私物と言える物が一切存在しない簡素な部屋。ただ寝起きするためだけに与えられたと言っても過言ではない。
しかし個室であるというだけでも、かなりの好待遇だと理解している。
だから別段文句はなかった。
「嚮主代行様がお呼びだ、付いてきなさい」
部屋の扉がノックもなしに開き、顔を見せた嚮団員の男が淡々とした口調で用件だけを告げてくる。
それにボクはただ頷きを返し、言われるがままに男の後に付いていく。
男の態度に一々不満なんて抱かない。それはいつもの事であり、自分の立場は弁えているつもりだ。
通路を進む。途中、すれ違った同年代の子供達から羨望や尊敬、また嫉妬などの感情が込められた視線が向けられる。ただそれに対してボクは、どうでも良いことだと気に留めもしない。
ボクと彼等は同じ境遇だった。
ブリタニア国内外から集められたボク達には親が居ない。
不慮の事故や戦災によって孤児となり、引き取り手が居なかった者。
双子として生を受けたが、家督争いを嫌った貴族家から追放された者。
貴族の父親と庶民の母親の間に産まれた、誕生を望まれない私生児だった者。
単純に親が若すぎた為、または経済面でやむなく手放されるに至った者。
理由は個々に存在するが、ボク達はこの世界に必要とされない人間だった。
いや、もちろん例外もある。嚮団関係者同士の間に産まれた子供の場合、親が進んで嚮団に差し出すことも珍しくはない。
果たしてボクの親はどんな人間で、どうしてボクはここに居るのだろう?
そう疑問に思わなかったと言えば嘘になるけど、自分の出自に特別の興味はなく、尋ねたことも調べたこともない。
親の素性を知りたくないのかと問われると少しだけ悩む。きっとそこには知ったところで意味など無いという悲観や諦観があるに違いない。
何れにしろボクと彼等は同じ境遇ではあるが、それ以上でもそれ以下でもなく、友人だとか家族だとか仲間だとか、そんな感情を抱くことはなかった。
そんな感情は任務に不要だ。大切なのはあの人のために任務を確実に遂行すること、それだけだよ。
なのに彼等ときたら……はぁ、どうでも良いか。
ボクにはあの人がくれた力がある、ボクだけの力が。脆弱な力しか持たない彼等とは違い、あの人が認めてくれるのだから。
絶対停止の結界。
ボクに発現したギアスはそう名付けられた。
対象範囲内の人間の体感時間を、有無を言わせず奪い取る強力な力。
だけどこの能力は嚮団本来の目的である未知の研究には向いていない。研究しようにも、あの人を除いた周囲の人間全てが停止してしまうのだから仕方がない。
さらには万能な力などないと言わんばかりに副作用が存在していた。何の因果か発動中、ボクの心臓は停止する。その為、長時間の使用や連続使用することは出来ない。
故に嚮団の研究者達は当初ボクのことを不必要なモノ、価値のない失敗作として扱った。
そんなボクに価値を見出し、居場所と使命を与えてくれたのもまたあの人だ。
例えそれが誰かの命を奪う行為だとして、ボクを必要としてくれたあの人が望むなら何だってする。
狭い通路を抜け、荘厳な大広間へと辿り着く。
いつもあの人から任務を受け取る場所。
けれど今現在、そこのあの人=嚮主V.V.の姿はない。
事情を知っている大人達からは「お前が知る必要はない」と説明はなかった。
Need to know、そんな事は分かっている。
ただそう告げた男の顔に浮かんだ表情は、ひどく不安感を与える複雑なものだった。
そして────
「あなたがロロかしら?」
本来あの人が居るべきその場所に立つのは──あの人の姿を見かけなくなった頃を前後して現われた──嚮主代行を公言する綺麗な女性。
その肩書きが示す通り、あの人に代わり嚮団の全権を握っているらしい。
