少女は告げる。
一片の迷いも偽りもなく。
許します、と。
少女は告げる。
慈悲の心に満ち溢れた微笑みを浮かべ、それでいて力強く真剣な口調で。
例え他の誰もが許さなくても、私だけは何があって貴方の味方だから、と。
何故かと問う。
すると少女は僅かに頬を染め、はにかみながら答えた。
だって────
自身の大切な想いを言葉にして紡ぎ出す。
そこに躊躇いはなく、むしろ誇らしげですらあった。
未来の私の旦那様なんですから。
…………え?
敢えて言おう、どうしてこうなった?
◇
知らない天井────ではなかった。
そもそも視界に映っているのは天井ではなく見覚えのある天蓋。
戦闘訓練という名の虐待の後、意識を失った俺は侍女達によって自室へと運ばれ、ベッドに寝かされたのだろう。
状態を確認するために身体を動かしてみる。全身に痛みが残っていたが、無理をすれば動かせないほど酷くはなかった。
この辺りからも、あの女が多分に手加減していたことが読み取れる。
大きな怪我が無いことに安堵する一方、言い様のない憎しみと、行き場のない怒りが込み上げた。
果たしてそれかどこに向けられるべき感情なのか判らない。
偽りの愛情さえ注ぐことなく、我が子を闇へ堕とそうとするあの女に対してなのか?
その理不尽な現実を容認するこの世界に対してなのか?
彼女の境遇を知りもせず、抗う力も持たず、一方的に勝手なことばかりほざいていた自分自身に対してなのか?
いや、その全てに対してなのだろう。
あの瞬間、俺は愚かしくも無様に力を渇望した。
いくら望んだところで手に入るはずもない。
願うだけでは叶わない。
そう、超常の力=ギアスでさえ、奇跡や偶然ではなく、他者の思惑によって仕組まれた計画の上で与えられた力だと理解していながら、それでも未練がましく与えられた力に縋ってしまう。
ギアスさえあれば世界は変えられるはずだと。
この理不尽な世界を己が身一つで耐えてきたリリーシャに比べて、自分はなんと弱い人間なのだろうか。
自然と浮かぶ自嘲の笑みと共に虚空へと手を伸ばす。
視界に映り込んだ小さな幼い手。
だが本来なら、その手は目に見える以上に大きく、力強さを有していたはずだった。
俺というイレギュラーが存在しなければ……。
だから諦めるのか?
いや、それはあまりに愚問だな。
そんな事はあり得るはずがない。
例えギアスが使えなくても、あの閃光のマリアンヌの血を引く健康な肉体がある。
なら鍛えればいい、立ち塞がる全てをなぎ払えるように。
その環境は既に整い、下地は出来ている。
さらに武力だけ無く権力も手に入れよう。
今なら母マリアンヌは生存し、軍部へのコネや影響力があり、KMF開発に携わるアッシュフォード家を始めとする後ろ盾も健在だ。
何より今の俺は未来知識とそれに付随する技術、さらには悪逆皇帝時代に手に入れたブリタニア貴族の不正情報を記憶している。
使い方によっては我が物顔で支配層に君臨する貴族達を、混沌の渦に叩き込むことだって可能だろう。
もし実現すればこの軍事大国を揺るがすことが出来る。
外からではなく、今度は内側から崩壊に導くことが出来る。
ああ、そうか。力なら既に持っていたんだった。
知識こそ力。
技術こそ力。
情報こそ力。
そして経験こそ力だ。
小さな手で拳を作る。
先程までと違い、弱さは感じない。
そう、今度こそこの手で掴み取ってみせる。
ナナリーだけじゃない。リリーシャやユフィ、シャーリーやロロが笑顔で暮らせる世界を。
その為なら既存の世界を破壊することも厭わない。
かつて俺は世界を壊し、世界を創造する男だったのだから。
「リリーシャ!」
勢いよく扉が開き、名が呼ばれる。
その声は焦りと不安を抱いている事を感じさせる幼い声音だった。
突然響いた声の主を確認しようと上半身を起こす。もちろん痛みに呻き声を上げるような愚は犯さない。
リリーシャにとって味方の居ない──少なくとも今のところ確認できない──この世界で、他者に弱みを見せるわけにはいかないのだから。
