皇歴2010年8月10日。
今日この日が、その後の歴史に大きな影響を与えることになると知る者は、現時点ではほんの一握りに限られる。
この世界に住まう大多数の人間は、いつもと変わる事のない日常を送り、やがてその事実を知ることになるだろう。
神聖ブリタニア帝国による──太平洋方面軍第七艦隊を主戦力とした──電撃的な日本侵攻、後の世の極東事変。
それに伴う世界情勢の変化を。
◇
大地を震わせる重低音。
一斉に飛び立つ蝉の群れ。
異変を感じた少年達は走り出した。
この時すでに本能が警鐘を鳴らしていただろう。
必死に草木を掻き分け、ひまわり畑を抜け、手を取り合って崖を登った先、視界に飛び込んできた光景に彼等は言葉を失った。
富士上空を埋め尽くした不吉な黒い影、航空機に描かれた獅子の紋章、富士の斜面や地上で煌めく閃光と立ち上る黒煙。
遠い世界の出来事であったなら、と思わずにはいられなかった。
だけどそれは視線を逸らすことさえ出来ない現実。
今まさに眼前に突き付けられている戦争の二文字。
周囲の音が消えていき、真夏だというのに全身が凍り付いてしまったかのような肌寒さを覚えた。
先程まで感じていた──二人なら出来ないことはないという思いが齎した──昂揚感、将来への僅かな希望が、現実という名の圧倒的な絶望によって塗り固められる。
そして彼等は悟り、理解する。
輝かしい夏の終わりの日が訪れてしまったのだと。
様々な意味で一生忘れることの出来ない夏。
打ち込まれた生涯残る楔。
その最後の1日が、すでに幕を開けていた。
◇
私達が日本に渡り、二度目の夏を迎えた。
日本での生活にも馴染み、順風満帆とはいかないが、それなりに充実した日々を送れたのではないかと、私はこの一年あまりの生活を振り返る。
きっとそれは兄ルルーシュや妹ナナリーも同じだろう。
私が確信を持ってそう言えるのは、やはり枢木スザクの存在が大きい。
最初はどうなることかと、やきもきさせられる場面もあったが、結果的に彼が齎した影響は兄妹にとって大いにプラスとなった事は言うまでもない。
ライバルと家臣だけだった皇族時代には手にする事が出来なかった本物の友人。
皇族や皇子という視線ではなく、等身大の自分を認めてくれる数少ない存在。
そう言った意味では現日本国首相の息子にして、名家枢木家の跡継ぎとして一目置かれていた枢木スザクも同じ境遇であったに違いない。
掛け替えのない貴重な存在となり、必然的に彼等の中で互いの存在が占める割合が高くなっている事は容易に想像が付く。
母マリアンヌの暗殺事件以降、他人──もちろんナナリー以外だが──を信用することの出来なくなった兄ルルーシュにとって、それは大きな前進だった。
ただこれは少しばかり善し悪しの判断に困るが、ここ最近の兄ルルーシュは枢木スザクに感化された影響か、柄にもなく無茶ばかりしていた。
元気に野山を駆け回り、泥だらけになり、生傷が耐えないのは年相応の男の子という感じで微笑ましくも思うのだが、時折見せるその行動力が不安になることがある。
数ヶ月前の話だが、プロの誘拐犯を二人で撃退したと聞いた時は驚きを抱いた。確かに兄ルルーシュは頭が切れるし、枢木スザクも武道の心得があるのは知っている。
それでも実戦を知らない彼等が、実際に相対するのは無謀としか言いようがない。相手に危害を加える意図がなかった事は不幸中の幸いだろう。もし暗殺者であったならと思うと背筋が寒くなる。いや、別に彼の身を心配しているわけじゃない。ただ勝手に死んでもらっては困るだけだよ。
そんな事があったというのに、現に今日だって怪我をした小鳥を隣山の巣に帰すと言って、二人はSP達の目をかいくぐり、車輌を強奪して枢木神社の敷地外へ飛び出していった。
おかげで一時外が騒然としていたよ。彼等の行動力を評価するべきか、それともSP達の無能さを罵るべきか。
しかし兄くんは抜けている。車の運転に自信があるという枢木スザクだが、彼に運転経験があるはず無いと、ここ日本の法律や境遇から少し考えれば気付くはずなのだけど。きっと車内で肝を冷やしたんじゃないかな?