長い黒髪、漆黒の騎士服、同色のマント。全身黒に身を包んだ彼女は、その美貌に──多くの人心を掌握するであろう柔和で美しい──笑みを浮かべ、ボクに問い掛けてくる。
「……はい」
短く端的に応える。
他の人間がどうかは知らないが、魅力的だろう微笑みを向けられたとしても、ボクが彼女に好意を抱くことはなかった。
もちろんあの人に代わる立場という事実を、理由も説明されないまま納得できるはずもない。
でもそれ以上に全てを蔑み、また見下しているかのような瞳に言い知れぬ恐怖感を覚えた。出来れば関わりたくはないというのが本心だ。
「あなたに新しい任務に就いてもらいたいの。とある人物の監視なんだけど、お願いできるかしら?」
彼女が是非を問い掛けてくるが、ボクには了承の意を告げる以外の選択肢が無いことは百も承知だろう。
もっとも問題は別の部分だ。
「監視任務、ですか? 暗殺ではなく?」
ボクのギアスは対人戦闘や暗殺に適した物であり、実際に今までだって嚮団運営の障害となる人物や、政界・経済界に影響を与える要人の暗殺を手掛けてきた。
殺す理由なんて知らないし、殺した人間の数や素性なんて一々憶えていない。そんな事はどうだって良い。あの人がそれをボクに望んだから実行しただけだ。あの人が褒めてくれるなら、それだけで十分なんだから。
果たして彼女はボクのギアスを、また嚮団内のギアス保持者をちゃんと把握しているのだろうか?
確か嚮団には相手の意識から自分の存在を消す事の出来るギアスや、自分の事を他人として認識させる事の出来るギアスを保持している者も居ると聞いたことがある。
彼等の方がよほど監視任務に適しているはずなのだが……。
裏の意図があるのではと疑いたくなる。
「そう、監視。ああ、でも殺しても良いわよ。もしあなたに殺せたらの話だけど」
クスクスと笑う彼女の挑発的な視線が酷く癇に障る。
殺せたら?
彼女は何を言っているんだろうか。ボクの任務成功率を本当に知らないのか?
ボクのギアスの前ではどんなに屈強な男でも、どんなに優秀なSPでも、ただの的に過ぎない。それこそあの人と同じ力、コードを保持してでもいない限り。
何なら今この場でそれを証明しても良いとさえ考えた。
ボクの力を疑問視し、また否定する事は、延いてはあの人から与えられた信頼まで否定されたも同じ事だ。
本当に気に食わない。
「それで誰を監視すれば良いんですか?」
ボクのギアスでも殺せないとまで高く評価されている監視対象者に、興味無いはずがない。
「ふふっ、今資料を渡すわね」
彼女の指示により嚮団員の男から手渡されたファイルに視線を落とす。
「ッ」
開いてすぐに視界に映り込む監視対象者の写真とプロフィール。
その写真に写っているのは、眼前の女の面影を色濃く受け継いだ幼い少女。歳は自分よりも少しだけ上だろうか。
彼女の名前はリリーシャ・ヴィ・ブリタニア。
神聖ブリタニア帝国の第三皇女。
だけどそんな肩書きに興味はない。
彼女とは既に一度面識がある。
先日捕縛任務の命を受けた際、向かった先で出会ったのが彼女だった。
ボクの姿を視界に捉えた瞬間、何故だか分からないが彼女は確かに驚きの表情を浮かべていた。
いや、正確には驚きだけではない。その瞳からは明らかに他人に向ける以上の感情を抱いている事が窺い知れた。
そう、それはまるで離ればなれになった親しい者に対して向ける視線のように思えた。
初対面であるはずの彼女が一体何を想い、どうしてそんな視線をボクに向けるのか分からない。
皇族様である彼女と嚮団の駒であるボクが、実はどこかで出会っていたとする可能性は境遇的に皆無であり、別の誰かを重ね合わせていたと考えるのが無難だろう。
だがそれでも、その複数の感情入り交じる彼女の表情は、ボクの脳裏に強く焼き付き、忘れることが出来ないでいた。
もう一度彼女と接触すれば、何かが分かるだろうか?