だが次の瞬間、そんな俺の微々たる努力は無に帰した。
「うなッ!?」
思わぬ衝撃を受け、起こしたはずの上半身が再びマットレスへと押し付けられ、視界に天蓋が戻ってくる。
不意のことで驚きを隠せないが、しかし「うなッ!?」っていう声は正直どうかと自分でも思う。
「良かった、気が付いたんですね! また突然倒れたって聞いて、わたし居ても立っても居られなくて……。もう、心配したんですから……!」
状況が呑み込めず未だ困惑する俺に対して、一方的に告げられた言葉は何故か耳元から聞こえてくる。そして声の主の腕によって束縛されているらしい身体が僅かに悲鳴を上げていた。
つまりは現状、俺は何者かに抱き付かれ、押し倒されているようだ。
幸いなことに相手から敵意は感じられず、むしろその言葉から俺を──いや、リリーシャの身を案じてくれていることが伝わってくる。
少なくともこの世界に一人は、リリーシャの味方となってくれる人物が居たことを喜ぶべきか。
ただその言葉の中で気になったのは『また』突然倒れたという部分。
さすがに度重なる虐待を公にするわけにはいかず、大方対外的には病気によって倒れたことになっているのだろう。保身の為としか思えないが、マリアンヌ様にも辛うじて世間体を気に掛ける程度の常識は残っているようだ。
度々倒れていることから先天的な病弱設定にでもなっているのかも知れない。弱肉強食が国是のブリタニアで病弱な皇女という立場はあまり芳しくないな。それだけで周囲の評価が低く、比例して発言権や影響力も低くなっているはず。
まあ、それは現状すぐにどうこうなる問題ではない。尤も今後その評価を覆すだけの機会は幾らでもあるだろう。
現状での問題は病人──本当は怪我人だが──に対して、いきなり抱き付くような行動を取る人物について。不安を抱き、心配なのは理解できるが、軽率な行動は止めて欲しい。というかそろそろきつくなってきた。
そんな事を考えていたからだろうか。
その声を俺は知っていたのに、すぐにそれが誰の物であるのかまで思い至らなかった。
「……くるしい」
取り敢えず束縛を解いて貰うために、相手に対して不満を伝えてみる。
「あっ、ごめんなさい!」
どうやらこちらの意図はちゃんと伝わったようだ。
慌てて告げられた謝罪の言葉と共に縛めが解かれ、俺からその身を離した声の主の姿が視界に映る。
本来なら文句の一つを口にする、もしくは見舞いについての一般常識を説くところだが、現状それは不可能だった。
俺は目の前の相手に言葉を失う。もしかしたら一時的に意識が飛び、呼吸さえ止まっていたかも知れない。
それほどの衝撃を受けずにはいられなかった。
薄桃色の柔らかな髪、幼くも秀麗な目鼻立ち、薄紅色のドレスを身に纏った可憐な少女。
純真さを感じさせるその瞳を潤ませ、彼女は俺を見つめてくる。
正直に言えば、視線を向けられる事に恐怖を抱いた。
その姿を忘れることは許されない。
その名を忘れることは許されない。
そう、彼女の名はユーフェミア・リ・ブリタニア。
かつてこの手でその生命を奪った異母妹。
何を今さら動揺しているんだと思われるかも知れない。
この世界に彼女が存在している事は既に認識していたし、現にさっき自分でユフィの為にも世界を壊す覚悟があると決意を新たにしたばかりだ。
だが存在を理解しているだけと、実際に本人と突然対面するのとでは大きく異なる。
出来れば事前に心の準備をさせて欲しかった。
仮面で覆い隠した心の底から溢れ出し、俺を支配するのは深い後悔の念。
何度、何十度、何百度、何千度同じ思考を繰り返し、その結果をシミュレートしたことだろう。
もしあの日、行政特区日本開設式典会場へ赴かなければ。
もしあの時、くだらない戯れ言を口にしなければ。
あの瞬間、彼女に視線を向けなければ。
悲哀と狂気を瞳に宿し、走り去る彼女の背に手が届いていたとすれば……。
もし彼女と共に行政特区日本を成功させることが出来たなら、少しでも世界をより良い方向へ変える事が出来たのだろうか?
