかりで、本質的なことに集中できない。

 私は、私が今何を想い何を考えているのかがわからない。ただ、怖かった。

「けれど彼女は違った。会社が悪いことを差し引いても、彼女は無能だった。だから死んだ。僕は人を好きになるのに、仕事ができるかという部分を価値として見なかった。……もう、どうにでもなればいいと思った」

 突然、彼がこちらを向いた。私の顔を見て微笑んだ。

「と、まぁ暗く話そうとすればこんな風になる。それがルナちゃんを攫った理由だよ。ただ実際はもう開き直ってきちゃって、そこまで落ち込んでいるわけじゃないんだ」

 好きだった人を失って、間接的とはいえ彼女を殺したとも言える人の下で働いて、どうにでもなってしまえと自暴自棄になった彼は、私を攫った。寂しかったから。一人で釣りに行くのは、寂しかったから。

 なにも、その女性と釣りに行っていたわけではないだろう。話を聞く限りそれほど親しい関係だったとも思えないし、もしかしたら二人きりで話したことさえなかったのかもしれない。そのあたりが実際どのようなものだったのかはわからず訊く気も起きないが、それでも彼は彼女のことが好きだった。それだけは確かだ。

 しかし、私は彼女の代わりとされたわけではない。自暴自棄を理由とした彼が、寂しさを解決するために私を攫ったというのは、何かがズレている気がする。

「……でも、私を彼女の代わりにしたいわけじゃない。……ですよね? 歳だって離れているだろうし、代わりなんて務まるはずがない。なのにどうして私を攫ったんですか。自暴自棄でも、意味のないことはしないでしょう」

 私が仮に二十歳を過ぎて、彼と同い年くらいだったとして、どこかしらがその女性に似ているのだというのなら、あの時公園で攫われたことにも納得できる。しかし実際は違うのだ。

「ルナちゃんは、自分がここへ連れてこられた理由が知りたいの?」

 ふと、我に帰った気がした。彼の話に満足すれば、それで私は気が済むのだろうか。済むってなんの気がなのだろう。理由を知ってどうしようと言うのだろう。納得しなければ受け入れられないほど、私は不都合な理不尽に遭っているわけではない。

「自暴自棄になっているだけじゃあ理由にならないじゃないかと、僕に言うんだね」

 ……納得したいわけじゃない。ただ知りたいだけだ。理屈抜きで馬鹿馬鹿しく単純に、私はただ彼のことが知りたい。そう思っている。もはや引く選択肢はない。その結果私がどうなろうとも。

 もう私の耳には、風や波の音は入らなかった。

「そうです。私が納得できるように説明してください」

 ふふっ、と彼は笑った。愉快だという風に笑った。

「いいよ。出来る限り努力する。でも、本当に理由は今話したことなんだよ?」

 彼の声は依然として優しく、表情には微笑みも戻っていた。そして、私の方を見てくれるようにもなった。

「どうにでもなればいいと思ったから、僕は会社でそのまま働くことも苦じゃなかった。彼女を殺したとも言える上司に、これっぽっちの恨みも湧かなかった。その上司がどうなろうと、どうもならなかろうと、僕が働いて生きようが引きこもって死のうが、そのどこにも意味はないように思えたから。だって彼女はもう死んだんだ、そうだろう? 今さら何をしても変わらないよ」

 ひどく投げやりで、退廃的で、なおかつ現実的。彼の言葉には理性そのもののような少しの狂気が宿っていて、およそ感情なんて無いように思えた。つい数分前の、私が釣竿を上手く扱えた時に存在していた彼とは別人のようだ。

 続けて彼は言う。

「だから、ただ寂しくなったって理由だけでルナちゃんをここへ連れてきた。本当にただ寂しくなっただけ。ひどい言い方をすれば、女性なら誰でも良かった」

 誰でもとは言っても、性別にはこだわるところが、どうも亡くなった彼女から離れられていない気がする。先週亡くなった人の死を受け入れ、過去として封じ込めろというのは無茶な話だけれども。

「もちろん警察に捕まってもよかった。それで職を失っても、なんでもよかったんだ。誰かに殺されるでも、まぁ今の間はよかったんだと言えるね。死ぬ間際になって同じことを言えるかはさすがにわからないけれど。とにかく、僕はその場の欲だけで生きようと思ったんだ」

 直接言われるとなおのことだが、言われる前からなんとなくわかっていた。彼が私を逃がしてしまうことをまったく恐れていないようだったのは、本当に恐れていなかったからだ。

 今の状態の彼を指すに的確な言葉は、死に場所を探している、であるような気がする。ほんの数分前まで、私には彼が悪魔にも神にも見えていたのに。

 彼は、私と同じく人間だった。私は死に場所を探しているわけではないけれど、彼もそうであるように人間以外にはなることができない。俗な人間であることしかできない。

「だから、ちょうどよく人気の無い場所で一人座り込んでいた私を狙ったんですね」

「その通り」

「……嘘つき」

 彼が目を剥いた。初めて見る表情だったけれど、私は大して気に留めなかった。

 やがて彼は、自分自身に確かめるように、呟くに近い声で言った。

「嘘なんて言ってない」

「ならどうして優しくするんですか」

 自分の声が、驚くほど感情の感じられない物になっている。私の心は視界に入る穏やかな波のようには安定していないのに、存在しているはずの多種多様な感情は、全て声に乗ることなく封じ込められた。