「ねえ、君はどう思う?」
池の水面に足を浸けて戯れ、つい先程まで現地の少女と語らっていた彼女が、突然誰にともなく問い掛けた。
その声にボクは息を呑む。
存在を悟られるようなミスは犯していない。気配を消し、一切物音を立てることもなかった。
過去の任務経験からも、まず気付かれることはないと考えていた為、当然驚きも一層強くなる。
“殺しても良いわよ、もしあなたに殺せたらの話だけど”
嚮主代行の言葉が脳裏を過ぎる。
「早く出てきてくれないかな。居るはずのない人間に声を掛けるなんて、まるで私の精神がおかしいみたいじゃないか」
彼女が言葉を続ける。
いや、待て。本当に彼女はボクの存在に気付いているのか?
監視を警戒し、誘き出すためのブラフという可能性も考えられる。
ここはもうしばらく様子を窺った方が賢明だ。
しかしその考えが間違っていると、すぐに思い知らされる。
「出てきてくれないと、こっちから行くよ?」
そう告げた彼女は隠し持っていた粗末なナイフを抜き、明らかに場所を特定した上でこちらへと殺気を向けてきた。
これではもう、彼女は間違いなくボクの存在に気付いていると断定するほかない。
どうする?
あくまで今回は監視任務。交戦許可が下りているとはいえ、任務としては失敗だろう。
だったらここは即座に退くべきだ。
頭では分かっている。
だけど彼女に対する興味を捨てきれないボクは、気付けば後ろではなく前へと足を踏み出していた。
「いつから気付いていたんですか?」
「ん、いつからだろうね」
ボクの問いに彼女は答えをはぐらかすように笑みを浮かべる。
その表情が嚮主代行と重なって見えたのは何故だろうか。
そして同時に知る事となる。
綺麗なお姫様という姿形は同じだけど、あの時の彼女とは別人と思えるほど纏う雰囲気が違っていることに。
彼女が日本に送られた理由は資料を読んで知っていた。母親の死、それが全ての引き金だった。血の繋がりというモノを持たないボクでも、世間一般的に親族は大切な人間だと理解している。特に親兄弟ともなれば影響は計り知れないだろう。その喪失が人間を変えてしまう事だって十分に考えられる。
「しかし奇遇だね。こんな辺鄙な場所で、また君と出会うなんて。
ああ、何故ここにいるのか、その理由は聞かないよ。君だって聞かれても答えに困るだろ?」
全てを知っていると言いたげな彼女の視線は、まるで思考さえ見透かしているかのようにボクを貫いていく。
じわじわと嫌な汗が滲み出す。
果たして目の前の少女は本当にリリーシャ・ヴィ・ブリタニアなのか?
資料から彼女が『普通』の子供でない事は読み解くことが出来たが、実際の彼女はそれ以上に『異常』に思えた。
「ただ、あの山の斜面。君のお仲間かな? 監視役か狙撃手かは分からないけど、あまり優秀ではないようだね。二度ほどレンズに光が反射していたよ、ふふっ」
視線で促され、ボクは指摘された方向へ僅かに注意を向ける。
ボクに与えられる任務は基本単独任務だが、ボクの力を疑問視する嚮主代行がバックアップを用意していた可能性が無いわけではない。
もちろん嚮団ではなくブリタニア本国や他の勢力が送り込んだ監視者の線もある。
何れにしろ、彼等の失態によりボクの存在が気付かれたのかも知れない。本当に良い迷惑だ。
などと考えていた次の瞬間────
「ま、というのは嘘なんだけどね」
「ッ、速い!?」
目の前の彼女から注意を逸らした、ほんの一瞬の出来事。
その僅かな時間で彼女はボクとの距離を詰め、手にしていたナイフをボクの首筋に押し当ててくる。
彼女の動きはボクが今までに対峙してきたどの人間よりも速く、彼女の身体能力の高さを雄弁に物語っていた。