ナナリーも望んだ優しい世界の実現に近付けたのか?
……いや、全ては仮定の話。
彼女が描いた未来を閉ざしたのはこの俺自身だ。
そもそも本当に殺す以外の選択肢は無かったのか?
もしギアスキャンセラーの存在を知る時まで彼女が生存していたなら?
本当は自分が現実から目を背けたかっただけじゃないのか?
綺麗な想い出の中の彼女を求めた結果じゃないのか?
そして彼女の死という最大のファクターが存在しなければ、最悪の大量破壊兵器フレイヤはこの世に生まれなかったのかも知れない。
フレイヤによって億を超える人命が失われる事はなかっただろう。
結果的に俺は弱い自分の心を守るために、途方もない数の生命を奪った事になる。はは……今さらながら本当に救いようがない。
「でも本当に良かった。前の時は丸一日以上目覚めなくて、起きても喋れないような状態だったんですよ。
みんな心配する必要はないって言うのだけど、もし次に倒れたら二度と目覚めないんじゃないかって……わたし……わたし……」
ユフィの頬を涙が伝う。
それが不安による物なのか、安堵による物なのかは分からない。
だがその言葉が、想いが本心からの物だと悟ることは出来る。
まるで押し潰されるように胸が痛んだ。
怪我による肉体的な痛みではない。
本来それら全てを向けられるべき対象は俺ではなくリリーシャだ。
俺には彼女の慈愛を受ける資格はない。
その死さえ利用し、冒涜した俺が享受を許されるべき物でもない。
もちろん俺の存在を知らない彼女からすれば、目の前のリリーシャが自分の知るリリーシャである事実に疑いを抱くことがない以上、相応の態度を取ることは仕方のないことだろう。
だが彼女は何も悪くない。一片の非もあるはずがない。
そう、悪いのは全てこの俺だ。
“どうして……ルルーシュ”
彼女の最後の言葉が脳裏を過ぎる。
その一言に彼女の想いの全てが込められていたに違いない。
ねぇ、ルルーシュ。
どうして私を撃ったの?
どうして私を殺すの?
どうして私にギアスを使ったの?
どうして私を苦しめるの?
どうして私を裏切ったの?
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてッ!!
苦しい。
彼女の言葉が、想いが、涙が胸を締め付ける。
今の自分はリリーシャだと開き直れたならどれだけ楽だろうか。
だけどそんな事は到底無理だ。
今俺に出来るのはリリーシャ・ヴィ・ブリタニアの仮面を被り、彼女に嘘を吐き続けることだけ。
「残念だけどユフィ、私はまだこんな所で終わるつもりはないよ。
それにキミが思っているほど私はやわじゃない。精一杯足掻いてみせるさ」
そう言って皮肉を込めた笑みを浮かべ、戸惑いを気取らせないように注意しながら、そっと彼女の頭に触れ、その癖のある髪を撫でる。
本当に笑みが浮かんでいたかは自信が持てない。
けれど心配はしない、俺は仮面を被るのが得意なのだから。
「ふふっ、安心しました。いつものリリーシャです♪」
ユフィはどこか照れた様子で俯き、くすぐったそうにしていたが、それでも文句を言わず俺の行為を受け入れる。
微かに手が震えていた。
だから俺は自分自身に言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫、私はリリーシャ。
この手はまだ誰の血にも穢れていない、と。
だが、つぎはぎだらけの仮面は、程なくして脆くも剥がれ落ちた。
顔を上げた彼女は告げる。
「……どうして……リリーシャ」
「っ!?」
彼女の言葉を耳にした瞬間、俺は身体を硬直させ、息を呑んだ。
過去のユフィと、この世界のユフィが重なり合うような錯覚を覚えた。
まさか目の前の彼女も俺と同じ境遇だとでも言うのか?