「どうなってもいいから、一時の寂しさを紛らわせることが出来ればなんでもよかったのなら、もっと強引に攫ってしまえばいいのに。どうして、少なくとも会話の通じる人格者を装うように話しかけてきて、脅しなんか一切せずに、全部私の意思に任せるようなことを。全ての権利を私に渡すようなことをして、なぜ自分の我を通さなかったんですか」

 今なら言える。あの時私が、嫌だ絶対に行きたくない誰か助けてと叫べば、きっと彼は無理矢理車まで連れて行きはしなかった。車を降りた私が走って逃げれば、きっと本気で追いかけなんかしなかった。

 本当に全てがどうでもいいと感じていて、後先考えずに事を進めるなら、彼は自らの人たらしのような部分を見せる必要なんてなかったのに。それでも彼は、あくまで人格者のままだった。彼よりもマトモではない人格を持った会話の通じない人なんて、私の通う学校内でさえ探せばいくらか出てくるだろう。

「それはルナちゃんがルナちゃんだったからだよ」

 彼は楽しそうに笑った。ちらと私を見ると、すぐに暗い海に漂うウキへ視線を戻した。

 ウキは取りつけられたペンライトのような物の放つ光で、暗闇の中ぽつんと目立っている。次の瞬間にその光が消えてしまっても、それと同時にウキ自体まで消えてしまっても、何も不思議なことではない気がしてくる。

「あんな暗い顔して、自殺でも図ってるんじゃないかと思った。僕は丁度良い人を、釣りについて来てくれるもしくは、とりあえず社会的に僕を殺してくれる人を探してあの公園へ行ったけど。正直、自分よりも危ない人を見つけたと直感したよ」

 今はだいぶ良くなったけどね、と彼はまた笑って言った。

 公園のブランコに座っていた時のことを、私はもう詳しく憶えていない。家に帰りたくなかったことは憶えているが、父の再婚相手を受け入れられないこと、家に居場所がないように感じることが、私を死に追いやりそうだったかは憶えていない。

 少なくとも私は彼を恐れるあまりに無抵抗で車に乗り込んだ時、死にたくないと考えていたはずだ。もっと贅沢を言うならひどい目にも遭いたくないと思っていた。彼があくまで人格者を貫き通してくれていたにも関わらず、そんなことを思っていたことは憶えている。

「そんな顔していましたか、私」

「してたね。隣に首を吊る縄でも吊り下げられていたら慌てて突き飛ばすところだった」

 それは、座っていた人がどんな顔をしていたとしても、とりあえず慌てて駆け寄るでしょう。そう言うと彼がそれもそうだと笑うので、私もつられて笑った。

 そして笑い声が冷えた空気に溶けてなくなり静寂が浮き彫りになった時、彼はどこを見ることもなく言う。海でも、私でも、月でも、地面でもないどこかを見て。

「僕は誰でもいいと思って公園に行ったけど、そこで確かにルナちゃんを選んだよ。君を助けたい。もし何か困っていることがあるのなら、こんな不審者にしろというのもおかしな話だけれど、それでも悩みを話してほしい」

 人は、生きていた方がいいからね。そう言う彼が見ていたのは、この世にあるものではなかったのかもしれない。私の目に映る全て以外の、彼にしか見えないものを見ていたのかもしれない。それは彼の中にしかないものだ。

「自分を攫った人にするのもおかしな話ですが……話してもいいですか」

 隣に座る彼が頷く様が、視界の端に見えた。一向に魚が釣れる様子はない。

 深呼吸を一つして、それからなんとなくもう一度息を吸って、改まったような儀式を行ったばかりに話し始めるタイミングを失ったことに気づく。私は空を見上げて、気持ちだけ月に話しかけるようにして口を開いた。

「幼い頃に両親が離婚しました。母が出ていき、私は父と暮らすようになりました。母がいなくなったことは寂しかったけれど、父のことも大好きだったのでどうしようもなく悲しくなることはありませんでした」

 彼は言葉でも仕草でも相槌を打たなかったが、不思議と聞いてくれていることは伝わってきた。相槌のないことは話の続きを促す意味のように思えて、私はそのまま話し続けた。

「半年ほど前に父が再婚しました。再婚相手の女性は優しくて、私という彼女自身とは微妙な関係にある人間に、深い理解を示してくれました。……それが嫌だった」

 月を見上げていた私の視線は、自然と首ごと下へ下へと降りていき、最後には地面に縛られたようになって動かなくなった。声が震えている。

「高価な割れ物を扱うようにして私に接する彼女が、それ故に他人にしか見れなかった。常に赤の他人が私の家に上がり込んで、父と親しくしているように思えた。私だけが取り残されている気がして、ずっと他人の目で監視されている気がして、家にいても落ち着かなくなった。居場所がないと思った」

 震える声は涙を落とすための物でもなく、そこに悲しみなどの感情は一切なかった。父と二人きりで、仕事が早く終わった日かたまの休日くらいにしかゆっくり話すことのできなかった日々が、泣きたくなるほど懐かしく愛おしいことは否定しないけれど。

 それでも私が持っている感情は怒りに近い嫌悪感だった。私を再婚相手の連れ子だとは認めても、自分の娘だと認める気のない彼女を相手に、こちらの方から母と認めろというのがおかしな話だろう。