彼女が手にするナイフは見たところ、骨はおろか筋さえ断つのは難しく、すぐに折れてしまいそうな代物だったが、頸動脈を裂くぐらいの事は可能だろう。
けれどまだ血は流れていない。
「どうしたんです、ボクを殺さないんですか?」
ボクは即座にギアスを発動できるよう意志を集中させながら問い掛ける。
想像以上に高い彼女の身体能力に焦りはしたが、最初で最後の好機だった今の一撃で仕留めに来なかったことから、彼女は言葉を交わすことを望んでいると推測する。
「君は今、楽しいのかな? 醜い大人達の道具として生きる毎日が」
予期せぬ問い掛けに面を喰らう。
情報を引き出す為に生かしたのかと思えば、そうではないらしい。全てを知っているのではと感じさせる彼女の態度は、強ち真実だったのかも知れない。
「楽しい? そんな感情は任務に必要ありません。あなたはそんな事が聞きたかったんですか?」
「まあ、ね。そう任務か……、君にとって特別なことなんだね」
特別……まさしくその通りだろう。
ボクがボクである為の存在意義であり、あの人との絆でもある。
「だったら任務以上に特別なことをしようか、お姉さんと」
吐息が掛かるほど耳元で蠱惑的な声が囁かれる。
一体彼女はこの状況で何を言っているんだ?
「遠慮しておきます」
「それはもしかして「そんな小さな胸でお姉さんぶるんじゃねぇ、十年早ぇんだよ」って意味で受け取って良いのかな?」
敢えて言うけど冤罪だ。これが俗に言う被害妄想なのだろうか?
精神が不安定で本当に相手にしづらい相手としか言いようがない。
「そんなこと言われるとリリーシャさん傷付いちゃう、ぞ!」
冗談めかして告げられた直後、首筋に押し当てられていたナイフに力が込められ、その刃は明確な意思を持って皮膚を裂こうとする。
咄嗟にボクはギアスを、絶対停止の結界を展開させて対抗する。
広がるギアスの呪縛空間。
結果、彼女の時間は停止し、その身は意思を持たない人形へと成り下がる。
如何に優れた身体能力、戦闘能力を保持していたとしても、こうなってしまえば訪れる結末は最早一方的なものでしかない。
今まさに自分を殺めようとしていたナイフを彼女の手から抜き取り、逆手に持ったその刃を逆に彼女の白く綺麗な首筋に向けて振り下ろす。
監視任務だが対象者の殺害は許可されている。
なら最初からこうしておけば良かったのかも知れない。
余計な興味を抱くことなく問答など無用で、ただいつも通り、機械的に生命を狩り取るだけ。
ボクは彼女に何を期待していたのだろう。彼女が向けた視線の意味が分かったところで何も変わらない。ボクにはあの人が居ればそれで良いんだから。
振り下ろした刃の先端が彼女に触れる瞬間、ボクは目を疑う。
時を止めた彼女が、確かに笑った気がして。
「え────」
刹那、何が起こったのかボクには理解できなかった。
反転する視界、僅かな浮遊感、全身を襲う衝撃。
気付いた時、視界に映り込んでいたのは大地であり、口の中に入った砂によって不快感が込み上げる。
そして背中に加わる重圧と、絶え間ない激しい腕の痛みがボクの行動を阻害していた。
それらの事実から今ボクは大地に俯せに倒れ、背中を踏み付けられると同時に、腕を捻り上げられているのだと思い至る。
痛みの程度から考えて肩や肘の関節を外す、もしくは腕の骨を折る寸前まで負荷が加えられているのだろう。
「キミは
落ちてくる声。
それは紛れもなく彼女の、リリーシャ・ヴィ・ブリタニアのモノだった。
「っ……なんで」
当然とも思える疑問の言葉が自然と口から零れた。
何故彼女は絶対停止の結界の中で動けたのか?
そもそも何故彼女はギアスのことを知っているのか?