いや、今となってはそれどころではなく、程なくすればきっと血相を変えて帰ってくるに違いない。
開幕の号砲は鳴らされた。
残念だけど別れの時は、もうすぐそこまで近付いている。
一時の幻想、モラトリアムの終わり。
訪れた現実に慌てふためき、絶望し、やがて憎悪を抱くことだろう。
だけど私は違うよ。
待っていたんだ、この日を。
この一年ただ無為に時間を潰していたわけじゃない。すでに仕込みの大半は終わっている。
後は最後にもう一仕事終えれば、心置きなくこの地を立つことが出来るだろう。
私は自分が居るべき場所に戻る。いや、次のステージに進むと言うべきか。
一際大きな爆発音と共にガラス戸が震え、カタカタと音を立てる。
その直後────
「っ……リリー姉様」
私の腕にしがみ付き、寄り添うナナリーがその手にぎゅっと力を込め、不安げに私の名を呼ぶ。
視覚を失ったことに伴い、それを補うかのように発達をみせている優れた聴覚により、彼女は視覚に頼ることなく音の正体に気付いているのかも知れない。
いや、仮にそうでなくても私や兄ルルーシュの妹なのだ。事前の情報や今現在の状況から、起こっている事柄や今後の展開を推察できる可能性は十分に考えられる。というか時間が許す限り、そうなってくれることを願って成長を促してきたつもりなのだけど。
「大丈夫だよ、ナナリー。ここに居る限り私達が死ぬことはないから」
「でも……」
「兄くんだってすぐに戻ってくるはずさ。何たってこんなに可愛い妹が二人も待っているんだからね」
ナナリーの震える肩を抱き、私は言い聞かすように告げる。
兄ルルーシュの身を心から心配している彼女には悪いが、彼の身の安全は保証されている。少なくとも彼の死は──当然私を含めて──誰のシナリオにも書かれてはいないだろう。
それこそ神の気まぐれ、運命の悪戯といった誰にも抗うことの出来ない超常の力が働かない限りは。
「ふふっ、そうですね」
私の戯れ言程度では決して消える事のない不安を押し殺し、無理矢理笑みを見せてくれるナナリー。
本当に健気だね。
「そうだ、気を落ち着かせる為にハーブティーでも淹れようか?」
ナナリーの負担を軽減させるために、私は彼女の身体を支えながら和室に不釣り合いな──当然彼女の為に兄ルルーシュが用意した──ソファまで誘導しながら提案する。
未だ視力の回復の兆しは見えない。その一方でリハビリを重ねた結果、杖に頼りながらではあるが、ナナリーは自らの両脚で大地を踏んでいる。他者よりも遅い歩みだが、それは彼女が弱音を吐くことなく続けた、絶え間ない努力の成果だった。
このままリハビリを継続すれば、視覚機能を取り戻した暁には、杖に頼ることなく歩むことも不可能ではないだろう。
「え、はい、ありがとうございます。リリー姉様のお手製ですか?」
「そうだよ、嫌かい?」
「いいえ、むしろその逆です。リリー姉様が丹精込めて育てたハーブ、わたし大好きですから」
「それは光栄だね」
戸惑いを見せつつも最後には若干声を弾ませるナナリーの反応に、思わず口元が緩んでしまう。
どうにも素直な評価に弱く、視力を失っている彼女の前ではついつい顔に出てしまうようだ。気を付けないとね。
早速台所へ向かった私は用意に取り掛かる。
ティーポットに入れる茶葉は市販の物ではなく、ナナリーが言ったようにリリーシャさん印のお手製品だ。
主婦根性をレベルアップさせた兄ルルーシュが始めた家庭菜園。何か趣味でもと思い立った私も、その一角を間借りしてガーデニングに興じることにしてみた。
植えるのは多目的に使えるハーブと毒草を少々。いや、意外と綺麗な花が咲くんだよ?
お湯は適温、カップも事前に温めて準備万端。抜かりはない。
さて、優雅なティータイムと洒落込もうか。おっと、でもその前に隠し味の魔法の粉を一撮み。大丈夫大丈夫、もちろん人体には影響がないから安心して欲しい。
「お待たせ、ナナリー。はい、熱いから気を付けてね」
「ありがとうございます、リリー姉様」
差し出したカップとソーサーを受け取り、彼女が口をつけるまで見届ける。
「お口に合いましたでしょうか、お姫様?」
「もう、リリー姉様ったら。いつも通り、とても美味しいです」
「それは良かった」
本当に良かった。無味無臭だが、ナナリーはこう見えてなかなかに勘が鋭い娘だからね。
効果が出るまでしばらく時間が掛かる。
それまでどうしようか?