「それに、いろんな人が私のことを心配するんです。同情して、できるだけ傷つけず、むしろ癒してあげなきゃって、私のことを心配するんです。家庭の事情がいろいろあるのは大変だね、つらいことがあったら無理せずに言うんだよって……学校の先生や友達なんかまで言うんです。先生や友達初めて会った時にはすでに両親は離婚していて、私は母のいない家庭で育ってきた娘だったのに。まるで目の前で悲惨な出来事があったかのように心配するんです。大丈夫か、無理するなって、もう私は何年も、言われる前から同じ生活をしているのに。……それに、そんなの父への侮辱じゃないですか。私はちゃんと幸せだったのに」

 自分でも驚くほどスラスラと、台本でも用意していたのではないかというペースで言葉が紡げる。ふと我に帰るように顔を上げて彼の方を見ると、彼の顔も私の方を向いていた。こちらを見ているというより、見つめているとまで言えそうなくらい、真剣に私のことを見ていた。

「……まだあるなら、全部吐きだしていいよ」

 まるで、私が今まで様々なことを無理に溜めこんで、我慢しては自分を苦しめていたかのような言い草。今まで関わってきた人のほとんどが同じように、無理せずになんでも話してくれと言ってきた。

 私はそれが気に食わなかった。何もわかっていない人にそんなことを言われれば当然不快に思うし、父のことを侮辱されている気がしたからなおさら。それに何より会う人全てが、私の話を真剣に聞けるほどの覚悟と能力を持っているとも思えなかった。

 だから今彼に、全部吐きだしていいと言われて本当に嬉しかった。私は父を除けば誰よりも、目の前の男性を信用する。

「……彼女まで、再婚相手の彼女まで、私に同じことを言ってきたんです。ごめんねって、瑠奈ちゃんと仲良くできるように頑張るから、わたしにできることがあったら教えてねって、私に言ってくるんです。何様なんでしょうか」

 ふつふつと怒りが湧いてくる。長い間どす黒く煮え続けたそれは、もう誰にも制御できる物ではない。

「割れ物のように扱われる以前に私が一度でも、私を産んだ母のことしか母親とは認めないだなんて言いましたか。あなたのことを認めないだなんて言いましたか。再婚なんて嫌だ、あんたなんか嫌いだって、一度でも口にしたことがありましたか。ありません。だってそんなこと思ってもないんですから。それなのにどうして、私がつらいって決めつけるんですか。かわいそうだと勝手に思いこむんですか。それで同情するかのように、できることがあったらなんでもって、本当に何様のつもりで言って……。 そんなに私に嫌われたいのなら、私のことが嫌いだと言えばいいのに、邪魔だと一言言えばいいのに!」

 言われた通りにしたかったわけではないが、結果として私の声は吐きだすような、吐き捨てるような大声になっていた。数少ない釣り人たちがさすがに注目する。

 けれど、そんな周囲の視線なんて気にならなかった。元々私が隣にいる男に攫われてここへ来ただなんて、気づきもしないどころか思いつきもしないだろう彼らの視線なんて、あろうとなかろうと大差はないのだ。

 ただ私が意識を集中させるのは、その隣にいる彼にのみだ。

「……月並みな言葉しか使えなくて申し訳ないけど、……つらかったね」

 心の迷いがわかりやすく手に現れて、ふらふらと彼の手の平は宙を舞っている。それが最後には決心でもついたのか、私の頭の上に乗せられた。

 高価な物を扱うように、彼は恐る恐る私の頭を撫でてくれた。丁寧で、臆病な手だった。

「ごめん。なんとなくそうしなきゃって思って、そのまま本能に従ってしまった。不快にさせてたなら」

「謝る必要なんかないです。……ありがとうございます」

 いっそ抱きしめるくらいされても、私は怒る気になるどころか身を任せていただろう。きっと過去の私はそれを信じられないと言うだろう。

 彼の恐ろしいくらいに不自然で寛大な優しさが、私はすっかり気に入ってしまっていて、入り浸りたい気分になっていた。

 夏の終わりかけ、秋はまだ訪れたとも言えない微妙な時期。それなりに冷える夜の空気の冷たさなんて感じなくなっていた時、たしかにその音は凍てつくような温度を持って現れた。

 ガタッ、と一本の竿が動いたのだ。地面と擦れ合うその音で、私は夜の海の寒さを思いだした。それは凍えるほどのものではないが、突然のその音に、驚かそうという意思を持っているかのようだったその音に、私の心臓は確かに一度握り潰されかけたのだ。

 見ると、海面から二本投げた竿のうちの一本の存在を示す物が、ウキとそれに取りつけられた光が綺麗さっぱり消えていた。

「来たっ」

 彼は慌てて立ちあがると、海に引きずり込まれそうだった竿を素早く押さえ持ちあげた。そして、私を目配せで呼ぶのだ。

 彼の動きその物全てが急かしているような気がして、慌てて隣まで駆け寄ると信じられないことを言われた。

「ルナちゃん釣って」

「えっ?」

 有無を言わさず渡された竿を、一瞬のうちに起こった感情を言葉にする前に受け取ってしまった。

「手、離すよ」

「えっ、えっ」

 握っていた彼の手が離されると、竿は恐ろしい重さを持って海の方へと引き寄せられて行く。

「ひっ、ちょっと、助けてください……!」

 我ながら情けないことに、声だけで言えばすでにほとんど泣いていた。

 もう一度彼が竿を握ると、その力が加わった分竿はいくらか軽くなった。けれども、依然として先端は折れそうなくらいにしなっている。失敗しても壊れないと言っていたのが、糸を投げて飛ばすこと以外にも適用されるのだろうかと、若干ズレた心配をしてしまう。