「ああ、その顔は不思議に思っているよね。うん、当然と言えば当然かな。
本来死ぬはずだった私が生きていて、何故かキミの方が無様に地面に這い蹲っているのだから、ふふっ」
どうにか首を動かし、視線の端に彼女を捉える。まるで獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべ、ボクを見下ろすその姿を。
「キミは無空拳──中華拳法では錬功勁拳とも言うかな──を知っているかい?
それは気の遠くなるような果てしない反復の果てに、脳はおろか脊髄反射すら必要とせず、拳が拳の意志のみで放たれる、無拍子、無意識、無殺意の一撃。とまあ何とも厨二感漂う技能だね。
そう言った手前認めたくないんだけど、何を隠そう私もそれに似た技能を体得しているんだよ、これが。
キミには遠く及ばないが私の家庭環境も少々複雑でね、幸か不幸か特別な技能を身に付ける機会に恵まれていたんだ」
本来ならそんな眉唾な話は軽く聞き流すところだけど、自分が置かれている現状では彼女が語る言葉に耳を傾けないわけにはいかない。
再度ギアスを発動してこの窮地を脱する事が出来るのか、そして尚も言葉を続ける彼女の意図。またどこまでギアス関連の事を知っているのかを含め、情報を手に入れる必要があった。
「私の場合は無意識下での戦闘継続を目的としていてね、文字通り身体に叩き込まれたよ。例え意識を失っても相手の喉元に食らい付くようにって。
そして意識を手放しても終わらない暴力による強制的な反復教育を受けた結果、自我に代わり肉体を支配する生存本能の賜なのか、無意識下における外敵への対処を可能としたわけだ」
果たしてそんな事はあり得るのかと疑問に思う。
だが実際に体験した以上、事実を受け入れ、可能だと考えておいた方が良い。
「残念だけどキミのギアスは時を止める神の如き力ではない。対象者の肉体を物理的に縛めるのでもなく、大脳に作用して機能を奪い、時が止まっていると錯覚させているに過ぎない。このことは対象者の生命活動を阻害しないことからも明らかだね。
故に私の身体は無意識下に状態が移行したと錯覚し、その結果として防衛反応を起こした、ということにでもしておこう。少しはキミの疑問を解消できたかな?
手近な凶器という理由だけでナイフを選んだのは悪手だよ。今度からは必ず銃器を携行した方が良いね」
彼女がボクのギアスを完全に熟知しているのは覆しようのない事実。
その上で敢えて自分の殺し方を敵であるボクに告げてくる。まるでそれでもなお、お前に私は殺せないとでも言うかのような不遜な態度で。
ぐっと奥歯を噛み締める。
絶対にここで殺さなければならない。
彼女の存在は嚮団の障害となる可能性が高く、何よりあの人からもらったボクの力を否定されたままでは終われない。
証明しなければいけないんだ。
距離を取れば良いんでしょ?
だったら、時よ、止ま────
「がっ……」
再びギアスを発動させようとしたまさにその瞬間、まるでボクの身体を踏み抜くかのように彼女は脚に力を込めた。強く大地に押し付けられた事により強制的に肺から空気が吐き出され、それと同時に意識が揺らぎ、ギアスの発動が途切れる。
「無駄だよ。ギアスの対処で最も単純にして効果的なのは、発動する前に潰すことなんだから」
誇るわけでもなく、本当に何とでもないように彼女は告げた。
だがその内容にボクは戦慄するしかなかった。
確かに彼女の言葉は間違っていない。
ギアスが超常の力だとしても、それを行使するのは生身の人間だ。当たり前のことだけど殺せば死ぬ。効果範囲外からの狙撃や爆殺、毒殺ともなれば確実にギアス能力者を無力化することが出来る。
けれど生かしたまま無力化を、それも今回のように効果範囲内で対面している状況下で行おうとすれば──もちろん能力にもよるが──恐ろしく困難だと言うほかない。
だけど彼女は意図も容易く成し遂げ、阻止してみせた。
ギアスの発動を察知し、ピンポイントで攻撃を加えるという方法で……。
一体どれだけの人間に同じ事が出来るだろう?