「今後については我らが愛しの兄くんの帰宅を待ってからにするとして、それまで何を────」
「ねぇ、リリー姉様。一つだけ聞いても良いですか」
私の声を遮り、先程まで浮かんでいた笑みなどなく、心痛な面持ちでナナリーが問い掛けてくる。
「ん、何かな? 私に答えられることなら答えてあげるよ」
「リリー姉様もずっとわたしの傍に居てくれますよね?」
何ともまあ、これは予想外の問いだね。
私として下手を打った記憶はないのだけど。
「どうしてそんな事を聞くのかな?」
「それは……リリー姉様がどこか遠くへ行ってしまうような気がして……」
その異常とさえ思える勘の鋭さには驚くと同時に感心してしまう。
やはり彼女は紛れもなくリリーシャ・ヴィ・ブリタニアの妹なのだろう。
「ふふっ、ナナリーには隠し事が出来ないようだね」
「ではやはり……」
ナナリーの表情が悲しみに歪む。
きっと既に彼女は確信を得ていたのだろう。
それを否定して欲しかったに違いない。
だけどそれは私が私である以上できない相談だ。
だから代わりに讃辞を送るよ。
「ここ日本での暮らしも悪くはなかった、それは本心から言えることだよ。兄くんやナナリー、枢木スザクが居る慎ましやかな生活。小さくも輝いていた世界。出来ることなら失いたくはなかったかな。
でもね、私の居場所はそこに存在してはいないんだよ」
「っ、どうしてそんな事を言うんですか!?」
ナナリーは蹌踉めきながら立ち上がり、全身から私に対する抗議の意を伝えてくる。その際、彼女の手にあったカップが畳の上に落ちるが、幸い割れることなく転がっていった。割れると後片付けが面倒だからね。
例え目が見えなくても、彼女にとって日本での生活は価値のある思い出。
それを構成していたパーツの一つ、しかも取り分け重要度の高いパーツであった私に否定されれば、心中穏やかでは居られないのだろう。
尤も彼女が感じていた私は一時の幻想に過ぎないのだけど。
「君はまだ本当の私を知らない。いや、忘れてしまっているのかな?」
そう言って私はナナリーの細い首筋へと手を伸ばす。
そして指先が触れた瞬間────
「ひっ」
咄嗟に私の手を払い除け、後退ろうとしてソファへと倒れ込む。
「ふふっ、私は次の
「でも……わたしは目が……」
「この際だから言っておくよ。ナナリー、もし本当に見たいという強い想いがあれば、再び歩くことが来たように、君の瞳は光を取り戻すことが出来る。勇気を出して弱さに打ち勝てたなら、見たいと望んだモノを見る事が出来るはずだ。
尤もそうなれば見たくないモノ、目を背けたくなるような現実も直視しなければならない。そう、覚悟はしておいた方が良い。
何も出来ない愛玩人形、守られるだけのお姫様で居たいのなら無理強いはしないけれど」
「そんなの嫌です……でも……でも!」
ナナリーの閉じられた瞳から流れる一粒の涙。
「ごめんね、ナナリー。意地悪な言い方だったかな」
私はそっと彼女の頭を撫でる。
きっと彼女の中に私の言葉は刻まれたはずだ。
その結果、彼女が変わらなければ、それはむしろ問題ない。
もし何かが変わったなら、それはそれで面白い。
どちらにしろ兄ルルーシュが苦労することは変わらないだろうね。
「リリー姉様────あれ……どう……して」
何かを告げようとしたナナリーだったが、その瞬間、彼女は自らの身の異変に気付いた様子だった。
指先の痺れ、混濁していく意識。
そして彼女の意識は急速に遠退き、夢の中へと旅立った。
「おやすみ、ナナリー」
力なくソファに身を預けて眠るナナリーの頭を、私はもう一度だけ撫でる。
今だけは一時の優しい夢が見られるようにと願いながら。
でもどうしてだろう。
予定されていたとおりの展開、運命などではなく私自身が望んだ必然だというのに、胸の奥で存在を主張する感情は、紛れもなく悲しみと呼べるモノ。
『
本当に何なんだろうね。
◇
思考機能さえ奪おうとする焦燥感、そして動揺を押し殺し、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと枢木スザクの二人は必死の思いで枢木神社へと戻ってきた。
肌を焼く夏の太陽光に照らされ、滲み出る汗を拭うことも忘れ、近付く戦乱の足音に急き立てられるように二人は走る。
そして互いが目指す場所へと続く分かれ道で、彼等は一度その足を止めた。
「気を付けろよ、ルルーシュ」
「はぁ……はぁ……君もだ、スザク」