「ゆっくり糸を巻いて。できる限りでいいから」

 言われた通りにリールを巻こうとするが、それがまた恐ろしく重い。釣り針に鉄球でも吊り下げられているんじゃないかと思えるほどに、リールはほとんど動かすことができない。

 それでも奮闘していると少しずつ、本当に少しずつだが巻くことができた。針にかかった魚が右へ左へと死の物狂いで泳いでいるのが、その間に十分すぎるほど伝わってきた。

 これまで私は針にかかった魚の重さも知らなければ、捕食者に捕らえられる寸前の生物がどれほどもがくのかも知らなかったのだ。リールの重さにくじけそうになりながら、私は腕力の無さ以外にも無力さを感じた。

 だんだんと水面に垂れた糸が近づいてくる。暗い海の中で暴れまわっている魚を捕らえて離さない針が、この糸の先に沈んでいるのだ。私は今、感じたことのない興奮を覚えている。

 ばしゃばしゃっ、と。何かが思いきり水を叩く音がした。それを認識した瞬間、竿自体が一層重くなったような気がする。いや実際重くなっていたのだ、浮力を失ったのだから。

「よいしょ」

 竿を握っていてくれた彼の腕が、最後に魚のついたそれを思いきり上に振り上げるようにして陸に引き上げた。

 叩きつけられるように、同時に引きずられるようにして我々が踏みしめる地面へと打ちあげられたそれは、私の知っている一般的な魚の形ではなかった。

「ひゃっ、なんですかこれ、ウナギ!?」

「アナゴだね」

 あぁ、そういえばウナギは川にいたような気もする。いや、シャケのように海と川とを行ったり来たりするのだったか……? なんにせよ、彼がアナゴというのだからアナゴなのだろう。釣りに関する全てのことはどう考えても彼の方が詳しい。

 ただ、アナゴにせよウナギにせよ見た目に大差はない。名前しか聞いたことのない海ヘビという生物がいるらしいが、私から見れば今釣れた生物も海ヘビと形容せざるを得ない。ヘビは、苦手だ。

「夏も終わりだと思ってたけど、まだ釣れるんだね。大物だよ」

 喜々としてアナゴが飲み込んだ針を外そうと奮闘する彼の陰から、びたびたとのたうち回る気色の悪い姿が見える。ヘビと違ってヌメりがあるらしく、彼の手元を照らすライトを反射して妖しく光っていた。

「あ、アナゴって、食べれるんですよね」

「そうだよ。ルナちゃんお手柄だね!」

 嬉しそうだった。針を外すことに成功した彼はビニール袋にアナゴを入れて、口を縛ってクーラーボックスに入れた。その時に見えた横顔が、子供みたいな笑顔を浮かべていた。

 私も嬉しい。褒められたからではない。彼のその表情を見られたことが、ただ嬉しかった。

「もう帰ろうか」

「えっ?」

 まだ何も釣れていない方の竿を巻きながら、ここへ来てから一時間経ったかもわからないのに彼はそう言う。私は釣りのことは何も知らないが、素人ながらに勿体ないと思った。

「いいんですか。せっかく釣れて、まだ時間もありそうなのに」

「一匹が早々に釣れたからって、二匹目がすぐに釣れるってわけじゃあないからね。オカルト的な経験論を言わせてもらえば、こういう時二匹目は大体来ない」

「そうなんですか……」

 一匹目を釣り上げ、二匹目も今に来るだろうと待つ彼の姿を、何時間も一人で待つ彼の姿を想い描いた。寂しいと言っていたのもわかる気がする。

「それに、早めに帰ればルナちゃんに食べさせてあげられるよ」

「え、いいんですか」

「当然さ。釣ったのはルナちゃんだよ?」

 そんなことはない。あれを私が釣ったと言ってしまえば手柄泥棒もいいところだ。皿をテーブルに置いただけで、この料理は私が作りましたと言うのと同じだ。

「そんな、私は何も」

「まぁそう言わずに」

 私はヘビの類が、形状がそれに似た生き物が全て苦手だが、だからといって食べられないわけではない。むしろ好んで食べる。例えば、調理され白米の上に乗せられて出てくるウナギは、もう原型を留めていないのだから。それはもう元の姿とはまったく別の物だ。

「……じゃあ、いいですか?」

 そうして私たちは荷物を全て片付け車に積み込み、あっという間に漁港のような釣り場をあとにしたのだった。

 そうしようと思えばスマホでも見られたものの、特に見る必要もないかなと思っていた時計は車内に搭載されていて勝手に目に入った。一時間と少し滞在していたらしい。

 それを見た彼は、一時間でこんな大物が釣れるなんて滅多にないと言って、冗談混じりに私を崇めた。もちろん私は笑ってそれを否定するのだが、正直悪い気はしなかった。

 高速道路に乗った車内でまだ残っていたお菓子を食べながら、ふと彼が言った。

「いやーしかし、自分が女子高生に悩み相談みたいなことをするとは思わなかった。聞く気しかなかったよ」

 相談だなんて、そんな大それたことはなかっただろう。もし相談されることがあったのなら、そっちの方がよかった。彼の抱える問題は、傷は、もうとっくに巻き戻せないところまで来てしまっていたのだから。少しも救える可能性がないというのは、可能性があれば救えたのかという問いの答えに関係なく痛く悲しい。