少なくともボクが情報を得たリリーシャ・ヴィ・ブリタニアという少女には不可能に思えた。
だからだろう。
「……何なんですか……あなたは……」
ボクは思わず問い掛けていた。
その問いに対して彼女は口角を吊り上げ、三日月のような笑みを浮かべる。
澄んだ紫紺の瞳がどこまでも吸い込まれていきそうな闇を帯びた。
不意に吹き抜けた風が木々を揺らし、彼女の長い髪が意志を持っているかのように広がる。
「ああ、そうか。私とは初めましてだね、ロロ」
初めまして……?
「私はしがないただの魔女さ。そう、少しだけ人より世界を知っているに過ぎないよ」
彼女は自らを魔女と呼んだ。
それはあまりに似合いすぎていて、違和感など抱くことなく素直に納得してしまう。
彼女を言い表すには打って付けだろう。
そして魔女は告げた。
「ところで、私の事を姉さんと呼ぶ気はないかな?」
はぁ────
◇
冬の足音が間近に迫った11月。
つまりそれはリリーシャ達が本国を離れて、すでに半年以上が経ってしまったことを意味しています。
本当はもっと早く動き出したかった。けれど頑張った結果、現状ではこれが精一杯でした。
ですが悲観している暇はありません。ようやく形になり始めたプランを、次のステップに移すために必要不可欠なファクター。
そんな彼と接触し、交渉するために赴いたのですから。
「少しお時間よろしいですか?」
乱雑に物が置かれた研究室の中、PCに向かい一心不乱に作業をしていた白衣の男性に声を掛ける。
「ん~、誰ぇ?」
彼はモニターから視線を外すことなく、本当に煩わしげに応えた。
来客に対応する気など最初から持ち合わせていないのでしょう。
「ッ、ロイドさん!? 申し訳ございません、ユーフェミア皇女殿下」
彼=ロイド・アスプルンド博士のマイペースな態度に慌てた女性──アスプルンド博士の研究パートナーである──セシル・クルーミー女史が、すぐさまわたしに頭を下げて謝罪する。
「顔を上げて下さい、クルーミー女史。そのような気遣いは不要です。お忙しいところにお邪魔したのはこちらですから」
「ホントだよ」
「ローイードさん!」
アスプルンド博士を睨み付け、拳を握りしめるクルーミー女史。
それが二人の関係を物語っている気がします。
でもわたしにはその光景がどこか微笑ましく見えました。
「うふふ、良いのです。博士の人となりは理解しているつもりですから。
それよりもクルーミー女史。申し訳ありませんが、少し席を外していただけますか? 博士と二人きりで話がしたいのです」
「はい、それはもちろん。
という事なのでくれぐれも、くれぐれも失礼の無いようにして下さいね、ロイドさん」
「はいはーい」
念を押す忠告に対して返ってきた気のない反応に、何か言いたそうなクルーミー女史でしたが、わたしの手前それ以上の言及は諦め、彼女は不安げな表情を浮かべたまま部屋を後にしました。
「改めて少しお時間よろしいですか?」
仕切り直すように繰り返します。
しかし返ってきた言葉は────
「少しだけ待って下さいね、もう少しで切りの良いところまで行けそうですから」
「ええ、分かりました」
時間を無駄にしたくはありませんが、ここで焦る必要はないと自分に言い聞かせ、わたしは近くの椅子に腰を下ろして彼の作業を見守ることにしました。
真剣な表情で作業を続けるその姿に、不思議と不満を抱くことはありません。むしろ何ものにも左右されない直向きさに好意すら覚えます。
「あはぁ、お待たせしちゃいました」
しばらくして作業の手を止めたアスプルンド博士が、こちらへと体を向けて言いました。
徹夜続きなのか、目の下にハッキリとした隈ができているのが印象的です。
「で、本日はどんなご用件ですか、ユーフェミア皇女殿下」
「先日、わたしどもリ家がアッシュフォード財団からKMF関連事業の一部を負債ごと買い受ける契約を結び、それに伴い新たな会社を興し、KMF開発に参入する運びとなりました」