「ああ、分かってる。じゃあ、また後で」
短く交わした言葉は無事と再会の誓い。
すぐに二人はそれぞれ自分達の住居へ向けて再び走り出した。
この時、彼等が選んだ選択肢は至極当然の物だった。
互いに自宅の様子が気になり、家族や知人の無事を心配する。
何ら間違っているはずもない。
けれどもし、この時二人が行動を共にしていれば、少しだけ状況は変わっていたのかも知れない。
いや、知る術のない彼等にとって、それは結果論に過ぎないだろう。
程なくして自宅である枢木家本邸を視界に捉えた枢木スザクだったが、彼はその場で足を止め、咄嗟に茂みの中に身を隠した。
自分を落ち着かせるように大きく息を吐き、茂みの陰から様子を窺う。
見慣れたはずの自宅が今は違って見えた。
本邸の周囲を取り囲む黒服達、その中には兵士と思われる武装した人間も見受けられる。
周囲の喧騒や慌ただしさとは程遠い、張り詰めた空気や重圧が場を支配していた。
枢木本邸には今、数日前に東京から戻ってきた枢木ゲンブが滞在中──政府や軍の関係者が迎えに来ていなければの話だが──のはず。
もしかしたら日本国首相である父から、現状に対して何らかの情報を得られるのではないかと枢木スザクは考えていた。
もちろんそれは実に子供らしい発想であったと言わざるを得ないが。
そう、彼は良くも悪くも子供だった。
だからこそ目の前の光景を理解できない。
「……何で……ブリキ野郎が」
彼の視線の先、本邸の警護にあたる黒服達の中に明らかに日本人とは顔の作りが異なる男達の姿があった。
外国人、しかも今まさにこの国に対して侵略行為を仕掛けているブリタニアの人間。
目の錯覚だと自分に言い聞かせるには、彼らの存在はあまりに鮮烈すぎた。
既に本邸がブリタニアに占領されている可能性が脳裏を過ぎるが、周囲に戦闘の痕跡はなく、枢木家の配下である黒服達と事を構えることなく──牽制し合っているようには見えるが──相対している点から考えても、彼らに指示を下せる立場の人間に交戦の意志はないのだろう。少なくとも現段階では危うい均衡を保っている。
一体今、家の中では何が行われているのか?
その答えを知るためにこのまま本邸へと向かうべきなのだろう。
しかし本能は引き返すべきだと警鐘を鳴らし続けていた。
「……そ、そうだ。ルルーシュに相談しよう」
戸惑い、躊躇い、逡巡した果てに導き出された結果。
自分一人では手に余るが、親友である彼と二人なら最良の選択を選ぶことが────
「ッ」
だが次の瞬間、枢木スザクはハッと息を呑んだ。
本邸に存在したブリタニア人。
だとすればルルーシュ達兄妹が住まう離れ家にも、その手は伸びているのではないかと思い至る。
そこで改めて枢木スザクは彼らの境遇を思い返す。
人質。
生贄。
捨て駒。
忘れていたわけじゃない。
考えたくなかった。
認めたくなかった。
だから意図的に意識を逸らしていたのかも知れない。
唐突にいつ訪れてもおかしくはなかった別れの日。
その最悪の結末を。
「ルルーシュ!」
どうして彼を一人にしてしまったのか。
枢木スザクは後悔を抱きながら踵を返し、今来た道を戻る。
どうしても払拭できない嫌な予感が外れてくれることを切に祈りながら。
「監視対象B転進、監視対象Aとの接触の可能性大。以上で状況終了。枢木本邸の監視は継続」
茂みから這い出るように駆けだした枢木スザクを見送る監視者の瞳。
『了解、引き続き頼んだよ』
通信機から聞こえてくるのは、機嫌の良さそうな少女の声。
いや、まるで底の見えない得体の知れなさは『魔女』の如く。
「はい、姉さん」
監視者は短く応え、与えられた任務に戻る。
ただその前にもう一度だけ小さくなる監視対象者の背を一瞥する。
彼等が今日この日、枢木神社の敷地外へと出たことは本当に偶然だった。
たまたま怪我をした小鳥を発見し、自分達の手で巣に帰そうと計画する。
そこに第三者の手が意図的に加えられた事実はない。
けれど全ては彼女のシナリオ通りに進んでいるのではないのかと恐ろしくなる。
そして自分を含めた全ての人間が、彼女の手の上で踊らされている道化に過ぎないのではないのかと疑念を抱く。
どうしても考えすぎだと否定できなかった。
昨日、彼女は言っていた。
“ああ、いよいよだね。ん、何がかって? ふふっ、明日になれば分かるさ、嫌でもね”
まるで誕生日を待つ子供のような楽しげな表情で。
果たして彼女の瞳は何を映し、一体どこを見ているのだろうか。