 が、それよりも、いやそれよりもと言ってしまっては悪いが、それでも重大な勘違いが発生していることに気づいてしまった。

「え、あの、私まだ中学卒業してませんよ」

「えっ!?」

 彼の驚きようは予想外に凄まじかった。感情と腕の動きが連動していたら、今の瞬間に間違いなく事故が起こっていただろう。

「え、まだ中学生?」

「はい」

「そうか、女子中学生を攫ったのか僕は。大罪だな」

 誘拐は相手の歳に関係なく結構な罪である。犯罪である。いくら大目に見ても罪の重さが変わってくるラインは未成年か否かであるだろうし、私が中学を卒業していようがいなかろうが、どちらにせよ大罪だ。

 けれどそれはまぁ、法律と一般的な倫理観の話であって。私は彼が罪を犯したとは思わない。犯罪者だというのは、さすがに否定することまではできないけれど。

「高校生だと思ってたんですね。公園で会った時から」

「あぁ、思っていたとも。だから警察にも妹だと言った。中学生の妹がいるとなると、若干歳が離れすぎじゃないかと今になって思うよ」

 その点は特に問題ないだろう。二十代の兄や姉を持つ中学生なんてごまんといるだろうし、彼が見た目だけでそう判断したのなら、警察だって私を高校生だと見ていたかもしれない。どちらにせよもう切り抜けた試練だ。……いや、帰り道も注意は必要だけれど。

「大人びて見える、という意味なら初めて言われました」

「他の意味で高校生に見えると言われたことが?」

「ありませんよ。初めてです」

 高校生に見えるかどうかに関わらず、今までの人生で大人びて見えると言われたことは一度もなかった。だから私も彼の勘違いには驚いたのだが、思えば素性を知らずに関わり合った人なんて今までにいなかったのだし、人間の心は基本的に見えない。今までにもどこか道ですれ違った人が、彼と同じ勘違いをしていたかもしれない。

 それにもし本当に私が大人びて見えるのなら、今までそう言われてこなかったことは幸運なことだ。親や先生や友達にそんなことを言われたら反応に困るじゃないか。

「まぁ、どっちにせよ未成年誘拐だ。今さら何も変わらないでしょう」

「自分で言うんですね」

 二人で笑った。

 

 途中パーキングエリアで仮眠を取ったりしながらも、日が昇る前に私たちは帰ってきた。どこに帰ってきたかって、もちろん彼の住むアパートに。これからアナゴを捌くそうだ。

 できるだけ台所を、特にまな板付近を見ないようにした。どこかしらのタイミングで彼も私がアナゴの見た目を苦手としていることに気づいたらしく、なんとなく気を遣ってくれているのがわかった。

 結局は、もしかしてアナゴ苦手と直接訊かれたが、味は好きですと答えると正しく伝わったようで。スマホで捌き方を調べながら黙々と包丁を動かす彼を背にして、私はテレビのリモコンを握る。

「テレビ見てもいいですか」

「いいよ」

 二つ返事で許可された。一度目にこの家に来た時は、テレビを見ようだなんて思いもしなかっただろうなと感慨のような物に浸りながら電源を入れる。

 番組表で調べると、ニュース番組が始まるまでにはまだ時間があるらしい。あのいつからか始まり、朝起きて見た時には常に途中からだったニュース番組が始まる前の時間に遭遇するとは想像したこともなかった。

「ニュースはまだやってないでしょ?」

 まな板から目を離さずに彼が言うので驚いた。お見通しだったらしい。あんなに獲物を捌くことに真剣になっていたのに、いつの間に私のことを見ていたのだろう。

「大事になっていなければいいんですけどね」

「そういう方向でちやほやされるのは嫌い?」

 あなたの心配をしているんです。そう口にしかけて、やっぱりやめる。わざわざ言って何になるのかって話だ。

「えぇ、経験はないけど、たぶん嫌いです」

「そうなっちゃってたら、ごめんね」

「じゃあ、これから食べさせてもらうアナゴは慰謝料前払いということにしますか?」

 ふふっ、と笑いながらも彼は背を向けたまま。今のところテレビから興味を失った私は、その背中ばかりを見つめている。最近のアイドルなんかがそうであるように、彼は特別体格がいいわけでもない。

 けれど、それでも私なんかよりはずっと力強かった。竿を持つ彼の手は、必死に糸を巻いたあの時、唯一頼れる存在だったのだ。

 よっしゃ捌けたと、達成感と疲労感が半々くらいの声で彼が言い、まな板から少し離れた。ずっと彼を見ていた私の視線は、そのままうっかりまな板を視界に収めてしまう。水っぽい赤と、アナゴらしき物に突き刺さるアイスピックのような物が見えた。

 慌てて視界を床でいっぱいにする。その間にも彼は調理を進め、どうやら煮ることにするようだった。

「捌けたから、あとは火を通すだけだよ。煮アナゴまで少々お待ちを」

 彼の口調が浮かれ気味で、少し楽しくなってきた。それと台所の蛇口から水が流れる音を聞いて、もうあのグロテスクな光景ともお別れだと思うとなお楽しい。

 けれども、料理が出てくるのを待っている時間というのは、私に非常に複雑な感情を抱かせる。父が再婚するまで食事はほとんど私が作り、休日父に時間がある時は私が待つ側になる。それが習慣だったのだ。そう、再婚するまでは、そうだった。

 ここ半年、料理は全て再婚相手の彼女が作っている。平日も休日も朝も昼も夜も、全てだ。私が父の朝食とお弁当を作ることもなくなった。何より、父は料理をしなくなった。あの女は聖域を犯したのだ。