「あはぁ、アッシュフォード家の凋落は目に見えているのに物好きですねぇ」
「あら、そうですか? KMF開発には多くの最新技術が使われていますし、悪くはない買い物だと思いますよ。他国への技術流出を防ぐ手段としても有効ですし」
「意外と考えておいでなんですね、殿下」
ロイド博士の目の色が僅かに変わる。
あながち思慮の浅い子供、箱入りのお姫様と思われていたのでしょう。
「はい、こう見えてわたしもブリタニア皇族ですから」
わたしは笑顔で応えます。
不快感なんてありません。むしろ今は周囲にそう思っていただいていた方が都合が良いですから。
さて、そろそろ本題に入りましょう。
「そこでアスプルンド博士にも、ぜひ新会社にお越しいただけたならと思い、こうして交渉に出向いた次第です」
「う~ん、どうしようかなぁ」
考えるような仕草をとってはいますが、乗り気ではないことが彼の全身から伝わって来ます。
先行きの見えない新規参入の企業に不安があるのは当然理解しています。
わたしだって最初からすぐに快諾してもらえると思ってはいません。
「もちろんプロジェクトの運営、研究開発費の配分、人員の確保には出来うる限り御要望に応えることをお約束致します」
「でもシュナイゼル殿下も特別なチーム、特別派遣……何だったっけ、セシルくん──あれ?」
普段通りなのでしょう、クルーミー女史に問い掛け、そこで初めて彼女の姿が無いことに気付いたみたいです。
報われないクルーミー女史には悪いとは思いますが、自然と苦笑が込み上げてきます。
「特別派遣嚮導技術部ですね。わたしも少しだけ耳にしました」
「そう、それを組んでくれるって言ってるんだよねぇ。もちろん資金や人材提供とかの話も込みで。
それにほら、アスプルンド家はエル家の後援貴族だしさ。断るのは難しいんじゃないかな?」
家の格、財力、影響力、皇位継承権順位。それらをシュナイゼル兄様と比較されてしまえば、わたしに勝ち目はありません。
例えお姉様でも現状太刀打ちできないことは火を見るよりも明らかです。
それにアスプルンド家はすでにエル家支援を表明しています。もしここでわたしの提案に乗れば、それはまさにエル家への裏切りと言えるでしょう。
体面を重要視する貴族社会の中で、アスプルンド家の立場は危ういものとなってしまいます。
分かっています、自分がどれだけ無理な事をお願いしているのか。
でも私にとってもアスプルンド博士は絶対に必要な人材なんです。絶対に逃がしません。
だから、卑怯なことでしょうが手段を選んではいられません。
「ロイドともあろう人間が殊勝なことを言うね、熱でもあるんじゃないのかい?」
私は彼女の姿、口調を鮮明に思い出しながら、そう告げました。
「えっ」
さすがにアスプルンド博士も、それまでのわたしらしくない言葉に戸惑っている様子。
わたしとしても少し恥ずかしいのですけど。
「きっとリリーシャならそう告げたはずです」
彼女の名前を口にした瞬間、彼の表情が僅かに険しい物へと変わりました。
「何を言って────」
彼の言葉を遮り、わたしは畳み掛けるように言葉を続けます。
「私はロイド・アスプルンドではなく、リリーシャが信頼していた、ただのロイドと交渉しているのです。
彼女はわたし達の下へ必ず帰ってきます。もちろん、わたし自らが迎えに行くのですから絶対です。
ですがそれ以降も彼女の歩む道は決して平坦な物ではないと容易に想像が付きます。
いずれ剣を手に取る時が訪れてしまうでしょう。その日の為に、リリーシャの為に剣を造っていただけませんか」
そう、軍の為ではなく、国の為でもなく、わたしの為でもない。
全てはただ彼女のために。
わたしは穏やかに、でも威圧ある笑みを浮かべる。
そして彼に向かって手を伸ばして告げました。
「力を貸して下さい。そして共に目指しましょう、黒百合が咲き誇る園を」