そんな偶然があり得るはずはないと、すぐにその考えを振り払おうとした。
しかし同時にどこかで理解していたのかも知れない。既にこの世界に俺=もう一人のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアというイレギュラーが存在している以上、何が起こっても不思議ではないと。
けれど結果的に俺の考えは外れていた。
それを喜ぶべきかは正直答えられないが……。
「どうして、泣いているの? やっぱりまだ具合が──ハッ!? も、もしかして、わたしのせいですか!? ああ、どうしましょう……」
何やらユフィが酷く慌てた様子だったが、俺はその理由を──己が身に起きた事態を把握できていなかった。
……泣いている、俺が?
確かめるように頬に手を当てると、彼女の言葉通り指先が左頬を伝う雫に触れた。
無自覚の内に涙を流す左の瞳。
「違う、キミのせいじゃない。これは、その……あれ……」
ユフィを宥めながら、取り敢えず涙を止めようと試みる。
だけど俺の意に反し、涙は止まらなかった。
いや、むしろ次々と溢れ、流れ落ちていく。
まるであの時流せなかった涙が、今になって押し寄せているかのように。
ただコントロールが出来ないのは、何も涙だけではなかった。
「リリーシャ、大丈夫!? どこか痛いの、それとも気分が悪いの!? 誰かを呼んだ方が、そうすぐにお医者様を」
「うぅ…何でもない。何でもないんだ。私は……大丈…夫だから……ちょっとした…」
制御下から離れた──自分でも上手く言い表す事の出来ない──強い感情が思考を、そして身体さえ支配する。
一言で言えば、ただ混乱していた。
止まれ、止まってくれ!
彼女の前で泣くわけにはいかない。
弱さを見せるわけにはいかない。
リリーシャとしても、ルルーシュとしても。
刹那だった。
ユフィがこちらへと腕を伸ばす。
その腕が優しく俺の頭部に回され、そのまま彼女の胸へと抱き寄せる。
抵抗は出来なかった。
伝わってくる彼女の温もり。
そして鼓動。
涙は止まらなかった。
それでも心が穏やかになっていくような気がした。
今だけは彼女が与えてくれる慈愛に身を委ねたいと素直に考えてしまう。
だがこれでまるで母親に抱かれる幼子だ。現に母親の心音は子供に対してリラックス効果があると聞く。
まさか自分と一歳しか年の変わらない少女に、母性を求めているとでも言うのか?
馬鹿らしい。
……そう一蹴できたなら、どれだけ良かったことだろう。
失ったモノ──いや、失わせたモノが、如何に大きな存在だったのか改めて実感する。
だからだろうか?
その言葉が自然と口から零れ落ちてしまった。
「……ごめんなさい」
謝罪。
それは許しを請う言葉。
その言葉に意味はない。
向けるべき相手はもう居ない。
ならばどれだけ言葉を列ねても無意味であり、所詮は自己満足にしかならない。
何よりも目の前の彼女は無関係だ。
例え平行世界の同位存在だとしても、姿が似ているだけの別人。
きっと彼女は意味が理解できないまま、俺の謝罪を受け入れ、許しを与えてくれると予想が出来る。
それがどれほど甘い考えで、卑劣な行為か理解している。
それでも、もう止められない。
一度剥がれた仮面は元に戻らない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
俺はただ彼女に縋り、嗚咽を零し、うわごとのように繰り返すことしかできなかった。