 彼が煮アナゴを持ってくるのが楽しみな反面、嫌なことも次々に思いだす。実に複雑な気分だった。

「暇そうなルナちゃんにクイズです」

 唐突に彼がそんなことを言い始めた。暇しているわけでもなかったが、せっかくなので乗っかっておく。

「ウナギやアナゴには刺身がありません。なぜでしょう」

「生のままだと血に毒があるからですよね」

 以前テレビでそんな話を聞いた。シイタケなんかも生のままだと毒があるとかで、それなりに驚いた記憶がある。

 ところが彼は、私がその情報をテレビで聞いた時以上に驚いた顔をしている。まさか正解を知らずにクイズを始めたんじゃないかと疑ったが、さすがにそんなことはなかった。

「最近の中学生は物知りだねぇ」

「偶然テレビで見ただけですよ」

 答えられないだろうと思っていたクイズに即答され機嫌を損ねたのか、彼はアナゴを煮ている鍋に視線を落としてしまった。……いや、良く見るとそうではなさそうだ。親の仇でも煮ているかのような形相をしている。

「僕もテレビで聞いたんだ。ウナギにも同じく毒があるらしいけど、その話を聞いてから怖くなっちゃってね。加熱には念を押すことにしている」

 なるほど。まずないことだろうが、たしかに下手をすればそのアナゴは自分自身の仇となってしまうわけで。念入りに火を通す気持ちはわからなくはない。

 ただ本当に、そういった可愛らしい小心さを持った人物がよく誘拐に手を染められたな、と思わずにはいられない。それを言ってしまえば、彼と公園で会った当初の私はらしくもなく小心者すぎたのだが。結果良ければ全て良しとする。

「さて、もういいでしょう」

 そう言って彼が鍋をそのまま持ってこようとしたところを、私は確かに確認した。結果的に彼は皿を持ってきたのだが、一人暮らしの男性が鍋からそのまま食べちゃえと決行することは理解できる。というか、私も一人の時ならやりかねない。

 アナゴなんて家で食べたことはないし、料理をすると言っても料理大好き大得意というわけでもないので、煮る時に使われたタレというか出汁がどういう物を使って味付けされたのかには詳しくない。今思えば血に塗れたまな板は洗われたわけだし、手伝いにでも申し出ればよかったと悔いる。

「では本日のお手柄ルナ様、どうぞお召し上がりください」

「え、いや、ナズナさんこそ先にどうぞ」

「子供が遠慮するものじゃないよ」

 父にも同じことを言われた経験があった。私は言い返す言葉を失ってしまい、仕方ないのでありがたく一口目を頂いておく。いや、仕方なくというのは言葉の綾で、実際ありがたく感じているのだけれど。

「……んっ!」

 一口噛んだ瞬間に衝撃が走る。今までアナゴを食べたことはあったが、しかし、こんなに美味しい物は生まれて初めて食べた……!

「すごい、美味しい! なんですかこれ!?」

 一般人にも釣れた物が、市場では気の遠くなるような値段のする高級品というわけでもあるまい。が、だとすればなぜこんなに美味なのだろう。私はちょっと混乱していた。

「なんですかって、アナゴです」

「こんなに美味しいのは初めて食べました。なんというか、すごくアナゴの味がします!」

「アナゴだからね」

 いや、違う違う。そりゃあもちろんアナゴだからアナゴの味がすることは当然なのだけれど、言いたいのはそういうことじゃない。なんと言えばいいのだろうか。とにかく美味しいのだ。けれどそれを味が濃いと言ってしまっては、やはりそれも少し違うじゃないか。

「まぁ、新鮮さは大事ってことだよ。釣ってすぐ食べられるのが釣りの醍醐味でもあるかな」

 新鮮さ。それだけでここまで味が変わる物なのだろうか。生まれて初めて、というフレーズを引き出せる物なのか。

 新鮮さにそれほどの力があるのだとすれば、全国の釣り人がせっせと出かけていくことにも頷ける。私たちが行った時に居た二、三人の釣り人たちが、あんな深夜から頑張っていた理由もわかる。食欲は三大欲求の一つなのだから、絶大な力を持っているのだろう。

「ナズナさんも、ほら、ぜひ!」

「いいよ。そんなに気に入ったならルナちゃんが食べな」

「ダメですよそんなこと。美味しい物を独り占めなんて、そんな悲しいことないじゃないですか」

 つい熱くなってしまった私が迫るように言うと、彼は降参したように私から箸を受け取り、皿の上のアナゴをほんの少しだけ切り取って口に入れた。

「うん、確かに美味しい」

「もっと食べてくださいよ」

 箸を奪い取り、私が食べた時と同じくらいの大きさに切り取る。そのまま彼の口まで持っていこうかと一瞬だけ、ほんの一瞬だけ考えたが、気の迷いだった。

「ほら」

「わかったわかった。ありがとうね」

 困ったように笑いながら食べる彼がいやに嬉しそうだったのは、それくらい美味しかったということだろう。

 いくら大きな物だったとはいえ火を通せば縮まって見えるし、二人で食べればなくなるペースも早い。あっという間に半分以上を食べ進めたところで、ついにテレビはニュース番組を映し始めた。さすがに私も彼も体が強張る。

「…………」

「…………」

 数個の話題ニュースをダイジェスト的に伝えていく番組を、私たちは穴が開くほどまじまじと見つめていた。話題が切り替わる度に心拍数が上がっては、それが私たちの件とは無関係のこととわかると胸をなで下ろす。

 健康に悪いこと極まりない数分間を過ごして、どうやら中学生が誘拐されたなどというニュースは無いらしいことを確認することができた。

「……ありませんでしたね」

「なかったね。ルナちゃんの親御さんが警察に何も言わなかったか、まだ誘拐と断定されていないのか」

 テレビ画面に顔を向けたまま独り言のように話す彼の表情は、完全に犯罪者のそれだった。きっと彼の頭の中は如何にして逃げるかという思考でいっぱいになっているのだ。捕まってもいいとは言っても、やはりそう簡単に自首だとか、そんなことはできない。

「……まぁ、大丈夫でしょう、きっと!」

 と、途端にその表情に光が差した。雲が去ったかのように急に明るくなった彼は立ちあがった。

「さぁ、帰ろうかルナちゃん」

「え?」

「家に帰るんだよ。解放してあげる」

 解放なんて言い回し、これまでの彼の行動に対してあまりにも不似合いだ。ほとんどいつでも解放していたようなものなのに、まるで長い監禁生活から解き放ってやるとでも言わんばかりのセリフである。

 そしてそれは、どんな意味であっても解放などではなかった。私はもともと監禁や何かをされていたわけでもないし、家に帰ることは、何一つ幸せなことではない。私の戻る日常は、とても鬱屈とした忌々しいものなのだ。

 叶うことなら、ずっと彼と共に。そう考えなかったわけでもないが、私ももうすぐ高校生になる。大人が得意とする嫌な言い回しをあえて使うとすれば、もうお姉さんなのだ。現実がどんなものかくらい知っている。可能なことと不可能なことの分別くらいついている。

「はい……」

 残りの半分未満のアナゴは急いで平らげた。彼はもう十分だと言ったので、私が全て食べた。最初に食べた時のような感動は、もうその十分の一ほども訪れなかった。

 彼の背中を追うように玄関へ行き、靴を履き、外へ出る。嫌な夢を見て妙な大声を上げ、あわてながら玄関の鍵を開けたことを思いだす。まだ二十四時間も経っていない過去のことが、遠い昔のように思える。

 あまりに内容が濃すぎた。昨日の夕方、暗くなった公園で彼に出会ってからというもの、いろいろなことがありすぎた。そして今だからこそ言えるのかもしれないが、その時間は幸せ過ぎた。居場所のない自分の家よりも、ずっと良かった。

 彼と釣りをしていた一時間はきっと、父の再婚後から今日までの半年近い年月と同じか、それ以上の重さを持っていたに違いない。

 車に乗るべく駐車場まで出ると、いつの間にか昇っていた朝日が眩しかった。ひどい嫌味だと思った。

 

 車の中で、相変わらず前方からほとんど目を離さない彼が、いくつか私に言ったことがある。

 一つ。ルナちゃん、死なないでね……と。私はそれに、ナズナさんも、と返した。心からの願いだった。そうして二人で、とりあえず六十を過ぎるまでは絶対に死なないと約束した。

 もう一つ。これは、私から言ったことだ。

「あの、ナズナさん」

「うん?」

「……最後だから、無理ってわかってて言います」

「うん」

「…………本当の名前、教えてもらえませんか」

 私は彼を告発するつもりはなかった。一切なかった。むしろ、可能な限り彼のことを黙秘し、守り通そうと思っていた。命に代えてとまでは、死なないと約束したので言えないが。

 なぜ名前を知りたかったのかというと、私は幼稚な希望を持ったのだ。名前が分かれば、彼のことをいつか探しだせるかもしれない。そんな無謀な欲を持ったのだ。連絡先を聞くなんてことはできなかった。上手く言えないが、彼に申し出を断られることがこの上なく怖かったから。

 けれど、名前くらいなら教えてくれるかもしれない。そんな幼稚さに無謀さを掛け合わせたかのような私の願いは、結果としてあっさりと葬られた。

「それはできないな」

「……そうですよね」

 次の一言は、彼はきっと悪戯や意地悪のつもりで言ったのだろう。だからきっと、彼は初めから本名を名乗るつもりなど一切なかった。……一切なかったと、信じている。

「だって、ルナちゃんも偽名なんでしょう? 僕だけ名乗るわけにはいかないよ。捕まってもいいとは言ったけど、それは最終的にって意味だよ。自ら首を絞めるようなことはできない。したくない」

 それができていたら、今頃死んでいたかもしれないから危ない危ない。彼はそう言って笑った。これからもなんやかんや言って生きていてくれそうな、生き生きとした笑みだった。

 何も言うことができなかった。私は、名乗るべき本名を失っていたのだ。自らの手で、捨てていた。けれど、彼には初めから名乗る気などなかった。どうとでもはぐらかして逃げるつもりだった。そうに違いない。そうに違いない。

 プライバシーということで、私は彼に家の場所を教えなかった。教える以前に、彼は断固として知ろうとしなかった。なので、私は例の公園で降ろされた。始まりと終わりは同じ場所で。二度目はきっとない。

「それじゃあね。マスコミやら何やらに囲まれる覚悟があるなら、通報したって構わないよ。僕は全力で逃げるし、その結果捕まれば受け入れる」

「しませんよ、そんなこと」

 だから名前くらい教えてくれたって、なんて言えるわけがなかった。単刀直入に言って、私は彼に嫌われたくなかった。二度と会えなくても、彼がはぐらかしたがる部分をしつこく暴こうとして、嫌われることは嫌だった。

 だから最後は手を振って別れた。走りだす車の窓から腕を出し振り返してくれた彼は、きっとまた前方確認を怠ることなく運転していただろう。

 ご馳走様でしたと言い忘れたな。なんてことを背の高い木々に囲まれて考えていた私は、いくらか現実逃避を始めていたことだと思う。

 公園から家までは歩いて数分の近さだが、家に着くまでが異様に長く感じた。一歩足を踏み出す毎にかかるエネルギー量がおかしくなっていた。

 家に帰って第一声に何を言うか。そんなことを考えていれば、そうもなるだろう。無事辿りつけて良かったと言うべきだ。自宅のドアの前まで来て、あとはインターホンを鳴らすだけとなる。そこで立ち往生する私を見て不審に思う人は、まだこの早朝には現れないようだった。

 どうしても腕が上がらない。ピンポンと音を鳴らすそのボタンを押すことがまるで出来なかった。鉛のようとは、こういう時に言うのだなと思った。そんな悠長なことを考えている場合ではないのに。

 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。不意に私は、彼の言葉を思いだす。……もう、どうにでもなればいいと思った……と。

 インターホンを押した。親の仇でも殺すかのように、殴るような勢いで押した。その瞬間、バタバタと騒々しい足音が聞こえてくる。

「瑠奈ちゃん!」

 ドアを開け、きっと外に立っていた人間が誰なのかも確認していないのであろうに、彼女は私に抱きついてきた。

「心配したのよ! 何も言わずに、一体どこへ行っていたの!」

 父の再婚相手、私の第二の母ということになる彼女は、泣いていた。抱きついたあと離れた彼女の見せた顔は、怒りや喜びが入り混じってもはや自分では制御できていないような、わけのわからない泣き顔だった。

 その時私は思ったのだ。なんと思ったか。あぁ、この人は本気で私のことを心配して、大事に思っていてくれているんだ……とか、そんなことではない。

「本当にすみませんでした……!」

 深々と頭を下げる。つま先にまで届く勢いで、私は反省の意を全身で表す。それは演技などではない。

「心配したのよ……」

 もう一度彼女は私を抱きしめる。強く、強く、感情がそのまま伝わってきそうな抱擁。私はそれに対して、驚くほど何も感じなかった。今までの彼女へ対する鬱憤も、全てが夢だったかのように消え失せてしまった。

「ごめんなさい……」

 私が謝ると、頭を撫でてくれた。疲労のあまり眠っていたらしかった父が目を覚まし、彼女と大差ない反応で私に駆け寄ってくる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 本心から謝った。本当に悪いことをした、申し訳ないことをしたと思っているのだ。二人にはどれほど心配をかけたかわからない。

 二人とも、謝る私を怒るどころか慰めるようにして、私の無事を喜んでくれた。意外なことに説教などは受けなかった。ただ、暖かく招き入れられたのだ。私の家に、一日ぶりの私の家に。

 さすがに警察には捜索願が出ていたようだが、私が自分から家出をしたと言うと二人ともそれを信じてくれた。もっと言えば、父が再婚してからというもの家に居場所がない気がしたと、持っていたありのまま全ての感情をさらけ出したら、信じてくれた。

 それを聞いた彼女は、私の第二の母は泣いた。泣いて謝ってきた。ごめんね、ごめんねと、数えきれないくらい言われた。私はそれでやっとわかり合えた気がするよと言って、その日初めて彼女のことを「お母さん」と呼んだ。すると、母はまた涙を流すのだ。

 捜索願は取り下げられ、全ては丸く収まった。もう、何も心配することはない。

 私はなぜだか、母に対する感情の多くを失ったらしかった。彼女が何をしても、もう何も湧いてこない。彼女が私のことをどう思っているかだなんてことには、一切の興味がなくなってしまった。父を彼女に取られた気がしたところで、それがなんなのだろうと思うようになってしまった。

 自分の居場所というのは、本人の勝手な感覚で決めるもの。私は今まで、父の側が居場所だと思っていた。父の帰りを待つ場所が、自分の居場所なのだと思っていた。勝手にそう思いこんでいた。だから、母にそれを奪われたような気がしたのだ。

 しかし違った。居場所なんてものは奪われることこそあっても、決して代わりのきかない物ではない。彼と会う前、逃げ込むようにしてブランコに座っていたあの公園だって、立派な私の居場所だったのだ。

 居場所というのは、私が行った場所のことだ。あとから奪われることはあっても、作れないなんてことはない。だってそうだろう。誘拐犯の家で熟睡した人間が、今さらどこに行けば落ち着かないなどと言うのだろうか。

 今住んでいる家だって居場所と呼ぶことはできる。しかし、この家は本当の居場所ではない。本当の居場所は、ここに限っては母に奪われてしまった。不完全な居場所となってしまった。

 けれども、私にはこれから数十年ある人生を全て母と過ごさなければならないだとか、そんな制限はないのだ。父と過ごさなければならない制限もない。子供は、いつか独り立ちするのだ。私の行く場所が原則私の居場所となるのであれば、一人暮らしを目標にすればいい。

 冬になったら受験戦争がある。一度目の戦争を終え、二度目に戦う時は職を得るために戦おう。そうして勝ち取ることができたのなら、私はこの家を出るのだ。ここに私の居場所はなく、ここ以外の全てが私の居場所なのだから。

 それまでの数年間なんて取るに足らない。きっとその数年の持つ重さは、あの夜の海での一時間にも満たないだろうから。

 



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